2013.11.26(火)
「花よ志」の女将、志摩子は、座敷に残った健三に声を掛けた。
「健三はん。あんたんとこ、今日は休みて聞いてるけど」
「へえ、休ましてもらいます」
「ほな、ゆっくりしていきよし」
志摩子は再び手を叩いた。
「お花、お花ぁ」
襖が開き、若手の仲居が顔を覗かせる。そのまま部屋の外から返事を返した。
「へえ、女将はん。なんですやろ」
「一本つけてんか。ほれから、お客はんにお茶な、入れたげて。あ、健三はん。あんたも酒の方がええか」
健三は慌てて手を振った。
「いえ、とんでもないそんな。ほれに、車ですよってに」
「ほうか。ほな、あてだけでやらせてもらいますえ」
部屋に入り、襖を閉めたお花は、志摩子の背後の水屋から徳利と盃、四合瓶、茶碗と茶卓、急須と茶筒を取出し盆に乗せる。志摩子の左脇、長火鉢の側面に向かい合って正座し、盆を畳に置いた。
長火鉢の炭火の上には、五徳が二つ。それぞれ大小二つの鉄瓶を載せている。鉄瓶は滾り、湯気を上げていた。
お花は、大きい方の鉄瓶の蓋を取り、酒を注いだ徳利を浸した。着物の袖口を押えながら手を伸ばし、猫板に盃を置く。お花の腕の、肘の少し上あたりまでが剥き出しになる。白い腕だった。
急須に茶葉を入れ、小さい方の鉄瓶を取り上げる。水平に軽く回す。二度、三度。鉄瓶の口から立ち上っていた湯気がおさまる。ひと呼吸おいて、ゆっくりと急須に湯を注ぎ込んだ。途端に、茶の高い香りが室内に立ち昇った。
お花は、急須を傾け、茶卓の上の茶碗に茶を注いだ。
茶碗を手に立ち上がり、一歩歩んで健三の右前に座り直したお花は、茶卓に乗せた茶碗を健三の膝前の畳に置いた。
「どうぞ」
「あ、おおきに、すんまへん」
元の位置に戻ったお花は、鉄瓶の中の徳利を取り上げ、志摩子に差し出す。盃を手にする志摩子に酌をした。
「お花。なんぞ、あて、ないか。ほれと、健三はんに茶菓子を……」
「あ、もう、おかまいなく」
「へえ、すぐ持(も)てさんじます(お持ちします)」
部屋を出て行ったお花は、すぐに盆を捧げて戻ってきた。盆の上には小鉢と菓子皿が載っている。長火鉢の猫板の上に小鉢を置く。中身は「ワケギとマグロのぬた」。
健三の膝前に置いた菓子皿には葛餅が載っていた。
「すんまへん。ありがとさんどす」
「なあ、健三はん」
ぬたを一口。盃の酒を飲みほした志摩子は健三に声を掛けた。お花は徳利を手にして志摩子の脇に座り、盃を満たす。
「へえ」
「近頃はどないやのん。鞍馬の景気は」
「いやあ、さっぱりどすわ」
「ほほ、まあこの時期はなあ、しゃあないやろけんども。ほれでも『かわふ路』はんは大丈夫でっしゃろ」
「いやあなかなか、大変どすわ」
「何、お言(い)やすのん(仰ります)、鞍馬きっての老舗はんが。お宅に頑張ってもらわな、鞍馬の景気もあがりまへんで」
志摩子は、新しい煙草を口に咥えた。長火鉢の猫板の上に置いた灰皿には、先ほどもみ消した吸殻が少し煙(けぶ)っている。
「なあ、健三はん。うちはたいがいちっこい(小さい)店やから、そないに人手もいらんねんけど、ほれでも忙しい時期なんかはもうちょい人手欲しいな、いうこともある。あんたはんとこはうちとおんなじくらいの大きさやろけんど、人手はもっと少ないやろ。手ぇ足りひんのんちゃうの」
「へえ。仲居はともかく、板場の人間がどうもここしばらく居付きまへんで。くるやつ来るやつ、すうぐ辞めてしもて」
「ほらまた、なんでやのん」
「なんでや、ようわかりまへんねん。それだけになんや、手の打ちようがおまへんでなあ」
「ほら、難儀なこっちゃな。よろしかったら、ええ子見つけて紹介したげますえ」
「おおきに、そない願えたら助かります」
「お菓子、おあがりやす。お茶もな」
「いただきます」
健三は、膝前の湯飲みを取り上げ、一口、茶を啜った。
(美味い、さすがや)
そう思った健三に、志摩子の声が掛かる。
「しやけど健三はん。そんなことやったら、あのあやめ、自分とこで使(つこ)たら、よろしやおへんか。たいがいええ腕やて聞いてまっせ。いっとき、この祇園界隈の旦那衆の間でも噂になっとったくらいや」
「まあ、儂が言うのもなんでっけど、あいつの腕は儂以上やと思(おも)とります」
「ほれやったら」
「女将はん。あいつは、『もうこれで十分や』いう風に考えられへん性質(たち)でんねん。ちょっとでも、もうちょっとでも上手(うも)なりたい。いっつもそないに考えてるやつでんねん」
「ふーん、なんとなあ」
健三は茶碗を茶卓に戻し、居住まいを正して改めて志摩子に頭を下げた。
「そういうことでっさかいに女将はん。どうぞよろしゅうに、あいつを鍛えてやっておくれやす」
「ほほ、そういうことなら手加減しまへんえ。びしびしやらせてもらいます」
「どうぞ、煮るなと焼くなと、お好きなように」
「ほほほ。よろしいんでっか、そないなこと言いはって」
あやめを引き連れた仲居頭のお道は、仲居部屋の一室の襖を引き開け室内に入る。あやめも続いて入室した。
狭い室内の真ん中には、半分に折った座布団を枕に、若い仲居が独り寝っころがって漫画雑誌を読んでいた。その脇には、菓子の袋が口を開け、かなりの数のポテトチップスが畳に散乱していた。
「こらお久美。またそんなだらしないことして!」
「はあーい」
漫画雑誌を放り出し、起き上がった久美は、のろのろとポテトチップスを拾い集めだした。いかにもおっくうそうである。
「お久美、この子がこないだ話しといた料理人のあやめや。今日から厨房に入る。仲居のあんたらとは、仕事の接点はあんまりないんやけど、見ての通り女子(おなご)や。住み込みでやってもらうんであんたと同部屋いうことになる」
「あーあぁ。前の子がやめてせっかく一人で部屋つかえるようになったのに、また相部屋かあ」
「何しょうもないこと言うといやすの。ほれより、暇見つけて、いろいろ店のこと教(おせ)たってや」
「はーい」
「お久美さん。東中あやめと申します。ご迷惑でしょうが、どうぞよろしゅうお頼(たの)申します」
「ほい、よろしゅうに」
久美はぴょこんと頭を下げた。拾い集めたポテトチップスの一つを口に放り込む。
「よっしゃ、ほなあやめ、これがあんたの仕事着や。すぐ着換えぇ。調理場に行くさかいにな」
「はい!」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/11/26 09:48
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真昼間から「ぬた」で一杯でっか。
よろしおまんなあ、女将はん。美味しおまっしゃろ。
しやけど、鞍馬「かわふ路」の仲居頭、お時はんに言わせると、
「料亭の女将なんちゅうのはな。みんなの先頭に立って、それこそ阿修羅のように働くのが当たり前や。のんびり奥座敷におさまりかえっとる女将なんぞ、聞いたことないわ」
いうことらしいでっせ、志摩子はん。
大丈夫でっか「花よ志」は。
しかし、登場人物がどんどん増えていくなあ。
今回は仲居のお花はんとお久美ちゃん。
わたしの性格上、いったん登場したお人には必ず何らかの演技をしてもらわんとおさまらないんですね。「さしたる用もなかりせば」でそそくさと退場、なんてな真似は出来ないんです。
ということは、お花、お久美のエピソードも今後出てくるということに……。
ほんとに、いつ開くんだろうか『アイリスの匣』。
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2. Mikiko- 2013/11/26 19:36
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仲居も源氏名つけてるのか?
今ならむしろ、花子なんて付ける親もいるかも知れないけど……。
あやめと同世代には、いないんじゃないすかねー。
猫板。
てっきり、火鉢の枠の部分を云うのかと思ったら……。
違ってました。
↓まさしく、この猫が載ってるのが猫板。
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/201311261153094f8.jpg
暖かくて、猫にとっては特等席なわけですね。
↓この板の下は、引き出しになってるようです。
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20131126115308f85.jpg
薬とかを入れとくんでしょうかね。
便利そうです。
「ワケギとマグロのぬた」。
↓レシピは、こちら。
http://recipe-navi.jp/blog/item-654.html
所要時間15分になってますから、作り置きがあったってことですね。
賄い用でしょうか。
お花が持ってきたお盆に、箸がありませんが……。
これは、手で食べるんですか?
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3. ハーレクイン- 2013/11/26 22:42
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いたと思って下され。
花子だけでなく、花江とか、花世とか、花枝とか、花代とか、いっぱいいるではないか。
実は、画像をUPしていただいた長火鉢、側面に引出しと猫板の付いたタイプは関東風だそうです。
関西では、火鉢の周りぐるり、四方に棚が付いているタイプのようです。
お好み焼きの台みたいな感じですね。鉄板の周りぐるりを棚が取り囲んでいる。この棚に皿やこてやコップやビールを置くわけですね。もちろんソースや青のり、割りばしなんかも置いてあります。
ま、カッコいいのは断然関東風ですから、敢えてこちらにしました。志摩子女将の趣味だと思っていただきましょう。
「ぬた」は、どうしたんでしょうね。たまたまあったんでしょうね。ま、何でもよかったんですよ。女将はもう始めてるんで待たせるわけにはいかない。この場合、何より大事なのはスピードです。で、手近にあったものを流用したわけですね、お花はん。
このあたりの臨機応変の対応は、仲居さんに必要な資質でしょうね。
うーむ、箸か。
あんだけ、アホみたいに丁寧に、お花はんに燗付けをさせたり、茶を淹れさせたりしたからなあ。“箸だけ省略した”というわけにはいくまいなあ。
しゃあねえ。
すまぬ、忘れておった。
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4. Mikiko- 2013/11/27 07:48
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なんだか、吉本喜劇に出てきそうなんですけど。
昭和初期までの名前じゃないでしょうかねー。
関西の長火鉢。
↓これですかね。
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20131127063700eab.jpg
猫板や引き出しも付いてるではないか。
こっちの方が、便利そうですよね。
スマートじゃないけど。
「ぬた」。
レシピによれば……。
わけぎ、マグロ、タレは、出す直前に合わせるそうです。
つまり、「マグロのぬた」が、出来た状態で置かれてあることは、あり得ないんでないの?
茹でたわけぎ、ぶつ切りにしたマグロ。
これらが、たまたま存在しますかのぅ。
細かく書けばかくほど……。
突っ込みどころも出てくるということでしょうね。
志摩子さんが、ぬたを手で摘むことにしたら……。
むしろ、迫力が出たんでないか?
膝の猫に、マグロの臭いが付いた指を舐めさせるとかね。
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5. ハーレクイン- 2013/11/27 09:23
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吉本新喜劇。
そういえば、かしまし娘は歌江、照枝、花江だったな。
こちらは松竹芸能だが。
関西風長火鉢
そうそうこれこれ。
猫板がないのもあるし、もっとドデカいのもあります。ほとんど囲炉裏という感じ。
「スマートさに欠ける」。まさにその通り。
実用一点張り、というところでしょうか。
「ぬた」
たまたま他の用途に出来上がったところ、「ちょうどええわ」ってんでお花はんが掠め取ったんでしょうね。「女将さんの御所望や。文句あんの?!」ってところでしょうか。
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6. Mikiko- 2013/11/27 19:38
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高座で、こんな長火鉢みたいなのを置いてますよね。
講談なら、バシバシ叩く必要があるから、必需品なんだろうけど……。
落語では、何の用があるんでしょう?
この場面は、何時ごろの設定なんですか?
前回の冒頭では、『翌日、あやめと健三は「かわふ路」の裏口を出た』とあるだけで、時間がわかりません。
でも、「花よ志」さんは、まだ営業時間じゃないんでしょ?
ランチを出すようなお店にも思えませんし。
そんなら、「マグロのぬた」が、出来上がった状態であるってのは、奇妙ではないですか?
後学のために、「他の用途」というのを、ぜひ教えていただきたいものです。
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7. ハーレクイン- 2013/11/27 22:08
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上方(かみがた)落語です
「長火鉢みたいな」、は恐れ入ったな。
あれは見台(けんだい)といいます。
落語でも叩きますよ。叩く道具を小拍子(こびょうし)といいまして、小さな拍子木ですね。これを左手に持って見台を叩く。
出囃子を止め噺を始める合図とする。囃子方(三味線、鉦、太鼓、笛など)に合図を送って効果音を出させる。噺に間の手を入れる、などの目的で叩きます。
>この場面は、何時ごろの設定なんですか?
また読みとばしおったな。
『アイリス』#34で、兄ちゃんの健三はんがあやめさんに↓次のように言ってます。
「向こうはんは店あけはるから、ちょっとばたばたになるけんど、明日の3時ころに行こか」
つまり現在、時刻は午後3時過ぎということになります。料亭など食べ物商売が一番ゆっくりできるときですね。
えらく「ぬた」にこだわるではないか。
えーと、仲居の誰かが昼の賄いを食べそこね、遅い昼食用に自分でこさえたのだよ。
これで、どや。
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8. Mikiko- 2013/11/28 07:27
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3時か。
出がけに、もう一度言ってほしかったものです。
仲居が、自分でこさえたって……。
板場でですか?
仲居が、板場を使ってもいいもんなんでしょうか?
3時過ぎなら、もう仕込みも始まってるでしょうに。
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9. ハーレクイン- 2013/11/28 11:40
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ま、「花よ志」は小さい店だからね。
古手の仲居と板場の若い衆とはツーカーなんじゃないかね。だから、少々仲居が板場でごそごそやっても見て見ぬふりってとこなんでしょう。
3時過ぎ。
そろそろ仕込みは始まっていますが、そのあたりは次回。











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