2012.8.30(木)
旅籠に用意させた竹皮の飯を背袋にしまうと、伊織とお蝶は土山の旅籠を後にした。
江戸を旅立って以来31日目の早朝である。
「今日私は街道沿いを探してみることにしよう。お蝶、お前は街道裏を探してみてくれ。
目印の傘はこのままにして、私は後で尋ねに引き返して来る。いずれにせよ、夜には石部で落ち合おう。」
「はい、わかりました。」
去って行く背中を見送りながら、今日もお蝶は伊織の無事を祈った。
さて自分も裏道へと歩き始めた時、
「あ・・・。」
お蝶は小さな声を上げてその足を止めた。履いていた草鞋の鼻緒が音も無く切れたからである。
「んっ? お蝶、どうかしたのか・・・?」
少し先を歩いていた伊織は、その声に振り返って尋ねた。
「いえ、何でもありませんよ。じゃあ伊織様、お気をつけて・・。」
何故かお蝶は、鼻緒が切れた事を伊織に告げることが出来なかった。
その頃お通と羅紗姫は、土山から北東にあたる山中を水口方面へと進んでいた。
半時おきに身を潜めて周囲を窺いながら、険しい山中も頂を越えて緩やかに下り始めている。
目の前は森を伐採した跡か、しばらく切り株の点在する草原が広がっていた。
そしてその遥か先には、琵琶湖に向けて山が左右に開けていく様子も目に入ってくる。
「お姫様、しばらく下草ばかりで見通しもようございますが、早めに向こうの森に入ることにいたしましょう。お御足は大丈夫ですか・・?」
「ええ、わたくしなら大丈夫。少し下りになって、だいぶ楽になりました。」
「そうですか。下りになったんで、今日はなんとか石部までたどり着きましょう。川沿いに下って行けば石部に着いて、それからはもう、琵琶湖から京の都も近づいてまいりますよ。」
お通は羅紗姫の気を軽くするため、満面の笑みを湛えて言った。
「はい、では向こうの森まで早足で参ることにいたしましょう。」
言うが早いか、羅紗姫は着いて来いと言わんばかりに歩き出した。
「まあっ、あっははは・・。」
そんな姫の様子を見て、お通は声を上げて笑った。
しかし下草の中をしばらく進んだ時、
「あっ・・・。」
羅紗姫は小さな声を上げて立ち止まった。
「どうなさいました!?」
急いでお通が前に廻ってみると、姫の草鞋の鼻緒がぷっつりと切れているのだった。
「あはは、沢山お歩きになったから、こんな事もありまさあ・・。」
お通は背袋から布切れを出して引き裂くと、身をかがめて姫の鼻緒をすげ替える。
「さあ、これで大丈夫。じゃあ参りましょうか。」
そう言って立ち上がろうとしたお通であったが、ふと何かを思い出したように羅紗姫に告げる。
「お御足はあたしと同じくらいですねえ・・。姫様、あたしの草鞋と取っ替えましょうか。」
「え・・?、どうしてです・・・?」
一瞬お通は顎に手をやって目を彷徨わせたが、すぐに笑顔で姫に答える。
「はは、なんじゃあないけど、仲のいいもん同士は、こうやって草履を取っ替えたりして遊ぶんでさ。草履が変わると、また足が元気になって遊べるなんて言ってね。」
「まあ面白い。では・・・。」
二人は笑いながら互いの草履を取り替える。
「まあ、今度の草履は桃色で、ちょっと色っぽいじゃありませんか。あははは。」
お通は笑いながら眩しげに姫の顔を見上げた。
しかし何故かそのお通の眼差が、そのまま姫の後方に固まり動かなくなったのである。
上空を円を描く様に飛んでいる黒い鳥がお通の目に入った。
お通はにわかにその表情を険しくして言った。
「お姫様っ、身をかがめてっ!」
慌てて身を低めた姫の脇に身を添わせると、注意深く周囲に目を凝らす。
果たして、今来た森の中に数人の人影が見え隠れしていたのだった。
“一人、二人・・・・・四人? ・・・・・・五人・・・。”
扇が要に向こう様に、どうやら五人の追手が二人に迫っているもののようであった。
“もう二人で逃げるのは無理だ・・・。”
お通はじっと羅紗姫の顔を見つめながら口を開いた。
「お姫様、先に走って山を降りてください。大丈夫、さっき言ったように、とにかく川に沿って下って行けば石部に出ます。」
羅紗姫は驚いて叫んだ。
「嫌です、一人で逃げるなんてっ! 私も一緒に戦います!」
「姫っ! あたしの言う事を聞いてくださいっ! あたし一人なら何とか逃げられます。
後できっと追い付いて来ますから、さあっ姫っ、早くっ!!」
お通は語気鋭く姫に訴えると、その背中を押す。
「きっと、きっとですよっ!」
羅紗姫はじっとお通の目を見つめると、背中を押す手に身を翻して走り始める。
「姫っ、あの向こうが琵琶湖ですよっ! 後ろを見ずに走ってっ!!」
お通は姫の背中を見送りながらそう叫んだ。
みるみるその姿が小さくなるのを確かめると、お通は追手の方を振り返る。
“さあ来な白蝋。あたしがここでゆっくりと付き合ってあげるよ・・・。”
心の中でそう呟いた後、お通は立ち上がって下草の中を縦横に走り始めた。
水月、赤蛇尼、春秋花の四人は、上空にカラスが円を描いている下草の中に走り出て行く。
「ん? 何処へ姿を隠した・・・? よし、横並びに進め。」
水月の指示で四人が動き出そうとした時、前方の下草から一面に煙が立ち上ったかと思うと、その手前にゆっくりとお通の姿が現れた。
その後ろでは、白い煙の中から、やがてめらめらと赤い炎も立ち上がってくる。
「ほう、今日は大勢でお出ましだね。楽しみなこった・・・。」
目前に迫った水月以下四人に、お通は大胆にも仁王立ちに立ちはだかった。
そんなお通に、白蝋四人の後ろから低い女の声がかかった。
「お通、久しぶりじゃな・・・。」
白装束に黒い羽織を纏った美夜叉が、ゆっくりと配下の後から姿を現す。
「美夜叉か・・・。昔馴染みに会うのは嬉しいもんだねえ・・・。」
その言葉に反して、二人の目は炎を映して激しく睨みあっている。
「何故今頃・・・、お前ほどのくのいちが、よほどの大金でも絡んでおるのか・・?」
美夜叉のその問いかけに、お通は含み笑いで答える。
「どうせ言っても分からないだろうねえ・・。はは、そうだよう、お察しの通りごっそりとお宝が絡んでるのさ。」
「自ら退路を断って、ばかなことを・・・。どうじゃ、今からでも遅くはない。手を組めばお前ほどの腕じゃ、悪いようにはせぬぞ・・・。」
「折角の申し出だが、あいにく半分・・、いやもうほとんど貰ってるんでねえ。あんただって承知してるだろう? この稼業で途中から反目に廻りゃあ死んだも同じこと・・・。
その話にゃ乗れないね。」
「年を取ったのうお通、いつまでそんな事を・・・。無駄な事だが、では好きにするがよい・・・。」
美夜叉はゆっくり後ずさると四人に目配せをする。
音も無く鞘を滑り出た水月の太刀が赤い炎を映して輝いた。その左右には、仕込杖を抜い
た赤蛇尼と金串を持った春花秋花が、お通を扇状に取り巻く。
お通も後ろ帯に挟んだ小刀を抜き低く身構える。
水月の右つま先が地を蹴ったかと思うと、反りの入った太刀が袈裟がけにお通の身体を襲った。
後ろ飛びに水月の一撃を交わしたお通を、春秋花が放った二本の金串が襲う。
一本を身を反らせて避け、甲高い音を立ててもう一本の金串をお通の小刀が弾き返した。
すかさず赤蛇尼の太刀が襲った時には、お通の身体は背中が焼けるほど炎に追い込まれていた。
背中が焼けるのを我慢してその太刀を小刀で受けると、かろうじて右足で赤蛇尼の身体を蹴り返す。
炎から逃れて前に出た身体に水月の太刀が降り下されようとする直前、お通の左手が目潰しの白い粉を放った。
左手で粉を防いだ水月の脇をすばやく抜けて、そのままお通は森へと走り出す。
「くっ! そうはいかん!」
赤蛇尼は素早く鉤縄を取り出し、もう三間先を走り去るお通に向かって投げる。
まむしの様に宙を飛んだ鉤縄が、無情にもお通の右足首にきつく絡みついた。
危うく姿勢を崩しかけたお通は、そのまま片足で跳び上がり小刀で鉤縄を切る。
辛くも態勢を立て直しながら、お通はそのまま森の藪の中へと走り込んでいった。
水月以下四人がお通を追って森に分け入ると、一本の太い杉の幹に身を隠すお通の姿が
目に入った。
“お通、とうとう使うか・・・、空蝉を。”
背後から様子を見た美夜叉の目が異様に輝きを増した。
扇型に木を取り巻いた水月たちは、徐々にお通との距離を詰めて行く。
その時、
“ドーンンッ!!!”
凄まじい音が大気を揺るがし、お通が隠れた辺りに爆発が起きた。
鬱蒼たる森が白煙に満ちて、幹を削がれた杉の木が周りの枝を折って倒れ込んで来る。
もうお通の手口を予想していた美夜叉たちは、瞬時に身を飛ばしてその危険を避けた。
すばやく身を起した春花が折れた杉の根元へ走り込む。
「また逃げたっ!」
「よし、手分けして探すのじゃ。」
追って近づいた赤蛇尼がそう言って走りだそうとした時、
「待てっ!!」
美夜叉の鋭い声が飛んだ。
振り返った配下を目で制すると、美夜叉はゆっくりと目を閉じ息を静める。
しばし森の中の白煙を押し出す様に、澄んだ空気が流れて行く。
ふと目を開いた美夜叉の視線が、五間ほど先の深い藪に向けられた。
水月はその目線の先を追いながら静かに小柄を抜く。
水月が素早くその藪に向かって小柄を放つと、続けざまに赤蛇尼と春秋花も手裏剣と金串を投げた。
鬱蒼とした藪の中を刃物の輝きが貫いたとたん、その中から幾つかの黒い玉が投げ出された。
「危ないっ! 引けっ!!」
水月の叫びと同時に、白蝋の五人は一斉に身を翻して物陰に隠れる。
“ドーンッ!ドドーンッ!!”
次の瞬間いくつもの爆発が巻き起こった。
なぎ倒された木々が競り合いながら倒れ込んで来る。
「森の外に逃げろっ!!」
白蝋の面々が転がるように外に走り出ると、もうもうと白煙を噴き出しながら森は再び静けさを取り戻していった。
お通が隠れていた場所に戻って秋花が口を開く。
「今度は逃げたね。でも・・・。」
「うむ、手応えはあった・・。」
そう言った水月に赤蛇尼も続ける。
「鉤縄の毒も受けています。もうそう遠くには逃げられないはず。」
その背後からゆっくりと近づいた美夜叉の陰鬱な声が響いた。
「お前たち、あやつの事を甘く見てはいかん。解毒など造作も無くやれる手合いじゃ・・。
今度は散って探し出し、間違いなくとどめを刺すのじゃ。」
水月以下四人は頷きあうと、森の中を四方に散って行った。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/08/30 10:45
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伊織・お蝶は、順調にいけば今夜の泊りは石部宿。
石部から京は一日の道のり。
もう目の前だ。
一方、羅紗姫・お通は水口宿の手前。
こちらも石部宿はすぐ。
順調にいけば石部で落ち合えるはずだが、もちろん順調にはいかぬよなあ。
申し合わせたように草鞋の紐が切れるお蝶と羅紗姫。
“何か不吉な”の定番の設定だがさあ、アクシデントは誰の身に!
白蝋衆の総がかり。何と頭領美夜叉までお出ましとは、気合入ってるなあ。
お通と美夜叉は旧知の仲。
昔の誼で見逃してくれる……わけないわなあ。
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2. Mikiko- 2012/08/30 19:53
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http://blog-imgs-37.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20120216105142ebb.jpg
鼻緒は切れなかったが、本体がバラバラになった。
昔の旅は、まさに“膝栗毛(自分の脚を栗毛馬に例えた言葉)”。
自分の脚だけが乗り物でした。
草鞋はまさに消耗品で……。
ほぼ1日で履きつぶしたようです。
代わりの草鞋は、泊まった旅籠で調達したんでしょうね。
今、草鞋を履いて旅をするのは、ほぼ無理でしょうね。
アスファルトだと、あっという間に擦り切れちゃうだろうから。
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3. ハーレクイン- 2012/08/30 22:01
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そういや、こんなのあったな。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」
以前NHKが放映した、歴史秘話ヒストリア「東海道中膝栗毛・魅惑の旅テク」
録画しといたやつをやっと見ました。
「へええ~え」という話がたくさんあった。
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4. Mikiko- 2012/08/31 07:43
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弥次喜多が、実はホモ達だったって件ですね。
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5. ハーレクイン- 2012/08/31 09:31
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いきなり、へええええ~、だよねえ。
弥次さんは落ちぶれた放蕩若旦那。年は40代。
喜多さんは目の出ない三文役者。20代。
で、愛し合った二人は、手に手を取って江戸へ駆け落ち、と。
色々驚かされたけど、この一件がぶっちぎりの“ビックリ”だわなあ。
なんでこんな設定にしたんだろね、一九センセ。
ま、昔は別に珍しくもなかったんだろうけど。