2012.1.10(火)
由美は、拳に変えた左手を2度3度、夏実の顔面に向けて繰り出す。これはフェイントだ。次の瞬間、左脚を大きく夏実に向けて踏み込む。同時に、右拳を、左拳とは比較にならない勢いでまっすぐ夏実の顔面に向けて放った。
夏実は顔面は動かさず、当たる寸前に左手を上げ、由美の右手の手首のあたりを外側に払う。そのまま左腕で由美の右腕を巻いて左脇に抱え込み、関節技に移行しようとする。
これは由美も読んでいた。全身を時計回りに回転させるとともに右腕を引き戻す。同時に左脚をくの字に曲げ、左膝で夏実の下半身を狙う。
夏実も由美同様、体を回転させ、由美の膝を避ける。
夏実は思案する。
由美の上体の衣装は薄いブラウスだ。分厚い柔道着とは異なり、ブラウスの袖や襟を掴んでも投げ技は使えない。ブラウスの縫い目か生地が裂けるだけだ。
使える投げ技でまず考えられるのは、相手の腕を両腕で抱え込んで投げる<一本背負い投げ>だが、これとて少なくとも相手の手首は捉える必要がある。が、由美の手首を掴むのは困難だろう。
それに、この狭い室内で大きな投げ技を使えば、由美はなんらかの怪我を負う。夏実にそのつもりはなかった。
(手投げ技は使えないな)
(とすれば足技)
(足技で崩して寝技に入る)
(上体を掴まないでも有効な足技というと……)
その時、雲が切れたのだろう。窓から強い光が射した。窓からの光が、夏実の顔をまともに射抜く。夏実は、眩しそうに目を細める。
その瞬間を狙っていたように、由美は大きく前に踏み込み、右脚をまっすぐ夏実に伸ばしてきた。ハイキックでも、ミドルでもローでもない。
回し蹴りではない。
(前蹴り!)
真っ正直な、外連味のない、わかりやすい、しかし強力な技である。由美の足は、正面から夏実の腹部を狙ってきた。
テニスに、抜くスペースがなければ相手の身体を狙う、というセオリーがある。正面からまっすぐ来る攻撃というのは、意外に避けにくいものだ。
(避ける余裕はない)
そう判断した夏実は、両腕を体の前でX字状に交差させ、胸と腹をカバーする。
<十字受け、クロスアームブロック>。
空手、ボクシングなど打撃系の格闘技において、体前面への打撃に対する有効な受けである。衝撃は大きかった。夏実は両腕で由美の足を受けるとともに、左脚を後方に引いて全身で衝撃を緩和する。ダメージはほとんどない。
(チャンス!)
夏実はすかさず十字受けを解き、自らの腹の前にある由美の足を両腕で掴む。
そのまま全身で押し込みながら、左脚を半歩大きく踏み込み、由美の左脚の外側から回した右足裏で、由美の左脚のアキレス腱のあたりを手前に刈る。
<小外刈(こそとがり)>。
相撲では、<裾払い>と呼ばれる技である。
柔道では多くの場合、正面に立つ敵をコンパクトな体捌きで崩すことのできる崩し技として用いられるが、タイミングによっては十分に一本を取れる技である。
由美の体勢が崩れ背中から床に倒れ込む。夏実はその勢いで由美に覆いかぶさった。
右腕で、仰向けになった由美の首を抱え込み、左手で由美の右手首を強く掴んで引き寄せる。本来、左手は相手の柔道着の右袖を掴む技なのだが……。
<袈裟固め>。
“袈裟に始まり袈裟に終わる”との格言通り、柔道の多くの寝技のうち、最も基本的な固め技である。
あの、1964年の東京オリンピック。柔道の無差別級……。
当時は体重を問わない無差別級というクラスがあった。柔道競技が世界規模の大会に発展し、様々なルールが変更を余儀なくされていく流れの中で、<柔よく剛を制す>という講道館の信念がつくらせたクラスだった。ある意味、このクラスでの優勝者が、世界一強い柔道家ということになる。
この無差別級決勝で、日本の神永昭夫を30秒間抑え込み、優勝を果たしたのがオランダのアントン・ヘーシンク。この時の固め技が「袈裟固め」だった。夏実は母から何度聞かされたことか。
国内ルールでは、このまま30秒を過ぎれば<一本>だが、これは試合ではない。
夏実は、由美を上から見下ろす。
由美は、下から夏実を見上げる。
夏実と由美の視線が合う。
二人の視線が絡み合う。
夏実は、あの強い光を由美の眼の中に見ていた。
由美も、同じ光を夏実の眼の中に見ているはずだ。
袈裟固めは基本的な固め技だ。入りやすく、他の技に移行しやすいが、敵から見れば逃れやすい技でもある。由美は全身をくねらせて夏実の両腕を緩め、逃れようとする。さらに左拳を固め、夏実の背を打つ。しかしこの体勢ではあまり効果はない。
由美は背をあきらめ、夏実の左耳を左拳で打った。これは柔道ではもちろん、拳法でも反則である。しかし、今の二人の闘いは試合ではない。
さすがにこれは効いた。夏実は思わず由美に体重を掛けていた上体を浮かせてしまった。首の固めも緩む。
夏実は思う。
(なるほど)
(本当に、ただのお嬢さんじゃないな)
(これは喧嘩だと腹をくくっているわけだ)
(ならば)
夏実の右腕による固めを逃れた由美は、体を半分に折るように下半身を上半身に引き付け、その反動で夏実から逃れようとする。柔道では俗に<海老>とよばれる寝技での技法である。
「くっ」
(このひと、こんな技術まで……)
夏実は、由美をほとんど逃しかけたが、左手はまだ由美の右手首を掴んでいる。立ち上がろうともがく由美。夏実は由美の右手首を思い切り引いて由美の上体を引き付け、由美の左脇腹に、右の肘打ちを落とした。もちろん加減はしてある。夏実が渾身の力で肘打ちを放てば相手はただでは済まない。
思わず怯む由美。夏実は素早く由美の背後に回り、膝立ちの姿勢で、右腕を由美の首に回し、由美の上体を引き上げる。
「ぐぅっ」
首にかかった夏実の右腕で、無理やり上体を引き起こされた由美の口から呻きが漏れる。夏実は構わず、左の掌を由美の後頭部にあてがう。由美の首に前から回した右腕の掌で、自らの左腕の肘関節の少し手首寄りを掴む。
両腕で由美の首を一気に締め上げる。
<裸締め>
プロレスや総合格闘技などでは<スリーパーホールド>という絞め技である。
柔道でも、相手の道着を捉える必要のない、効果的な締め技。掛けられた相手は頸動脈を圧迫され、脳への血流量が激減して数秒で失神に至る。
これを「落とす・落ちる」というが……。
由美は落ちた。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2012/01/10 20:05
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楽しそうに書いてますよね。
読み手にも、それが伝わって来ます。
この章だけ読んだ人は……。
これがエロ小説だなんて、思わないでしょう。
いっそのこと……。
格闘路線だけで通した方が、おもろいんじゃないの?
しかし……。
由美が負けるのは、おもろないなぁ。
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2. ハーレクイン- 2012/01/10 21:23
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由美夏バトルシーン。
おかげで、気が抜けてしまったみたいです。
マンションの室内、という場所的制約がありましたので、少し筆が縮こまってしまったようです。
できれば、二人に道着を着せて、道場でのびのびと戦わせてやりたかったですね。
ま、そうなれば、一体何章を費やすか。それこそエロ小説じゃなくなっちゃいますね。
>由美が負けるのは、おもろないなぁ
そもそも“もし夏実が由美に勝っていれば”が出発点でしたから、由美ちゃんには“とりあえず”負けてもらわんとねえ。











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