2012.1.3(火)
「へー、あんた、藤村さん、由美さんっていうんだ。平凡だけど、よく合った名前だね」
名前を知られた女性は蒼白になった。しかし、ここまで来てしまえば、今更名前くらい知られてもどうということはない。それに気づいたのだろう。女性は、由美は、逆に頬を紅潮させ、ジーンズの前ポケットから取り出した鍵で開錠し、ドアを開いた。
「どうぞ」
由美は先に立って室内に入る。続いて入室した夏実はドアを閉め、さりげなくロックした。この後、この室内で何が起ころうと邪魔だけはされたくない。夏実はそう考えていた。夏実は物珍しそうに室内を歩き回った。
「案外狭いんだね。ま、こんなでっかいクローゼットとか、ベッドがあるからしょうがないか」
一通り室内を物色すると、夏実は腰に巻いたトレーナーをはずし、ベッドに腰を落とした。キャップも脱ぎ捨てる。スプリングの反動を確かめるように、2,3度尻をバウンドさせる。由美は、夏実を睨み付けながら部屋の中央に突っ立っている。
夏実は思う。
(さあ、どうしよう)
(ボクは、何をしたいんだろう)
「さぁて、どうしようかな。取りあえず、その袋は、テーブルに置きなよ」
由美が言うとおりにすると、夏実はにっこりと笑った。
心からの笑みだった。左の頬に笑窪が出来ているはずだ。
(ボクはこの人が……)
夏実は、女性を、由美をどうしたいのかわからぬまま、知らぬまに言葉を発していた。
「取りあえず、そう……。
そう、取りあえず、服を全部脱いでくれる?」
考えてもいなかった言葉だった。その言葉を、夏実は笑みを浮かべながら言い放った。由美は、先ほど信用金庫の前で初めて夏実に声をかけられた時と同様、石のように凝固した。夏実はさらに畳み掛ける。
「何してるの? さぁ、早く。道路であんなことが出来るんだから……室内で脱ぐくらい、何でもないだろ」
「………………」
「どうしたの? 脱がないんなら……動画、投稿しちゃうよ」
夏実は、ジーンズの尻ポケットから右手で携帯を抜き出した。パネルを開く。もちろん、投稿する動画など携帯内のどこにもない。由美を見上げながら、投稿するふりを装って右親指の先を細かく動かす。
「やめて!」
由美が夏実の手元に手を伸ばした。
「おっと」
夏実は、敵から逃れ水中で反転する小魚のように、ベッドを離れた。さらに由美を挑発する。
「早く脱ぎな! 送っちゃうよ」
夏実は携帯を前に突き出しながら、軽やかにステップを踏む。
試合場で、主審の<始めぃ!>の声がかかる。相手の出方をうかがい、自分有利に相手を組み止める機会をうかがう。左右の手で相手を牽制し、両脚は軽快な足さばきで相手を追い、相手を避ける。
足さばき、フットワークはすべてのスポーツ、すべての武道の基本だ。脚備え、腰構えという意味では、たとえ弓道と云えども例外ではない。スポーツ、武道の鍛錬の多くの時間は、足腰を鍛えることに費やされる。
夏実の足さばきは、十年近くの長きに渡って鍛え上げてきた修練の賜物だ。なまなかなことでは捉えられるものではない。
しかし……。
由美の手が、夏実の手の内の携帯を求め、三度、四度、空を切る。由美の動きは、携帯を求める動作に倦んだように、次第に緩慢になっていく。
(あきらめたか)
夏実がそう思った瞬間、由美は体を時計回りに反転させ、背中から夏実の懐に大きく踏み込んだ。夏実の意表を突く動きだった。
大きく伸ばされた由美の右腕が、携帯を持つ夏実の右手を狙って、背後の夏実を鞭打つように振られた。腰の入った、全身を右腕に預けるような由美の動きである。
(しまった!)
夏実は全身で後方に飛び退り、由美の右腕を避けようとしたが間に合わない。携帯を握る夏実の右手は、由美の右手の甲に見事に払われていた。
空手など打撃系の格闘技では<裏拳(うらけん)打ち>、総合格闘技などでは<バックハンドブロー>と呼ばれる技である。空手やボクシングでは、多くの場合反則とされる技であるが、相手の意表を突く、という意味で効果の大きい技である。まして、今の二人の攻防は、これは試合ではない。
携帯は夏実の手を離れ背後に飛ぶ。二人は、夏実が由美を背後から抱きかかえる体勢で、縺れ合うように背中から床に倒れ込んだ。
由美は夏実の腕の中からもがく様に逃れ、立ち上がり、夏実に向き直る。その時、夏実もすでに起き上がり由美に対峙している。携帯はすでに二人の視界から消えている。二人の視線が絡み合う。
夏実は、由美の瞳の奥を凝視した。
(見えた!)
あの眼の光だ。
昨日、あの路地で初めて見た、強い由美の眼の光。これまで、幾多の試合で見てきた強敵たちの眼の光。そして……。
母の、
あの強い強い母の、
未だに夏実の心底を射すくめる母の眼の光。
夏実は慎重に腰を落とし、両腕を軽く前に突き出し、由美の出方を窺う。
由美の構えは、夏実よりは腰高だ。両脚は前後に開き、体重を後足に多くかけている。両腕は……右腕は肘をたたんで胸の前、左腕は軽く肘を曲げ、手刀にした手を夏実の顔面に向けている。
夏実は思う。
(やはり……何かやっているな)
(この構えは打撃系、空手か……)
(ならば、倒してしまえばこちらのものだ)
夏実の背を、敵に対した時にいつも感じる感覚、体内の背の内側を撫で上げられる様なあの感覚が走り抜けた。
(自分から攻めてくる気はないな)
(受けて返す戦法か)
(ならば、先手必勝!)
夏実は躊躇わなかった。両腕をくの字に曲げて両のこめかみを庇い、姿勢を低く、極端に低くして正面から由美に突っ込む。
夏実の体がぶつかる寸前、由美は右脚をくの字に曲げ、膝頭を夏実の額に向けて放った。
(膝蹴り!)
これは夏実も予想していた。夏実はさらに姿勢を低く、ほとんど床すれすれに低くして由美の膝を避け、そのまま、前回り受け身を取るように前転し、膝を床に着いたまま由美に向き直る。
夏実の左方向から風を巻いて迫ってくるもの。
由美の右回し蹴りだ。
夏実の左側頭部を狙っている。
夏実は首を前に倒し、由美の蹴りを避ける。
夏実の短い髪を薙いで、由美の足が夏実の頭上を擦過する。
夏実は素早く立ち上がり、由美に対峙する。
体を一転させた由美も夏実に対峙する。
二人は再び向かい合った。
夏実は由美に声をかける。
「やるじゃない、お嬢さん」
「あなたもね。あなたのそれ、なあに、柔道? それともレスリングかな」
「柔道だよ。あんたは……空手?」
「日本拳法よ」
「へえ、それは珍しい。じゃ兄弟どうしというわけだ」
「そうね。兄弟はおかしいから、姉妹かな」
その言葉を聞いた瞬間、夏実は莞爾として笑った。
日本の武術の源流。
遠く、垂仁天皇の時代に行われた、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の闘い。この闘いでは、宿禰が蹶速の腰を足で蹴り折って勝負を決めている。
この闘いが柔道、空手、相撲、合気道、拳法など、日本のすべての格闘技の源流であるとされている。もちろん、神話の時代の話ではあるのだが……。
日本の古武術を共に源流とする武道を学んだ者どうしが、今、この狭いマンションの一室で対峙している。
なんのために?
夏実の闘気が一瞬緩みかける。
それに呼応するように由美の気迫が増す。
由美が声をかける。
「あなた……何がしたいの」
「さあ……何かなあ」
「携帯で動画撮ったなんて嘘でしょ」
夏実はあっさり認める。
「そう、嘘だよ」
「で、もう一度聞くけど、何が目的なの」
「さあね……自分でもよくわからなくなった」
「なあに、それ」
「ほんとなんだよ、よくわからない、自分でも。
とりあえずはっきりわかっているのは、あんたをぶちのめしたい。これかな」
「なによ、それ。やれるもんならやってごらんなさいよ」
二人は再び構えあった。
由美は思う。
(柔道か……じゃ手でも足でも先に当てれば私の勝ちだ)
由美は知らない。
夏実が、母親から柔道の全てといっていい数多くの技を叩きこまれていることを。その中には「当て身」も含まれている。
近代スポーツである柔道は、かつては柔術と呼ばれ、実際に敵を戦闘不能にし、時に死に至らしめる武術であった。その頃の柔術技の一体系、当て身技。すなわち突きや蹴りについての攻撃・防御の技である。
夏実は、先ほどのやり取りで確信していた。
(ボクの方が強い)
確かに由美の体さばきと攻撃力は、この年頃の若い女性にしては大したものだ。それなりの修練は積んでいるのだろう。
しかし……。
夏実は思う。
(問題にならない、ボクの方が強い)
(もう半月近く稽古をしていない)
夏実は何者かに宣言するかのように心の中で叫ぶ。
(それでも、間違いなくボクの方が強い!)
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/01/03 08:54
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えー、皆様。
毎度『風楡の季節』をご愛読賜り、誠に有難うございます。
今回掲載していただきました第9章から、由美ちゃんと夏実の異種格闘技戦が始まります。
思いますれば、本編の主人公夏実が、ご本家『由美と美弥子』に初めて登場したのは、
549回、第56章Sentimenntal Journeyの最終回、一昨年2010年9月27日のことでした。
以来“夏実って、何者なんだろう”という思いが私の脳裏の片隅にしつこく住まうようになりました。
ご本家はもちろんその後、夏実など置いてけ堀にして、現在、高原貸別荘のシーンにまで至っておりますが、“夏実の正体を見極めたい”という思いは、何としてもわたしの中から消えてくれません。
その思いが、昨年2011年3月末に、『「サイドストーリー夏実」を書く』という無謀極まる宣言をわたしにさせてしまいました。
で、昨年2011年11月8日から掲載させていただくという運びになったわけですが、その間の作者の様々な葛藤はよしとしましょう。
この執筆期間中、作者の脳裏に常にあったのは「由美夏バトルで、もし夏実が勝っていたら」でした。
ご存じでしょうが、ご本家『由美と美弥子』では、626回~628回(2011年1月14日~16日)で、由美ちゃんと夏実が異種格闘技戦を行い、由美ちゃんが勝利します。
この闘いで、「もし夏実が勝っていたら」。
これが『風楡の季節』の出発点であり、作者が最も書きたかった場面でもあります。
今章と次章にかけて、由美夏バトルが続きますが、この場面を書いている時が、作者にとって至福の時でした。
“史上最弱の柔道家”が書いたバトルシーン。
どうぞお楽しみください。
えー、日本拳法関係の方々には「そんなんおかしいで」という点が多々あろうかと思います。どうぞご意見、お叱りを賜りたく、お願い申し上げます。
あ、今回掲載頂いた第9章。
最後に
(それでも、間違いなくボクの方が強い!)
という行が入ります。
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2. Mikiko- 2012/01/03 09:05
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最終行、追加しておきました。
こういうとこ、気づくのはさすがですね~。
わたしなら、ぜったい気づかないよな。
ちなみに、原典では……。
由美の使う拳法は、テコンドーでした。
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3. ハーレクイン- 2012/01/03 09:19
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正月早々、お手数をおかけしました。
「さすが」って、いちおー、作者ですから。
全ての行は頭に入っております。
えへん、ぷ~い。
由美の拳法、始めはテコンドーで、途中から日本拳法に変わったっと思っとりましたが。
うーむ。
テコンドーだと、今章「第9章」の名(!)場面の一つが成立基盤を無くすなあ。
>ちなみに、原典では……。
由美の使う拳法は、テコンドーでした。
“見なかったこと”にしよう。
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4. Mikiko- 2012/01/03 09:31
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いただいた原稿にも、ちゃんと最終行は入ってましたから……。
わたしのミスです。
こちらこそ、すみませんでした。
由美のテコンドーの件。
第332回の冒頭に、「あたしね、テコンドー習ってたんだ。初段取ったんだよ」という由美のセリフがあります。
パラレルワールドだから、わざと設定を変えたのかと思ってました。
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5. ハーレクイン- 2012/01/03 09:58
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由美ちゃんが、ミサちゃんを膝蹴りで仕留めた直後の回ですなあ。
で、そのバトルの興奮を引きずったまま、美弥ちゃんを嬲ると……。
いやあ、懐かしいですなあ。
『旅行倶楽部』では福島旅行の真っ最中ではありませんか。
あ、いやいや、過去を懐かしんでおる場合ではないのだ。
このずーっと後に、由美ちゃんの得意技はテコンドーではなく日本拳法だ、という下りが出てきたと思うのだが……。
現在、調査中でおます。
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6. Mikiko- 2012/01/03 11:19
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以下の、3箇所。
最初は、512回。
『拳法をやっていた由美には、それがよく判った』
続いて、513回。
『一見弱そうに見える由美には、拳法のたしなみがあったのだ』
最後は、628回の終わりころ。
『思えば高校時代は、道場以外で拳法を使うことは無かったのだ。それが大学に入ってからは、プライベートで拳法を使ったのが、この少女で3人目だ』
いずれも、打撃系格闘技という意味で、“拳法”という語句を使ったものです。
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7. ハーレクイン- 2012/01/03 11:42
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調査が素早いですなあ。
ゆっくりもう一飲みしてからと思っておったのですが。
ご苦労様です。
ふむ。
512回、513回、628回に出てくる「拳法」か。
テコンドーは、あまり“拳法”とは言わんと思う。
やはり拳法といいますと「日本拳法」あるいは「合気道」を連想しますねえ。
このあたり、是非、ご関係者の方々のご意見をお伺いしたいものです。
ま、Mikikoさん仰せのとおり「打撃系格闘技」という意味では間違いなかった、ということでほっとしております
それにつきましても夏実の技ですが、ご本家『由美美弥』を拝見しますと、やはりいちばん近いのがレスリングだと思い、当初はそのつもりで書こうと思っていましたが、やはりレスリングの攻防は私には無理。
ということで、「柔道家夏実」誕生となりました。
夏実も「史上最弱の柔道家」の手により造形されたことは、大いに不満だと思います。
あーっ。
それで作者の言うことを聞かんのかあっ。
「史上最強のインターハイ選手」夏実め!











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