2015.2.5(木)
勝手場の壁を見つめたまま、朝餉の支度をするお蝶の手はとうに止まったままだった。
赤子の頃我が子の様に可愛がった自分でさえ、まるで胸がつぶれそうな思いなのだ。
ましてや実の母親であれば……。
とうとう昨夜は、菊に何も言い出せずじまいであった。
しかしこうしている間にも、何者とも分からぬ者にさらわれた若がどんな目に合されているか。
我に返ったお蝶は前掛けで手を拭い、表へと出て行く。
池の中に張り出すようにして、小さなお社が朝もやに霞んでいた。
木立に身を隠しながら、お蝶は無心に両手を合わせる菊を見つめる。
やがて深々と頭を下げた菊は街並みの方へ歩み去って行った。
まだ踏ん切りの付かぬままお蝶はその背中を追う。
やがて人通りのある道筋の手前まで来ると、何故か菊はその足を止めた。
「もう出ていらっしゃい、お蝶さん」
松の幹に背中を押し当てたまま、お蝶はその目を大きく見開いた。
「二度目ですね、あなたとこんな遣り取りをするのは」
ひと干支前の出会いを思い出しながら、お蝶は木立から身を現わす。
「菊様……」
戸惑うお蝶に菊は優しく笑いかける。
「少し腕が落ちましたね、お蝶さん」
「……」
返す言葉が見つからないまま、お蝶は菊の顔を見つめた。
「何かあったのですね。一人で悩まずとも、私にお話しなさい」
「で、でも、菊様……」
切羽詰まったお蝶の目がゆらゆらと揺らいだ。
菊はそんなお蝶の前に静かに歩み寄る。
「あなたの痛みは私の痛み。そうではありませんか……?」
「菊様!」
思わずお蝶はそう叫んで菊の両手を掴んだ。
「わ、若様が……」
みるみる菊の顔から血の気が引いていく。
やっと傍らの松に片手をついて、その崩れ落ちそうな身体を支える。
「菊さま」
かける言葉が見つからずに、お蝶は後ろからその身体に両手を添える。
菊は急にお蝶を振り返って叫んだ。
「い、一体誰が、何故そのようなことを!!」
「き、菊さま、落ち着いて」
お蝶は菊の両肩を抱いた。
「お城まで乗り込んで連れ去った所をみると、若を虜にして何か魂胆があるに違いありません」
菊はお蝶の両手から身を起こすと口を開く。
「してその相手は?」
「どうやら根来の流れをくむ女山賊ということです」
「根来……」
菊の目に鋭い輝きが宿った。
そんな菊の変化にお蝶は言葉をつなぐ。
「でも羅紗様は江戸には伝えるなと」
「羅紗様が? 一体なにゆえそのようなことを……?」
「後を追ったお庭番の手練れが、何人も返り討ちになってるんで……」
菊はお蝶の顔を見た。
「そんなことを恐れて何が出来ます」
もうしっかりと背筋を伸ばした菊に、お蝶は念を押す様に口を開く。
「しかし菊様もあたしも、あれからもう十年経ってるんです。それにこの度は、お通姉さんだっていないんですよ……」
それを聞いた菊の表情には、もう微塵の迷いも無かった。
「お蝶さん……、また手を貸してくれますか?」
色白の細面が桜色に染まり、凛々しい繊月(せんげつ)の眉に切れ長の目が輝く。
お蝶は再び伊織が帰って来たのを感じた。
「あたしにそんなことをお尋ねに……? そんなことより菊さま、路銀だって道具だって、早速段取りしなきゃあ」
“お蝶さん……。”
久し振りに勇ましく唇を結んだお蝶を見つめながら、菊は目頭が熱くなるのを覚えた。
「昔馴染みの話では、若狭の小さな港町に奴らの関わりがある様です。先ずはそこを目指して行くより他に手立てはなさそうで……」
「わかりました。では十分な準備が出来るか分かりませぬが、心当たりにお願いに廻りましょう」
夏の嵐でも近づいているのか、歩き始めた二人の着物の裾を突然の風が翻した。
もう夕闇に包まれた表通りで、軒下の提灯に一人の角兵衛獅子が浮かび上がる。
今日の稼ぎを終えて来たのか、その女は戸口脇の若い衆に艶っぽい目を向けた。
「もう集まってるかい?」
「へえ、もうみなさん奥に。さあ、どうぞ」
三下は思いがけず畏まって女を招き入れる。
玄関を上がって細い廊下を進むと、ふと女はある障子の前で足を止めた。
被った獅子の紐を解いて、中の話し声に聞き耳を立てる。
「もうそろそろいい返事を聞かせておくんなさいよ、奥様……」
「え? し、しかし……」
部屋の中から漏れ聞こえる声に、若い女の片頬が緩む。
“ふふ、女親分はお楽しみか……”
そっと指を掛けた障子に紙一枚の隙間が出来た時、、
「秋ちゃん何やってんの、こっちこっち」
廊下の突き当たりの部屋から、八の字に眉を寄せた春花が顔を出していた。
秋花はにやついた表情で、横の部屋に向けて顎をしゃくって見せる。
「もういいから、早く」
そう春花に急かされると、秋花はわざと足を忍ばせる芝居をしながら仲間の部屋へと向かった。
「お頭と蓬莱は若と一緒に隠れ家に残ってる。明日の荷受けはあたしの指図に従ってもらう。いいね」
鷹の右腕、沙月女は丸く膝を詰めた女たちを見回した。
艶のある黒髪を緋色の細紐が一本にまとめて、頭上三寸も上に勇ましく揺れている。
筋肉質な体つきは野性的な魅力に溢れて、派手な顔立ちはまるで南国女のように妖しい色気を感じさせた。
「ああ、わかってるよ」
春花と秋花が声を揃えて悪戯っぽい笑みを浮べると、飛燕は黙ったまま静かに頷いた。
「丹波が自由になるまではこの港を押えてるお竜親分に荷受けしてもらって、人足小屋に品物を運び込むんだ」
じっと話を聞く三人を改めて見回すと沙月女は続ける。
「今のところ一番の大事は、品物を守ることと、その話がよそに漏れないようにすることだ。もしこの若狭で、人足連中や一家の身内にそんな心配があれば、遠慮はいらない。すぐ始末するんだ」
沙月女は春花の方へ視線を向ける。
「丹波が後ろ盾になればそんな苦労も無くなるんだが、そっちの方はどうなってる?」
沙月女から問われた春花は、したり顔で口を開いた。
「明日の荷受けが済んだら、秋花と二人で丹波に発つよ。久し振りに羅紗姫……、いや羅紗様にお会いするのが楽しみだ。あっははは……」
春花は一同の顔を見回しながら愉快そうに笑った。
若狭の小さい港を取り仕切る天竜一家のお竜は、黙り込んだ咲(さき)の横顔を窺う。
海千山千物ともせぬような不敵な面構えは、さすがに三十前後で先代の親分から屋台を引き継いだ器を物語っていた。
きっちりと黒髪を結い上げて、豊満そうな体つきに粋な召し物を纏っている。
「奥様次第で、あたしはお足なんて惜しくもありませんよ」
「で、でも、あなたのいう事が私にはよく分からなくて……」
年の頃は二十代後半であろうか、浪人の妻咲は戸惑った表情で畳の目を見つめている。
良家の出で自然と品位ある仕草が身についている咲ではあったが、そろそろ主人の浪人生活の疲れがその表情や御髪に漂い始めていた。
お竜の熱い眼差しが、咲のしなやかな身体をゆっくりと舐める。
「ですから旦那様もなかなか士官が叶わず、大変でございましょう?」
「え、ええ……、それはそうなのですが……」
お竜が隣ににじり寄ると、咲は膝をずらしてお竜との間を保とうとする。
しかしそのか細い右手をお竜の両手が掴んだ。
「あ……」
「奥様……、あたしは奥様のことを心からご立派だと思ってますよ。健気に旦那様を支えて、尽くしていらっしゃる。でもね……」
右手をお竜の胸元に引き寄せられて、咲の上体が危うげに揺らいだ。
「何故あたしが奥様に肩入れしているのか、奥様だってお分かりになるでしょう……?」
お竜の熱い吐息がうなじにかかりそうになって、思わず咲は顔を背けた。
「そ、そんなこと……」
「なに黙ってりゃ旦那様には分かりゃしませんよ。あたしが加勢してあげるから、旦那様には美味しい物を食べて頂いて、早く士官していただかなきゃあね……」
「で、でも……、あ……いや……」
悲しいことに少し力の抜けた咲の身体は、訳も無くお竜の腕に抱きすくめられていた。
「こんなに奥様をお慕い申し上げてるのに……。ね、奥様……」
「あ……!」
二人の身体が後ろ向きに畳の上に崩れた。
お竜は畳を背にした咲の身体を左手で抱くと、右手でその帯を緩め始める。
「ああ……、ゆるしてください……」
後れ毛が煙る首筋に顔を埋めると、お竜は熱い吐息で咲に語りかける。
「おんな同士は初めてですか……? だいじょうぶ、旦那様よりうんといい思いをさせてあげますよ、奥様」
緩んだ着物の合わせをお竜の右手が引き開ける。
「ああ、いや!」
強引に合わせから入り込んだお竜の右手が上品な胸の膨らみを掴む。
口を吸おうとするお竜を、咲は必死に顔を背けて拒んだ。
「やめなさい、汚らわしい!」
お竜の顔に淫靡な笑みが浮かぶ。
「ふふ、奥様。その割にはお乳の先が、もう小石のように固くなってますよ……」
「あ、やめなさい……」
「あたしに口を吸われるのは嫌ですか? そのうち自分からあたしの唾を欲しがるように可愛がってあげますよ。さあ……」
絶妙に乳房を揉み立てられて、咲の細い身体がガクガクと波打った。
熱い吐息と共に重ねられたお竜の唇を、咲は唇を閉じて必死に拒む。
お竜の指が弾き立った乳首を揉み上げた時、頤を上げた咲の身体がくねり返った。
着物の裾が乱れて、咲の太腿の肌が白く輝く。
「あんう……」
緩んだ咲の唇の間から、お竜の赤い舌が滑り込んで行くのが見える。
「んんっ………んぐうう……!」
暴れる白い太腿の間にお竜の手が差し込まれると、深く唇を合わせたまま咲は強張ったうめき声を上げた。
※管理人からのお知らせ
『元禄江戸異聞 根来』は、今月から隔週の掲載となります。次回の掲載は、2月19日です。ご了承ください。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2015/02/05 17:38
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「続元禄」からの時系列と、登場人物がよくわからなくなった。
時系列とくればPさんなんだが……。
しかし、登場人物がわからんというのは問題だなあ。要するに読み飛ばしていたということだな、続元禄。
いやいやもちろん、菊ちゃんとお蝶さんは分かるよ。敵役だと春花・秋花のお二人もね。それ以外となるとなあ、初登場のお方もおるんだろうし……。
シャアねえ、続元禄はきちんと読み直すとして、とりあえず「元禄根来編」(勝手に“編”をつけるでない!)については、“主役のお二人さん追っかけコメ”をしばらく続けるしかないか。
ということで菊・蝶はとりあえず丹波行きですな。
※おりょ。隔週連載かあ「根来」。SFマガジンみたいだね。
1回分を2回に分けて掲載すればいいのに。
それとも、八十郎さんも自転車操業ですかあ。
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2. Mikiko- 2015/02/05 20:26
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『元禄』に、なんでシャアが出るのかと思ったら……。
「シャアねえ」ですか。
なんで、シャアがカタカナなんだ?
これだけの登場人物をあやつろうとしたら、じーっくり想を練らなきゃならないでしょうからね。
わたしは、1場面3人が限度ですけど。
4人出すと、頭が混線します。
なお、誰かさんと違って……。
八十郎さんからは、今後2回分のストックをお預かりしてます。
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3. ハーレクイン- 2015/02/05 22:07
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わざとでは御座らん。
入力してから気付いたんですがね、面白いからそのままにしました。
そうか、登場人物が多いのはじーっくり想を練らはったからですか。
それは凄いというか、はた迷惑というか……。
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4. Mikiko- 2015/02/06 07:42
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じーっくり想を練ったから、登場人物が多いのではありません。
登場人物が多いから、じーっくり想を練らなければならないということです。
これは、わたしには出来ない芸当ですね。
わたしの場合、3行先の見通しもなく書いてますから。
2,000回になろうという小説を、想を練って書くなんて不可能です。
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5. ハーレクイン- 2015/02/06 10:04
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書きはじめるときから登場人物もストーリーも決まっていると、こういうことですかい八十の兄貴。
俺らっちにはとーてー出来ねえ芸当でござんすねえ。
>想を練って書くなんて不可能
お、姐さんもご同様ですかい。