2014.10.25(土)
縁石に腰を降ろすと、ガードマンは低い声で話し始めた。
「もう20年ほど前になるか、建設省の依頼でインドネシアに資源開発の調査に行ったことがあるんじゃ」
「建設省……」
目方慶子は小さく呟いた。
「今の国交省やな。現地の山の中を調査するうちに、悪い事にわしマラリアにやられてしもうてな。いかんせん離島の辺鄙な土地柄で、生死をさ迷うほど悪化したわしは、ある祈祷師の治療を受けてやっと一命を取り留めたんじゃ……」
食べかけの弁当に蓋をする男の顔を、慶子はじっと見つめた。
「幸いその時は、九死に一生を得たんじゃが……」
ガードマンは地面を見つめる眼差しを慶子へ向けた。
「回復したわしに、やがて不思議な現象が起こり始めた……」
「不思議な現象……?」
慶子は眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「人の情念とか、それに関係する出来事が、何と言うか……心に浮かぶようになってしもうたんじゃ」
「おじさん……」
男は視線を伏せた。
「わしは、組織の中で、いや社会で生きていくことに堪らない苦痛を覚えた。
そしてその揚句にわしは……、何も責任を負わない、汗をかいて生きていくだけの生活に身を置いていったんや……」
慶子は寂しげな男の姿を黙って見つめた。
ガードマンの横に腰を降ろすと慶子は口を開いた。
「ところでおじさん、専門は……?」
「地質と土木工学や……」
「ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「十日室のことか?」
慶子は男の顔を見た。
「おじさん、知ってたの?」
「ああ、西山さんから暇つぶしに話を聞いたんじゃ」
「そう。室の応急工事が中断したまま、内部で祭事が進行してることも?」
男は傍らの慶子に顔を向ける。
「何か室を包む恨念を感じる。だけど同時に、深い悲しみも感じるんじゃが……」
「西山さんは、応急工事の箇所は十分に養生してあるから、あまり心配いらないって言ってたけど……?」
慶子の言葉に男は頷いた。
「普通ならそう考えるじゃろ。だけど室の構造上、何らかの条件が加われば……」
「何らかの条件……?」
慶子は男の顔を覗き込む。
「中の気圧が大きく変化して石積みの応急部分に負担がかかれば、まったく安全とは言い切れんな」
「と言うと……?」
「天井の排気を塞ぐとか……、それに……」
「それに……?」
ガードマンは黙って空を見上げた。
「午後から明朝にかけて、台風崩れの大きな低気圧がやってくる。大雨になるで」
慶子は西の空をじっと見つめた。
いつの間にか上空を薄い雲が覆い、さらにどす黒い雨雲の塊が西の方から近づきつつあった。
「大雨が降るとどうなる? 室の中の水量が増し、水流も早くなり、水位が上がった排水坑道の空隙率が小さくなる」
「………」
「そんな時、天井の排気口を開閉して室内の気圧を揺さぶられたら……」
「おじさん……」
空を見上げていたガードマンの視線が慶子に向けられた。
「今感じたよ、おねえちゃん。怨念の動きは今夜から明朝だ」
慶子は立ち上がった。
「ありがとう、おじちゃん。どうやらもう、西山さんに話を聞く必要もなさそうだわ」
ガードマンにそう言うと、バイクへと歩き始める。
しかしそんな慶子の背中から、再びガードマンの声がかかった。
「ちょっと待たんか。あんたが受けた知らせは、室の人物と縁がある様に感じるんじゃが……。あんた、あの近くの出身か……?」
「いいえ、全然違うけど」
そう返事をしながら慶子はふと足を止めた。
民の家で見た村史の一節を思い出したのである。
“急な病で行き倒れの行商の夫婦者、九州阿蘇より来たるあり。
役方奥方の献身の看病にて一命をとどむる。
ひと月の療養の後、かの者ども大恩に涙しつつ帰路につく。”
もうとっくに忘れたはずの記憶が、鮮やかに慶子の脳裏に甦る。
それは子供のころ祖母の里を訪れた時に見た、阿蘇の山々の景色であった。
「その時が来たら知らせを忘れるな。何かが、あんたを守ろうとしてるんじゃ」
その声に慶子は振り返る。
「知らせったって、腰が痛いのをどう覚えてりゃいいのよ?」
「そんなこた、わしゃ知らん。自分で考えにゃ」
慶子は両手を腰に当ててガードマンを見おろす。
「ところでおじさんって、一体何者なの?」
ガードマンの顔に微かな笑みが浮かび、再びその手が弁当の蓋を開ける。
「だからその、ただの……酔っぱらいのおじさんじゃ」
「あはは、ありがとう」
慶子は満面の笑みを浮かべると、再び大股でバイクへと歩き始めた。
十日室九日目の午後。
まだ午後4時を廻ったばかりにも拘らず、厚い雲に覆われた山景色はまるで日暮れ時の様に薄暗かった。
室の外には濃い霧が立ち込めて、入り口の扉は木の色を強めて濡れ光っている。
神事への入り口というよりも、それは命を閉じ込める牢獄の扉を思わせた。
やがて音が聞こえるほど大粒の雨が落ち始めた中を、夕食を届けたミニバンが走り去って行った。
「碧ちゃん、お腹空いた……?」
碧は亜希子の胸で小さく首を振った。
「なんだか私、胸がいっぱいで……」
「ええ、私も……」
亜希子は碧の髪に頬を寄せる。
二人は裸で抱き合ったまま、畳の上に身を横たえていた。
亜希子は碧と結ばれた幸せを噛みしめていた。
しかし碧の身体を抱きながら、一方では自分自身が信じられなかった。
ついこの間まで夫と普通の暮らしをしていた自分が、女性との情交に目覚めたばかりか、今は少女との運命的な出会いを感じているのである。
そんな不合理を覚えると共に、亜希子はまだ処女であった碧に対しても大きな疑問を覚えていた。
「ね、寒くない、碧ちゃん?」
亜希子は改めて碧の肩を抱き寄せながら口を開いた。
「ええ、だいじょうぶ。亜希子さんが抱いててくれるから」
堪らなく碧を愛おしく感じながら、亜希子はやはり口にせずにはいられなかった。
「碧ちゃん、以前にも今日みたいなこと……?」
碧は亜希子の胸の膨らみに頬を預けて小さく頷いた。
「ごめんなさい……」
遠くを見る様な眼差しになると、小さな声で話し始める。
「15歳になった去年の今頃から、身体の中から湧き上がってくる何か熱いものを感じ始めたの……」
「熱いもの……?」
碧は再び小さく頷いた。
「恥ずかしいけれど、そんな時私は自分自身を慰めずにはいられなかった」
何故か碧が哀れに感じて、亜希子は優しくその黒髪を撫でた。
「それから不思議なんだけど、そんな熱い思いが込み上げた時一緒にいた友達も、何人か私の思い通りに……」
亜希子はじっと碧の話に耳を傾けた。
「その後は近所のお姉さんや、学校の女の先生、そしてとうとうお義母さんも……」
「お母さんですって!」
思わず亜希子は大きな声を出して碧の顔を覗き込んだ。
「あの人は私の本当のお母さんじゃないのよ。私は村長に養子で貰われて、その上今のお母さんは後妻で私が中学校に入ってからやってきたの」
「そう……」
亜希子は小さく呟いて碧の黒髪を撫でた。
「あの……碧ちゃんの本当のご両親は……?」
「私が小学校の時、交通事故で一緒に死んじゃった……」
亜希子は固く眼を閉じて、碧の細い身体を抱き締めた。
「でも私、亜希子さんに初めて会った時すぐ分かったの。私は今までこの人を待っていたんだって」
亜希子は目を見開いた。
薫から聞いた昔話を思い出して、亜希子は愕然とした。
言い伝えの奥様は、まさに今の亜希子そのものだったのである。
「亜希子さん亜希子さん! ちょっと見て、外は凄い土砂降りよ」
届けられた食事を取りに行った碧の声が聞こえた。
亜希子はその後ろに歩み寄ると、肩越しに扉の穴から外を見る。
外の山々は激しい雨に煙って、薄暗い夕景色の中で大きな黒い影になりつつあった。
そんな寂しい自然を感じながら、亜希子は後ろからそっと碧の身体を抱いた。
「碧ちゃん、これからはずっとあたしが一緒にいてあげる」
碧は亜希子に横顔を見せた。
「本当……?」
「ええ、本当よ」
碧はゆっくりと亜希子を振り返った。
黒目がちな瞳が微かに潤んだ。
「うれしい。 もっと私を愛して……」
亜希子は碧を抱き寄せた。
互いの乳房の膨らみが身体の間で押しひしぎ合う。
「いいわ、愛してあげる。ひとつになりましょう……」
室の外の冷たさに反して、亜希子は自分の身体が熱く燃え上がり始めるのを感じていた。