2012.11.1(木)
緞帳がゆっくと降りてくる。
八十さんは舞台の袖からまばらな入りの客席を覗いて、はあっと小さな溜息をついた。
しばらく締まりのない表情を肩の上に乗せていたが、やがてうんっと顔を上げて舞台小屋の奥へと歩いて行く。
控えの間の前まで来ると、八十さんはおもむろにその足を止めた。
ほっぺたを両手で挟んで押し上げる様に動かすと、即席にあまり上品でもない笑顔が出来上がる。
「先生!」
そう元気な声を出しながら勢いよく襖を開ける。
「先生、お蔭様で結構な入りで、私らも張り切ってやらさせて頂きました。」
部屋の中には中年の上品な女性が座っている。
化粧もせず質素な身なりではあったが、八十の方を見てほほ笑んだ風情は、そこはかとなく人の心を和ませる人柄を感じさせた。
「まあ、それは結構なこと・・・。」
「な、なんですけど先生、申し訳ありやせん。あたしが甲斐性が無いばっかしに、先日お話した通り、今回でこの小屋も閉めることになっちまって・・・。
あっしゃあ、何のお礼も出来ぬままが悔しくって・・。どうか最後に差し入れの酒だろうが芝居の着物だろうが、何だって持ってっておくんなさい・・。」
もう五十過ぎくらいだろうか、その女性は優しげな表情を少しも変えることなく口を開いた。
「八十さん、お礼を言いたいのは私の方です。皆さんがこんなに一生懸命に演じて下さって・・・。どうかお酒やお米は、最後に一座の皆さんで召し上がってください。有難うございました。」
その女性はそう言うと、目の前の座卓の上に何やら光っている物を見つめた。
八十さんが何かと覗き込むと、それは一本の銀細工の簪であった。
そして銀色に輝くその簪の中程には、もうずいぶん古びて黒ずんではいたが、小さな蝶の作り物が留めつけられていた。
「こりゃあ蝶の細工・・・。じゃあ今度のお話はひょっとして・・・。」
しばらくの静けさの後、その女性は簪を見つめながら言った。
「先月、病で亡くなりました・・・。亡くなる前でさえ、私のことを伊織様と呼んで、きっと昔のことを思い出していたのでしょう・・・。」
「そ、そいつぁあ・・・。」
八十さんはかける言葉が見つからずに、じっと女性の顔を見つめた。
しかし、やがて思いついたように八十さんは女性に問いかける。
「ら、羅紗姫様はどうしていらっしゃるんで・・・?」
「松浦家のお殿様の母君として、今も丹波で元気にしていらっしゃいますよ。」
「は、母君・・・・?!」
八十さんは要領を得ない呟きを漏らした。
簪から視線を上げた女性は、遠くを見るような目で話し始める。
「いくつもの命が失われた旅の終わりに、一つの新しい命が宿りました。今のお殿様は、江戸の小さな長屋の一室でお生まれになったのです。
取り上げたのは、お蝶さん。あの人は腕の立つ忍びでしたけれども、赤子を取り上げるのもとても上手でしたよ・・・。」
八十さんは言葉も無く女性の話に聞き入ってしまった。
「あの人はえらい人でした。国元までの長旅に耐えられるようになるまで、赤子は一年半ほど江戸の長屋で育てました。
いよいよ赤子が国元へ旅立つ時、一番悲しんで泣いたのもあの人でした・・・。」
伊織、いや菊は、ゆっくりと立ち上がって表に面した窓を開け放った。
上には抜けるように青い空が広がり、その中に風の筆が白い雲を引いている。
「一緒に暮らして三十年余り・・・。長いようで束の間のことのように感じます。あの人を背負って江戸に帰り始めた時も、このようなよい天気でした。」
菊の背中を見つめる八十さんの目が、次第に輝きを増してくる。
「きっと今頃は、久しぶりにお通さんと昔話に花を咲かせていることでしょう・・・。」
「先生!!」
急にびっくりするような大声に、菊は驚いて後ろを振り返った。
いつの間にか正座をした八十さんが満面に笑みを湛えて菊を見つめている。
「先生、また一緒にやりやしょう。おあしなんざ、いや、え~っと、なにどっかに転がってまさあ。」
「あら・・。」
八十さんの突飛な威勢のよさに、菊は思わず目を丸くした。
「小屋なんかなくなったって、これから先きゃあ外の方が涼しくって・・・。そうだ、隅田川の川っぷちなんてのも粋でようがすよ。ちと蚊に食われんのが恨みだが。あっははは・・・。」
「まあ、おっほほほ・・・。」
天下泰平元禄の世に人知れず日陰の花たちは散っていった。
亡き人を忍びつつ菊が昨日のことのように思い出した物語も、もう遥か昔の出来事である。
二人の庶民の笑い声は、人の心の優しさを信じて、舞台小屋の小窓から青空の下へと流れて行った。
完
●次回、もうひとつの最終章
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/11/01 08:03
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『元禄は』伊織ちゃん、菊ちゃんの昔語りを芝居にした、とこういう設定ですな、八十さん。
お蝶さんは先月亡くなったと。
お美代ちゃんはどうしたんだよう、八十さん。
わからんのは、羅紗姫様が江戸で子を生んだ、と。取り上げ婆はお蝶さん。
父親は誰だ、はともかく、羅紗姫様はあのまま丹波へ行ったのでは。何で江戸で子を生むんだ。
で、何ぃ。
●次回、もう一つの最終章、
だってぇ。
な、なんですとー、だわ。
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2. 咲久子- 2012/11/01 11:22
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初めてコメントさせていただきます。
Mikikoさん、お邪魔致します。
八十八十郎劇場、毎週本当に楽しみに読ませていただきました。八十さん、お疲れ様でした。
ハーレクインさん、羅紗姫様の“そこ”には『男のもの』しかついていなかったのだから、羅紗姫様を父とする子を、菊が産んだという事ですよね。
羅紗姫様を父、菊を母とする子供が今、殿様になっている、と。
八十さん、本当に素晴らしいまとめですね。菊の心情を思いながら読み、泣けてきました。
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3. ハーレクイン- 2012/11/01 18:36
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菊ちゃんが羅紗姫様の子を産んだぁああああっ。
言われてみればなるほどーだが、いやあ、全く考えもしなかったよ。
では、伊織、蝶、美代の三人が京から江戸に向かったときには、伊織ちゃんはすでに懐妊していたということだよなあ。
うーむ。
羅紗姫様は“ふたなり”とばかり思い込んでたからなあ。そうか、ちんちんだけでまんこはないのか、羅紗姫様。
そうなれば、丹波の今の殿様が江戸の裏長屋で生まれたのも、お蝶さんが取り上げたのも納得納得だわ。
これは八十郎さんに見事にやられたなあ。
素直に脱帽、じゃなくて兜を脱ぎます。
お見事! ストーリーテラー八十八十郎さん。
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4. ハーレクイン- 2012/11/01 18:39
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>咲久子さん
ご教示、ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。
しかし……きちんと読んでる読者さんというのは違うなあ。
私もきちんと読んでるつもりなんだけどね。
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5. Mikiko- 2012/11/01 19:50
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完結、お疲れさまです。
すばらしい読者が付いてましたね。
わたしも、スゴく嬉しいです。
ドンデンが来た羅紗姫とお菊ちゃんによる……。
見事なドンデン返し、さすがです。
羅紗姫が男になり、お菊ちゃんが女になったのは……。
あの一夜だけなんでしょうか?
それを思うと切ないです。
しかし羅紗姫、絶倫でしたねー。
あれだけ外に撒き散らしながら、ちゃんと中にも子種を残したんですから。
咲久子さん、コメントありがとうございます。
『続元禄江戸異聞』は、来週をもって完全完結いたしますが……。
八十郎さんからは、すでに次作をお寄せいただいております。
今後とも、『八十郎劇場』をよろしくお願いします。
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6. 八十八十郎- 2012/11/02 11:25
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いよいよ今回次回で最終章の掲載をしていただくことになりました。
劇中の一文ではありませんが、一年間、長いようで束の間の事のような気がします。
ハーレクインさん、長い間目を通してコメントを入れてくださり、本当に有難うございました。
もう一つの最終章は、週をまたぐほど特に意味のあるものではないのですが、
読む方の気持ちを楽屋落ちで軽くしていただくのと、私自身がこの物語とお別れする為に添えたような気がします。
咲久子さん、私の拙い作品を読んでいただき、本当に有難うございました。
実はこれ、もう9年ほど前に書いたものなんですが、書き始めてから自然と変化していった物語なんです。
次回もう一つの最終章で少し触れておりますが、私がこうしようと頭をひねった感じじゃなく、読者の方々からの声で結末から作品のテーマまで大きく変わったんじゃないかと思います。
それは、第一章の「お蝶はもういつ命を落としても悔いはなかった。」という一文に対して、勘のいい読者から“お蝶を死なせないでくれ”というご意見をいただいた事から始まりました。
この度読んでいただいた上にそのようなお気持ちをいただき、恐縮すると共に本当に感謝しております。
Mikikoさん、長い間掲載していただき有難うございました。
その間、転載その他お手数をかけたことと思います。
お蔭で感熱紙の上で消えかかっていた文字が、パソコンという家に住まうことが出来ました。
え~と羅紗姫は16、17歳という設定でしたか・・・、相手次第では3回くらいなら大丈夫でしょうね。(笑 羨笑)
皆様、本当にありがとうございました。
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7. ハーレクイン- 2012/11/02 23:10
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えらく気を持たせるでないかい、八十三。あ、いや、八十さん。
>第一章の「お蝶はもういつ命を落としても悔いはなかった。」という一文に対して、勘のいい読者から“お蝶を死なせないでくれ”というご意見をいただいた
そんな一文、あったかなあ、で読み返しましたよ第一章。
これ↓ですね。
>今の伊織との暮らしは初めての人間らしい幸せで、たとえ抜け忍として命を落とすことになろうとも、もうなんら悔いることはなかった。
ふむ。
ま、最終的な感想は、「もう一つの最終章」を読ませていただいてからにしましょう。