2014.7.19(土)
民宿の女主人は、四十代前半のふくよかで愛想のいい女性だった。
高校の教師で郷土研究家でもあった父親が亡くなってからは、結婚もしないまま、林業を営んでいた先祖伝来の家を模様替えして民宿を始めたのである。
女主人は12畳の座敷の中央にある囲炉裏ではなく、幅5尺の縁側にある籐の椅子を二人に勧めた。
「まあ、素敵ねえ」
外に目を向けた亜希子が思わず呟いた。
裏山まで10メートルほどとそんなに広くはない庭だったが、山肌から湧き出る水が苔の覆った岩の間を縫ってせせらぎを造っていた。
静かに流れる空気がそっと冷気を運んで来る。
「山の中ですもの、こんなことで喜んでいただかないと仕方がないの」
二人の間の小さなテーブルに麦茶を置きながら、おかみは人好きのする笑みを浮べた。
若い頃は可愛かったであろう、艶やかな黒髪を後ろに纏めて、二重瞼にくるくると輝く瞳は実際の年齢より若く感じられた。
「いいえ、こんな雰囲気が本当に何よりの贅沢です。私、雑誌の取材で東京から来ました、田代亜希子と申します」
「河津 民です。お客様のお友達はいつでも大歓迎よ」
「タミちゃんよ、タミちゃん。あはは、可愛い名前よねえ」
遠慮のない慶子の言葉に、思わず亜希子は民の顔色を窺った。
しかし民は、逆にそんな亜希子を和ませる様に口を開いた。
「お礼を言わなくちゃね。こんなおばさんを可愛いだなんて。あははは……」
亜希子は飾り気のない雰囲気に包まれて、笑顔で二人を交互に見つめた。
取り留めも無く都会の話、山の暮らしの話をするうちに、いつの間にか山の端が薄赤く染まり始めた。
亜希子が腕時計に目を落とすと、もうとっくに夕方の5時を廻っているのだった。
「まあ、もうこんな時間。あたしもう失礼しなくっちゃ」
「なんだ帰っちゃうの。なんだか寂しいなあ、ね、民さん」
慶子は眼鏡を上げながら女主人に顔を向ける。
「ええほんとに。よかったら一緒に夕ご飯食べましょうよ」
「え? で、でも急にそんなこと。ご迷惑だわ……」
有難い二人の好意に対して、亜希子は困惑した表情を浮かべた。
「そんなこと気にしないで。気の毒も何も、お客はこの大きなお嬢さんしかいないんだもの。一人作るも二人作るも同じよ」
「あっははは、という事です亜希子さん。一緒にご飯食べようよ」
亜希子は二人の好意に顔が赤らむのを覚えた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えようかな。夕食をこちらでいただくのを連絡しとかなくっちゃ……」
「じゃあ決まりね。今夜は口が肥えてそうなお客様で腕が鳴るわ」
満面に笑みを浮べて民は立ち上がる。
「あたしじゃ腕は鳴らないのかな? ねえ民さん、まだあの地酒残ってる?」
慶子は勝手場へ向かう民の背中に声をかけた。
「まだ残ってるわよ。亜希子さん、お酒は……?」
「え、ええ、残念ながら………、とっても好きなんです」
二人につられて、つい亜希子もはしゃいだ返事を返した。
「あははは、それはよかった。酔っ払ったらもう泊まってけばいいのよ。ねえ、民さん」
「ええ是非そうして。遠慮するからただとは言わないわ。ほんのお気持ちで大丈夫。もう夕食のキャンセルと一緒に連絡しといたら?」
「ええ……、じゃあお言葉に甘えて、そうさせていただきます」
「よかった。今夜は楽しくなりそうね」
そう言って民は勝手場へと姿を消した。
その背中を見送ると、おもむろに慶子は亜希子を振り返った。
そしてその表情から笑みが消えていく。
「あとで十日室について聞いてみましょうよ。あの人、お父さんの研究には興味が無くて何も知らないと言ってるけど、あたしは何だか引っ掛かるものがあるの」
「へえ、そう………」
亜希子は十日室の風習とは別に、この慶子の出現も何かしら気にかかっていた。
「あなた取材でやってきて、突然介添えを引き受けることになったんでしょう?」
「知ってたの!?」
「ええ」
「あなた一体………?」
不安げな亜希子に向かって、眼鏡の奥の目が笑った。
「うふふ、怖がることないわ。私たちはいいお友達よ。今名刺を渡さなくても、そのうち分かるわ」
不思議と慶子は亜希子の心を和ませた。
「私はあの人の心の中に入って、十日室に隠されたものを聞き出すつもり」
慶子の眼鏡の輝きを見つめながら、亜希子は薫が呟いた“山の奥様”という言葉を思い出していた。
「ふうう………お酒も食事もとっても美味しかったわね、亜希子さん………」
慶子は眼鏡のフレーム越しに、潤んだ眼差しを亜希子に向けた。
「ええ本当……、とても美味しくて、あたし酔っ払っちゃったわ」
そう答えながら、亜希子は民に笑いかけた。
「美味しかった? 喜んでくれてよかった……」
慶子は眼鏡を上げると、言葉を継いだ。
「山女魚や岩魚がこんなに日本酒に合うとは思わなかった。あはは、あたし初めて食べたんだけど」
「初めて? うふふ、それも珍しいわね」
亜希子は悪戯っぽい笑みを浮べて呟いた。
会話が途切れると、山の静寂が三人の女性を包み込む。
「今夜は久し振りに賑やかで、本当に楽しかったわ……」
民もすっかり酔いが廻った様子で、横座りしたふくよかな肢体から思いがけず年季の入った色気を漂わせていた。
慶子は顔を上げた。
「あなたも室に入る前に、こんなご馳走食べてよかったわね。もう準備万端かしら?」
「室に入るって………?」
民の眼差しが光を帯びて亜希子に向けられた。
「亜希子さんはこっちへ取材に来て、急きょ介添えを引き受けることになったんですって」
「まあ、介添えを………」
日本酒のグラスを傾けながら、亜希子は痛いほど民の視線を感じた。
その様子を窺いながら慶子は口を開く。
「県の小山内さんに指導してもらってるのよね」
「ええ………」
亜希子は小さな声で答えた。
「この5年間ほどは県の小山内さんが十日室の行事を取り仕切ってるようだけど、それ以前は民さんのお父さんや、そのあとあなた自身もお世話したことがあるって聞いたけど……?」
「え、ええそうね。だけど小山内さんに引き継いでからは、何もお手伝いしてないのよ」
亜希子は女主人の戸惑いを感じた。
「そう……。それから地元の人から聞いたんだけど、室は地元の豪族が作ったんだって? 聞いた方は、もう痴呆気味のお年寄りだったけどね……」
民は無言のまま外の闇に視線を向けていた。
「この辺りの人は、昔何の為にこんな室を作ったのかしら………?」
山の静寂が再び三人を包んだ。
「作ったのは地元の人じゃないわ……」
「え………?」
その呟きに、亜希子と慶子は顔を上げた。
「地元の人じゃないって、じゃあ誰が?」
慶子は民に問いかける。
「それ以上は私もよく知らないのよ。さあ少し遅くなったわ、もう寝ましょうか」
民は横座りの膝を直すと畳に手を付いて立ち上がる。
「わたし、山の奥さまって聞いたんですけど……」
亜希子はそう呟いた。
「山の奥様………、誰からそれを聞いたの!?」
「え……?」
民の驚いた反応に亜希子は言葉を詰まらせた。
「それって、なんのこと? 民さん」
横から慶子が口を挟んだ。
「え? あたしもよくは知らないの。もう寝ましょうか。さあ、亜希子さん寝室に案内するわ」
民は亜希子の先に立って部屋へと向かおうとする。
「じゃあ民さん、今度二人だけの時教えて、十日室のこと」
後ろから慶子の声がした。
民は亜希子の肩越しに慶子を振り返った。
「二人の時………?」
「ええ、二人だけの時……」
「そうね、機会があったら………。さあ、こちらですよ」
女主人は再び視線を前に戻すと、亜希子を部屋に導き始めた。
亜希子は夢うつつのまま、漆黒の闇に包まれていた。
何故か深い眠りに落ちることが出来ない。
うっすらと瞼を開ける度に、何度も闇と静寂に取り巻かれているのを感じた。
だがやがて、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
片耳を枕に伏せた時、亜希子は微かに何かを聞いた。
それは、人の声のようだった。
話し声ではない、恐らく女性の声だった。
亜希子は確信した。
掛布団を開けて身を起こす。
戸襖を開けて廊下に出ると、亜希子は足音を忍ばせて声のする方へと向かって行った。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2014/07/20 20:09
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改めて考えてみると……。
わたしが民宿に泊まったのは、小学校の中学年ころが最後のようです。
夏休みに、家族と海に行ったときでした。
瀬波だったかな?
お風呂も、普通の家庭のお風呂でした。
大学生くらいの女性グループが、一緒に泊まってました。
彼女たちが丁度お風呂に入ってるとき、脇の廊下を通りかかりました。
湯の流れる音と、華やいだ若い声が聞こえ……。
あぁ、旅の空にいるんだなと、妙に大人びた感想を抱いたのを覚えてます。
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2. ハーレクイン- 2014/07/21 17:22
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小学校の遠足です。
紀伊半島の突端、串本岬ですね。
で、同僚のアホ男が、ソファから立ち上がりざま「西武南海児!」とかなんとか分けわからんことを喚きながら、飛び立ちました。とたんに、ゴンと頭を框に打ち付け、昏倒しました。
アホですねえ。信じられませんねえ。
同僚野郎、半日昏倒していました。
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3. Mikiko- 2014/07/21 19:37
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同僚と云うんですかね。
あんたのことでないの?
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4. ハーレクイン- 2014/07/22 01:03
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書きようがないではないか。
あ、同級生か。
ところで、瀬波ってどこなんだ。
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5. Mikiko- 2014/07/22 07:38
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現在、村上市になってます。
『瀬波温泉』と云う温泉街です。
すぐ近くに、『笹川流れ』があります。
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6. ハーレクイン- 2014/07/22 10:20
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村上市。確認しました。
手持ちの地図にも載っています、瀬波温泉。有名なんですね。
ははあ、笹川流れの近くですか。











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