2012.9.13(木)
羅紗姫とお蝶は両手で木の小枝を避けながら、下草の生い茂る急な下りを滑り降りた。
ふと顔を上げると、行く手の鬱蒼とした森がまばらに途切れてゆき、その先の崖下には広々とした眺望が広がっているのが見て取れた。
御伽草子の絵本さながら、薄緑色の平野の中に細くうねる線を描いて川が流れている。
箱庭の眺望の中で、水口の宿場は川のうねりの中程にひっそりと寄り添っていた。
「ふう・・、お姫様、ほらあそこ、あそこで伊織様が待ってますよ。」
「はあ、はあ、はい・・、はあ・・。」
赤く火照った顔に右手をかざして、羅紗姫は眼下の一点を見つめた。
お蝶は小首を傾げて森の空気に耳を澄ますと、少し離れた山腹の窪地に分け入って行く。
岩の間から微かに流れ出す清水を見つけて、羅紗姫に声をかけた。
「よく頑張られましたね。走りづめで喉が渇いたでしょう? ちょっと喉を潤して一息入れましょうか。」
姫は清水の滴りを両手で受けると桜色の唇を寄せた。白い喉を波打たせて、こくこくと冷たいものを飲み干していく。
続いてお蝶もふくよかな唇を滴りに寄せて喉を潤した。
焼け付いた喉に冷たいものを感じながらふと見ると、草の上にしゃがみ込んだ羅紗姫は何やらじっと自分の足元を見つめている。
その思いつめた表情に、思わずお蝶は問いかけた。
「お姫様・・足?、足をどうかしましたか・・・?」
姫は我に返って顔を上げると、独り言の様に呟いた。
「この草鞋はお通さんの・・・。今朝私の草鞋の鼻緒が切れたら、お通さんが私のと取り換えましょうって。仲のいい者同士は、こうやって遊ぶんですよって言って・・・。」
草鞋の鼻緒を愛おしげに撫でる羅紗姫は、再び目を潤ませる。
「まあ・・、ねえさんがそんな事を・・・。」
お蝶は自分も胸の中に切ないものが込み上げて来るのを感じた。
そして自分の鼻緒も今朝切れて、それを伊織に告げなかった事を思い出した。
もし伊織の鼻緒が切れていたのなら、自分もお通と同じ事をしたのかもしれないとお蝶は思った。
しかし今はそんな感傷に浸っている時ではない。お蝶は立ち上がると言った。
「さあお姫様、あと一頑張り、参りましょうか。」
「ええっ。」
羅紗姫もお蝶を見上げると、顔を引き締めて窪地から立ち上がった。
その時、何故か鼻緒が木の根に掛かって、立ち上がりざまに羅紗姫の身体が大きく横に揺らいだ。
“ビシュッ!!”
鋭く風を切ったきらめきが、揺らいだ姫の残像を貫いて行った。
驚いてお蝶が振り返ると、重なり合った落ち葉の上に二本の金串が突き立っている。
「姫っ!あたしの後ろにっ!!」
そう叫んで姫を後ろにかばったとたん、新たなきらめきが二人を襲った。
“キンッ!!”
抜いた小刀が金串を弾いてきな臭い音を立てた時、お蝶の身体が小さく揺らめいた。
別の方角から飛んで来たもう一本の金串が、お蝶の左肩を襲ったのである。
「ああっ、お蝶さん!」
細い金串は微かな気配で襲いかかって来る。気丈に右手で金串を抜き去りつつ、お蝶は忙しない視線を周囲に巡らせた。
しかし今回の相手は森の精ででもあるかの如く、洋としてその殺気を気取ることが出来ないのである。
慌ててお蝶は姫の身体を抱く様にして木の幹に隠れた。
急いで懐から細い組紐を取り出すと、羅紗姫の帯にしっかりと結び付ける。
周りの気配を探りながら、もう片方の端を木の幹に結わえ付けた。
「さあ姫、私と一緒に先の方へ飛び出ますよ。そしたら着物の袖でこの紐を掴んで急坂を下りて下さい。なに少し斜めになってますから、時々足をついても大丈夫。落ちても大丈夫なくらい降りたら懐刀で紐を切って。ようござんすか? いきますよっ、それっ!!」
二人は思い切って木の幹から飛び出した。
“ザアーッ!!”
とたんに二人の頭の上から、縄を掴んだ二つの影が舞い降りて来る。
片手に冷たい光を放ちながら、春花がお蝶の頭上に襲いかかった。
「きゃあ~っ!!」
羅紗姫が悲鳴を上げたと同時に、短刀を握った春花の右手首をお蝶が掴む。
お蝶の肩に華奢な身体を絡み付かせて、春花はなおも短刀の切っ先をお蝶の喉に押し込んでいく。
だがお蝶はさすがに春花の力を耐え忍んで叫んだ。
「姫っ! 早く下に降りてっ!!」
だが続いてむささびの様に舞い降りて来た秋花が、春花の加勢に走り寄って行く。
「お蝶さんっ!!」
そう叫んだ羅紗姫は、夢中で身体に巻いた組紐を引いた。木との間で張りつめられた組紐に足が掛かって、秋花の身体がもんどりうって落ち葉の上に転がった。
「こっちはいいからっ、秋花、姫をっ!」
お蝶ともみ合いながら春花が叫ぶ。
「くそっ!、姫っ、早く逃げてっ!!」
お蝶は手を掴んで競り合いながら、春花を引きずる様にして姫を助けに向かおうとする。
それを見た秋花は、動きのとれぬお蝶の頭めがけて一本の金串を放った。
お蝶が一歩下がって金串を交わそうとしたその時、
「ああっ!!」
崖っぷちでもつれ合ったお蝶と春花の足元の土が突然崩れた。
「きゃああ~~っ!」
春花の悲鳴と共に、二人の身体が崖の向こうに消える。
「春花っ!!」
秋花と羅紗姫は崖の縁に飛び付いた。
お蝶と春花は宙を絡まり合いながら、遥か下の川へと落ちていく。
抱き合ったまま川の水に白い泡をたてて、そのまま二人の姿はその中に消えてしまった。
「お蝶さん・・・・、ああ・・・・。」
羅紗姫は呆然と川面を見つめて呟いた。
しばし固く閉じていた目を開いて立ち上がる。
意を決して懐刀を取り出し、秋花の方へ敢然と向き直った。
「はっ・・・?」
だが姫が決死の覚悟で見据えた先には、自失したまま呆然と立ち尽くす秋花の姿があった。
秋花の瞳は焦点を失ったまま、遥か下の川面に向けられている。
「ま、待って・・・。待ちなさいっ!!」
羅紗姫が思わず叫んだ次の瞬間、秋花の華奢な身体が宙に舞った。
息を詰めて見つめる中を、秋花は木の葉の様に揺れながら川へと落ちていった。
「な・・、何ということ・・・。くっ・・、くううう~・・・。」
もう羅紗姫は声も無く、ただひれ伏して体中で泣いた。
どれくらいの時が経ったのだろう。いつの間にか日が陰り、冷たい風が身を撫でていく。
落ち葉が舞いかかる度に小さな渇いた音を立てる。
もう何も考えられなくなった羅紗姫の脳裏に、再びお通やお蝶の顔が浮かんだ。
一緒に定めの橋を渡れなかった人の事を思った。
そして姫は、まだ自分の事を待っている人がいるのを思い出したのである。
生まれて初めて女の心を委ねた人、その人はまだ水口の宿場で私を待っている。
羅紗姫は引きずる様に身を起こした。そして遥か下方の宿場を見つめると、再びおぼつかぬ足取りで歩き始めたのだった。
ほとんど日も暮れかかる頃、羅紗姫は夢うつつのまま街道にさ迷い出ていた。
髪は乱れ、途中で拾った木の枝を頼りに必死で足を進めている。
途中不審の目で見たり、中には親切に声をかけてくれる人もあった。
だが姫は一言、大事もないことを告げて先へと進んで来たのである。
やがて夕闇の向こうに点々と明かりが見え始めた時、おぼろげな姫の視野の中に誰かが自分に向かって走り寄って来る姿が映った。
朦朧とした意識の中で、姫は懐の刀に手をかけた。
だが近づいて来る者の風体が明らかになるにつれ、姫の足が自然と前に動き始めた。
「伊織様・・・、ああ・・、伊織様。」
終いにはもつれる足がもどかしくて、両手が前に差し伸べられる。
「姫っ!」
ついに姫は伊織の胸に抱き留められた。
「伊織様・・・。」
伊織の胸は優しく、温かく、そして柔らかかった。
「姫、よくぞご無事で・・・。」
周りをはばかって、思いを込めた伊織の言葉は姫の耳元で囁かれた。
「う・・くっ・・、伊織様・・・、う、わあああ~。」
とたんに姫の口から号泣が漏れた。
通りかかる者は何事かと振り返り、中には痴話事かとにやついて過ぎる者さえある。
「姫、とにかく宿へ参りましょう。お話はそこで・・・。」
伊織は姫のただならぬ様子に不安を感じながらも、その身を抱きかかえるようにして宿へと向かった。
水口の宿の一室、向かい合った伊織と羅紗姫の周りを重苦しい空気が包んでいる。
“伊織様・・・。”
一通りの話が済んだ後、姫は伊織の悲痛な表情にその悲しみの深さを感じていた。
伊織はもう一言も発することが出来なかった。口を開けば、そのまま泣き崩れてしまうかもしれない。
そして、こんな役目を引き受けた自分の身さえ呪わしく思えてくるのである。
江戸の長屋で自分の喉に刃物を突きつけたお蝶の顔がありありと脳裏に甦ってくる。
“あたしにとって、行けなければ死ぬのも同じこと・・・。”
危険は覚悟していたものの、このように現実のものになろうとは・・・。
名前も素性も明かさず、闇に生きて闇に死ぬ忍びの者、くのいちの二人は去って行った。
“バサバサッ。"
突然夜の静寂を破って、窓の外に何やら羽ばたきの音がした。
伊織は急いで大刀を掴むと、用心深く窓の雨戸を引き開けていく。そこには嘴に白い紙を咥えた一羽のカラスが欄干の上に留まりついていた。
伊織が大刀を抜こうとすると、瞬時にカラスは咥えた紙を落として飛び去った。
「何でしょう?」
不安そうに覗き込む羅紗姫の前で、伊織は紙を開いて目を通す。
“最後の決着をつくるべく、明後日明け方、大津、六角寺山門にて待つ。
もし来ぬ時は、お美代の命と引き換えと承知するべし。”
読み終えた伊織の目は怒りに燃え上っていた。
そして懐に紙をしまうと、傍らで文面を読んだ羅紗姫を見つめた。
羅紗姫はその目を見つめ返すと、静かに頷いて口を開く。
「伊織様、役には立たぬかもしれませぬが、一緒に戦って敗れるのであれば本望です。参りましょう。」
姫の瞳は、伊織が今まで感じなかった様な強い輝きを宿していた。
「姫・・・。」
掛け替えの無い人が犠牲になって繋いだ道、二人はその道を全うすべく、そしてもう一つの命を守るべく意を決したのである。
折しも窓の外は徐々に風の音が強まり、季節外れの嵐の到来を告げ初めていた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/09/13 09:43
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事ここに至って、バタバタ死んでいくのう。
ま、ほんまに死んだのかどうかようわからん、という殺し方やから、例えばお通姐さんやお蝶さんが再登場する、という可能性、無きにしも非ずだが。
それにしても秋花ちゃん。可哀そうに。
おいちゃん、ちょいと泣いてしもうたよ。
水口宿でようやくめぐり逢った伊織ちゃんと羅紗姫。
とりあえずよかったよかっただが、そこに届く白蝋衆からの果たし状。
しかし、忍者に果たし状って、似合わねえ。“油断をついて背後からバッサリ”というのが、正しい!?忍者のやり口だと思うが。
または、「明後日」で油断させておいて、明日の明け方、寝込みを襲う、とかね。
ま、それはともかく、お美代ちゃんを盾に取られては出向かざるを得まい。
残存戦力は、白蝋衆2(美夜叉、水月)、チーム羅紗姫2(伊織、羅紗姫)と互角だが、羅紗姫の細腕と懐剣はほとんど戦力にならぬ。
がんばれ! 伊織ちゃん。
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2. Mikiko- 2012/09/13 19:53
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残された片割れが、半身を失ったようにがっくりしてしまう場合と……。
独立した人格になれたと、イキイキする場合に分かれるようです。
後者のような憎み合う関係の双子では……。
死ぬのを待てずに、片割れを殺してしまうという設定が、小説などではあります。
あと、アリバイのある犯人が、実は双子だったと云う設定は……。
もちろん、大ひんしゅくの反則です。
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3. ハーレクイン- 2012/09/14 00:57
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残された双子の片割れの行動、二通りかあ。
どっちにしても、双子ってのはやはり特殊な関係なんだ。
ジェミニ右嶋は、どっちかなあ。
ま“前者”だろうけど、お気楽シスターズだからなあ。案外残された方は、あっけらかんと生きていくのかも。
しかし、「死ぬのを待てずに、片割れを殺してしまう」というのは凄まじいな。
>アリバイトリックに、双子を使うのは反則
ノックスの十戒の第10、ヴァン・ダインの二十則の第20だな。
先日放映されたTVドラマ『Wの悲劇』で、この双子トリックが堂々と使われていました。しかも「二人が双子だ、ということ自体が周りになかなかわからない」という、まさに掟破りの設定。
この点を含め、随分と雑な出来のドラマでした。
原作は夏樹静子氏。原作もこんなに雑なのかなあ。
このドラマでの双子の関係は、バリバリの“後者”。
もう一つ、『相棒』(またかい!)Season2第20話「二分の一の殺意」。
こちらは、双子の両方が、ともに「犯行時刻には、犯行現場ではない場所(両者とも同じ場所)にいた」と主張する。
つまり、両者とも、アリバイがないという証明ができない代わりに、犯人ではないという証明もできない、という設定なんですね。
どちらかが犯人であるのは間違いない、しかしどちらが犯人かという特定ができない以上、起訴はできない。
双子はドラマのはじめから登場していますし、『W』とは異なり、こちらはさすがの出来です。
ここでの双子の関係は、“前者”と見せかけて実は“後者”、最後の最後のどんでん返しで“前者”という、これも「さすが『相棒』」の設定です。
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4. Mikiko- 2012/09/14 07:54
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それだけのストーリーを盛り込むってのはスゴいよね。
逆にもったいない。
肉付けして、スペシャル版にすればいいのに。
双子は、一人二役なんでしょ?
『Wの悲劇』は見なかった。
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5. ハーレクイン- 2012/09/14 09:50
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吉本多香美サンの一人二役。
二人同時に登場する場面が幾度もあります。いまさらですが、撮影技術の進歩というのは凄いですね。
事件自体は、例によって右京さんの鋭い観察眼と推理力により、「犯行現場ではない場所」にいたのが、妹の留美の方であることが確定され、自動的に、犯行現場で目撃されたのは姉の留奈である、と決まり、留奈が自白したことで事件は解決します。
ところが、その後、どんでん返しが……。
『Wの悲劇』は、見ないほうがいいです。主演の武井咲ちゃんには気の毒ですがね。
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6. Mikiko- 2012/09/14 20:25
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似たような感じの刑事物を、どこかで見たことがあると思ったら……。
古畑任三郎でした。
最終回のスペシャル版。
一人二役の双子役は、松嶋菜々子。
双子であり、共作作家でもあるという設定。
おもろかったなぁ。
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7. ハーレクイン- 2012/09/14 22:49
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>双子役は松嶋菜々子。
大物じゃん。
見たかったなあ。
またやらんかなあ、任三郎の再放映。