2013.6.27(木)
隣に彩香の温かみを感じながら幸枝は目を覚ました。
壁掛けの時計はもう朝6時5分前を指している。
まだ寝ていると思っていた彩香の声がした。
「さっきはごめんなさい、お姉さま。彩香ちょっと興奮しちゃって・・。叩いたりして痛かった・・・?」
思わず寝返りを打って、幸枝は彩香の身体を抱きしめた。
「ううん、ちっとも・・。また時々して、さっきみたいに。」
目の前でくるくるとした彩香の瞳が笑った。
二人は起き上がって身繕いを始めた。
「じゃお姉さま、一度会社に帰って、また7時前に係員と一緒に出て来ますから。」
そう言って彩香は会社に帰って行った。
そしてそのまま彩香は姿を消した。
まさかとは思うが、詐欺だったのかもしれない。
もう彩香の会社には前受金として500万程度の支払いもしてあったのである。
幸枝はおろおろと途方に暮れた。
「河野さん、どうしたの? まだスタジオの準備も始まらないみたいだけど。」
幸枝は声の方を振り返った。
そこには同僚の荒川が心配そうに幸枝を見ていた。
幸枝は観念して事の成り行きを荒川に告げた。
「そりゃ困ったなあ・・。今日は役員やタレントさんたちも来るし、がらんとした中でやる訳にもいかないしなあ・・。特注の電光掲示板なんかもあったでしょう?」
「そうなの。私もうどうしたらいいのか・・・。」
幸枝はもうすっかり取り乱していた。
しばらく幸枝の横で考え込んでいた荒川だったが、何か思い付いたように口を開いた。
「河野さん、以前この企画で相見積もりを取ったK社があるでしょ。あそこなら内容も分かってるし、もし今日完全にカバー出来なくても、本番までにはフォローしていけるんじゃないかな・・。」
「え、ええ・・、でも今から大丈夫かしら。」
荒川はデスクの電話を取り上げて連絡を取り始めた。
「ああどうも、紺田社長? 実は・・・。」
幸枝は荒川の声などほとんど耳に入らなかった。
「河野さん、今日はやれる範囲で対応しなければ仕方ないでしょう。K社の方で本番までには対応出来そうですから、それでいかがです?」
「ええ、勿論それで出来れば助かります。荒川さん、ありがとう・・。」
幸枝は手を合さんばかりに礼を言った。
窓の外のきつい夕陽をブラインドが遮り、デスクの村田専務を薄暗く浮かび上がらせていた。
デスクの前まで進もうとする河野幸枝を見ると、村田は自分も席を立ってソファーを勧めた。
村田がソファーに腰を降ろすのを待って、幸枝はおずおずと口を開く。
「今回は大変ご迷惑をかけ、わたし何とお詫び申し上げていいか・・・。」
幸枝は沈痛な面持ちでうつむいた。
「ああ、大変だったみたいだね。」
そう言うと村田は、幸枝が何やら封書を手にしているのを見た。
幸枝が何か口を開こうとする前に村田は言葉を継いだ。
「何だ河野君、君らしくも無い。そんなだらしないことでどうする。」
幸枝は思わず背筋を伸ばして専務を見た。
「よく思い出してみたまえ。こんなことは君の若い頃にもよくあったことじゃないか。ただ、今の君はそれなりに責任のある立場になって、だからそれだけ影響も大きいというだけのことだよ。」
幸枝は村田に言った。
「でも私、今回は会社に大きな損害も出してしまいました・・。」
「河野君、君は今まで君が会社にどれくらいの利益をもたらしてきたかわかるかね・・・? 多分分からんだろう。だが僕は分かっている。」
「専務・・。」
幸枝はやっと顔を上げて村田を見つめた。
「ははは、君は知らんだろうが、君が会社に入って来た時は、今度はえらく可愛い女の子が入って来たと言って、僕らも随分喜んだもんだよ。」
無言で専務を見つめる幸枝の目が微かに潤んでいた。
「さあ、今後の業務対策は大丈夫か? しっかり頑張ってくれよ。」
村田専務はいつものしかつめらしい顔に戻ると言った。
「はい、頑張ります。どうも申し訳ありませんでした。失礼いたします。」
河野幸枝は一礼すると専務室を出て行った。
村田が何故か寂しげな表情でソファーに座っていると、ノックの音の後に紺田が姿を現した。
「君か・・・。僕は今、あんまり人に会いたくない心境なんだがね・・。」
紺田は姿勢を正すと、村田の表情を窺いながら言った。
「は、どうも申し訳ありません。今回は色々とお世話になっておりまして。」
「うん、まあ・・お世話になっているのはこちらの方かもしれないよ。今回は急な対応で大変だろうけど、よろしく頼むよ。」
村田は紺田の緊張した様子を見ると、最後は苦笑いになって言った。
紺田は村田の表情がくだけたので、ホッとしながら答える。
「何とかお役に立てるよう頑張ります。しかし専務、どんな分野にも天才がいるんですね。ノーベル賞を貰う人もいれば、持ち合わせた能力を口に出せない人間もいる・・・。」
村田は壁にかかったゴッホのレプリカを見ながら言った。
「うん・・君の話は相変わらず分かりにくいが、面白い話だ。人に言えない並外れた能力を持った人間も、やはり天才と言えるのかな? 例えば、人殺しの天才とか・・。」
「ええ?! 専務、嚇かさないでくださいよ。私は怖い話は苦手なんですから。」
村田は思わず相好を崩すと言った。
「ははは、君にも苦手があったか。まあ、気を強く持って今後も頑張ってくれたまえ。」
「は、今後ともよろしくお願い致します。」
村田は笑顔のまま頷くと呟いた。
「だが、うちには天才は要らないんだ。それが能力であろうと狂気であろうとね・・。 ただ、地道な生活があるばかりだ。」
窓の外を強く夕陽が照らし始めて、紺田の目には村田の姿は再び薄暗い影になっていった。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/06/27 08:38
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見事に引っかかった幸枝さん。
でもまあ、村田専務も言ってるけど、500万くらいで済んでよかったんじゃないかな。
どっちみち、専務の掌の上の話なんだろうけどね。
割を食ったのは奈緒子さんだよ。可哀想によう。
でも、このお話、どう収拾するんだろうね。
>壁にかかったゴッホのレプリカ
何かなあ。『ひまわり』かなあ『糸杉』かなあ。ひょっとして『アイリス』だったりして(人様へのコメで番宣はよせ!)。
『身体』今日の名台詞。
>天才は要らないんだ。それが能力であろうと狂気であろうとね
で、価値あるものは「地道な生活」ですか、村田専務。地に足をつけた生活。いやあ結構ですなあ。
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2. Mikiko- 2013/06/27 20:13
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経理からひと言。
これは、幸枝さんの会社から見れば、「前渡金」(もしくは「前払金」)となります。
問題は、この500万を、どう経理処理するかですね。
発注した仕事が履行されれば、「外注費」に振り替えられ、経費化されるわけですが……。
それがなされなければ、いつかは「貸倒損失」に計上しなければなりません。
テレビ局くらいの大会社なら、監査法人の監査もあるわけだし……。
こんなことして、村田専務は何の得があるんでしょうね?
バレれば『特別背任罪』ですよ(会社の取締役など会社経営に重要な役割を果たしている者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は株式会社に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、当該株式会社に財産上の損害を加えたときに成立する。【960条、961条】)。
荒川という、幸枝の同僚もグルなわけでしょ?
荒川が悪いヤツなら、村田専務を強請ると思います。
あるいは……。
社長派や常務派に、ネタを売るかですね。
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3. ハーレクイン- 2013/06/27 20:44
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分析できますね。
わたしは「前受金」→「前渡金」しかわからなかった。
さすが経理でメシを食ってるだけある。
それとも、この程度は一般の社会人では常識なんだろうか。
>発注した仕事が履行されれば、「外注費」に振り替えられ、経費化されるわけですが……
仕事をしたのは紺田のおっさんとこなんだろ。ここに払ったことにすればいいじゃん。ていうか、実際に払ってるんじゃないのかね。で、村田専務と紺田社長の癒着がさらに深まる、と。
村田専務の狙いは、精神的ダメージを与え、最近目障りな幸枝さんの動きを牽制する、ということだよ。以前に書いてあったぞ。
それにしても村田専務。
>村田が何故か寂しげな表情でソファーに座っている
>紺田の目には村田の姿は再び薄暗い影になっていった
なあんてのを読むと……ひょっとしてセンム。幸枝さんに惚れてたりして。
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4. Mikiko- 2013/06/28 07:51
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注文請書が経理に回らなきゃ、500万の前渡金なんて出ませんぞ。
後から発注先を差し替えるなんて、無理な話です。
「最近目障りな幸枝さんの動きを牽制」したい気はわかりますが……。
その方法としては、あまりにも危ない橋を渡り過ぎだと思います。
実際、紺田と荒川に弱みを握られてしまったわけです。
専務の地位を狙う人物も、少なくないはず。
いつ、そっちに寝返られるかわかりませんよ。
今は自分の言いなりに働く者が、ずっとそのままじゃないってことは……。
村田もわかってるはずですけどね。
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5. ハーレクイン- 2013/06/28 08:54
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あ、そうなん。
このあたりがなあ、普通の会社組織の人間と、テキトーおきらく予備校業界人間との違いだなあ。
荒川はともかく、紺田社長に対しては、専務はお代官様、シャチョーは出入りの悪徳商人“なにとぞよしなに”だろ。センムが失脚すればシャッチョーもおしまい、一蓮托生、運命共同体だから大丈夫だろ。
>あまりにも危ない橋を渡り過ぎ
だから、村田専務は幸枝さんに惚れてるんだよ。何とか我が物にしたいんだよ。ビアンの世界から引きずり出して、その熟れきったおまんこにちんちんを突っこみたいんだよ。
そのためには少々の危険な橋でも渡ろうと、そういうことじゃないかね。
いやあ、恋は盲目、美しい話ではないか。
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6. Mikiko- 2013/06/28 20:12
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幸枝さんの上司という立場でしょ。
その地位を失ってしまえば、元も子も無いわけです。
そんな危険なことを、しますかね?
わたしが紺田なら、こんな危ないやつにはついていけません。
ムリヤリ片棒を担がされたと言って、反専務派に泣きつきますね。
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7. ハーレクイン- 2013/06/28 22:00
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いやあ、男と女、女と女の仲は、上司とか部下とか、会社での力関係とか、そんなの関係ないんじゃないの。
なんか、村田専務が純情一途ないい若い者、に思えてきました、。幸枝さんにこの思いが伝わればいいんだけど……無理かな。
案外、失脚した村田専務に、幸枝さんがくらっと来たりして。
しかし勝手なことを言ってるけど、全くの勘違いだったりして。八十郎さんにせせら笑われたりして。
次回が待ち遠しいなあ。
ほう。
紺田シャッチョーってそういう人間なのか。ま、納得だけどね。
世間ではこういう人物をコウモリ男といいます。本物のコウモリくんには失礼な話ですね。
しかし、エッチシーンはほとんどないんだけど、今回の『身体』。面白いなあ。
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8. Mikiko- 2013/06/29 07:56
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エッチシーンに至るまでの行程を書いてる時が、一番楽しいんです。
エッチシーンでは、なんだか「書かねば」って感じになってしまいます。
『由美美弥』を書き始めた当初は、エッチシーン自体が書きたくて……。
そこに至るまでの行程は、あくまで物語の体裁を整えるために書いてた感じでした。
変われば変わるものです。
目的地に着くまでが一番楽しいってのは……。
旅行に似てる気がしますね。
だから『東北に行こう!』が、目的地に着かない旅になっちゃうのかな。
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9. ハーレクイン- 2013/06/29 09:03
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エッチシーンが次々と頭に浮かび、それらをつなげるためにストーリーを作る。
こんな風に言うてはったかな。
参考文献:Mikikoのひとりごと『私がエロ小説を書きはじめたわけ』
今回の5周年記念番組、「ひとりごと」に載せる?
>目的地に着くまでが一番楽しい
これはそのとおりですね。
例の、小学生のころ、毎夏行っていた近江の母親の実家。
SLに引かれて東海道線を走る列車の車内。
冷房なんかありません。窓を開け放し、吹きこむ煙や煤などお構いなし、身を乗り出すように眺めた車窓の風景。
「せっつとんだ(摂津富田)」という駅名に、きゃあきゃあ笑いあい……。
楽しかったなあ。
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10. Mikiko- 2013/06/29 13:02
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『ひとりごと』に載せねばならんわね。
遊びに行ける田舎がある人はうらやましい。
わたしらは、住んでるとこ自体が田舎なんで……。
どこにも行くとこが無かったわい。