2015.8.1(土)
特に興味を引いたのは、昔の住宅。
一般庶民の住まいです。
↓ちゃぶ台があります。
↑「み」。
↓玄関は、こんな感じ。
↑「み」。
↓こちらは、台所。
↑「み」。
タイル貼りの流しがいいですね。
うちがこうだったという記憶は無いのですが、なぜか懐かしい気がします。
↓これは、明治初期の町並み。
↑「み」。
ほとんど、江戸のまんまだと思います。
ほんとに美しい町です。
↓これは、明治の子どもたち。
↑「み」。
服装は貧しいですが、みんな楽しそうに笑ってます。
後ろの大人まで笑ってます。
ここに写ってる人は、今、誰も生きてないんですよね。
人間って、儚い生き物です。
↓こちらは、浅草の名物だった『凌雲閣(通称、浅草十二階)』。
↑「み」。
関東大震災で倒壊しました。
↓夕餉がこれから始まるようです。
↑「み」。
この部屋に帰って来たいような……。
切ない気持ちになりました。
↓こちらは、トイレです。
↑「み」。
こればっかしは、現代の方がいいですね。
↓突如、自動車の登場です。
↑「み」。
これは、『スバル360』という車種のようです。
360ccなんでしょうね。
スピードは、どれくらい出たんでしょうか?
でも、このスタイルなら、今でも十分通用すると思います。
これほどフェンダーミラーが可愛いく見える車は、ほかに無いんじゃないでしょうか。
↓よく見ると、ドアが、今の車とは反対に開くようです。
↑「み」。
なんででしょう?
↓こちらは、『ダットサン』というトラック。
↑「み」。
なんと!
平成19年まで、現役でした。
↑「み」。
↓そしてこれは、わたしが大好きな団地です。
↑「み」。
↓玄関です。
↑「み」。
手洗い器が、玄関脇にあったんですね。
トイレは、やっぱり切ないですが。
向かい側の扉が、いいですね。
↓扉のアップです。
↑「み」。
こういう扉、NHKの『少年ドラマシリーズ』に出てきました。
今にも、扉から『謎の転校生』が顔を出しそうです。
↓この展示のモデルは、『ひばりが丘団地』だそうです。
↑「み」。
こういう団地、今は高齢化で大変のようです。
エレベーターも無いんじゃないでしょうか。
↓ベランダに、洗濯機。
↑「み」。
沖田艦長じゃありませんが……。
何もかもみな懐かしいです。
住んだこともないんですが。
↓ベランダから見た、ダイニング。
↑「み」。
わたしは、団地で暮らした経験はないのですが……。
なんとなく、土曜の午後の記憶に通じます。
この部屋の写真を見て、子供のころ飲んだジュースを思い出しました。
当時、お米屋さんが配達するプラッシーというジュースがあったんです。
↑まさしく、※印です。
オレンジジュースです。
ちょっと、ほろ苦かった記憶があります。
調べてみました。
1957年(昭和32年)、武田食品工業が発売したそうです。
思ったより歴史のあるジュースですね。
プラッシーという名称は、ビタミンCをプラスしたこと(プラスC)から付けられたそうです。
では、なぜお米屋さんが配達したかということです。
武田食品工業の母体は、言わずと知れた武田薬品です。
武田薬品の食品部門が独立して、武田食品工業になったとのこと。
製薬会社である武田薬品は、当然ながら、ジュースの販売経路を持っていませんでした。
しかしながら、ビタミン強化米などを販売してたことから……。
お米屋さんには、販路があったのです。
当時、お米は、お米屋さんが家庭に配達してました。
今みたいに、5キロとか10キロの小袋はありません。
30キロの大袋だけだったと思います。
↑後ろにある米俵は、60㎏だそうです。
ここで、少し脱線します。
米俵の画像を探してて、恐ろしい画像を発見したんです。
↓山形県酒田市にある『庄内米歴史資料館』の展示。
5俵担いでます。
300㎏です。
米を備蓄する山居倉庫というところで働く、女丁持(おんなちょうもち)という女性労働者だそうです。
驚くほかありません。
↓実際の画像を探したら、ありました。
↑昔の人が背が低かったのは、このせいでしょうか?
話を戻しましょう。
昔は、自家用車も普及していません。
30キロの米袋は、自転車の荷台にも詰めません。
なので、お米屋さんが配達するのが当たり前だったのです。
↑これは、前輪が1つしか無い、オート三輪という自動車『ダイハツ・ミゼット』。
で、プラッシーは、お米と一緒に、ケースで配達されてたわけです。
↑さすがに、木箱は見たことありません。
プラッシーの記憶です。
入れ物は、もちろんガラス瓶です。
瓶に横にひだひだのような凹凸が付いてました。
↑これです!
冷蔵庫に入れておいたプラッシーを出すと、瓶の肌が結露して濡れます。
ひだひだは、子供が持ち上げたとき、滑って落とさないようにと付けられてたんじゃないでしょうか。
で、このプラッシー。
オレンジジュースですが、色は、オレンジ色ではなく……。
黄色みがっかってました。
↑もっと黄色っぽかった気がするのですが……。
で、中に、繊維質の物質が混ぜられてました。
これは、みかんの搾りかすで、食感を出すためにあえて入れられてたそうです。
この搾りかすは、下に沈んでるので……。
飲むときには、瓶を振らなきゃなりません。
すると、中のジュースは、ちょっと白っぽく濁ります。
米屋が配達するということから……。
当時、米のとぎ汁が混ぜられているという都市伝説があったそうです。
でも、このプラッシーですが……。
瓶飲料の衰退と、お米の配達という商習慣の縮小により、1980年代に生産が中止されてしまいました。
しかし!
1998年、リニューアルで再発売されたそうです。
しかしながら、当然、当時のような瓶入りではありません。
スーパーやコンビニに置かれてるそうです。
でも、わたしはちょっと、買って飲む気にはなれませんね。
プラッシーの記憶は、あくまで、あの露に濡れたヒダヒダの瓶の感触にあるからです。
↑なんと、オークションに出てました。現在価格、2本で700円。
で、なんでプラッシーの話になったかということですが……。
わたしの小学校時代は、まだ土曜日に半日授業がありました。
↑平成13年3月に廃校になった上岡(うえおか)小学校(茨城県久慈郡大子町)。備品も廃校当時のまま残され、一般公開されてます。。ドラマのロケ地になることも多いとか。
学校から帰った土曜の午後……。
↓こんなダイニングでプラッシーを飲んだ記憶が、なんだかあるような気がしたのです。
↑「み」。エレバーターのない団地への配達は、お米屋さんも大変だったでしょう。
さて、見学を続けましょう。
↓これは、汽車住宅だそうです。
↑「み」。
こんなのがあったことは、初めて知りました。
国鉄から、大型の木製客車が東京都に払い下げられたそうです。
それを、都が住宅用に改造して、都民に提供したのだとか。
住み心地ですが……。
とうてい良いとは思えません。
おそらく夏は、とんでもなく暑かったんじゃないでしょうかね。
↓そしてこれ!
↑「み」。
家具調テレビというやつです。
わが家にもありました。
チャンネルは、ガチャガチャ回すんです。
わが家のチャンネルは、引っこ抜けました。
でも、差し込めば、ちゃんと回せました。
↑もう一度、回してみたい! 確か、寝転がったままチャンネルを回す棒があったと思います。先っちょが2股になってて、チャンネルのツマミを挟めるんです。
チャンネル争いをしてるときは……。
チャンネルを引っこ抜いて、隠したりしました。
昭和な想い出です。
↑なんと、そのまんまの画像がありました。チャンネルって、普通に抜けたんですかね?
↓これも懐かしいですね。
↑「み」。
セミドロップハンドルの自転車。
たしか、ドロップハンドルは、学校で禁止されてたんじゃないかな。
↑なんと、2008年ごろの高校の入学案内のようです。まだ、こんな学校があるんですね。
なので、セミドロップという、中途半端なハンドルになったんでしょう。
変速機、あそこに付いてましたね。
近所のお兄ちゃんが、得意気に変速しながら走ってました。
変速すると、ときどきチェーンが外れてましたが。
あと、この自転車にはありませんが……。
後ろのタイヤの右側に、金属製のカゴが付いてましたね。
↑わたしが見たのは、銀色だった気がします。
折りたたみ式の。
広げると、ちょうど学生カバンが収まるサイズでした。
↑畳んだところ。機能的ですよね。
しかし、このカゴと云い、フレームに付いた変速機と云い……。
今、まったく見られなくなったのは、なぜなんでしょう?
こういう自転車、今、売り出したら、面白いんじゃないかな。
↓これは、カシオミニ。
↑「み」。
電子計算機です。
分厚いですね。
わたしは、実物を見たことがありません。
新潟では、みんなソロバンだったんでしょうか。
↓ラジカセです。
↑「み」。
叔父が昔、こういうラジカセを持ってました。
確か、日立の『パディスコ』という商品名だったと思います。
ボタンがやたらとデカかった記憶があります。
↑そうそう。こういう感じでした。
その叔父が、自慢気に見せてくれた仕掛けがあります。
それは、扇風機を自動的にオフにする就寝タイマーでした。
当時は、各部屋にクーラーなんて付いてません。
叔父の部屋の冷房も、扇風機だけ。
↑これは、昭和39年、ナショナル製。叔父の扇風機は、ここまで古くなかったと思いますが。
真夏は、扇風機をかけてないと、暑くてとても眠れません。
今の扇風機は、あたりまえにオフタイマーが付いてますが……。
叔父の部屋の扇風機には、ありませんでした。
それじゃ、点けっぱなしで寝ればいいとかと云うと……。
当時は、扇風機をかけたまま寝ると、身体が冷えて死ぬと信じられてました。
止めれば眠れない。
↑死んでませんので。
点けて寝れば、冷えて死ぬかも。
悩ましいところです。
ここで、叔父はひらめいたのです。
それは、パディスコには、オフタイマーが付いてたことです。
オフタイマーをセットして、再生ボタンを押し、カセットテープを流しておくと……。
タイマーがオフになったとき、再生ボタンが戻り、再生が終了するのです。
パディスコの再生ボタンはデカく、しかも「押す←→戻す」のストロークが深いんです。
叔父は、このボタンと、手元スイッチ付きの電源コードを組み合わせることを思いつきました。
手元スイッチは、コタツのコードなどにもありますよね。
今のスイッチは、オンオフのボタンがスライド式ですが……。
↑『こたつコード』という名称のようです。
当時、叔父の部屋にあったスイッチは、違いました。
両側に、オンとオフのボタンが、張り出してたんです。
↑これです! やっと画像を見つけました。
オンのボタンを押し下げると通電され……。
逆に、オフのボタンを押し下げると、電気が遮断されるのです。
↑図にするまでもありませんが。
で、叔父はどうしたのかと云うと……。
パディスコの再生ボタンを押し下げると、そこに隙間が出来ます。
その隙間に、手元スイッチのオフボタンが入るようにして、電源コードをパディスコに固定するのです。
固定すると云っても、セロテープで貼っただけでしたが。
で、もう仕組みはお分かりだと思います。
パディスコのタイマーがオフになると、再生ボタンが戻ります。
そのとき、手元スイッチのボタンを押し上げるのです。
再生ボタンが持ち上がる勢いはかなりのものだったので……。
この仕掛けは、十分に機能したそうです。
ボタンが並んだ上に手元スイッチが乗ってたら、普段の操作に邪魔そうですが……。
普段は、手元スイッチを捻って横に倒しておけば、ボタン操作に支障はなかったとのことでした。
難点は……。
なんといっても、見た目が悪いこと。
でも叔父は、自分の発明に満足そうでした。
↑こんな漫画があったことは、初めて知りました。少年の名前は、エジ・ソン太だそうです……。
文明の利器を使って……。
自らの知恵で、不便さを解消できたということが嬉しかったのでしょうね。
また脱線しました。
『江戸東京博物館』、レポートを続けます。
↓なんじゃこりゃー。
↑「み」。
ソロバンと電卓がくっついてます。
まるで、鵺です。
↑どこが鳥かと云うと、鳴き声だそうです。
どうして、両方必要なんでしょう?
足し算と引き算はソロバンで……。
掛け算、割り算が電卓とか?
わたしが一番面白かったのは、年代ごとの給食のサンプル。
↓これは、1960年台。
↑「み」。
案外美味しそうですね。
スパゲッティのように見えるのは、「ソフトめん」。
わたしは、パンよりも好きでした。
もっと麺が太くて、白かった気がしますが。
↑そうそう、これです。袋のまま出て来ましたね。
左上の半球形は、缶詰の桜桃ですね。
↓続いて、1970年代。
↑「み」。
パンは、バターロールパンだそうです。
こんなパンが、給食に出てたんですね。
わたしは、まったく記憶にありません。
揚げ物は、「沖アミのチーズロールフライ」だそうです。
↑沖アミ。どう見てもエビですが、エビとは違うそうです。
これも、食べた記憶は無し。
もう1品は、八宝菜。
練り物や八宝菜は、あまり好きでは無いので……。
この日は、給食前に早退したかも。
↑そうそう、こうやって机をくっつけて食べました。でも、教室がしばらく臭くて、ちょっと嫌でしたね。
でも、メロンは惜しいな。
新潟で、メロンなんか出た記憶はありません。
↓続いて、1980年代。
↑「み」。
このころから、米飯が主食になります。
左奥は、『高野豆腐の和え物』。
大皿が、『巻き蒸し』だそうです。
いらん。
食いたない。
なんか、精進料理みたいですよね。
↑やだやだ。
1960年代の方が、よっぽど美味しそうでした。
牛乳が、瓶から紙パックに変わってますね。
そう言えば昔、三角形のパック牛乳がありましたよね。
コーヒー牛乳だったかな。
最近、まったく見ません。
製造を止めたんでしょうか。
↑復活してました。
ていうか、なんで三角形にしたんでしょうね?
↑この値段、マジすか……(銀座千疋屋)。
牛乳といえば……。
新潟県三条市の方針が、全国ニュースでも取り上げられてました。
つまり、牛乳を給食から外すという。
米飯に合わないというのをその理由に上げてましたが……。
これは、失敗でしたね。
本当の目的は、給食にかかる経費の削減だったはず。
↑これだけ子供が減ってるのにね。今思えば、わたしらの時代は、いい時代だったのかも。
正直に、お金が無いので牛乳を外しますと言えばよかったんです。
それを、「米飯に合わない」なんて言うもんだから……。
そんなら、給食と別の時間に飲めばいいということになってしまいました。
農水省とかから、圧力でもあったんでしょうかね。
ドリンクタイムだそうです。
経費削減の目論見は、見事にパーです。
↓続いて、1990年代。
↑「み」。
左は、『あんかけ焼きそば』。
これは、人気だったでしょうね。
でも、どう見ても、焼いてないみたいなんですが……。
上の真ん中は、『大学芋』。
その右は、『シャキシャキ和え物』だそうです。
黄色いのはコーンに見えますが……。
バターとかは使ってないんでしょうか。
下の右は、『にらたまスープ』。
ま、そこそこ美味しそうです。
スプーンとお箸が付いてます。
カトラリー類を増やせば……。
配膳も手間になるし、洗い物も増える。
それ以前に、経費がかかります。
このへんが昔と違うところですね。
昔は、先割れスプーンなんてのがありました。
スプーンの先っぽが割れてて、そこで食材を突き刺せるようになってました。
↓先端部分、大怪獣ラドンに似てます。
それ1本で、何でも食べられるってわけです。
でも、実際には、食材を突き刺すには向いてなかったようです。
無くなったのは、やっぱり教育上の方針ですかね?
さて、続けましょう。
↓最後は、2000年代。
↑「み」。
左のご飯は、キムチチャーハンだそうです。
ケチャップかと思った。
キムチねー。
わたしは、あんまり好物じゃありません。
臭いがね。
5時間目が始まっても、教室が臭かったんじゃないでしょうか。
写真の真ん中は、チーズ春巻き。
これは、普通に美味しそうです。
右上は、中華風じゃこサラダ。
左上が、やわらか杏仁豆腐。
右下は、きのこスープ。
この日は、大陸系のメニューに揃えたんでしょうか?
和洋ゴチャゴチャになるより、統一感があっていいかもですね。
でも、ここまで来ると、給食って感じがしませんよね。
給食費を払わずにこれを食べさせるって神経は、どうなんでしょうね。
ま、子供に罪はありませんが(まさか、親からもらった給食費を懐に入れてるガキはいないだろうな)。
↑ごちゃごちゃ言い合ってないで、裁判にすればいいだけじゃないでしょうか。
さて、『江戸東京博物館』、見学レポートはこれくらいで。
わたしは、決して丁寧に見たわけじゃありません。
でも、見終わったら、12時を大きく回ってました。
9時半の開館と同時に入ったので、丸3時間ですね。
足が疲れるたので、ときどきソファーに座って休むほどでした。
↑休憩用のソファーが、そこらじゅうにあります。
子供はちょっと、根が続かないんじゃないでしょうか。
展示物も、自分の生まれる前のものばっかりですし。
むしろ、純粋に大人向けの施設と言っていいかも知れません。
600円でこれだけ楽しめる施設は、あまりないと思います。
お土産コーナーが、5階と1階にあります。
↓わたしが買ったお土産です。
↑「み」。
ハンカチと、招き猫の赤(無病息災)を、母にあげました。
ハンカチは一番高く、540円(税込)です。
招き猫は、194円(税込)。
わたし用は、右の千社札と、招き猫の黄色(金運!)。
千社札は、10枚入って、216円(税込)です。
使い道が無いので、まだ机の脇に置いてあります。
総合計、1,144円(税込)。
入場料と合わせても、1,744円(税込)です。
これで半日以上楽しめたんですから、ほんとに有意義でした。
東京都も、オリンピックなんかやらないで、こういう施設をもっと作ればいいのに。
ちなみに、『江戸東京博物館』の総工費は、583億円。
さてさて。
今回の東京行きも、これでフィナーレ。
『江戸東京博物館』を出ると、国技館前には人だかりが。
↑「み」。
力士の国技館入りを迎えるファンのようです。
デブを待ってどうするとしか思えませんが、ま、楽しみ方は人それぞれです。
わたしは人混みを背に、まっすぐ両国駅に向かいました。
↑字体が相撲字ですね。これは、気づきませんでした。
両国駅だったか忘れましたが……。
↓初めて、ホームドアというのを目にしました。
↑「み」。
普通に、隙間が開いてるんですね。
あんまり、意味が無いんじゃないでしょうか。
事故防止の機能はあると思いますが……。
飛びこみを企てる人には、用をなさないんじゃないですか。
覚悟を決めた人は、上だって乗り越えるでしょうし。
↑東京のホームは混むので、ホームドアが無いと、黄色い線の内側を歩く人がいて危険なんでしょうね。
さて、そんなこんなで東京駅に付き、すぐホームに上がろうかと思ったんですけど。
ふと、昨年のことを思い出しました。
リニューアルした東京駅の丸の内口を写真に収めたんです。
でも、駅前の広場が工事中で、バリケードが立て回されててがっかりしました。
↑「み」。昨年、心臓ドッグを受けに行った帰りに撮ったものです。
で、今年はもう外れてるだろうと、出てみたんです。
がっかりでした。
去年と同じまま。
写真を取る気も失せ、真っ直ぐ新幹線フォームに上がりました。
時間は、13時ころ。
時刻表を見ると、13:16分と13:32分があります。
昨年は、越後湯沢止まりの『たにがわ』の列に並んでしまい、あやうく窓際に座りそこねるところでした。
↑このように、『たにがわ』と『とき』が連結した車両でした。
でも、ダイヤ改正があったようで……。
今年は、『たにがわ』が連結された車両は、昼間の時刻表にはありませんでした。
13時台の2本は、どちらも『Maxとき』という2階建て車両です。
ここは、ぜひとも2階の窓際を取りたいところ。
↑これで、上下、同じ料金なんですからね。1階は、防音壁しか見えないそうです。でも、ごくまれに、ホームでパンチラが拝めるとか。
13:16分の列が長かったら、13:32分に並ぼうと思ったんですが……。
思いのほか列が短かかったので、思い切って16分に並びました。
結果は、大正解。
見事、右側の窓際に座れました。
新潟へは北に向かうので、午後の便は、右側(東)には陽が射し込まないのです。
↑『Maxとき』の2階自由席は、両側3列です。窮屈そうに思えますが……。あまり混んでなければ、真ん中を空けて座ればいいので、むしろ圧迫感はありません。
わたしを乗せた『Maxとき』は、定刻に出発。
さようなら、東京。
↑『Maxとき』2階車窓より。赤羽付近。わたしの撮影ではありません。
わたしがいる間に、大地震が起きなくてありがとう。
また来る日まで、無事でいてくれよ。
しかし……。
上野で乗りこんで来て、2階で窓際の席を探してるらしい人が、少なからずいました。
どうして、東京で並ばないんでしょう?
新幹線の切符を持っていれば、上野から東京に移動しても、料金は変わりません。
↑『東京ー上野』間は、山手線で4駅。所要時間は、7分です。
さて、『Maxとき』は、放火事件もなく、定刻に新潟駅に到着。
↑『Maxとき』新潟駅到着時のチャイム。
15:15分です。
信越線の接続は、まったく調べてなく、在来線の跨線橋まで来て、初めて電光掲示板を見ました。
15:22分という電車がありました。
でも、よく見ると、快速でした。
やでやで。
うっかり快速に乗って、乗り過ごすところだったわい。
↑過去に、何度も経験あり。田舎は運行本数が少ないので、すぐには引き返せません。後悔は巨大となります。
胸をなでおろしながら、電光掲示板の真下を通るとき、もう一度確認すると……。
なんと!
わたしの降りる駅にも止まるではありませんか。
そうと知ればダッシュです。
↑これは、コミケ会場に向けて、改札からダッシュする人たち。始発だそうです。理解できん。
跨線橋は、けっこうな人混みでした。
カートなんか引いてたら、とても走れません。
でも、リュックだから大丈夫。
人混みをスラロームのようにかき分けて、階段を駆け下りると……。
ちょうど、発車を知らせるベルが鳴り始めたところ。
まさに、ぎりぎりセーフでした。
行きは、あれほど綿密に計画したにもかかわらず……。
接続は、苦労の連続でした。
↑尼子十勇士の筆頭、山中鹿之介が、三日月に祈ったとされるセリフ。気が知れません。提灯の意味は不明。
しかし、行き当たりばったりだった帰りは、待ち時間もほとんどなく……。
まるで、ドラマのアリバイ工作のようなジャストの接続でした。
↑松本清張『点と線』の有名な設定。この小説は、旅行雑誌『旅』に連載されたもの。プロの読者が相手だったんですね。
さてこれで、この度の『単独旅行記Ⅱ』の顛末は終了です。
あ、この題名の『単独旅行記』ですが……。
わたしが尊敬する島尾敏雄という作家に、『単独旅行者』という作品があるんです。
そこから、付けさせていただきました。
そうだ、大事なことを書き忘れてました。
AICS検査の結果です。
検査の結果は、A,B,Cの三段階で表示され……。
Cの場合は、精密検査を受けることを勧められます。
なお、A,B,Cの中でも、どっち寄りかわかるんです。
↑わたしの結果ではありません。
このように、分布図みたいな感じで表示されるので……。
同じBでも、A寄りだったり、C寄りだったりするわけね。
で、わたしの結果ですが……。
幸い、Cはひとつもありませんでした。
ドンドンパフパフ!
↑久しぶりに聞きましょう。パフパフラッパを鳴らす柴犬。
でも、内容は、ちょっと微妙ですね。
Aと判定されたのは、胃がんだけでした。
十二指腸潰瘍の既往歴もあるし、これはちょっと意外でした。
しかも、Aの中でも、Bからは遠く、ゼロに近い方の数値でした。
やっぱり、ピロリ菌を退治したのが良かったんでしょうか。
逆に、一番悪かったのが、肺がんです。
Bですが、かなりCに寄ってました。
ま、これは、タバコを止めて、まだ2年ということからでしょうか。
残りは、すべてBの真ん中あたり。
わたしとしては、勝手にオールAのつもりでいたので……。
少し、がっかりでした。
でも、これだけを見て、一喜一憂しても、しょうがないのでしょう。
次に検査を受けたとき、数値がどう変化してるか比べるのが大事なんじゃないでしょうか。
だけど、毎年は受けられんわな。
高くて。
ほんとに、なんとかならんもんでしょうか。
こういう検査に保険が効くようにすれば、かえって医療費が抑えられるはずなのにね。
さてこれで、本当のおしまいです。
思いのほか、長くなってしまいました。
来年、どうするかは、まだ決めてません。
でも、また検査を受けるとしたら……。
今度は、もっと時間に余裕を持って行くことにします。
それでは!
さらばじゃ~
一般庶民の住まいです。
↓ちゃぶ台があります。
↑「み」。
↓玄関は、こんな感じ。
↑「み」。
↓こちらは、台所。
↑「み」。
タイル貼りの流しがいいですね。
うちがこうだったという記憶は無いのですが、なぜか懐かしい気がします。
↓これは、明治初期の町並み。
↑「み」。
ほとんど、江戸のまんまだと思います。
ほんとに美しい町です。
↓これは、明治の子どもたち。
↑「み」。
服装は貧しいですが、みんな楽しそうに笑ってます。
後ろの大人まで笑ってます。
ここに写ってる人は、今、誰も生きてないんですよね。
人間って、儚い生き物です。
↓こちらは、浅草の名物だった『凌雲閣(通称、浅草十二階)』。
↑「み」。
関東大震災で倒壊しました。
↓夕餉がこれから始まるようです。
↑「み」。
この部屋に帰って来たいような……。
切ない気持ちになりました。
↓こちらは、トイレです。
↑「み」。
こればっかしは、現代の方がいいですね。
↓突如、自動車の登場です。
↑「み」。
これは、『スバル360』という車種のようです。
360ccなんでしょうね。
スピードは、どれくらい出たんでしょうか?
でも、このスタイルなら、今でも十分通用すると思います。
これほどフェンダーミラーが可愛いく見える車は、ほかに無いんじゃないでしょうか。
↓よく見ると、ドアが、今の車とは反対に開くようです。
↑「み」。
なんででしょう?
↓こちらは、『ダットサン』というトラック。
↑「み」。
なんと!
平成19年まで、現役でした。
↑「み」。
↓そしてこれは、わたしが大好きな団地です。
↑「み」。
↓玄関です。
↑「み」。
手洗い器が、玄関脇にあったんですね。
トイレは、やっぱり切ないですが。
向かい側の扉が、いいですね。
↓扉のアップです。
↑「み」。
こういう扉、NHKの『少年ドラマシリーズ』に出てきました。
今にも、扉から『謎の転校生』が顔を出しそうです。
↓この展示のモデルは、『ひばりが丘団地』だそうです。
↑「み」。
こういう団地、今は高齢化で大変のようです。
エレベーターも無いんじゃないでしょうか。
↓ベランダに、洗濯機。
↑「み」。
沖田艦長じゃありませんが……。
何もかもみな懐かしいです。
住んだこともないんですが。
↓ベランダから見た、ダイニング。
↑「み」。
わたしは、団地で暮らした経験はないのですが……。
なんとなく、土曜の午後の記憶に通じます。
この部屋の写真を見て、子供のころ飲んだジュースを思い出しました。
当時、お米屋さんが配達するプラッシーというジュースがあったんです。
↑まさしく、※印です。
オレンジジュースです。
ちょっと、ほろ苦かった記憶があります。
調べてみました。
1957年(昭和32年)、武田食品工業が発売したそうです。
思ったより歴史のあるジュースですね。
プラッシーという名称は、ビタミンCをプラスしたこと(プラスC)から付けられたそうです。
では、なぜお米屋さんが配達したかということです。
武田食品工業の母体は、言わずと知れた武田薬品です。
武田薬品の食品部門が独立して、武田食品工業になったとのこと。
製薬会社である武田薬品は、当然ながら、ジュースの販売経路を持っていませんでした。
しかしながら、ビタミン強化米などを販売してたことから……。
お米屋さんには、販路があったのです。
当時、お米は、お米屋さんが家庭に配達してました。
今みたいに、5キロとか10キロの小袋はありません。
30キロの大袋だけだったと思います。
↑後ろにある米俵は、60㎏だそうです。
ここで、少し脱線します。
米俵の画像を探してて、恐ろしい画像を発見したんです。
↓山形県酒田市にある『庄内米歴史資料館』の展示。
5俵担いでます。
300㎏です。
米を備蓄する山居倉庫というところで働く、女丁持(おんなちょうもち)という女性労働者だそうです。
驚くほかありません。
↓実際の画像を探したら、ありました。
↑昔の人が背が低かったのは、このせいでしょうか?
話を戻しましょう。
昔は、自家用車も普及していません。
30キロの米袋は、自転車の荷台にも詰めません。
なので、お米屋さんが配達するのが当たり前だったのです。
↑これは、前輪が1つしか無い、オート三輪という自動車『ダイハツ・ミゼット』。
で、プラッシーは、お米と一緒に、ケースで配達されてたわけです。
↑さすがに、木箱は見たことありません。
プラッシーの記憶です。
入れ物は、もちろんガラス瓶です。
瓶に横にひだひだのような凹凸が付いてました。
↑これです!
冷蔵庫に入れておいたプラッシーを出すと、瓶の肌が結露して濡れます。
ひだひだは、子供が持ち上げたとき、滑って落とさないようにと付けられてたんじゃないでしょうか。
で、このプラッシー。
オレンジジュースですが、色は、オレンジ色ではなく……。
黄色みがっかってました。
↑もっと黄色っぽかった気がするのですが……。
で、中に、繊維質の物質が混ぜられてました。
これは、みかんの搾りかすで、食感を出すためにあえて入れられてたそうです。
この搾りかすは、下に沈んでるので……。
飲むときには、瓶を振らなきゃなりません。
すると、中のジュースは、ちょっと白っぽく濁ります。
米屋が配達するということから……。
当時、米のとぎ汁が混ぜられているという都市伝説があったそうです。
でも、このプラッシーですが……。
瓶飲料の衰退と、お米の配達という商習慣の縮小により、1980年代に生産が中止されてしまいました。
しかし!
1998年、リニューアルで再発売されたそうです。
しかしながら、当然、当時のような瓶入りではありません。
スーパーやコンビニに置かれてるそうです。
でも、わたしはちょっと、買って飲む気にはなれませんね。
プラッシーの記憶は、あくまで、あの露に濡れたヒダヒダの瓶の感触にあるからです。
↑なんと、オークションに出てました。現在価格、2本で700円。
で、なんでプラッシーの話になったかということですが……。
わたしの小学校時代は、まだ土曜日に半日授業がありました。
↑平成13年3月に廃校になった上岡(うえおか)小学校(茨城県久慈郡大子町)。備品も廃校当時のまま残され、一般公開されてます。。ドラマのロケ地になることも多いとか。
学校から帰った土曜の午後……。
↓こんなダイニングでプラッシーを飲んだ記憶が、なんだかあるような気がしたのです。
↑「み」。エレバーターのない団地への配達は、お米屋さんも大変だったでしょう。
さて、見学を続けましょう。
↓これは、汽車住宅だそうです。
↑「み」。
こんなのがあったことは、初めて知りました。
国鉄から、大型の木製客車が東京都に払い下げられたそうです。
それを、都が住宅用に改造して、都民に提供したのだとか。
住み心地ですが……。
とうてい良いとは思えません。
おそらく夏は、とんでもなく暑かったんじゃないでしょうかね。
↓そしてこれ!
↑「み」。
家具調テレビというやつです。
わが家にもありました。
チャンネルは、ガチャガチャ回すんです。
わが家のチャンネルは、引っこ抜けました。
でも、差し込めば、ちゃんと回せました。
↑もう一度、回してみたい! 確か、寝転がったままチャンネルを回す棒があったと思います。先っちょが2股になってて、チャンネルのツマミを挟めるんです。
チャンネル争いをしてるときは……。
チャンネルを引っこ抜いて、隠したりしました。
昭和な想い出です。
↑なんと、そのまんまの画像がありました。チャンネルって、普通に抜けたんですかね?
↓これも懐かしいですね。
↑「み」。
セミドロップハンドルの自転車。
たしか、ドロップハンドルは、学校で禁止されてたんじゃないかな。
↑なんと、2008年ごろの高校の入学案内のようです。まだ、こんな学校があるんですね。
なので、セミドロップという、中途半端なハンドルになったんでしょう。
変速機、あそこに付いてましたね。
近所のお兄ちゃんが、得意気に変速しながら走ってました。
変速すると、ときどきチェーンが外れてましたが。
あと、この自転車にはありませんが……。
後ろのタイヤの右側に、金属製のカゴが付いてましたね。
↑わたしが見たのは、銀色だった気がします。
折りたたみ式の。
広げると、ちょうど学生カバンが収まるサイズでした。
↑畳んだところ。機能的ですよね。
しかし、このカゴと云い、フレームに付いた変速機と云い……。
今、まったく見られなくなったのは、なぜなんでしょう?
こういう自転車、今、売り出したら、面白いんじゃないかな。
↓これは、カシオミニ。
↑「み」。
電子計算機です。
分厚いですね。
わたしは、実物を見たことがありません。
新潟では、みんなソロバンだったんでしょうか。
↓ラジカセです。
↑「み」。
叔父が昔、こういうラジカセを持ってました。
確か、日立の『パディスコ』という商品名だったと思います。
ボタンがやたらとデカかった記憶があります。
↑そうそう。こういう感じでした。
その叔父が、自慢気に見せてくれた仕掛けがあります。
それは、扇風機を自動的にオフにする就寝タイマーでした。
当時は、各部屋にクーラーなんて付いてません。
叔父の部屋の冷房も、扇風機だけ。
↑これは、昭和39年、ナショナル製。叔父の扇風機は、ここまで古くなかったと思いますが。
真夏は、扇風機をかけてないと、暑くてとても眠れません。
今の扇風機は、あたりまえにオフタイマーが付いてますが……。
叔父の部屋の扇風機には、ありませんでした。
それじゃ、点けっぱなしで寝ればいいとかと云うと……。
当時は、扇風機をかけたまま寝ると、身体が冷えて死ぬと信じられてました。
止めれば眠れない。
↑死んでませんので。
点けて寝れば、冷えて死ぬかも。
悩ましいところです。
ここで、叔父はひらめいたのです。
それは、パディスコには、オフタイマーが付いてたことです。
オフタイマーをセットして、再生ボタンを押し、カセットテープを流しておくと……。
タイマーがオフになったとき、再生ボタンが戻り、再生が終了するのです。
パディスコの再生ボタンはデカく、しかも「押す←→戻す」のストロークが深いんです。
叔父は、このボタンと、手元スイッチ付きの電源コードを組み合わせることを思いつきました。
手元スイッチは、コタツのコードなどにもありますよね。
今のスイッチは、オンオフのボタンがスライド式ですが……。
↑『こたつコード』という名称のようです。
当時、叔父の部屋にあったスイッチは、違いました。
両側に、オンとオフのボタンが、張り出してたんです。
↑これです! やっと画像を見つけました。
オンのボタンを押し下げると通電され……。
逆に、オフのボタンを押し下げると、電気が遮断されるのです。
↑図にするまでもありませんが。
で、叔父はどうしたのかと云うと……。
パディスコの再生ボタンを押し下げると、そこに隙間が出来ます。
その隙間に、手元スイッチのオフボタンが入るようにして、電源コードをパディスコに固定するのです。
固定すると云っても、セロテープで貼っただけでしたが。
で、もう仕組みはお分かりだと思います。
パディスコのタイマーがオフになると、再生ボタンが戻ります。
そのとき、手元スイッチのボタンを押し上げるのです。
再生ボタンが持ち上がる勢いはかなりのものだったので……。
この仕掛けは、十分に機能したそうです。
ボタンが並んだ上に手元スイッチが乗ってたら、普段の操作に邪魔そうですが……。
普段は、手元スイッチを捻って横に倒しておけば、ボタン操作に支障はなかったとのことでした。
難点は……。
なんといっても、見た目が悪いこと。
でも叔父は、自分の発明に満足そうでした。
↑こんな漫画があったことは、初めて知りました。少年の名前は、エジ・ソン太だそうです……。
文明の利器を使って……。
自らの知恵で、不便さを解消できたということが嬉しかったのでしょうね。
また脱線しました。
『江戸東京博物館』、レポートを続けます。
↓なんじゃこりゃー。
↑「み」。
ソロバンと電卓がくっついてます。
まるで、鵺です。
↑どこが鳥かと云うと、鳴き声だそうです。
どうして、両方必要なんでしょう?
足し算と引き算はソロバンで……。
掛け算、割り算が電卓とか?
わたしが一番面白かったのは、年代ごとの給食のサンプル。
↓これは、1960年台。
↑「み」。
案外美味しそうですね。
スパゲッティのように見えるのは、「ソフトめん」。
わたしは、パンよりも好きでした。
もっと麺が太くて、白かった気がしますが。
↑そうそう、これです。袋のまま出て来ましたね。
左上の半球形は、缶詰の桜桃ですね。
↓続いて、1970年代。
↑「み」。
パンは、バターロールパンだそうです。
こんなパンが、給食に出てたんですね。
わたしは、まったく記憶にありません。
揚げ物は、「沖アミのチーズロールフライ」だそうです。
↑沖アミ。どう見てもエビですが、エビとは違うそうです。
これも、食べた記憶は無し。
もう1品は、八宝菜。
練り物や八宝菜は、あまり好きでは無いので……。
この日は、給食前に早退したかも。
↑そうそう、こうやって机をくっつけて食べました。でも、教室がしばらく臭くて、ちょっと嫌でしたね。
でも、メロンは惜しいな。
新潟で、メロンなんか出た記憶はありません。
↓続いて、1980年代。
↑「み」。
このころから、米飯が主食になります。
左奥は、『高野豆腐の和え物』。
大皿が、『巻き蒸し』だそうです。
いらん。
食いたない。
なんか、精進料理みたいですよね。
↑やだやだ。
1960年代の方が、よっぽど美味しそうでした。
牛乳が、瓶から紙パックに変わってますね。
そう言えば昔、三角形のパック牛乳がありましたよね。
コーヒー牛乳だったかな。
最近、まったく見ません。
製造を止めたんでしょうか。
↑復活してました。
ていうか、なんで三角形にしたんでしょうね?
↑この値段、マジすか……(銀座千疋屋)。
牛乳といえば……。
新潟県三条市の方針が、全国ニュースでも取り上げられてました。
つまり、牛乳を給食から外すという。
米飯に合わないというのをその理由に上げてましたが……。
これは、失敗でしたね。
本当の目的は、給食にかかる経費の削減だったはず。
↑これだけ子供が減ってるのにね。今思えば、わたしらの時代は、いい時代だったのかも。
正直に、お金が無いので牛乳を外しますと言えばよかったんです。
それを、「米飯に合わない」なんて言うもんだから……。
そんなら、給食と別の時間に飲めばいいということになってしまいました。
農水省とかから、圧力でもあったんでしょうかね。
ドリンクタイムだそうです。
経費削減の目論見は、見事にパーです。
↓続いて、1990年代。
↑「み」。
左は、『あんかけ焼きそば』。
これは、人気だったでしょうね。
でも、どう見ても、焼いてないみたいなんですが……。
上の真ん中は、『大学芋』。
その右は、『シャキシャキ和え物』だそうです。
黄色いのはコーンに見えますが……。
バターとかは使ってないんでしょうか。
下の右は、『にらたまスープ』。
ま、そこそこ美味しそうです。
スプーンとお箸が付いてます。
カトラリー類を増やせば……。
配膳も手間になるし、洗い物も増える。
それ以前に、経費がかかります。
このへんが昔と違うところですね。
昔は、先割れスプーンなんてのがありました。
スプーンの先っぽが割れてて、そこで食材を突き刺せるようになってました。
↓先端部分、大怪獣ラドンに似てます。
それ1本で、何でも食べられるってわけです。
でも、実際には、食材を突き刺すには向いてなかったようです。
無くなったのは、やっぱり教育上の方針ですかね?
さて、続けましょう。
↓最後は、2000年代。
↑「み」。
左のご飯は、キムチチャーハンだそうです。
ケチャップかと思った。
キムチねー。
わたしは、あんまり好物じゃありません。
臭いがね。
5時間目が始まっても、教室が臭かったんじゃないでしょうか。
写真の真ん中は、チーズ春巻き。
これは、普通に美味しそうです。
右上は、中華風じゃこサラダ。
左上が、やわらか杏仁豆腐。
右下は、きのこスープ。
この日は、大陸系のメニューに揃えたんでしょうか?
和洋ゴチャゴチャになるより、統一感があっていいかもですね。
でも、ここまで来ると、給食って感じがしませんよね。
給食費を払わずにこれを食べさせるって神経は、どうなんでしょうね。
ま、子供に罪はありませんが(まさか、親からもらった給食費を懐に入れてるガキはいないだろうな)。
↑ごちゃごちゃ言い合ってないで、裁判にすればいいだけじゃないでしょうか。
さて、『江戸東京博物館』、見学レポートはこれくらいで。
わたしは、決して丁寧に見たわけじゃありません。
でも、見終わったら、12時を大きく回ってました。
9時半の開館と同時に入ったので、丸3時間ですね。
足が疲れるたので、ときどきソファーに座って休むほどでした。
↑休憩用のソファーが、そこらじゅうにあります。
子供はちょっと、根が続かないんじゃないでしょうか。
展示物も、自分の生まれる前のものばっかりですし。
むしろ、純粋に大人向けの施設と言っていいかも知れません。
600円でこれだけ楽しめる施設は、あまりないと思います。
お土産コーナーが、5階と1階にあります。
↓わたしが買ったお土産です。
↑「み」。
ハンカチと、招き猫の赤(無病息災)を、母にあげました。
ハンカチは一番高く、540円(税込)です。
招き猫は、194円(税込)。
わたし用は、右の千社札と、招き猫の黄色(金運!)。
千社札は、10枚入って、216円(税込)です。
使い道が無いので、まだ机の脇に置いてあります。
総合計、1,144円(税込)。
入場料と合わせても、1,744円(税込)です。
これで半日以上楽しめたんですから、ほんとに有意義でした。
東京都も、オリンピックなんかやらないで、こういう施設をもっと作ればいいのに。
ちなみに、『江戸東京博物館』の総工費は、583億円。
さてさて。
今回の東京行きも、これでフィナーレ。
『江戸東京博物館』を出ると、国技館前には人だかりが。
↑「み」。
力士の国技館入りを迎えるファンのようです。
デブを待ってどうするとしか思えませんが、ま、楽しみ方は人それぞれです。
わたしは人混みを背に、まっすぐ両国駅に向かいました。
↑字体が相撲字ですね。これは、気づきませんでした。
両国駅だったか忘れましたが……。
↓初めて、ホームドアというのを目にしました。
↑「み」。
普通に、隙間が開いてるんですね。
あんまり、意味が無いんじゃないでしょうか。
事故防止の機能はあると思いますが……。
飛びこみを企てる人には、用をなさないんじゃないですか。
覚悟を決めた人は、上だって乗り越えるでしょうし。
↑東京のホームは混むので、ホームドアが無いと、黄色い線の内側を歩く人がいて危険なんでしょうね。
さて、そんなこんなで東京駅に付き、すぐホームに上がろうかと思ったんですけど。
ふと、昨年のことを思い出しました。
リニューアルした東京駅の丸の内口を写真に収めたんです。
でも、駅前の広場が工事中で、バリケードが立て回されててがっかりしました。
↑「み」。昨年、心臓ドッグを受けに行った帰りに撮ったものです。
で、今年はもう外れてるだろうと、出てみたんです。
がっかりでした。
去年と同じまま。
写真を取る気も失せ、真っ直ぐ新幹線フォームに上がりました。
時間は、13時ころ。
時刻表を見ると、13:16分と13:32分があります。
昨年は、越後湯沢止まりの『たにがわ』の列に並んでしまい、あやうく窓際に座りそこねるところでした。
↑このように、『たにがわ』と『とき』が連結した車両でした。
でも、ダイヤ改正があったようで……。
今年は、『たにがわ』が連結された車両は、昼間の時刻表にはありませんでした。
13時台の2本は、どちらも『Maxとき』という2階建て車両です。
ここは、ぜひとも2階の窓際を取りたいところ。
↑これで、上下、同じ料金なんですからね。1階は、防音壁しか見えないそうです。でも、ごくまれに、ホームでパンチラが拝めるとか。
13:16分の列が長かったら、13:32分に並ぼうと思ったんですが……。
思いのほか列が短かかったので、思い切って16分に並びました。
結果は、大正解。
見事、右側の窓際に座れました。
新潟へは北に向かうので、午後の便は、右側(東)には陽が射し込まないのです。
↑『Maxとき』の2階自由席は、両側3列です。窮屈そうに思えますが……。あまり混んでなければ、真ん中を空けて座ればいいので、むしろ圧迫感はありません。
わたしを乗せた『Maxとき』は、定刻に出発。
さようなら、東京。
↑『Maxとき』2階車窓より。赤羽付近。わたしの撮影ではありません。
わたしがいる間に、大地震が起きなくてありがとう。
また来る日まで、無事でいてくれよ。
しかし……。
上野で乗りこんで来て、2階で窓際の席を探してるらしい人が、少なからずいました。
どうして、東京で並ばないんでしょう?
新幹線の切符を持っていれば、上野から東京に移動しても、料金は変わりません。
↑『東京ー上野』間は、山手線で4駅。所要時間は、7分です。
さて、『Maxとき』は、放火事件もなく、定刻に新潟駅に到着。
↑『Maxとき』新潟駅到着時のチャイム。
15:15分です。
信越線の接続は、まったく調べてなく、在来線の跨線橋まで来て、初めて電光掲示板を見ました。
15:22分という電車がありました。
でも、よく見ると、快速でした。
やでやで。
うっかり快速に乗って、乗り過ごすところだったわい。
↑過去に、何度も経験あり。田舎は運行本数が少ないので、すぐには引き返せません。後悔は巨大となります。
胸をなでおろしながら、電光掲示板の真下を通るとき、もう一度確認すると……。
なんと!
わたしの降りる駅にも止まるではありませんか。
そうと知ればダッシュです。
↑これは、コミケ会場に向けて、改札からダッシュする人たち。始発だそうです。理解できん。
跨線橋は、けっこうな人混みでした。
カートなんか引いてたら、とても走れません。
でも、リュックだから大丈夫。
人混みをスラロームのようにかき分けて、階段を駆け下りると……。
ちょうど、発車を知らせるベルが鳴り始めたところ。
まさに、ぎりぎりセーフでした。
行きは、あれほど綿密に計画したにもかかわらず……。
接続は、苦労の連続でした。
↑尼子十勇士の筆頭、山中鹿之介が、三日月に祈ったとされるセリフ。気が知れません。提灯の意味は不明。
しかし、行き当たりばったりだった帰りは、待ち時間もほとんどなく……。
まるで、ドラマのアリバイ工作のようなジャストの接続でした。
↑松本清張『点と線』の有名な設定。この小説は、旅行雑誌『旅』に連載されたもの。プロの読者が相手だったんですね。
さてこれで、この度の『単独旅行記Ⅱ』の顛末は終了です。
あ、この題名の『単独旅行記』ですが……。
わたしが尊敬する島尾敏雄という作家に、『単独旅行者』という作品があるんです。
そこから、付けさせていただきました。
そうだ、大事なことを書き忘れてました。
AICS検査の結果です。
検査の結果は、A,B,Cの三段階で表示され……。
Cの場合は、精密検査を受けることを勧められます。
なお、A,B,Cの中でも、どっち寄りかわかるんです。
↑わたしの結果ではありません。
このように、分布図みたいな感じで表示されるので……。
同じBでも、A寄りだったり、C寄りだったりするわけね。
で、わたしの結果ですが……。
幸い、Cはひとつもありませんでした。
ドンドンパフパフ!
↑久しぶりに聞きましょう。パフパフラッパを鳴らす柴犬。
でも、内容は、ちょっと微妙ですね。
Aと判定されたのは、胃がんだけでした。
十二指腸潰瘍の既往歴もあるし、これはちょっと意外でした。
しかも、Aの中でも、Bからは遠く、ゼロに近い方の数値でした。
やっぱり、ピロリ菌を退治したのが良かったんでしょうか。
逆に、一番悪かったのが、肺がんです。
Bですが、かなりCに寄ってました。
ま、これは、タバコを止めて、まだ2年ということからでしょうか。
残りは、すべてBの真ん中あたり。
わたしとしては、勝手にオールAのつもりでいたので……。
少し、がっかりでした。
でも、これだけを見て、一喜一憂しても、しょうがないのでしょう。
次に検査を受けたとき、数値がどう変化してるか比べるのが大事なんじゃないでしょうか。
だけど、毎年は受けられんわな。
高くて。
ほんとに、なんとかならんもんでしょうか。
こういう検査に保険が効くようにすれば、かえって医療費が抑えられるはずなのにね。
さてこれで、本当のおしまいです。
思いのほか、長くなってしまいました。
来年、どうするかは、まだ決めてません。
でも、また検査を受けるとしたら……。
今度は、もっと時間に余裕を持って行くことにします。
それでは!
さらばじゃ~