2013.5.30(木)
会社に戻りオフィスに入る前、奈緒子は洗面所で手を洗った。
絶望的な気持ちを抱きつつ、たとえどんな成り行きにせよ会社には業務連絡を行わなければならない。
ハンカチで手を拭こうとして奈緒子はその動きを止めた。
向かいの休憩室から数人の社員の雑談が聞こえてくる。
「でもそんなこと言っちゃ悪いわよ。あの人はあの人なりに努力してきたんだから。」
「しかし癒着の噂もひどくなっちゃったし、探偵までうろうろし始めたし、そろそろ彼女も潮時なんじゃないの?」
「せっかく人の3倍も給料もらってたのに、今じゃほとんど契約も切られちゃったんだって。」
「もうそんな話やめましょうよ、可哀そうに・・。」
「そうだ、あたし後釜狙っちゃおうかしら。」
「ははは、君じゃ無理なんじゃないの?」
「まあっ、それどういう意味? ひっど~い。」
「あっははは.」
奈緒子は夢中で会社を飛び出していた。
そしてあても無く歩き続け、会社にはもう出社しない旨を電話した。
上司は驚いて遺留しようとしたが、奈緒子の意思が固い事を確認すると意外にあっさりと承諾してくれた。
以後の手続きは電話で行うことになった。
夜の街を水路にかかる橋のたもとまで来ると、奈緒子は溢れ出る涙をハンカチで拭った。
水面に映る照明の光が、涙で余計に輝いて見える。
今まで自分がいかに壊れやすいものの上に立っていたかを思った。
水の流れを呆然と見つめながら、田舎に帰ろうと思った。
岡山の田舎には、年老いてはいるがまだ母が元気で暮らしている。
そう思うと何か心の中が暖かくなるのを覚えた。
しかしその前に、奈緒子にはまだ守らなければならない人がいるのを思い出した。
そう思うと無性に奈緒子は優美に会いたくなった。
優美は食卓の鍋を夫に任せて、リビングの電話口に急いだ。
受話器に向こうの声は奈緒子のものだった。
昼間は余計な心配だったのか元気そうにしている。
「どうしたの、奈緒子さん? こんな時間に。」
「ごめんなさい。今日ちょっといいことがあったもんだから、電話しちゃったの。」
「へえ、なに? なんなの?」
「うふふ、うん。あの・・、今からでも、ちょっと会えない・・?」
「ええ!? 無理よこんな時間から。それに今ちょうど食事しようとしてたところだし・・。」
「ああ、そうよね。こんな時間にごめんなさい。」
「明日じゃだめなの? 今からは無理よ・・。」
「いいの、優美ちゃん。あたしが悪かったの。気にしないで・・。」
奈緒子の声の調子が変わったのを優美は感じた。
最後は何かに耐える様に言葉尻が震えていたのだ。
急に不安になって優美は言った。
「どうしたの? 奈緒子さん、何かあったの?」
「ううん、何でもないの。もう心配しないで。」
「うそ、何かあったんでしょ? いいわ、あたし行くから。今どこ?」
「大丈夫よ、何でもないの。それにもうご飯でしょ? 早くしないと、皆お腹空かせちゃうわよ。」
「そんなこといいから。今どこなの?」
「教えな~い。ほんとに大丈夫。ちょっと我儘言っただけなの。それに今日遅くから出張に行っちゃうのよ。」
「ほんとう? それならいいけど。でも気を付けてね。」
「ええ、ありがとう。優美ちゃんも身体に気を付けて。それじゃね。」
奈緒子の電話はそれで切れた。
まだ不安げな表情で食卓に戻ると、夫と息子はまだ鍋に手を付けずに優美を見つめていた。
それを見た時、優美は食卓に戻り家族と一緒に食事が出来てよかったと思った。
「何かあったの?」
夫は心配そうに聞いた。
「ううん、大丈夫。バザーでお友達になった沢田さんなの。車が故障して困ってたけど、周りの人が助けてくれて大丈夫そうなんだって。」
優美は嘘をついた。
「ああ、バザーで見たあのきれいな人。そりゃ困ったろうなあ。」
夫は奈緒子の為にその表情を曇らせた。
「ねえ、おかあさん。もう食べていい?」
息子の章も優美の顔を心配そうに覗き込みながら言った。
「あら、ごめんなさい。はい食べましょう。ごめんね。」
優美はそう言うと小鉢に鍋のものを取り分けだした。
奈緒子は優美と話をしている間、涙が止まらなかった。
実は今日駅の階段で後ろから声をかけられた時も目頭が熱くなったのである。
でも奈緒子にはまだやらなければならない事が残っていた。
何があっても優美だけは守らなければ。
今度はしっかりと自分のマンションに足を進めながら、優美の優しい声を聞いた今、もう涙は乾きつつあった。
「どうぞ。」
奈緒子は低いテーブルにコーヒーを置くと、彩香と向かい合わせにカーペットに座り込んだ。
相手が何者かそしてその要件が何なのか分からない以上、奈緒子は迂闊に話を切り出せなかったし、また無駄口を利く気もなかった。
矢野彩香はその夜10時ごろ奈緒子のマンションを訪れた。
そして今、リビングのコーヒーテーブルを前にして正座している。
奈緒子はリビングにソファーなど応接セットを置いていなかった。
何となく、座ったり寝転んだりして生活するのが性に合っていたのだ。
「あ、どうも・・。」
彩香は若い人らしく、そして意外と穏やかに会釈をした。
それは奈緒子が想像していた話とはかけ離れて、まるで就職の面接に来た学生を前にしている様な印象を受けた。
彩香はコーヒーに口をつけないまま口を開いた。
「今日は遅くにすみません。実は今日伺ったのは、副島優美さんについてお聞きしたかったからなんです。」
奈緒子は身体が固くなるのを感じた。
それが一番奈緒子が懸念していた事だったからである。
「単刀直入に申し上げますと、私はあなたと河野部長の関係を知っています。この公私を越えた癒着を感づいているのは私だけではないと、もうあなた自身も分かってらっしゃるでしょう。ただ・・・・。」
次の言葉に漠然とした不安を覚えながら、奈緒子は言葉を切った彩香の顔をじっと見つめた。
「副島さんは、この関係をご存知ですか? それから、今回のあなたのお仕事の成り行きを・・・。」
眉にかかる辺りで切り揃えられた前髪の下で、彩香の目が異様に輝きを増した。
それはもう、先ほどの愛くるしい若い女性の眼差しとは違っていた。
しかし奈緒子は平然とその目を見つめ返した。
「あの人は何も知らないわ。あの人と私の間には、そんな余計なものは一切ないの。」
「本当ですか・・?」
彩香はその返事を待って、右手をコーヒーカップに伸ばした。
そしてその猫の様な眼差しを奈緒子から外さないまま、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「本当よ。あの人に関しては、私嘘はつかない。」
彩香の口元が微かに緩んだ。
「そんな人の事だから嘘をつく、という場合の方が多いんですけど・・。」
奈緒子は思わず眉を吊り上げて声を荒げた。
「本当だから本当と言うだけよ! それに何故私があなたにひつこく詮索されなくちゃならないの。」
今の奈緒子は目的次第では詮索されても仕方がない状況ではあった。
しかし彩香はそれには触れず、奈緒子を見る視線を和らげながら言った。
「そうですか、それならいいのですが・・。」
そして彩香は、何故か鼻先で小さく笑った。
「実を言うと私、しばらくしたらもう居なくなります。これが私の仕事なんです。」
「あ、あなた一体・・・。」
奈緒子はその意味が分からずに、彩香の顔を見ながら小さく呟いた。
そんな奈緒子に頓着なく彩香は続ける。
「奈緒子さん、これから先どうされます?」
「どうって・・わたし、田舎に帰るか・・・、いえ、まだ何も分からないわ。」
奈緒子は彩香に対してそんなことまで話す自分が不思議だった。
「ええ!? もったいない、有能な方なのに・・・。」
そんな彩香から、奈緒子は初めて目を伏せた。
彩香は奈緒子の横顔を見ながらゆっくりと口を開いた。
「副島さんとは、またお会いになるつもりですか・・?」
しばらくの沈黙の中で、ガードレールを渡る電車の音が遠くに聞こえた。
「いいえ、彼女とはもう会わないつもり・・・。ええ、その方がいいのよ。」
奈緒子は自分に言い聞かせる様につぶやいた。
彩香も奈緒子の横顔からテーブルの上に視線を落とした。
「そうですか・・・、それはよく分かります。私生意気なようですけど、沢田さんには自分に似たものを感じるんです。前にも言いましたけど、何かおねえさんみたいな・・。」
しかし若干の沈黙の後、彩香は再び奈緒子へ鋭い視線を向けた。
「でも私も立場上、奈緒子さんの言葉の裏付けを取らなくちゃならないんです。」
「どういうこと・・・?」
「私の仕事で奈緒子さんから証明を取りたいんです。」
奈緒子は顔を上げて彩香の顔を見た。
「つまり・・、私の身体から・・?」
「ええ、もし断られたら、私は仕事の範囲を副島さんにまで広げることになります。」
奈緒子を見つめる彩香の目は、何故か訴えかける様な雰囲気を湛えていた。
「そう・・・。いいわよ、じゃああたしの身体に聞けば?」
そういうと奈緒子は立ち上がり、しっかりした手つきで服を脱ぎ始めた。
「どこがいいの? ここでもいい?」
奈緒子は一糸まとわぬ姿になると、カーペットの上に横座りになった。
黙って奈緒子の仕草を見ていた彩香もゆっくりと立ち上がる。
そしてその表情に微かな笑みを浮かべると、奈緒子の顔を見つめながらブラウスのボタンを外し始めたのである。











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