2010.5.3(月)
これは、398回から399回まで投稿したコメント「染井村の話(Ⅰ~Ⅱ)」を1本にまとめ、「Mikiko's Garden」に再録したものです。
山手線の駒込駅のホームからは……。
見事に刈り込まれたツツジの植え込みが見られます。
内周り(巣鴨方面)のツツジは、明治44年(1911年)、駒込駅の開業を記念して植えられたそうです。
外回り(田端方面)は、大正13年(1924年)、駅東口の開設を記念して植えられたとか。
いずれも、近隣有志が寄贈したものだそうです。
さて、その有志とはなんぞや?
ということですが……。
植木屋さんです。
駒込駅の西方の住居表示は、「駒込」ですが……。
その真ん中を貫き、染井霊園へと続く通りは、「染井通り」といいます。
そう。
ここは、日本を代表する桜、ソメイヨシノの古里なんです。
江戸末期、染井にあった植木屋さんの圃場で、ソメイヨシノは生まれました。
そのいきさつについては、「ソメイヨシノのお話」で書きましたので、ご興味があればどうぞ。
さて。
この染井あたりは、江戸時代の始めごろから、植木屋さんの集積地だったんですね。
では、なぜ植木屋さんのコロニーのようなものが、ここにできたのでしょう?
その謎を解き明かすためには……。
江戸開府のころに遡らなければなりません。
初代将軍・家康、2代・秀忠、3代・家光。
この3人に共通していたのは……。
熱狂的な花好きということでした。
「花癖(かへき)」と云ったそうです。
諸大名たちは……。
将軍家に、珍花奇木を献上しようと、競って園芸に熱中しました。
また、秀忠と家光は、諸大名の屋敷を頻繁に訪問したそうです。
まぁこれは、政治的な意図があってのことでしょうけど。
そのため、諸大名の屋敷では……。
花好きの将軍を迎えるため、豪華な庭が造営されることになったんです。
ここで、例によって脱線。
みなさんのお宅のお庭は……。
南向きですか?
それとも、北向き?
もちろん、西向きや東向きというお宅もあるでしょうが……。
南か北かに分ければ、圧倒的に南向きが多いでしょう。
庭は南向きってのは、常識みたいなものですよね。
でも、ここではっきり言いますが……。
お庭が南向きのお宅は……。
お屋敷じゃありませんねー。
当たり前ですよね。
北向きに庭なんか作ったら……。
お庭がみんな、家の陰になっちゃいますから。
でも、昔のお屋敷は違います。
土地が広いので……。
建物の陰になる部分の向こうに、庭があります。
それじゃ、庭が遠すぎるだろうって?
いえいえ。
お屋敷の建物は、平屋建てです。
土地が広いので、2階をあげる必要など無いからです。
なので、平屋の陰にさえならなければいいんですから……。
庭の始まりは、そんなに遠くないわけ。
それじゃ、なんでわざわざ北向きに庭を造るのかですが……。
まず、南向きの庭を、座敷から見る場面を想像してください。
お陽さまは、どっちから当たってるでしょうか?
そう、お庭の向こう側からですよね。
つまり、座敷から見ると、逆光になるんです。
日の光は、樹木や庭石の向こう側に当たります。
座敷から見える側には、影が出来る。
早い話、裏側なんです。
つまり、南向きの庭を座敷から見るということは、庭を裏側から見るようなもんなんです。
樹木は南を向いて伸びますから、いっそうそうなりますよね。
というわけで、昔のお屋敷は、北側に庭があったわけね。
庭というのは、座敷から見るものだったからです。
北向きの庭では、木々や石には……。
屋敷の屋根を越えて降り注ぐ日の光が、燦々と当たり……。
影が出来ません。
木の枝も、こっちに向かって伸びて来ます。
つまり、庭を表側から見るために……。
庭を北向きに造ったというわけです。
さて、脱線を戻しましょう。
諸大名が……。
花好きの将軍を屋敷に招くために、豪華な庭園を造営したというとこから。
そういう大きな庭園を維持するためには……。
本来、広大なバックヤードが必要なんです。
バックヤードとは……。
庭園の植物が枯れたり弱ったりした場合に備え、補植用の樹木を準備しておくエリアであり……。
季節に合わせて庭園を模様替えしたりする場合に、次の季節に植える植物を育成しておくエリアでもあります。
つまり、バックヤードで、交代要員がウォーミングアップをしてるわけ。
で、先発選手に疲れが見えたら、すぐさま交代するわけです。
バックヤードがあるからこそ……。
表の庭を、常に美しい状態で維持することができるのです。
欧米などの庭では……。
見せるためのエリアとは別に、広いバックヤードが確保されてます。
しかるに……。
日本の大名屋敷には、バックヤードが無かったんですね。
庭全部が、見せるためのエリアだったんです。
そういう庭が……。
水戸藩上屋敷(今の「小石川後楽園」)クラスで数百……。
もっと小さなものまで含めると、数千はあったそうです。
バックヤードを持たない表の庭が、それだけあった。
では、バックヤードはどこにあったかと云うと……。
それは、出入りの植木職人の圃場でした。
と言っても、この植木職人たち……。
昔から植木職人だったわけじゃありません。
江戸開府前は、植木職人の需要なんてありませんからね。
普通の農民でした。
それが、江戸に幕府が開かれると、事情は一変します。
江戸近郊の農民が、土木作業や、庭園の植裁作業に刈り出されることになったのです。
そうした農民の中から……。
園芸の技術を習得し、やがて専業の植木職人になるものが出てきました。
農作物を作っていた畑は……。
お屋敷に納める植物を育てる、圃場に変わったわけです。
肥料の入った柔らかい畑なら、樹木も、めきめきと育ったでしょうね。
さらに、染井なら土地柄もいいですし。
台地の縁にあたるので、水はけも日当たりも良好だったでしょうから。
さて、そんなふうにして、江戸周辺の農村地帯には……。
次第に、農民から変じた植木職人の集積地が出来ていきました。
染井のほかにも……。
下谷池之端、湯島、落合などが、そういった園芸団地のようになっていったそうです。
それではなぜ、植木職人は、バラバラに点在せずに……。
一カ所に集積する形を取っていったのか、ということですが……。
以下は、わたしの想像ですので、真に受けないでください。
職人同士、互いに植物を融通し合うためじゃないでしょうか。
一人の植木屋の圃場に、あらゆる植物が揃ってたわけじゃないと思うんです。
植木職人それぞれ、得意な植物があった。
専門分野があったわけですね。
キリシマツツジなら誰、カエデなら誰っていうふうに……。
で、専門外の植物が必要になると、それを専門とする職人から仕入れたわけです。
当然、そういう仲間は近くにあった方が便利ですから……。
植木屋が集まるようになって行ったんじゃないでしょうか?
ま、わたしの想像ですので、話半分に聞いてください。
こんなふうに、植木屋ばかりが集まってるような地域があるのは……。
世界的に見ても、江戸だけだったようです。
日本に来た外国人が驚いてる様子が、文献に残ってます。
植物学者でありプラントハンターでもあったロバート・フォーチェン(英国)は……。
万延元年(1860年)に来日し、染井も訪ねてます。
そこで見た風景を、フォーチェンは次のように記してます。
「樹木や庭園、綺麗に刈り込んだ生垣が続いている公園のような景色の中に来たとき、染井村に着いたと随行の役人が告げた。村全体が苗木園で埋め尽くされ、それに沿って一直線の道が、1マイル(1.6㎞)以上も続いている。これほど大規模に、売るための植物を栽培している場所は、世界中のどこに行っても見られないだろう。それぞれの植木屋は、3,4エーカー(4,000~5,000坪)の敷地を持ち、鉢植えや露地植えの植物がよく管理されている」
つまり、染井のような園芸団地ってのは……。
江戸中の庭園を賄う、広大なバックヤードだったわけです。
タイムマシンに乗れたら……。
江戸時代の染井村には、ぜひ行ってみたいです。
余談ですが……。
江戸時代にタイムスリップするという小説で……。
大変面白いシリーズ物があります。
石川英輔さんの「大江戸神仙伝」シリーズ。
講談社文庫から何冊も出てますので……。
ぜひ一度、読んでみてください。
面白さは、請け合います。
山手線の駒込駅のホームからは……。
見事に刈り込まれたツツジの植え込みが見られます。
内周り(巣鴨方面)のツツジは、明治44年(1911年)、駒込駅の開業を記念して植えられたそうです。
外回り(田端方面)は、大正13年(1924年)、駅東口の開設を記念して植えられたとか。
いずれも、近隣有志が寄贈したものだそうです。
さて、その有志とはなんぞや?
ということですが……。
植木屋さんです。
駒込駅の西方の住居表示は、「駒込」ですが……。
その真ん中を貫き、染井霊園へと続く通りは、「染井通り」といいます。
そう。
ここは、日本を代表する桜、ソメイヨシノの古里なんです。
江戸末期、染井にあった植木屋さんの圃場で、ソメイヨシノは生まれました。
そのいきさつについては、「ソメイヨシノのお話」で書きましたので、ご興味があればどうぞ。
さて。
この染井あたりは、江戸時代の始めごろから、植木屋さんの集積地だったんですね。
では、なぜ植木屋さんのコロニーのようなものが、ここにできたのでしょう?
その謎を解き明かすためには……。
江戸開府のころに遡らなければなりません。
初代将軍・家康、2代・秀忠、3代・家光。
この3人に共通していたのは……。
熱狂的な花好きということでした。
「花癖(かへき)」と云ったそうです。
諸大名たちは……。
将軍家に、珍花奇木を献上しようと、競って園芸に熱中しました。
また、秀忠と家光は、諸大名の屋敷を頻繁に訪問したそうです。
まぁこれは、政治的な意図があってのことでしょうけど。
そのため、諸大名の屋敷では……。
花好きの将軍を迎えるため、豪華な庭が造営されることになったんです。
ここで、例によって脱線。
みなさんのお宅のお庭は……。
南向きですか?
それとも、北向き?
もちろん、西向きや東向きというお宅もあるでしょうが……。
南か北かに分ければ、圧倒的に南向きが多いでしょう。
庭は南向きってのは、常識みたいなものですよね。
でも、ここではっきり言いますが……。
お庭が南向きのお宅は……。
お屋敷じゃありませんねー。
当たり前ですよね。
北向きに庭なんか作ったら……。
お庭がみんな、家の陰になっちゃいますから。
でも、昔のお屋敷は違います。
土地が広いので……。
建物の陰になる部分の向こうに、庭があります。
それじゃ、庭が遠すぎるだろうって?
いえいえ。
お屋敷の建物は、平屋建てです。
土地が広いので、2階をあげる必要など無いからです。
なので、平屋の陰にさえならなければいいんですから……。
庭の始まりは、そんなに遠くないわけ。
それじゃ、なんでわざわざ北向きに庭を造るのかですが……。
まず、南向きの庭を、座敷から見る場面を想像してください。
お陽さまは、どっちから当たってるでしょうか?
そう、お庭の向こう側からですよね。
つまり、座敷から見ると、逆光になるんです。
日の光は、樹木や庭石の向こう側に当たります。
座敷から見える側には、影が出来る。
早い話、裏側なんです。
つまり、南向きの庭を座敷から見るということは、庭を裏側から見るようなもんなんです。
樹木は南を向いて伸びますから、いっそうそうなりますよね。
というわけで、昔のお屋敷は、北側に庭があったわけね。
庭というのは、座敷から見るものだったからです。
北向きの庭では、木々や石には……。
屋敷の屋根を越えて降り注ぐ日の光が、燦々と当たり……。
影が出来ません。
木の枝も、こっちに向かって伸びて来ます。
つまり、庭を表側から見るために……。
庭を北向きに造ったというわけです。
さて、脱線を戻しましょう。
諸大名が……。
花好きの将軍を屋敷に招くために、豪華な庭園を造営したというとこから。
そういう大きな庭園を維持するためには……。
本来、広大なバックヤードが必要なんです。
バックヤードとは……。
庭園の植物が枯れたり弱ったりした場合に備え、補植用の樹木を準備しておくエリアであり……。
季節に合わせて庭園を模様替えしたりする場合に、次の季節に植える植物を育成しておくエリアでもあります。
つまり、バックヤードで、交代要員がウォーミングアップをしてるわけ。
で、先発選手に疲れが見えたら、すぐさま交代するわけです。
バックヤードがあるからこそ……。
表の庭を、常に美しい状態で維持することができるのです。
欧米などの庭では……。
見せるためのエリアとは別に、広いバックヤードが確保されてます。
しかるに……。
日本の大名屋敷には、バックヤードが無かったんですね。
庭全部が、見せるためのエリアだったんです。
そういう庭が……。
水戸藩上屋敷(今の「小石川後楽園」)クラスで数百……。
もっと小さなものまで含めると、数千はあったそうです。
バックヤードを持たない表の庭が、それだけあった。
では、バックヤードはどこにあったかと云うと……。
それは、出入りの植木職人の圃場でした。
と言っても、この植木職人たち……。
昔から植木職人だったわけじゃありません。
江戸開府前は、植木職人の需要なんてありませんからね。
普通の農民でした。
それが、江戸に幕府が開かれると、事情は一変します。
江戸近郊の農民が、土木作業や、庭園の植裁作業に刈り出されることになったのです。
そうした農民の中から……。
園芸の技術を習得し、やがて専業の植木職人になるものが出てきました。
農作物を作っていた畑は……。
お屋敷に納める植物を育てる、圃場に変わったわけです。
肥料の入った柔らかい畑なら、樹木も、めきめきと育ったでしょうね。
さらに、染井なら土地柄もいいですし。
台地の縁にあたるので、水はけも日当たりも良好だったでしょうから。
さて、そんなふうにして、江戸周辺の農村地帯には……。
次第に、農民から変じた植木職人の集積地が出来ていきました。
染井のほかにも……。
下谷池之端、湯島、落合などが、そういった園芸団地のようになっていったそうです。
それではなぜ、植木職人は、バラバラに点在せずに……。
一カ所に集積する形を取っていったのか、ということですが……。
以下は、わたしの想像ですので、真に受けないでください。
職人同士、互いに植物を融通し合うためじゃないでしょうか。
一人の植木屋の圃場に、あらゆる植物が揃ってたわけじゃないと思うんです。
植木職人それぞれ、得意な植物があった。
専門分野があったわけですね。
キリシマツツジなら誰、カエデなら誰っていうふうに……。
で、専門外の植物が必要になると、それを専門とする職人から仕入れたわけです。
当然、そういう仲間は近くにあった方が便利ですから……。
植木屋が集まるようになって行ったんじゃないでしょうか?
ま、わたしの想像ですので、話半分に聞いてください。
こんなふうに、植木屋ばかりが集まってるような地域があるのは……。
世界的に見ても、江戸だけだったようです。
日本に来た外国人が驚いてる様子が、文献に残ってます。
植物学者でありプラントハンターでもあったロバート・フォーチェン(英国)は……。
万延元年(1860年)に来日し、染井も訪ねてます。
そこで見た風景を、フォーチェンは次のように記してます。
「樹木や庭園、綺麗に刈り込んだ生垣が続いている公園のような景色の中に来たとき、染井村に着いたと随行の役人が告げた。村全体が苗木園で埋め尽くされ、それに沿って一直線の道が、1マイル(1.6㎞)以上も続いている。これほど大規模に、売るための植物を栽培している場所は、世界中のどこに行っても見られないだろう。それぞれの植木屋は、3,4エーカー(4,000~5,000坪)の敷地を持ち、鉢植えや露地植えの植物がよく管理されている」
つまり、染井のような園芸団地ってのは……。
江戸中の庭園を賄う、広大なバックヤードだったわけです。
タイムマシンに乗れたら……。
江戸時代の染井村には、ぜひ行ってみたいです。
余談ですが……。
江戸時代にタイムスリップするという小説で……。
大変面白いシリーズ物があります。
石川英輔さんの「大江戸神仙伝」シリーズ。
講談社文庫から何冊も出てますので……。
ぜひ一度、読んでみてください。
面白さは、請け合います。