2017.11.28(火)
人身御供(ひとみごくう)……供物(くもつ)……。
これまで、一度も口にしたことのない言葉が志摩子の脳裡に、身の内に響いた。
聞いたことはある。
幼い日、故郷丹後の海辺の寒村、生まれ育った苫屋の夜、子守唄代わりに聞かされた母の昔語り、いや御伽噺に出てきたのではなかったか。
とある山里、山中の寒村。正体不明の妖怪の支配下に置かれた村が生き延びる方途は、年に一度、若い娘を妖怪に差し出すこと。娘は妖怪に取って喰らわれるのか、二度と村に戻って来ることは無い。
これを称して人身御供、支配者への供物。
本来は、神への供え物……。
(そういや)
(お母ちゃんにこの話、聞かされたとき……)
(うちも呟いたんやったか)
(ひとみ、ごくう……)
心中の思いは取り留めもなく、志摩子は徳利を支えた両手を膝に室内を、いや、今夜の座敷の内を見遣った。
広さは十畳、いやそれ以上はあろうか。
床の間を背にする相馬禮次郎の右手、禮次郎の右の横顔に向かい合う志摩子は、自らの顔を軽く右に向けた。
横目で室内に視線を送る。床の間から奥へ延びる左右には、全く同じ意匠の板戸がずらりと並び、部屋の壁を成している。茶というより、黒に近い色合いの板戸には何の装飾も無い。絵の一枚、一輪挿しの一つすら掛かっていなかった。
軽く上に泳いだ志摩子の目が天井を捉える。
天井は……金色(こんじき)の格天井(ごうてんじょう)であった。玄(くろ)い板戸と金色の天井。その対比、コントラストが志摩子の目を眩(くら)ませた。
(まああー)
先程この部屋に踏み込んだ際に思わず漏らした嘆息を、今度は心中に飲み込む志摩子だった。
しかし如何に金色とはいえ、この天井の明るさ、眩(まばゆ)さは……。
志摩子は、天井全体に目を彷徨(さまよ)わせる。その視線の先が天井と板戸との境目に辿り着いた。境目には少し隙間が開いている。全ての板戸の高さが、天井の高さに少し足りないのだ。部屋全体に溢れる光は、その隙間の奥から漏れ零れていた。その奥に照明器具が設置されているのだろうが、器具自体は見て取れなかった。
輝く格天井。その格子の総てには、板戸と同じく、何の装飾も無かった。
志摩子の目は、部屋の奥に向かう。
奥には、入室時に目にした六曲一双の屏風が立ててある。屏風の色は天井に同じく金色。金屏風であったが、やはり一切の絵模様は無かった。
(明るいけど、華やかやけんど)
(こないに愛想〔あいそ〕のない座敷、あるやろか)
明にして暗。豪華にして簡素。二面性と矛盾を孕む座敷の様相であった。
(そないゆうたら……床の間はどないやったやろ)
志摩子は自らの左手、相馬禮次郎の背後に首を振った。床の間を見遣る。
中央には床柱が立ち、床の間を左右に分けている。
床柱の右、床の間の右半分には違い棚。棚の上方の天井付近に天袋。棚の下、畳と同じ面には地袋(じぶくろ)という、ごく普通の構造であった。
床柱の左、床の間の左半分の下部は床板(とこいた)に床框(とこがまち)。これも何の変哲もない。
違い棚、地袋、床板の上には、何の飾り物も置かれていない。花活けの一つすら無かった。
床板の上方、奥の壁に接して掛け軸が一幅(いっぷく)、この座敷に唯一の装飾が掛けてあった。
掛け軸を目にした志摩子は息を呑んだ。
(え……)
(なんや、この絵ぇ……)
「何きょろきょろしてんねん」
相馬禮次郎の呼びかけに、志摩子は慌てて向き直った。改めて居住まいを正す。
「す、すんまへん、つい……」
相馬は、手にした杯の酒を軽く含み、言葉を継いだ。
「けったいな部屋やなあ、思(おも)とるんやろ」
志摩子を非難しているわけではない、笑い混じりの相馬の声だった。
「え、いえ、そないなこと……」
言って志摩子は、手の徳利を相馬に向ける。
相馬禮次郎は悠然と受けた。
「まあ、ええがな。この座敷の意匠はのう、小まめ」
「へえ」
「わざとや」
「わざと……」
「せや」
「趣向、ゆ(言)うた方がええか」
「しゅ、こう、どすか」
相馬の言葉を鸚鵡返しにするしかない志摩子だった
「せや、ちゃんと意味、あるんや」
「いみ、どすか、ほれはどないな……」
「ほれはまあ、ぼちぼちにわかって来る」
「………」
相馬禮次郎は杯を膳に置いた。志摩子を正面から見る。その視線の先は真っ直ぐに志摩子の瞳に向かって来た。
ぶつかった二人の視線は絡み合ったまま離れなかった。
いや、志摩子は視線を外そうとした。
相馬禮次郎の視線がそれを許さなかった。
志摩子は相馬禮次郎に絡め取られた。
(これや)
(この目付きや)
(この、はらわたの中まで見透かされるような……)
(いや)
(いやや)
(いややあ)
(かんにん……)
志摩子の背筋を、再び冷たいものが流れた。それは先ほど、斎王は神への供物、と相馬が言い放った時に感じたものと同様の、志摩子の戦慄だった。
(た、助けて、道)
志摩子は、道代を目で探した。先ほどの部屋の隅に道代はいなかった。あの案内の男もいない。
(ど、どこ、どこ行〔い〕たん、みちぃ)
狼狽する志摩子を楽しむように、相馬の視線はしばらく志摩子に絡んでいたが、嬲るネズミを一旦離す猫の脚のように、ふい、と外れた。
とたんに志摩子の体が緩む。羽交い絞めにされ、身動き一つならなかった身が自由になったような、我が身を絡めていた見えぬ腕が解(ほど)かれた様な、そんな風情の志摩子だった。
ひそかに息を付く志摩子を他所に、相馬禮次郎は杯を取り上げた。口に運ぶ。
志摩子は徳利を差し出した。傾け、注ぐ。手が震えるかと思う志摩子だったが、その手元はしっかりしていた。徳利を膝に戻す志摩子の目が、今度は左に、床の間に再び向かった。掛け軸の絵が気になってならない志摩子だった。
↑クリックすると、大きい画像が見られます。
絵は女の立ち姿。
斜め後ろを向き、軽く身を右に捻って顔は俯き加減に自らの背後に向けようとしている。
膝の下あたりまで届こうかという黒髪は、白い元結一つで結んだのみ。
目は伏せ気味に軽く開くが、視線の先は判然としない。
上げた右手を口元に当てている。
軽く開いた口元は、上げた手指と、一筋の解(ほつ)れ髪を噛んでいる。
纏う衣の模様は……藤と蜘蛛の巣。
異様な絵姿だった。
日本画である。
いわゆる美人画の系統なのだろうが、まともな女性を描いたとは到底見えない。
(これは……)
絵から目を離せない志摩子に、相馬禮次郎が声を掛けた。
「なんや、小まめ、気になってしゃあないようやの、その絵」
「え、へえ、いえ……」
口籠るしかない志摩子に、相馬が言葉を重ねる。
「松園さんや」
「しょうえん……」
「松の園、と書かはる」
「まつ、の……」
「上村松園さんやがな、知らんか」
「すんまへん、うち、絵てなもん……」
「こないだ、2,3年前になるか、文化勲章もらわはった」
「へえ……」
「京のお人やで、京都人やったら誰でも知っとる」
「へえ、すんまへん」
俯くしかない志摩子だった。
「この絵はのう、小まめ」
相馬禮次郎の口調は、何やら教え諭すような色合いを帯びた。
「へえ……」
「画題を『焔』云う」
「ほの、お……」
「燃える火ぃの、炎や」
「………」
「おなご(女子)の……情念、ゆうか執念、ゆうか妄念、ゆうか……そないなものを描こうとしはったそや」
「じょうねん」「しゅうねん」「もうねん」……いずれの字面も思い浮かばない志摩子だったが、畳み掛けられるとなんとなく「女」そのもの、のようにも思えた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/11/28 08:02
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志摩子のお座敷
踊熊庵の描写が続きます。
しつこく続きます。
こちらでは「アホほどくどい」と申します(あまり言わんか)。
特に床の間。
どう考えても引っ張りとしか思えませんが、そのあたりの魂胆は作者にしかわかりません。
今回のポイントその1は……
「明にして暗。豪華にして簡素。二面性と矛盾を孕む座敷の様相」
でしょうか。
ただのカッコづけかもしれませんが、一応次回以降の伏線です。
今回のポイントその2
上村松園画『焔』(本文中に図をUPしていただきました。ありがとー、管理人さん)
松園さんの代表作は、やはり『序の舞』でしょうけど、この『焔』は別の意味で重要作です。
そのあたり、次回で相馬禮次郎が語ることになります(まだやるんかい)。
〔絵を褒められたのは小学校のときだけHQ〕
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2. Mikiko- 2017/11/28 19:58
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わたしの寝室にしてる和室では……
違い棚は、向かって左手にあります。
「床の間」で画像検索すると……。
違い棚が右にある床の間の方が多いですね。
上村松園『焔』。
東京国立博物館所蔵です。
踊熊庵にある経緯は、説明してもらえるんでしょうね。
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3. ハーレクイン- 2017/11/28 21:10
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白状しますと……
始めに書いたときは、向かって左手にしたのです、違い棚。
で、その後画像検索しますと、右手が多かったので……。
別にどちらでも構わなかったんですがね。
何故、踊熊庵に……
無論、その点も次回、相馬禮次郎に語らせます。
「模写や」ってえのが、簡単ですが、さて。
〔アーシュラ・K・ル=グイン『闇の左手』HQ〕
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4. Mikiko- 2017/11/29 07:32
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ということは……
貴殿のお宅には、床の間がないんですか?
なお、“始めに書いた”ではなく、“初めに書いた”では?
『焔』のモデルは、六条御息所だそうです(謡曲『葵上』)。
描かれたのは、1918(大正7)年。
上村松園、43歳のときです。
3年前に描かれた『花がたみ』も……。
謡曲『花筐』を元にした、凄絶な作品。
狂女の舞姿です。
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5. ハーレクイン- 2017/11/29 09:19
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床の間どころじゃねえ!
バラしてんじゃねえよ『焔』一件。
次回に書く予定でんがなまんがな。
『焔』『花がたみ』
両作とも、わたしは実物を見ております。
『焔』後の復活作、『楊貴妃』もね。
奈良県登美ヶ丘市に、上村家三代の作品を集めた「松伯美術館」があります。が、残念ながら重要作の所蔵は少ないようです。
〔床の間なんぞ、何の役にも立たねえHQ〕
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6. Mikiko- 2017/11/29 19:44
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こりゃまた……
しっつれいいたしました、餡(←「焔」に似てます)。
やっぱり、床の間が無いんですね。
お正月の鏡餅は、どこに飾るんですか?
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7. ハーレクイン- 2017/11/29 20:53
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わたしは……
餅を好みません。
鏡餅の心配は不要です。
よって件の如し。
〔妖艶餡主HQ〕
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8. Mikiko- 2017/11/30 07:21
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わたしも……
餅を好みません。
でも、鏡餅は飾ります。
お正月の景色ですから。
そのお歳で、餅を口にしないのは、重畳です。
喉に詰まらせて死亡するご老人が絶えませんから。
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9. アーレクイン- 2017/11/30 08:53
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鏡餅始末
餅自体は……家人がスーパーで、一番小さいパック入りのを買ってきて、ダイニングのテーブルの上に置いてます。
三が日を過ぎる頃、いつの間にか姿を消すようです。
〔わてよい(よく言)わんわ餡HQ〕
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10. Mikiko- 2017/11/30 19:54
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だから……
床の間が無いんですね?
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11. ハーレクイン- 2017/11/30 23:12
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えらく……
床の間にこだわるではないか。
あんなものは無用の長物、無くて幸いです。
踊熊庵も……
始めは床の間なんぞ考えてなかったのです。
が、絵を飾るとなると、やはりねえ。
そういえば『焔』は軸装してあるのかなあ。
〔蛹幽餡主HQ〕
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12. Mikiko- 2017/12/01 07:31
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床の間がなくては……
安アパートみたいじゃないですか(実際、そうなんですか?)。
↓東京国立博物館の『焔』展示の様子。
https://www.youtube.com/watch?v=Jik-_f-Oczg
撮影可なんですね。
でも、これを見てきてるわけでしょう?
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13. ハーレクイン- 2017/12/01 11:22
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安アパート
じゃなくて、安借家です。
東京国立博物館所蔵、上村松園『焔』
ははあ、軸装ですねえ(それだけかい!感想は)
見たのは何十年も前、細かいとこまで覚えてまっかいな。
ただし東京でじゃなく、京都で松園さんの展覧会があった時です。
〔幼友餡主HQ〕
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14. Mikiko- 2017/12/01 19:46
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来年は……
『東京国立博物館』に行きますかね。
でもここも、修学旅行生で一杯なんだろうな。
『東京国立科学博物館』の喧噪を思い起こすと……。
やはり、二の足を踏んでしまいます。
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15. ハーレクイン- 2017/12/01 21:14
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あれ?
『東京国立博物館』と『東京国立科学博物館』って、別もんなんですか。
前者は後者の略称だと思ってた。
〔酔融餡主HQ〕
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16. Mikiko- 2017/12/02 08:09
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まったく別の建物です
文系と理系で分けたんでしょうか?
規模としては、『東京国立博物館』の方が大きいです。
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17. ハーレクイン- 2017/12/02 10:42
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大きい『東京国立博物館』
ということは……理系より文系の方が展示品が多い、と。
若干承服できませんが、まあ、わたしが口を出すことでもありません。
そんなことより『アイリス』の決着を付けねば(と、軽く番宣)
〔揺柳餡主HQ〕