2011.11.22(火)
ようやく泣き止み、立ち上がった美玖は、悄然と歩み始めた。どこに行く当てもない。四月の午後の澄んだ日射しの中、さまよう迷子のような美玖はしかし、いつのまにか武道場の前にたどり着いていた。武道場は剣道部と柔道部の共有である。
静かだった。
いつもなら、剣道部が撃ち合う撃剣の音、激しく床を踏み鳴らす音、柔道部の弾むような肉体が畳を打ち付ける音、掛け声、気合、怒号……、喧騒を極める道場内だが。何も聞こえなかった。
美玖は気が付いた。剣道部は今日、市内三校の定例対抗練習試合で部員全員が留守にする日だ。それにしても、柔道部の立てる音も全くないとは。美玖は武道場の古い引き戸を開けた。
広い武道場の中は、無人だった。
いや、一人だけ、柔道場の隅にたたずむ柔道着姿の人影。
川西恵。美玖と同じ3年生部員であり、部内では夏実に次ぐ実力者だ。
「遅いぞ、ミク」
「あ、ごめん、ケイ、でも……これは」
美玖にそれ以上言わせず、恵は言い放った。
「もう、誰も来ないよ」
「え、だって」
「2年生全員が顧問に退部届を出したそうだよ」
「全員って、そんな」
「1年生は結局、誰も入部しなかった、たぶん、夏実が辞めたことを聞いたからだろ」
恵は続ける。
「ヒロミはさっきまでここにいたんだ」
美玖、恵と同じ3年生部員である。
「やっぱりやめるってさ」
「そんなケイ、あなた止めなかったの」
「あたしゃそんな無駄なことはしないよ。やる気のなくなった者を無理に引き留めても意味がない」
「だって……」
「ミク、あんたももうわかってるだろ、この部はもう終わりだ、消滅だ」
「終わりって、だって……」
その瞬間、ミクの脳裏を2年間の柔道部での思い出が、煌めくストロボスコープのように、浮かんで消えていった。
一昨年の春、全く未経験で入部し、どういうわけか夏実に見込まれて集中的に扱きまくられ、柔道の基本をたたき込まれたこと。
死ぬ思いをした1年生の時の夏合宿。
(あの一週間の合宿で、何度吐いたことか)
インターハイ後、夏実が1年生で主将に選ばれた時の、嬉しく誇らしい思い。
冬休みの、市内三校合同の寒稽古での、他校の2年生すらまったく寄せ付けぬ、夏実の鬼神の様な強さ。
2年生の夏、インターハイの団体戦の選手に、中学から経験のある同級生を差し置き、自分が選ばれたこと。
そのインターハイ個人戦で夏実が優勝したこと。
(あのときは……どれだけ嬉しかったか)
そして……、つい先ごろの、悪夢のような夏実の引退宣言。
「でも、そんな……、わたしたちの柔道部は……」
「わたしたちの、じゃないんだよ、"夏実の"柔道部だったんだ。もうそれくらいわかるだろ」
切って捨てるような恵の口調に、美玖は眩暈の様なものを感じる。
「ミク、あんた、柔道は高校に入ってからだよね」
「そうよ、それがどうかした?」
「いや、たいしたもんだと思ってね」
美玖は恵から目をそらし、窓の外を見やる。グラウンドの向こうに遠く楡の木立が見える。美玖はあわてて目を戻した。
「受け身すら知らないど素人が高校から柔道を始め、わずか一年ちょいで、仮にもインターハイに出たんだもんね」
「一つも勝てなかったけどね」
「それはあたしも同じよ。でもミク、あんた、県大会では全勝だったろ」
「あなたもね、ケイ」
「あたしゃ、夏実と同じで小学校からやってたからね」
「そうか……あなたも入学時から黒帯だったよね」
「ま、四年もやってればね」
恵は部内の同学年では、夏実を除いて唯一、高校入学時にすでに黒帯を締めていた。美玖が黒帯を締めたのは、2年生の夏、インターハイの直前だった。
「夏実が、古町の錬武館って町道場の出身だってのは知ってるだろ」
「聞いたことあるわ」
「あたしゃね、ミク、そこで夏実と一年だけ一緒だったんだよ」
「え、そうなの」
「あたしは小学校6年の春に入門したんだ、親に言われてね。中学柔道に入る準備だってね」
恵は遠い目をした。
「むちゃくちゃ強かったよ、夏実。同じ小学生なんか相手にならない。あたしもほとんど相手してもらえなかった。中学生の、しかも男子とばかり稽古やってた。それで互角か、それ以上。たまに高校生に勝つこともあったくらい」
「ふーん、そう、知らなかった。夏実、自分のことはほとんど話さないから……」
恵は改めて、斬りつけるような口調で美玖を決めつける。
「ミク、あんた、わかってんだろ」
「え、何が」
「この部の部員のほとんどがあんたと同じってこと」
「同じって、なにが」
「とぼけんじゃないよ。柔道をやりたいからじゃなく、夏実と一緒にいたいから柔道をやってたってこと」
美玖はふたたび恵から眼をそらし、窓外の楡の木立を見やる。
「ミク、あんた、才能あるよ。ある意味、とんでもない経歴だ。全くの未経験者が一年ちょっとで県下に敵なしってことだからね」
「夏実と、あなたをのぞいてはね、ケイ」
恵は、ふふん、と小鼻をうごめかす。
「でもミク、あんたのその才能と経歴もこれまでだ」
「別に私は、自分に才能があるとは思わないけど、これまでってどういうこと」
「わかるだろ、あんたは柔道をやってたんじゃない。夏実にじゃれついていただけだ、二年の間な」
「な、なにを……」
美玖は動揺を隠せない。
「そうだろ。夏実と一緒にいたいから、ど素人が柔道部に入った。普通なら三日ともたないあの夏実の扱きに耐えた。ほとんどの1年生が逃げ出した夏合宿も乗り切った。みんな夏実と離れたくなかったからだろうが」
「ちがうよ、ケイ、柔道が好きだったからだよ」
「よせよせ、部員みんなが言ってたぜ。ミクの夏実との稽古は、冷ややかなご主人様に縋り付く子犬のようだってな」
「そんな……」
美玖の動揺が増幅する。
恵は、そんな美玖を言葉で斬って捨てる。
「あんた、一番たくさん夏実に稽古つけてもらったから勘違いしてるんじゃない? 夏実があんたに気があるって。
とんでもない勘違いだ。夏実はあんたの柔道の才能を認め、団体戦の要員として鍛えてただけだ」
恵は宣言する。
「あんたが好きだからあんたに特に構ってたんじゃないよ」
美玖は言葉もない。その通りかもしれない。恵の言葉をすべて否定したいが、その通りよ、と頷く自分がどこかにいる。
「だから、夏実がいなくなった今、あんたの柔道はこれまでということだ」
美玖はかろうじて言葉を絞り出す。
「ちがう、ちがう……」
「なら、さっきのざまはなんだ。うるさく纏わりつく子犬が、愛想を尽かしたご主人様に投げ捨てられるようだったぜ」
「ケイ、あなた……見てたの」
「ああ、夏実の最後の技を見せてもらった。さすが見事な体落としだったな。部内ナンバー3のミク様が子ども扱いだ」
「体落とし……だったの」
「ほうら、それすらわからないほど逆上してたんじゃないか。『いかないでぇ、なつみぃ』ってな」
美玖の頭と体が一気に熱くなった。
未練、執着、悔恨、羞恥、矜持、忿怒……そのどれでもあり、どれでもなさそうな、いや、夏実の引退宣言からのありとあらゆる思いが美玖の体内を駆け抜けた。
美玖は吠えた。
「うおおおおおおおおおおおああっ」
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2011/11/22 19:38
-
錬武館という名前の道場は、いっぱいあるようですね。
チェーン店みたいなものか?
古町(ふるまち)は、新潟市の中心地区の地名にあります。
繁華街なので……。
町道場はありませんが。
-
––––––
2. ハーレクイン- 2011/11/22 20:52
-
「古町」は新潟から頂いたのですよ。
新潟市で最も有名な地名ではないでしょうか。以前のコメにも出てきましたし……。
管理人さんに敬意を表して、勝手に頂戴してしまいました。
「錬武館」は、さほど考えず、ふっと浮かんだ名称です。
そうか、そんなにたくさんあるのか。
もうちょっと考えればよかったかなあ。
しかし、どうなんでしょうね。
柔道の技とか、闘いとか。
「わけわからん」という読者もおられるのでは。
しかし『風楡』。
もともとの出発点は“夏実って何者?”と、『由美美弥61章脅迫者』625回~628回で、もし“夏実が由美に勝っていたら”でした。
ですから、夏実と由美のバトルはこの作品のある意味クライマックス。
避けては通れません。
今のバトルシーンはその前振り。どうか辛抱強くおつきあい下さい。
とりあえず、エッチシーンは次回から満載です。
あ、柔道の技について「おい、それおかしいで」、とお気づきの方は是非お教えください。
なんせ作者は「史上最弱の柔道家」ですので。
-
––––––
3. Mikiko- 2011/11/22 22:35
-
『YAWARA!』ですよね。
主題歌が良かった。
さやかお嬢様が大好きでした。
-
––––––
4. ハーレクイン- 2011/11/22 23:44
-
懐かしいなあ、猪熊柔ちゃん。
得意技は……なんだっけ。
アニメになってたのは知らなかった。
宿敵、さやかお嬢様は前歯が差し歯。
これはどういうわけかよく覚えています。











![[官能小説] 熟女の園](https://livedoor.blogimg.jp/mikikosroom2008/imgs/3/e/3e07a9c3.gif)





































































































