2013.10.22(火)
あやめの呼吸が荒くなった。
動けない。
足どころか、手の指一本すら動かせない。
この男は一体……。
女の口を外れた男の唇が、あやめの視界に入った。唇の端がぐにゃりと歪む。笑った。いや嗤った。蛇の嗤いだった。
「うふうぅ」
女の、兄嫁潔子の両の尻たぶを鷲掴みにしていた男の手の片方が、女の体の前に回された。女のショーツが下がった。男の手がショーツの中に差し込まれたのだろう。
「ひっ、いひいいいい」
男の、蛇の視線があやめに絡みつく。潔子の嬌声はあやめを呪縛する。
くっ……。
あやめは辛うじて蛇の視線を切った。踵を返す。二人に背を向け、小走りに歩み去る。
だが、蛇の目と、潔子の生々しい喘ぎは、逃げ去るあやめをどこまでも追いかけてきた。
「兄ちゃん」
「おお、あやめ、もんたか(戻ったか)」
「兄ちゃん……」
あやめの目から涙がこぼれた。先ほどの、裏庭での光景があやめの心に重くのしかかっていた。
あの男は、一体……。
「くらま」の女将、藤子の言葉もあやめを混乱させていた。だが、兄、健三にはあやめの今の思いはわからない。
「なんや、あやめ。泣くほど家が懐かしいんかい」
健三は、家族の居間に座って新聞を読んでいた。
「兄ちゃん……」
「おう、どないした」
言うべきだろうか。
先ほどの裏庭での光景を兄に告げるべきだろうか。
いや、とても言えない。
そんなことを言えるわけがない。
あやめは、指で涙を拭って兄に問いかけた。健三は新聞を畳み、あやめに向き直る。
「なあ、兄ちゃん。さっき『くらま』の藤子おばちゃんに会(お)うて聞いたんやけど、相良はん、やめはったんやて?」
「おお、もう二年になるかのう。体、悪(わる)しはってのう。ほら、あの人に辞められたらうちはすぐ困るんやけど、病気ならしゃあないわな」
「ほんで? 代わりの人、おらんかったん?」
「ほらあ、あやめ。あんだけの人の代わりて、そうそう見つからんわな」
「なんで教(おせ)てくれなんだん?」
「お前に言うてもしゃあないやろ。帰ってこれるわけもないし」
「そんなん、兄ちゃん! そないに大変なんやったら、うち、うち……」
「あほ、お前はお前の好きなことすればええんや。儂はお前にしょうもない苦労をさせるほど、けちくそないわい」
「しょうもないて、兄ちゃん!」
襖が開き、兄嫁の潔子が入ってきた。先ほどの裏庭での痴態など、そ知らぬふりである。
「いやあ、あやめちゃん。帰って来たん? 久しぶりやねえ」
あやめは、粘りつくような舌を辛うじて動かして答えた。
「あ、お姉さん。御無沙汰してます。ただ今戻りました」
裏庭でのことをあやめが見たことをあの男から聞いていないわけがない。だが、潔子は素知らぬふりでしれっとしていた。
「兄ちゃん、ほんで『花よ志』はんには、いつ……」
「おう、ほれほれ、早い方がええやろ。うちは明日休みやさかい、儂がついてったる。向こうはんは店あけはるから、ちょっとばたばたになるけんど、明日の3時ころに行こか」
「花よ志(はなよし)」は兄が話を付けてくれ、あやめが奉公することになる祇園の料亭である。
あした……。
途端に、あやめは背の真ん中に、頭から尻の先まで真っ直ぐな鉄棒を通されたように感じた。
「わかりました。宜しくお願いします、兄ちゃん。おおきに、有難(ありがと)さんでございます」
「なんや、改まって。それより、『花よ志』はんはお前も知ってるやろけど、小さい店やが祇園の老舗や。きばるんやで」
「へえ、兄ちゃん」
「よっしゃ、ほなお前はゆっくりしとれ。儂は今夜の仕込みがあるよって」
「兄ちゃん、うちにも手伝(てった)わして」
「なんや、お前は明日から大変なんや。今日はゆっくりしたらええがな」
「ううん、久しぶりに兄ちゃんと一緒に板場に立ちたい。うちにもやらして」
「ほうか、お前は根っからの料理人やのう。ほな、頼むわ」
「うん」
あやめは鞄を開け、その隅から、晒しに巻いた包丁を取り出した。三本。柳葉包丁、出刃包丁、薄刃包丁。
柳葉は刺身用、出刃は魚用、薄刃は野菜用。使いこまれ、手入れの行き届いた刃は、美しく光を照り返した。
「ほう、あやめ。まだ持っとったんか、包丁」
「ほら持っとるわね、兄ちゃん」
「どれ、見してみい」
あやめの包丁を手に取りしげしげと見やる健三は、少しの間の後、軽く嘆息を漏らした。
「なんとのう。何年も板場を離れてた包丁が、こないに……。わし、お前を『花よ志』はんに奉公に出すん、惜しなったわ」
「ほんま! 兄ちゃん。ほな、また一緒にやらせてくれる?」
「あほ、今更そないなわけにいくかい。行くで、あやめ」
「おいきた」
健三に続き居間を出ようとするあやめの視線を、潔子の視線が捉えた。先ほどの男と同様の、蛇の視線だった。
凍りつくあやめを見据えながら、潔子の口元が吊り上がった。蛇の嗤いだった。
そういえば……。
あやめは、高校三年の春の頃を思い出した。潔子がこの家に嫁入ってきた頃のことだ。その頃あやめは、しばらくして気付いた。
義姉さんは……。
潔子さんは……。
このひとは……。
男を見る目と、女を見るときの目の色が、全く違う……。
あやめは、あの頃の思いと今の蛇の視線を、胸に抱え込んだ自らの包丁で断つように切り捨て、居間を出た。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/10/22 09:00
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ああ、またやっちゃいましたね。
京都語、翻訳漏れがあります。
あやめさんの兄ちゃん、健三さんのセリフですが、場所は指摘しづらいなあ。全体の後ろ寄りです。
「なんや、改まって。それより、『花よ志』はんはお前も知ってるやろけど、小さい店やが祇園の老舗や。きばるんやで」
この内、「きばる」は「頑張る」という意味です。
あやめさん愛用の包丁三本。
「出刃」はともかく、「柳葉」は刺身とか、「薄刃」は菜っ切りとか、色々な呼称があるようです。
ということで二匹目の蛇、兄嫁の潔子義姉さん。
このお人も今後ご活躍されそうです。
乞う、ご期待。
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2. Mikiko- 2013/10/22 20:41
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これは、京都以外の人でもわかると思いますよ。
“おきばりやす”は、よく耳にします。
漢字で“気張るんやで”にすれば、翻訳はいらないんじゃないかな?
しかし、ハーレクインさん。
小説、上手くなりましたね。
セリフが京都弁ってのも、あるのかも知れませんが……。
手慣れた感じがします。
年の功が、いい方にでてるっていうか……。
若輩には書けない味が、にじみ出てます。
いっそ、谷崎潤一郎を目指しますか?
あやめさんの包丁は、やっぱり堺製でしょうか?
↓これはもう、工芸品ですよね。
http://www.catalog.vc/catalog_file/0644flu/
値段の書いてあるサイトを、ようやく見つけました。
↓プロ用の一番長い刺身包丁(36㎝)は、23万円也。
http://www.jikko.jp/shopdetail/001004000004#pagetop
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3. ハーレクイン- 2013/10/22 21:44
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んじゃ、このままでいいでしょう。
>ハーレクインさん。
小説、上手くなりましたね。
おおおおおおー!
こないなお言葉を頂けるとは!
有難うございます。
ま、京都弁がいい方に転んだのかもしれません。
頑張れ、あやめさん!
まさか大谷崎を目指すなど、そんな恐れ多い。
あれ?
包丁は堺。
すぐ見つけはると思(おも)てましたがのう。
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4. Mikiko- 2013/10/23 07:57
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含蓄のある言葉も残してます。
「恋というのは一つの芝居なんだから、筋を考えなきゃだめだよ」
「意地の悪い人間は、その意地悪さを発揮する相手がいないと淋しいに違いない」
後の方の言葉は、『アイリス』にも使えそうですね。
通勤に80分もかかるんだったら……。
酒なんか飲んでないで、『細雪』でも読み返しましょう。
堺の包丁サイトは、山ほど見つかります。
でも、技術の紹介みたいな記事ばっかりで……。
あからさまに値段を書いてあるとこは少ないんですよ。
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5. ハーレクイン- 2013/10/23 10:14
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なんか、エピソード集みたいですよね。
神戸水害のシーンが強烈です。
わたしとしましては、以前も書きましたけど、ラストシーンですね。
三女雪子さんがお見合いのために国鉄の夜行列車に乗って上京する。雪子さんは下痢の真っ最中……。
谷崎で恋といいますと、どうしても細君譲渡事件ですが、ま、これはあまりに生々しすぎますわな。
>「意地の悪い人間は、その意地悪さを発揮する相手がいないと淋しいに違いない」
わたしはそんなに意地悪ではありません。
ですから、登場人物に意地悪をさせるのに苦慮しております。
包丁の値段。
確かに、価格まで書いてあるサイトさんは少ないですよね。
あやめさんの包丁はそんなに高価なものではありません。
あやめさんが自分の包丁を持ったのは高校生の頃。そんなに高価な物に手は出せません。
大事なのは、使い方と手入れでしょうね。
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6. Mikiko- 2013/10/23 19:41
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読んだのは1回だけです。
映画も、テレビ放映されたのを、1度見ました。
印象に残ってるのは……。
岸部一徳が、足の怪我から壊疽か何かになって、布団の中で「痛い、痛い」と呻いてるシーンです。
細君譲渡の相手は、佐藤春夫。
今でこそ、谷崎と佐藤では、知名度が段違いになりましたが……。
大正期の佐藤春夫の名声は、谷崎や芥川を凌いでたそうです。
包丁は、その作り方により、大きく2つに分けられます。
用途は同じでも、実際には別物と云ってもいいでしょう。
ひとつは、堺のように、鉄と鋼の塊から、叩いて作られた包丁。
もうひとつは、百均で売られてるような包丁。
これは、金属板から包丁の形を切り抜いて作られます。
研ぎ代の方が高くつくので、使い捨てでしょうね。
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7. ハーレクイン- 2013/10/23 20:55
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1回読めば十分だよ。
佐藤春夫は「秋刀魚」
「……あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓に向かへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ
世のつねならぬ団欒(まどゐ)を
あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ……」
あやめさんの包丁は……、
おそらく百均包丁でしょう。
でも、使い方と手入れで光を放ちます。
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8. Mikiko- 2013/10/24 07:34
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前にも書きましたが……。
↓やはり、これが絶唱でしょう。
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●水辺月夜の歌
せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞ沁む。
もののあはれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに。
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百均包丁は……。
手入れが出来ないようです。
研ぐと、刃が無くなっちゃうのだとか。
やはり板場では、打刃物じゃなきゃダメでしょうね。
高校時代、相良さんから包丁を譲られたことにすれば?
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9. ハーレクイン- 2013/10/24 09:09
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へえーそうなんですか。
全く見かけ倒しということか。
んでも、うちの包丁、研いでるけどなあ。
>相良さんから譲られた
あ、それ、ええ。頂き!
やめはった板長の、いわば形見の包丁。
ええよ、じつにええ。
相良はんのエピソードも書けるっちゅうもんやないか。
さあ、これからどう嵌め込むかなあ。
こうやって、登場人物が増えていくんだよなあ。
んでもって、なんぼでも話が長(なご)なるわけや。
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10. Mikiko- 2013/10/24 20:02
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わたしの勇み足のようです。
↓プロの仕事に使えないことだけは、確かなようですが。
http://okwave.jp/qa/q4952272.html
相良さんが修業時代に使ってた包丁を、あやめに譲ったことにすればいいんじゃないかな。
使いこんで、研ぎを繰り返したため、刃も柄も痩せてしまい、やむなく包丁を新調した。
でも、一回り小さくなった包丁は、高校生のあやめの手にはぴったりだと思い、譲ったわけですね。
もちろん、腕を認めたからでもあるでしょう。
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11. ハーレクイン- 2013/10/24 20:36
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包丁は、材質と、仕上げと、研ぎでしょうね。
プロの仕事は凄いですよ。
以前お話した大阪西区の蕎麦屋兼お寿司屋さん。
こんな言いかたすると怒られるでしょうが、そこらのしょうもない食べ物屋さんなんですが、大将も板さんも、毎日包丁研いではりました。研ぎあがった包丁、ほんまに綺麗やなあと見とれたものです。
確かに、研ぎを重ねた包丁は、やせ細るそうです。
で、あやめさんが相良はんから譲り受けた包丁。
貴重な、珠玉の逸品ですね。この世に二つとない宝。
あやめさんは、包丁とともに、相良はんのその腕を受け継いだのでしょう。
うーむ。相良板長物語。これはどうしても書かんとあかんなあ。
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12. Mikiko- 2013/10/25 07:48
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料理の出来が違うということを、プロの料理人は、身を持って知ってるんでしょうね。
素人が切れない包丁を使ってると、非常に危険だそうです。
切るとき、力を入れてしまうから。
もし、その下に指があったらと思うと、ゾッとしますよね。
切れる包丁を使ってれば、力を入れないクセが付くので……。
万が一のときも、骨まで断ってしまうことはないそうです。
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13. ハーレクイン- 2013/10/25 11:19
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は本当に危険です。
包丁はきちんと研ぎましょう。
以前、ネギを切ろうとして指を切ったことがあります。
まな板の上ではありません。包装してあるセロハン紙(?)。あれを包丁で切り裂こうとして滑り、指を切りました。間抜けですねー。ま、酔っていたということもあるんですが。
酔って刃物を使うものではありませんね。











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