2013.11.19(火)
翌日、あやめと健三は「かわふ路」の裏口を出た。
「行くで、あやめ」
「はい」
「向こうさんがどんな段取り考えてはるかわからんから、一応、荷物は全部持って行け」
「兄ちゃん、荷物いうてもこれだけや」
「鞄一個か。着替えとか、足りるんか」
「うん、当座の分は大丈夫や」
「よっしゃ、ほな乗れ」
二人は、裏口に止めてあるワンボックスカーに乗り込んだ。健三が仕入れに使う車である。車内には魚や、雑多な食品の匂いが満ちていたが、あやめは気にならなかった。
健三がハンドルを握る。助手席に座ったあやめは鞄を抱え、フロントグラス越しに、後方に流れていく鞍馬の道を見詰めながら考えた。
(義姉さん、潔子さんの浮気のこと、兄ちゃんに言わんでええんやろか)
(言うんなら、この車内でしかチャンスはない)
(「花よ志」はんに着いたら、ほの後いつ会えるかわからへん)
(ほんでも……)
あやめは決心のつかないまま、とりあえずお時のことを語りだした。
「なあ、兄ちゃん」
「おお」
「お時はんのこと、どないすんのん」
「うーん、せやなあ」
「まさか、このままやめさせる、なんちゅうことはせんやろね」
「うーん、ほんでもなあ。ま、潔子の方は何とかするとして、お時はんはああいうお人やろ。いっぺん言い出したことは頑として曲げはらへんやろし」
「ほやかて兄ちゃん」
「ああ、わかっとる。今日は店に顏出してはらへんし。このあと、家、訪(たん)ねてみるわ」
あやめは腹を決めた。改めて兄に語りかける。
「なあ、兄ちゃん。こんなこと言うてええかどうか。ほんでも、この先またいつ会えるかわからへんし……」
「なんや、その今生の別れみたいな大仰な言い方は」
「あんな、兄ちゃん」
「おう」
「義姉さんのことやけど」
「せやから潔子とことは儂に任せとけて」
「いや、そのことや無(の)うて」
「なんやねん」
「あんな、兄ちゃん。怒らんと聞いてな。うちも言おかどないしよか散々迷たんや」
「せやから、何やねん。なんでも言うたらええがな」
「あんな。昨日もんてきた(戻って来た)とき、裏庭の、あの茱萸の木のとこでな、義姉さんが……」
「男と抱き合(お)うてでもおったか」
「兄ちゃん!」
あやめは、隣に座る健三の横顔を、睨みつけるように見詰めた。健三は淡々と前方を見詰め、ハンドルに手を置いている。
「知っとるよ。あいつに男がおることくらい。
しょっちゅう家を空けるのは男に会いにいっとるんやろ。たまにやけんど、外泊もしよるしなあ」
「兄ちゃん! 知ってて黙ってんのん!」
「あいつはなあ、あやめ。淫乱いうのはこういう女や、いうくらいの淫乱女や。ほれは結婚してすぐにわかったわ」
「ほんな。ほんならなんで黙ってんのん、兄ちゃん」
「あいつはな、男さえおりゃええ、いう女や。儂とかて、夫婦いうより、男と女の、身体だけの関係や。儂が問い詰めたら、平気でこの家、出て行きよるやろ」
「そんな……ええのん、兄ちゃん。しやから、店も、うもう(上手く)行かんし、お時さんかて……」
「わかっとる、ようわかっとる。
せやけどなあ、あやめ。こんなん言うたらなんやけど、恥ずかしい話やけど、儂、あいつの体、離されへんねん。あいつの体に溺れきっとんねん。
このまま行ったら、親から受け継いだ大事な店、潰しかねん。そこまでわかっとって、儂、あいつを思い切るなんぞ考えられへんねん。あいつの男関係を問い詰めたら、あいつは間違いのう出ていく。そんなん、儂、耐えられへんねん。
笑(わろ)てくれ、あやめ。儂はこんな情けない男や」
「兄ちゃん……」
あやめは絶句するしかなかった。兄の横顔から目を外し、サイドウィンドゥ越しに鞍馬の風景を眺める。健三の告白は、あやめに大きな打撃を与えた。今のあやめには、兄健三に掛ける言葉は一言も思い浮かばなかった
二人の乗るワンボックスカーは、京の街中を目指し、鞍馬の道を淡々と駆け下りて行った。
健三は、「花よ志」の裏口に車を止めた。裏口から訪うと、若い仲居が出てきた。来意を告げると招じ入れられ、「花よ志」の女将の部屋まで案内された。
女将の志摩子は部屋の奥に座っていた。和服に、半纏を掛けている。その両襟には「花よ志」の文字。
前には、古風な長火鉢がある。掛けられた鉄瓶から湯気が上がっていた。
健三は、女将に頭を下げ挨拶した。
「おかみさん、ご無沙汰しとります。
あやめ、『花よ志』の女将はんや。挨拶せえ」
あやめは、畳に両手をつき、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。『かわふ路』の主、健三の妹、東中あやめで御座います。今回はご無理をお聞き届けいただき有り難うございます。一生懸命頑張らせていただきます。よろしゅうお頼み申し上げます」
「ほほ、あんたがあやめかいな。あては『花よ志』の主、志摩子や。
あんたの噂は、以前から聞いとったで。鞍馬に女子高生料理人あり、てなあ。なかなかの腕やったそうやないか」
「とんでもございません。若輩の、未熟者で御座います。よろしくご指導お願い申します」
志摩子は、長火鉢の引き出しから煙草を取り出した。部屋の雰囲気から見て煙管が似合いそうだが、普通の紙巻だった。一本振り出し口に咥える。
あやめも健三も煙草は吸わないのでライターは持っていない。志摩子は、咥えた煙草をしばらくぶらぶらさせていたが、しょうことなしに引出しからライターを取り出し、自分で火を付けた。深々と吸い込んだ煙を勢いよく吐き出す。部屋には紫煙が漂った。
「ま、本来やったら、あんたみたいな変わった経歴のお人は、どこの厨房も入れてくれんわなあ。しやけど、あてはそんな変わりもん、好きやで。ほれに、うちと『かわふ路』はんとは、先々代のころからの長いご縁や。ま、おきばりやす」
「おおきに、有難(ありがと)さんでございます」
「ま、厨房に溶け込むのは大変やろけどな」
「へえ」
「ほんでや。あんた、住込みでええな」
「へえ。お願いします」
「うちは、男衆はみんな通いやけど、女子衆(おなごし)の何人かは住み込みや。仲居部屋、言うとるけんど、そこに入ってもらう。もちろん、個室いうわけにはいかん。相部屋になるけんども、ほれでええか」
「へえ、もちろんどす」
「よっしゃ。決まりやな。布団なんかは皆揃(そろ)とるから、手回りの品だけあれば十分や」
志摩子は手を叩いた。
隣室との襖が引き開けられ、かなり年配の仲居が入って来た。
「この人はなあ、あやめ。仲居頭の道代、お道や。この店の、厨房以外のことはみいんなこの人が仕切っとる。あての身の回りの世話もやってもろとる。ま、うちの女番頭いうとこやな。
お道はん、話はしといたけど、この子が例のあやめや」
「へえ」
「とりあえず部屋に連れてったって。ほのあと厨房にな。もう皆、揃とるやろ、板長はんもな。引合わしたって」
「へえ。承知しました。
ほなあんた。ついといで」
「へえ。ほな女将さん、失礼します」
あやめは、鞄を下げて立ち上がった。部屋を出る瞬間、振り返る。一瞬、健三と視線が合う。あやめは振り切るように背を向け、お道のあとを追った。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/11/19 10:32
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潔子さんの浮気は、健三兄さんの知るところでした。しかも、見て見ぬふり。
> 笑(わろ)てくれ、あやめ。儂はこんな情けない男や
健三はん、健さん。
自分でもわかってはるやろけど、そないなことしとったらほんまに店潰れまっせ。しっかりしなはれ。
気になるのは、潔子はんがただの尻軽女やったらよろしいんやけど(ええことないけど)なんせ相手が蛇男。なんぞ企んでるのでは……。
ということで、舞台はいよいよ鞍馬から祇園に移ります。
「花よ志」の女将志摩子と、あやめ・健三。
何やら和やかな雰囲気ですが、もちろん、そんなほのぼの話ではございません『アイリス』京都編。この先、どのようなドラマが待っているのでしょうか。
乞う、ご期待。
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2. Mikiko- 2013/11/19 19:41
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言うとる場合か。
早よ、原稿よこせ。
しかし……。
祇園の料亭って、まだこんな感じなんですかね?
長火鉢に鉄瓶。
明治時代みたいなんですけど。
志摩子さんは、十朱幸代でどうかな?
現在、仲居は、派遣さんが多いそうです。
相部屋ねー。
そんなとこ、来手があるのかね?
祇園にある和風旅館『新門荘』若女将のブログがありました。
↓派遣仲居にブチ切れてて、おもろいです。
http://www.shinmonso.com/blog/log/eid188.html
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3. ハーレクイン- 2013/11/19 22:53
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いかにも、という雰囲気にしようと思ってね。ちょっとやりすぎたかな。
んでも、長火鉢は通販で買えるみたいだし、意外とあるんじゃないかね、こんな女将部屋。
志摩子さんの煙草は、やはり煙管にすればよかったかな。
十朱さんは合わないと思う。今のところおとなしくしてるけど、只者じゃないんだよ、この志摩子女将。
「仲居は派遣さん」
はあー、考えもしなかったなあ。
「相部屋」は、長火鉢と同じく雰囲気を出すためです。
若女将のブログ。
しかし、こんなん書いたら、今後派遣の人が来なくなるんじゃないかなあ。なんか派遣さんを泣かせちゃったみたいだし。
他人事ながら心配になるよ。
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4. Mikiko- 2013/11/20 07:59
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こんなことを言っちゃなんですが……。
仲居の派遣に出るような人は、パソコンなんか持ってないんじゃないかな。
仲居部屋。
↓三畳の相部屋という事例がありました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1186495111
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5. ハーレクイン- 2013/11/20 10:56
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スマフォは持ってるんじゃないすか。
あ、スマフォではブログは見れないのか。よく知らないなあ。
相部屋。
三畳で布団二組敷けるかなあ。まさか抱き合って寝るんじゃないよね。
タコ部屋と言った方がしっくりきそうな……。
しかしあるんだなあ。やはり地方の温泉場かな。
言っちゃあなんだが、訳あり人間が多いんだろうね。相部屋住まいの仲居さん。
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6. Mikiko- 2013/11/20 19:29
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仲居の派遣さんには、いないんじゃないかな?
派遣会社から地図だけ渡されて、いきなり行くんだと思うよ。
三畳ってのは、1.8メートル×2.7メートルですから……。
2人なら、余裕でしょ。
畳1枚に1人なら、3人寝れます。
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7. ハーレクイン- 2013/11/20 20:21
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布団の幅があるからねえ。やはりきついと思うよ。
わたし学生時代の一時期、押し入れ無しの三畳間に下宿してました。
もう、二度とやだ。
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8. Mikiko- 2013/11/21 07:38
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暖房も効きそうだし。
雪に降り込まれて、コタツで熱燗。
ええのぅ。
わたしは、8畳より小さい部屋に住んがことが無いので……。
羨ましいです。
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9. ハーレクイン- 2013/11/21 10:12
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この下宿。わたしの三畳部屋以外はすべて六畳でした。
で、わたしの部屋と壁一つ隔てた六畳部屋の住人野郎。よく女の子を連れ込んでました。女の子とは一度も顔を合わせたことはなかったのですが、下宿に帰り玄関を開けると、「あ、また来とるな」とすぐわかりました。玄関を入ると土間ですが、その上がり框前にいつも同じ黄色いブーツが脱いであるんですね。
で、わたし自室に入ると、隣の部屋から話し声や笑い声、囁きが聞こえるわけです。衣擦れまで聞こえたことはなかったですが。いや、わたしが戻る前にはもっといろいろやっていたのかもしれません。
も、気になってしょうがない。会話の内容まではわかりませんから余計に気になる。で、その私の緊張感が隣室にも伝わるのか、隣にもなんとなく緊張感が生まれるわけです。かくて、壁一つ隔てて互いに緊張し合う。38度線を挟んだ韓国と北朝鮮のように。
この緊張感に耐えかねたのか、隣室の男はしばらくして引っ越していきました。もちろん、こちらに挨拶など無かったです。
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10. Mikiko- 2013/11/21 20:06
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斬新ですね。
ひょっとしたら、人間じゃなかったのかも?
天井裏から覗けば良かったのに。
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11. ハーレクイン- 2013/11/21 20:41
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酔っぱらったときに何度か、思い切って襖を開け、覗いてやろうかと思ったことがあります。
やらんでよかったー。
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12. Mikiko- 2013/11/22 07:58
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『とくなが荘』か!
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13. ハーレクイン- 2013/11/22 08:47
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さすがに仕切りは壁だよ。
部屋の入り口が襖なんだけど、あれ?
そういえば、連れ込み野郎のもう一方の隣室との境は襖だったなあ。入居者はいなかったけど。
要するに、普通の民家なんだね。
もともと大家さん一家が住んでいて、別に家を建てて引っ越した後を学生に貸していたんです
部屋数は、1階、2階にそれぞれ3部屋ずつ。1階は6畳、6畳、4畳半。2階は6畳、6畳、3畳でした。
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14. Mikiko- 2013/11/22 20:37
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むしろ、襖で仕切られてる方が普通だと思います。
和室を連ねるのは、用途によって部屋の大きさを変えられる利便があるからです。
しかし……。
壁で隔てられた三畳間。
どういう目的で作られたんでしょう?
使用人部屋なら、1階でしょうしね。
トイレは1階にあるとして……。
キッチンとお風呂は、どう使われてたんですか?
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15. ハーレクイン- 2013/11/22 21:48
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そう言われてみると、ちょっと謎めいていますね。
キッチンは1階の土間にあって、入居者は自由に使用可、でした。
風呂はなかったです。家全体の構造から考えて、もともとなかったんじゃないかな。
近所の銭湯に行ってました。冬場も、素足下駄ばきで、雪を踏みしめて……。