2012.5.31(木)
二川の山中での死闘から二日間、お通はその道中に不気味な静けさを感じていた。
江戸を発って以来二十二日目にして、いよいよ伊織たち一行は尾張の地に足を踏み入れ、この日の夕方には岡崎に宿を求める事になるのである。
“何か静かすぎる・・・。宿への闇討ちは無いと思うが、いよいよ明日あたり潮が満ちるか・・?”
数々の修羅場をくぐったお通は、糸が切れる時をそう肌で感じていた。
伊織は刺客の襲撃に対して常に気を配りながら、羅紗姫の気持ちを和らげようと口を開いた。
「ほら姫、もうあの山の向こうが琵琶湖でございます。そしてその先に京の都も迫って参りました。ご覧になる景色でも旅の先行きが推し量れるようになって参りましたね。」
午後の日差しで額に汗を浮かべた羅紗姫は、その言葉に初々しい顔を輝かせた。
「まあ、そうですか・・。でも伊織様、私、自分でも信じられませぬ。
書物でしか読んだことのないこの様な遠い所まで自分の足で歩んで参ったなど、きっと私一人では到底為し得なかったこと・・・。」
そう言うと羅紗姫は、傍らの伊織の横顔を眩しげに見つめた。
「な、何、それは姫君ご自身のお力に因るもの・・。初めのご苦労を乗り越えられ、今ではほら、私の足の運びと何ら変わるところもございませぬ。」
そんな控えめな言葉を聞きながら、もう年頃を迎えた羅紗姫は、身をもって守ってくれる人に自分の心が甘えかかるのを感じた。
「有難うございます。でも私・・、もう伊織様に足のご苦労をお掛けしなくなったのは、うふふっ・・・少々寂しゅうございます」
世の十六の娘と同じ様に、姫は身を弾ませて笑った。
「ははは、姫。」
笑顔を交し合う二人はしばし身の危険も忘れて、うららかな農村風景の中を岡崎へと足を進めるのだった。
江戸を発って以来二十二日目の夜、伊織たち一行は岡崎の大通りに面した旅籠に旅の荷を解いた。
その一室で伊織と姫、お蝶の三人は、仲居達が甲斐甲斐しく夕餉の準備をするのを眺めている。
夕餉の膳を前にした羅紗姫が、思わず少女の様な歓声を上げた。
「まあっ、今宵は何とお御馳走ですこと!」
膳の上には大きな尾頭付きを始めとして、何と沢山の料理が並んでいたからである。
「お、おい、お蝶・・。今宵はこの様なものを頼んだのか?」
伊織は目を丸くしてお蝶に尋ねた。
「あはは、ええ、今夜はたらふく美味しいものをいただきましょう。」
お蝶は満面の笑みで伊織に答えた後、そのままじっと伊織の目を見つめた。
見つめ返す伊織の眼差しが、ふと透き通る様に変化する。
“そうか、いよいよ・・。”
一瞬その場に張りつめた静けさが流れる。
とその緊張の中、すっと廊下への引き戸が開いた。
はっと三人が振り返ったところに、何事かと逆に見返すお通が立っていた。
見ればその手に酒瓶と三味を抱えている。
あっけにとられた三人の顔を見ると、お通は笑いながら口を開いた。
「あらあ? 何だか辛気臭いわねえ~。今日はあたしがいい物仕入れて来ましたよ。
お姫様、お酒は・・・?」
「いいえ、私まだお酒など・・。」
目を丸くした羅紗姫の次に、お通は伊織にも問いかける。
「あはは、そりゃそうだわねえ。じゃ、伊織様は・・?」
「いや、生憎私も・・・。」
「ね、ねえさん、まだお二人ともお酒なんて飲んでるはずが・・。」
眉を寄せて咎めるお蝶をよそに、お通は苦笑いで口を開く。
「あっははは、なんです? 寂しいじゃありませんか。
今しかめっ面で、“ねえさん”なんて言ってますけどね、こう見えてお蝶はちょっといける口なんですよ。伊織様の前で猫かぶってるだけ。
よろしゅうございます。今夜はちいと、あたしが伝授いたしましょう。さあ、さあ!」
「うふふ、もう、ねえさんったら・・。」
賑やかに廻り始めた盃に、お蝶は苦笑いでお通を見つめた。
お通のお蔭で、盃が廻るにつれ大きな笑い声が上がる。
「あっははは、何です伊織様、そのお顔は。」
「ふうう・・私は、武士は飲んでも飲まれはせぬ、と教わったのだが・・。」
お蝶は堪らず吹き出すと言った。
「あっははは、そりゃもう立派に飲まれてますよ。色白が赤くなって、いい男がちょっと色っぽいけど。うふふ・・・。」
お通は隣の姫に御酌をしながら口を開く。
「そこいくと、お姫様は筋がいいねえ。少し桜色になったら、あとはいくらでも・・。
ようし、じゃあこうなったら、あたしの唄でもご披露しましょうかね。」
「ええ? こうなったらって、ねえさん、・・・唄?」
「なんだい、唄だよ・・。あんたは知らないだろうけど、あたしゃお役目で吉原の花魁だってやったことあんだから。」
「ね、ねえさんが、花魁? あっはははは。」
「なんだい、大口開けて笑って。馬鹿にすんじゃないよ、こう見えても若い頃はお蝶なんて目じゃない。あたし目当てで通い詰めて来る客だってあったんだから。」
「へえ~、通い詰めて・・。その・・・まともな客・・?」
「普通だよ!! 何であたしんとこへ来る客は変なんだい。」
堪らず伊織が吹き出すと、今度はお蝶の返事を待たずにお通は続ける。
「ま、まあちょっと花魁は不出来だったけどさ・・・。あっちの方が良かったからね。」
「え? どちらの方でございます・・?」
「え? あっちの方って言ったら、その、あはは、そっちの方でさあ・・。」
姫とお通の遣り取りに、今度はお蝶と伊織が噴き出した。
「ええい、もう面倒だ。いくよ! お蝶と姫様は合いの手だ! それっ!」
戸惑うお蝶と姫には構わず、お通は賑やかなお囃子を三味線で弾きだす。
それを聴いたお蝶はぽんと手を打ち、羅紗姫に笑みで合図する。
並木駒形 花川戸
山谷堀からちょいとあがり
長い土手をば通わんせ
花魁がお待ちかね
お客だよ お客だよ
(あいあい~ あいあい~)
花の吉原 仲の町
太鼓まっしゃ(※)でおとりまき
浮いた浮いたであがりゃんせ
お二階でお手がなる
お酒だよ お酒だよ
(あいあい~ あいあい~)
旅籠の部屋に笑い声が満ち溢れ、明日からの運命も忘れた一夜が更けていった。
「あっははは、何です伊織様、茹蛸みたいになっちまって。さあ、もう一杯いきましょう。」
「もうだめっ伊織様。んもう、ねえさんもいい加減にしてよ。」
お蝶に睨まれたお通はすねた顔付で答える。
「なんだい、面白くない女だねえ・・・。でもまあ明日に障ってもいけませんから、伊織様はお風呂にでも入って、酔いを醒ましてからお休みになったら如何です?」
「ふう・・・、では遠慮なく・・。」
伊織は口をとがらせて大きな息を吐きながら、手拭い片手に立ち上がった。
「あたしはまだお姫様とじっくりやるから、ここは大丈夫。あんたはちょっと外を見回ってきな。」
お通はそう言った後、お蝶に向けてちらりと片目をつぶって見せた。
「え?、あ、ええ、ねえさん、分かりました。」
酒に強いはずのお蝶は、みるみるその顔を赤らめて部屋を出て行った。
伊織は風呂の洗い場に腰を下したまま、まだふうふうと熱い息を吐いていた。
顔ばかりか、そのしなやかな全身の肌が桜色に染まっている。
「伊織様・・?」
湯気の向こうから聞こえる声に、伊織は驚いて顔を上げた。
「お蝶・・。」
お蝶は急いで伊織の傍へ来ると、片手でその背中を支えながら口を開く。
「伊織様、大丈夫・・? 姉さんも悪気じゃないんだけど、ごめんなさい・・。」
「いやお蝶、悪気どころか、今宵はあの方の優しさが身に染みた・・。」
伊織の言葉に、お蝶は笑みを浮かべて小さく頷いた。
「だけど随分飲まされちゃって、気分が悪くありません・・?」
再び心配そうな表情に戻ると、お蝶は伊織の肩を抱く様にしてその顔を覗き込んだ。
潤んだ目でその顔を見つめ返した伊織は、突然お蝶の身体をしっかりと掻き抱いた。
「ああっ、伊織様、着物が濡れ・・・。」
そこまで呟いたお蝶は、もう黙って伊織の肩に頬を乗せた。
「うふふ、もう、悪いお酒ね・・。じゃあ、あたしも脱ぎますから、ちょっと待ってくださいます・・?」
やさしく伊織の手を解きながらお蝶は身を起こす。
「お蝶さん・・・。」
「え・・?」
その可愛い女の声にお蝶が聞き返すと、伊織は睫毛を伏せて呟いた。
「お蝶さんが来るまで、このまま待つのは恥ずかしい・・・。」
「馬鹿ね・・・、すぐですよ。」
出来る事ならお蝶は、このまま二人で何処かへ消えてしまいたかった。
しかし一途な伊織の心中を察すれば、今のお蝶には、京の都を越えた先に二人の幸せがあることを信じるしかなかった。
「はあっ!伊織様・・好きっ・・ああ好き・・。」
「ああ・・お蝶さん・・・。」
その風呂場での情交は、激情に駆られた様に激しかった。
洗い場に倒れ込んで二人の裸身が抱き合い、絡んだ足の太腿で互いの泣き濡れたものを擦り合っている。
伊織のお椀を伏せた様な胸の膨らみに、上からお蝶の豊かな乳房が揉み合わされていた。
「うふふ、お酒臭い伊織様は初めて・・。あはあ・・・、あたしがお酒を抜いてあげる。」
お蝶は激しく伊織の唇を奪った。
とたんに互いの舌が求め合って激しく絡み合う。
愛しい人と肌を触れ合うだけで、互いに涙が出そうな切なさが胸に込み上げて来るのだった。
お蝶は伊織の右手を掴むと、はしたなく自分のものに誘った。
「伊織様、あたしを殺して・・。ねえ、あなたの手で、お願い・・・。」
その言葉は、初めての幸せに然るべくほとばしったお蝶の思いだった。
「ああ、お蝶さん・・。」
伊織はその言葉に身を震わせた。
夢中で二人の身を転ばすと、上からお蝶の身体を抱き締める。
洗い場の上でお蝶の長い黒髪が乱れて濡れ光った。
伊織は見上げるお蝶の眼差しに誘われるように、そのふくよかな唇に己が唇を重ねる。
そしてその右手の指を、もうしとどに濡れそぼったお蝶の女に埋めていったのである。
(※)まっしゃ:幇間。たいこもち。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/05/31 09:33
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は、西部劇でも常套句。
もちろん、物陰にクリーブランド・インディアンズが潜んでいて、次の瞬間襲い掛かってくる、という設定なのだが。
『元禄』の場合は白蝋衆。
いつ襲ってくるのか、どこで襲ってくるのか、誰が襲ってくるのか(白蝋衆に決まっとる)、何を、どのように……なぜ!?
5W1Hかい!
>伊織「あの山の向こうが琵琶湖でございます……」
伊織ちゃん。それはちょっと気が早いと思うぞ。
まだ「七里の渡し」があるし、鈴鹿、甲賀の山越えがあるし。
御油断めさるな、各々方。
と言ってる尻から酒盛りかい!
唄は二上り三下がり
緊張感が全くないなあ、チーム羅紗姫。
そんなことでは、アジア予選すら突破できんぞ(なあんのこっちゃ)。
大丈夫か、との読者の心配をよそに、はじめちゃったよ伊織とお蝶。
も、すきにしろ。
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2. Mikiko- 2012/05/31 20:13
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西部劇に転用できることは、『七人の侍』→『荒野の七人』などでも証明済みですね。
岡崎は、一般的に知られてる地名でしょうね。
愛知県にあることは、わたしでも知ってましたから。
調べてみると、大都市でした。
人口、37万人。
豊田市(42万人)、豊川市(18万人)、安城市(18万人)、西尾市(17万人)など、大きな自治体と隣り合ってます。
合併すれば、楽勝で政令指定都市になれるのにね。
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3. ハーレクイン- 2012/05/31 21:09
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何かで読んだんですが、愛知県の、名古屋市の周辺都市に居住する人は、名古屋市に意味不明のコンプレックスを持っているとか。
はっきりいいますと「名古屋でないのが恥ずかしい」と思っているとか。
それら周辺都市の人と県外の人との会話。
県外「どちらにお住まいですか?」
周辺「あ、え、名古屋……ごにょごにょ」
県外「あ、名古屋ですか」
周辺「あ、え、あの……」
県外「は?」
周辺「名古屋の……(すこし小声)近くの……
(つぶやき声)岡崎……(消え入るような声)です」
そういう事らしいです。
ですからこれら周辺都市が合併するについては、いろんな意味で複雑な感情があるでしょうね。単に大きくなればいい、というものではない。
いろんな意味で名古屋市(人口227万人)を凌駕し、自らのプライドを満足させられるか、なんですが。
難しいだろうなあ。
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4. Mikiko- 2012/06/01 07:58
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それは、意外ですね。
中京圏だけの感情なんでしょうかね。
ほかの地域の人が、名古屋に持ってるイメージは……。
ちょっと違いますよね。
“えびふりゃー”的な、コミカルな親しみはあるにしても……。
決して、憧れるようなイメージじゃないはず。
そう言えば、思い出した。
フィギュアスケート選手には、名古屋出身が多いそうです。
伊藤みどりを始めとして……。
現在の選手では、浅田真央、安藤美姫、鈴木明子、中野友加里、みんな名古屋だそうです。
聞くところによると……。
フィギュアってのは、ものすごくお金がかかるんだそうです。
つまり名古屋には……。
子供にそれだけのお金をかけられる親が、たくさんいるってこと。
そういうとこが、周辺市町村の感情に現れてるのかも?
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5. ハーレクイン- 2012/06/01 11:21
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天むす、味噌カツ、ひつまぶし。味噌煮込みうどんもあるでよ。
>ほかの地域の人が、名古屋に持ってるイメージは……
決して、憧れるようなイメージじゃない
そのとおりですね。なんか、大まかというか雑駁というか……。
ま、ただのイメージなんですけどね。住んだことないし。
だから周辺都市の名古屋への曰く言い難い感情は、ただの思い込みなんでしょうけどね。
母方の叔父が名古屋近郊の小牧市在住なんです。今度会ったら聞いてみるかな。なんか聞きづらいなあ。
その反動でもないんでしょうが、名古屋人の自負心には強烈なものがあるそうです。
なんせ「日本の首都は名古屋」と言い切るらしいですから。
伊藤みどり、浅田真央、安藤美姫、鈴木明子、中野友加里。
えーっ。この人たちが全員名古屋あ。
はー、そら凄い。
少なくとも女子フィギュア界では「名古屋が首都」だな。
イナバウアーの荒川静香さんは……東京だった。











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