2010.3.6(土)
これは、第394回から第397回までのコメント欄で連載した、「『石田波郷』(Ⅰ~Ⅳ」)」を、『Mikikoのひとりごと』として、1本にまとめたものです。
石田波郷という人を、ご存じでしょうか?
“いしだはきょう”と読みます。
昭和を代表する俳人の一人。
俳句の都、愛媛県松山市の出身。
波郷はここで、大正2年(1913年)に生まれました。
本名は、石田哲大(てつお)。
波郷というと、いわゆる“療養俳句”が広く知られてます。
彼は、第2次大戦で招集を受け、中国山東省に出征しました。
そこで、真冬の不寝番を務めたのが悪かったのか……。
肺結核に罹ります。
野戦病院を転々した後、兵役免除となり、帰還しました。
戦後は、入退院を繰り返しながら、病気を題材にした俳句を数多く作りました。
●今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)
●霜の墓抱き起されしとき見たり
●泉への道後れゆく安けさよ
●七夕竹(たなばたたけ)惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし
●雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
昭和44年(1969年)、肺結核が悪化し、56歳で亡くなるまで……。
自らの病と向き合った俳句を作り続け、多くの療養者を勇気づけました。
でもわたしは……。
病を得る前、まだ健康だったころの波郷の句が大好きなんです。
波郷は、昭和7年(1932年)、松山から単身上京し……。
松山時代から加わっていた「馬酔木(あしび)」の最年少同人として、頭角を現します。
「馬酔木」は、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)が主宰した俳誌です。
秋桜子(男性ですよ)は、「ホトトギス」の“4S”の1人として名声を得てました。
ちなみに、あとの3人は、山口誓子(せいし/この人も男性)、阿波野青畝(せいほ)、高野素十(そじゅう)。
しかし……。
「ホトトギス」の、客観的写生一辺倒の句風に、次第に飽きたらなくなり……。
主観重視を表明し、秋桜子は「ホトトギス」を脱退します。
こうして、「馬酔木」を興したのです。
秋桜子は、実風景にこだわらず、大胆に心象風景を持ち込みました。
たとえば……。
●葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり
秋桜子は、明治25年(1892年)の生まれですが……。
上の句の風景は、すでに葛飾には無かったそうです。
すなわち、秋桜子の胸の中だけに映った葛飾。
秋桜子自身、こう言ってます。
「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。
私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」
秋桜子の処女句集「葛飾」には、こうした幻想風景が歌われてます。
さてここで……。
例によって脱線します。
わたしは、「桃の籬」に、いたく心引かれるんです。
ほんとうに、桃の木を結い回した垣根なんか、あるんでしょうか?
落葉樹なので、冬の風避けにもならないし。
ひょっとして……。
ヤマモモのことかな?
ヤマモモなら常緑です。
暖地の樹木ですが、東京なら十分育ちます。
でもやっぱり……。
この句の桃は、ヤマモモじゃないよなぁ。
籬(まがき)と云うからには、列植です。
実を取るためなら、もっと間隔を空けるだろうし……。
そもそも、乾燥地を好む桃を、水田べりに植えるってのが解せん……。
もしかして!
稲架木に使ったのかな?
なんてことも思いましたが……。
桃の樹形は、稲架木には向かないよなぁ。
でも、水田べりと、桃の垣根は……。
異様に似合いそうです。
ここで、ご提案。
もし、みなさんのお庭に余裕があるのなら……。
「桃の籬」を、作ってみませんか?
ハナモモに、いい品種があるんです。
ハナモモとは、実を採る桃ではなく……。
花を観賞するモモです。
わたしがお勧めする品種は、「照手(てるて)」と云います。
ファスティギアータ(Fastigiata)という、特殊な樹形をしてます。
枝が横に広がらず直上する樹形を、ファスティギアータと呼ぶんですね。
“箒立ち”とも云われます。
幅が出ないので、列植に向いてます。
ファスティギアータ樹形のハナモモ、「照手」を……。
たとえば、紅白交互に植えたら……。
面白い垣根が出来ると思います。
↓こんな感じ。
お庭の広い方、ぜひ考えてみて下さい。
照手の苗木は、ネットでも買えます。
モモクリ三年と云うように、モモは生長が早いので……。
苗木を買っても、数年で立派な成木になります。
ただし……。
モモは、病害虫の多い樹木なので……。
薬剤散布が、必須になっちゃうでしょうが……。
さて、脱線を元に戻しましょう。
石田波郷が師事した、水原秋桜子の句の話をしてたんですよね。
秋桜子の句集「葛飾」から、もう少しあげてみます。
●来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり
●梨咲くと葛飾の野はとの曇り
●高嶺星(たかねぼし)蚕飼(こがい)の村は寝しづまり
このような抒情的な句は、多くの若者を引き付けました。
もちろん、波郷もその1人でした。
昭和7年、波郷は、秋桜子を慕って上京します。
松山から出てきた青年には……。
東京での暮らしは、見るものすべてが新鮮だったんでしょうね。
都市生活を題材にした瑞々しい句が、たくさん作られました。
秋桜子の愛弟子らしく、映像がくっきりと見える句です。
わたしは、このころの波郷の句が大好きなんです。
自分も、上京して初めて都会に触れた人間なので……。
どこか通じるものを感じるのかも知れません。
今回のシリーズでは、そんな波郷の……。
比較的若いころの、春の俳句をご紹介したいと思います。
●バスを待ち大路(おおじ)の春をうたがはず
わたしの大好きな句です。
大路がどこの道路かわかりませんが……。
波郷が立ってたのは、大通りに面したバス停でしょう。
街路樹が並んでたと思います。
イチョウかな?
それとも、プラタナス?
あるいは、ユリノキかも知れません。
いずれにしろ……。
緑の芽が萌えだしてたことでしょう。
バス停に並ぶ若い女性の服装も……。
厚いオーバーから、軽やかなスプリングコートに変わってます。
街路樹と一緒に、さんさんと降りそそぐ春の日を浴びながら……。
春が来たことを確信してるわけです。
この気持ち、ほんとによくわかります。
わたしも早く、越路の春を確信したいものです。
ここで、再び脱線ですが……。
わたしは、東京の路線バスが大好きでした。
休みの日には、用もないのにバスに乗ってました。
座れないと面白くないので……。
必ず始発から乗ります。
下りるのは終点。
そこからまた、別系統の始発に乗り換える。
これを繰り返して……。
朝から夕方まで乗ってたこともあります。
1日乗ったって、2,000円もあれば足りるんですよ。
わたしの手元には今も……。
当時使ってた「東京交通区分」という、分厚いバス路線図があります。
これを膝の上に置きながらの一人旅。
ほんとに楽しかったな。
●あえかなる薔薇撰りをれば春の雷
前書きに、「銀座千疋屋」とあります。
「銀座千疋屋(ぎんざせんびきや)」は、明治27年創業の有名なフルーツパーラー。
ホームページの事業内容を見ても、花は売ってないようです。
では、どうしてフルーツパーラーで薔薇を選ぶのか……。
さっぱりわかりません。
なので、この前書きは無視して……。
ロケーションを、花屋さんに変えましょう。
若い男性が、花屋の店頭で薔薇を選んでます。
若いと云っても、10代や20代前半では絵になりません。
30近い方がいいですね。
誰に贈るのでしょうか?
男性が薔薇を選んでる姿って、いいですよね。
ちょっと照れくさそうにしながら……。
それでいて、真剣な眼差し。
ひょっとしたら、店員さんが、薔薇選びを手伝ってくれてたのかも?
そんなとき、思いがけず春の雷が鳴ります。
店員さんは、小さな悲鳴を上げ……。
一瞬、立ち竦むかも知れません。
雷が収まると、声をあげてしまったことを謝り……。
少し頬を染めながら、薔薇選びに戻ります。
男性が、この花屋に足を運ぶのは……。
もしかしたら、この店員さんに思いを寄せてるからなのかも知れません。
薔薇も、誰かへのプレゼントではなく……。
自分の部屋に飾るためかも?
店員さんの面影を偲びながら……。
珈琲でも入れるんじゃないでしょうか。
なんて……。
無限に想像が広がります。
映画の1シーンのような句です。
実は、↑のイメージは、ある小説に影響されてます。
梶尾真治のSF小説、「クロノス・ジョウンターの伝説」。
梶尾さんの作品では、「黄泉がえり」が映画になってますね。
「クロノス・ジョウンターの伝説」は、花屋の店員さんを好きになった男性のお話。
彼女の命を救うため、男性は壮絶な人生に踏みこんで行きます。
●夜桜やうらわかき月本郷に
この夜桜は、上野公園だったそうです。
わたしが思うに……。
夜桜を見るために、上野公園へ足を運んだんじゃないと思います。
句材を求めて夜桜見物に行くなんてのは、波郷には似合いません。
たまたま通りかかったんでしょう。
だから夜桜も、公園の外から見たんじゃないでしょうか?
夜空に広がるソメイヨシノの花は、きっと幻想的だったでしょうね。
でも、波郷は、立ち止まることなく通り過ぎたでしょう。
たとえば波郷が……。
夜桜の前で立ち止まり……。
懐から俳句帳を取り出して句を捻ってる姿なんて、とても想像できませんから。
ダンディな波郷は、そんなことはしなかったはず。
脳裏では、無数の言葉たちのマッチングが行われてたでしょうけど……。
着流しの懐手を崩すことなく、涼しい顔で歩み過ぎたと思います。
本郷まで来たとき……。
大きな月が掛かってるのに気づきました。
このとき、一瞬にして句が成ったんだと思います。
上野公園の夜桜と、本郷の月がひとつになったんです。
ま、実際にこうだったとは言えませんけどね。
でも、優れた句が出来る過程を想像してると、わくわくします。
この句が成ったのは、昭和13年。
波郷は25歳でした。
「うらわかき月」は、うら若き波郷を写したものだったのかも知れません。
●初蝶や吾が三十の袖袂
昭和17年の作。
波郷は、満29歳ですが……。
当時は、「数え年」で年齢を表すのが一般的でした。
この年の3月、波郷はお見合いをしてます。
6月には、その人と結婚。
縁談が進行してるときの句だと思います。
所帯を構えようとする男性の、初々しい気負いが感じられます。
三好達治が、この句を「可憐」と評したのは有名。
三好達治と云えば、わたしの大好きな詩があります。
みなさんも、現国の教科書で読んだこと、おありなんじゃないでしょうか?
--------------------------------------------------
甃のうへ(いしのうへ)
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
--------------------------------------------------
この詩は、東大仏文科在籍中に書かれたものだとか。
昔の学生の、教養の高さがうかがわれますね。
●立春の米こぼれをり葛西橋
これは、終戦直後、昭和21年の作。
病を得て戦地から帰ってきた波郷は、33歳になってました。
食糧難の時代ですから……。
つい、橋にこぼれたお米に、目が行ってしまったのでしょうか?
でも不思議と、貧しさや卑しさを感じさせません。
むしろ、清々しい映像が浮かびます。
立春の朝……。
真っ白いお米が、橋の上にこぼれてる風景。
このころの葛西橋は、まだ木橋でした。
茶色の板の上にこぼれたお米。
欄干には、もう雀が集まってたかも知れません。
波郷が通り過ぎた後ろでは、もう競争でお米を啄んでたかも……。
戦争が終わって初めての春。
生き残った者だけに巡って来た春です。
そんな人たちにとって……。
新しい日々は、真っ白いお米のようなものだったかも知れませんね。
そういえば、波郷には、有名な雀の句があります。
同じく、昭和21年の作。
●はこべらや焦土のいろの雀ども
前の句と同じころの句。
「はこべら」は、「はこべ」のこと。
春の七草です。
雀の羽を、焦土の色と言ってるのですが……。
ネガティブなイメージはありません。
焼け跡に、いっせいに萌えだした「はこべら」……。
それを、一心に啄む雀たち。
可憐でありながら逞しい、小さな生き物たちへの賛歌のようです。
砂町の妙久寺に、句碑があります。
ついでにもう一つ、雀の句をご紹介します。
ただし、季節は初夏。
●雀らも海かけて飛べ吹流し
波郷の句に出てくる雀は、ほんとに元気です。
この頃は、波郷も元気でした。
昭和18年、波郷、30歳。
5月に長男が生まれてます。
吹き流しは、順風をいっぱいに孕んで泳いでました。
しかし……。
この年の9月、召集令状が届くことになります。
以上、駆け足でしたが、大好きな石田波郷の句をご紹介しました。
石田波郷という人を、ご存じでしょうか?
“いしだはきょう”と読みます。
昭和を代表する俳人の一人。
俳句の都、愛媛県松山市の出身。
波郷はここで、大正2年(1913年)に生まれました。
本名は、石田哲大(てつお)。
波郷というと、いわゆる“療養俳句”が広く知られてます。
彼は、第2次大戦で招集を受け、中国山東省に出征しました。
そこで、真冬の不寝番を務めたのが悪かったのか……。
肺結核に罹ります。
野戦病院を転々した後、兵役免除となり、帰還しました。
戦後は、入退院を繰り返しながら、病気を題材にした俳句を数多く作りました。
●今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)
●霜の墓抱き起されしとき見たり
●泉への道後れゆく安けさよ
●七夕竹(たなばたたけ)惜命(しゃくみょう)の文字隠れなし
●雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
昭和44年(1969年)、肺結核が悪化し、56歳で亡くなるまで……。
自らの病と向き合った俳句を作り続け、多くの療養者を勇気づけました。
でもわたしは……。
病を得る前、まだ健康だったころの波郷の句が大好きなんです。
波郷は、昭和7年(1932年)、松山から単身上京し……。
松山時代から加わっていた「馬酔木(あしび)」の最年少同人として、頭角を現します。
「馬酔木」は、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)が主宰した俳誌です。
秋桜子(男性ですよ)は、「ホトトギス」の“4S”の1人として名声を得てました。
ちなみに、あとの3人は、山口誓子(せいし/この人も男性)、阿波野青畝(せいほ)、高野素十(そじゅう)。
しかし……。
「ホトトギス」の、客観的写生一辺倒の句風に、次第に飽きたらなくなり……。
主観重視を表明し、秋桜子は「ホトトギス」を脱退します。
こうして、「馬酔木」を興したのです。
秋桜子は、実風景にこだわらず、大胆に心象風景を持ち込みました。
たとえば……。
●葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり
秋桜子は、明治25年(1892年)の生まれですが……。
上の句の風景は、すでに葛飾には無かったそうです。
すなわち、秋桜子の胸の中だけに映った葛飾。
秋桜子自身、こう言ってます。
「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。
私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」
秋桜子の処女句集「葛飾」には、こうした幻想風景が歌われてます。
さてここで……。
例によって脱線します。
わたしは、「桃の籬」に、いたく心引かれるんです。
ほんとうに、桃の木を結い回した垣根なんか、あるんでしょうか?
落葉樹なので、冬の風避けにもならないし。
ひょっとして……。
ヤマモモのことかな?
ヤマモモなら常緑です。
暖地の樹木ですが、東京なら十分育ちます。
でもやっぱり……。
この句の桃は、ヤマモモじゃないよなぁ。
籬(まがき)と云うからには、列植です。
実を取るためなら、もっと間隔を空けるだろうし……。
そもそも、乾燥地を好む桃を、水田べりに植えるってのが解せん……。
もしかして!
稲架木に使ったのかな?
なんてことも思いましたが……。
桃の樹形は、稲架木には向かないよなぁ。
でも、水田べりと、桃の垣根は……。
異様に似合いそうです。
ここで、ご提案。
もし、みなさんのお庭に余裕があるのなら……。
「桃の籬」を、作ってみませんか?
ハナモモに、いい品種があるんです。
ハナモモとは、実を採る桃ではなく……。
花を観賞するモモです。
わたしがお勧めする品種は、「照手(てるて)」と云います。
ファスティギアータ(Fastigiata)という、特殊な樹形をしてます。
枝が横に広がらず直上する樹形を、ファスティギアータと呼ぶんですね。
“箒立ち”とも云われます。
幅が出ないので、列植に向いてます。
ファスティギアータ樹形のハナモモ、「照手」を……。
たとえば、紅白交互に植えたら……。
面白い垣根が出来ると思います。
↓こんな感じ。
お庭の広い方、ぜひ考えてみて下さい。
照手の苗木は、ネットでも買えます。
モモクリ三年と云うように、モモは生長が早いので……。
苗木を買っても、数年で立派な成木になります。
ただし……。
モモは、病害虫の多い樹木なので……。
薬剤散布が、必須になっちゃうでしょうが……。
さて、脱線を元に戻しましょう。
石田波郷が師事した、水原秋桜子の句の話をしてたんですよね。
秋桜子の句集「葛飾」から、もう少しあげてみます。
●来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり
●梨咲くと葛飾の野はとの曇り
●高嶺星(たかねぼし)蚕飼(こがい)の村は寝しづまり
このような抒情的な句は、多くの若者を引き付けました。
もちろん、波郷もその1人でした。
昭和7年、波郷は、秋桜子を慕って上京します。
松山から出てきた青年には……。
東京での暮らしは、見るものすべてが新鮮だったんでしょうね。
都市生活を題材にした瑞々しい句が、たくさん作られました。
秋桜子の愛弟子らしく、映像がくっきりと見える句です。
わたしは、このころの波郷の句が大好きなんです。
自分も、上京して初めて都会に触れた人間なので……。
どこか通じるものを感じるのかも知れません。
今回のシリーズでは、そんな波郷の……。
比較的若いころの、春の俳句をご紹介したいと思います。
●バスを待ち大路(おおじ)の春をうたがはず
わたしの大好きな句です。
大路がどこの道路かわかりませんが……。
波郷が立ってたのは、大通りに面したバス停でしょう。
街路樹が並んでたと思います。
イチョウかな?
それとも、プラタナス?
あるいは、ユリノキかも知れません。
いずれにしろ……。
緑の芽が萌えだしてたことでしょう。
バス停に並ぶ若い女性の服装も……。
厚いオーバーから、軽やかなスプリングコートに変わってます。
街路樹と一緒に、さんさんと降りそそぐ春の日を浴びながら……。
春が来たことを確信してるわけです。
この気持ち、ほんとによくわかります。
わたしも早く、越路の春を確信したいものです。
ここで、再び脱線ですが……。
わたしは、東京の路線バスが大好きでした。
休みの日には、用もないのにバスに乗ってました。
座れないと面白くないので……。
必ず始発から乗ります。
下りるのは終点。
そこからまた、別系統の始発に乗り換える。
これを繰り返して……。
朝から夕方まで乗ってたこともあります。
1日乗ったって、2,000円もあれば足りるんですよ。
わたしの手元には今も……。
当時使ってた「東京交通区分」という、分厚いバス路線図があります。
これを膝の上に置きながらの一人旅。
ほんとに楽しかったな。
●あえかなる薔薇撰りをれば春の雷
前書きに、「銀座千疋屋」とあります。
「銀座千疋屋(ぎんざせんびきや)」は、明治27年創業の有名なフルーツパーラー。
ホームページの事業内容を見ても、花は売ってないようです。
では、どうしてフルーツパーラーで薔薇を選ぶのか……。
さっぱりわかりません。
なので、この前書きは無視して……。
ロケーションを、花屋さんに変えましょう。
若い男性が、花屋の店頭で薔薇を選んでます。
若いと云っても、10代や20代前半では絵になりません。
30近い方がいいですね。
誰に贈るのでしょうか?
男性が薔薇を選んでる姿って、いいですよね。
ちょっと照れくさそうにしながら……。
それでいて、真剣な眼差し。
ひょっとしたら、店員さんが、薔薇選びを手伝ってくれてたのかも?
そんなとき、思いがけず春の雷が鳴ります。
店員さんは、小さな悲鳴を上げ……。
一瞬、立ち竦むかも知れません。
雷が収まると、声をあげてしまったことを謝り……。
少し頬を染めながら、薔薇選びに戻ります。
男性が、この花屋に足を運ぶのは……。
もしかしたら、この店員さんに思いを寄せてるからなのかも知れません。
薔薇も、誰かへのプレゼントではなく……。
自分の部屋に飾るためかも?
店員さんの面影を偲びながら……。
珈琲でも入れるんじゃないでしょうか。
なんて……。
無限に想像が広がります。
映画の1シーンのような句です。
実は、↑のイメージは、ある小説に影響されてます。
梶尾真治のSF小説、「クロノス・ジョウンターの伝説」。
梶尾さんの作品では、「黄泉がえり」が映画になってますね。
「クロノス・ジョウンターの伝説」は、花屋の店員さんを好きになった男性のお話。
彼女の命を救うため、男性は壮絶な人生に踏みこんで行きます。
●夜桜やうらわかき月本郷に
この夜桜は、上野公園だったそうです。
わたしが思うに……。
夜桜を見るために、上野公園へ足を運んだんじゃないと思います。
句材を求めて夜桜見物に行くなんてのは、波郷には似合いません。
たまたま通りかかったんでしょう。
だから夜桜も、公園の外から見たんじゃないでしょうか?
夜空に広がるソメイヨシノの花は、きっと幻想的だったでしょうね。
でも、波郷は、立ち止まることなく通り過ぎたでしょう。
たとえば波郷が……。
夜桜の前で立ち止まり……。
懐から俳句帳を取り出して句を捻ってる姿なんて、とても想像できませんから。
ダンディな波郷は、そんなことはしなかったはず。
脳裏では、無数の言葉たちのマッチングが行われてたでしょうけど……。
着流しの懐手を崩すことなく、涼しい顔で歩み過ぎたと思います。
本郷まで来たとき……。
大きな月が掛かってるのに気づきました。
このとき、一瞬にして句が成ったんだと思います。
上野公園の夜桜と、本郷の月がひとつになったんです。
ま、実際にこうだったとは言えませんけどね。
でも、優れた句が出来る過程を想像してると、わくわくします。
この句が成ったのは、昭和13年。
波郷は25歳でした。
「うらわかき月」は、うら若き波郷を写したものだったのかも知れません。
●初蝶や吾が三十の袖袂
昭和17年の作。
波郷は、満29歳ですが……。
当時は、「数え年」で年齢を表すのが一般的でした。
この年の3月、波郷はお見合いをしてます。
6月には、その人と結婚。
縁談が進行してるときの句だと思います。
所帯を構えようとする男性の、初々しい気負いが感じられます。
三好達治が、この句を「可憐」と評したのは有名。
三好達治と云えば、わたしの大好きな詩があります。
みなさんも、現国の教科書で読んだこと、おありなんじゃないでしょうか?
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甃のうへ(いしのうへ)
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
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この詩は、東大仏文科在籍中に書かれたものだとか。
昔の学生の、教養の高さがうかがわれますね。
●立春の米こぼれをり葛西橋
これは、終戦直後、昭和21年の作。
病を得て戦地から帰ってきた波郷は、33歳になってました。
食糧難の時代ですから……。
つい、橋にこぼれたお米に、目が行ってしまったのでしょうか?
でも不思議と、貧しさや卑しさを感じさせません。
むしろ、清々しい映像が浮かびます。
立春の朝……。
真っ白いお米が、橋の上にこぼれてる風景。
このころの葛西橋は、まだ木橋でした。
茶色の板の上にこぼれたお米。
欄干には、もう雀が集まってたかも知れません。
波郷が通り過ぎた後ろでは、もう競争でお米を啄んでたかも……。
戦争が終わって初めての春。
生き残った者だけに巡って来た春です。
そんな人たちにとって……。
新しい日々は、真っ白いお米のようなものだったかも知れませんね。
そういえば、波郷には、有名な雀の句があります。
同じく、昭和21年の作。
●はこべらや焦土のいろの雀ども
前の句と同じころの句。
「はこべら」は、「はこべ」のこと。
春の七草です。
雀の羽を、焦土の色と言ってるのですが……。
ネガティブなイメージはありません。
焼け跡に、いっせいに萌えだした「はこべら」……。
それを、一心に啄む雀たち。
可憐でありながら逞しい、小さな生き物たちへの賛歌のようです。
砂町の妙久寺に、句碑があります。
ついでにもう一つ、雀の句をご紹介します。
ただし、季節は初夏。
●雀らも海かけて飛べ吹流し
波郷の句に出てくる雀は、ほんとに元気です。
この頃は、波郷も元気でした。
昭和18年、波郷、30歳。
5月に長男が生まれてます。
吹き流しは、順風をいっぱいに孕んで泳いでました。
しかし……。
この年の9月、召集令状が届くことになります。
以上、駆け足でしたが、大好きな石田波郷の句をご紹介しました。
コメント一覧
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––––––
1. フェムリバ- 2010/03/06 17:46
-
「愛媛県松山市」って書いてくれてたのに・・・
思い込みって、指摘されないと直らないですね(汗)
昨日は暑いくらいで、愛知にもやっと春が来たと思ったのに・・・
今日は冷えます(泣)
でも
休耕田の草が青々としてるので、春の到来は、きっと近いです!
「はこべ」も、もう生えてるかもしれません。
-
––––––
2. Mikiko- 2010/03/06 21:01
-
また、真冬に逆戻りのようです。
まだまだ、春分までは、我慢しなくちゃならないみたいです。
ほんとに今年の冬は長い。
半年くらい冬だった気がします。
-
––––––
3. マッチロック- 2011/04/06 15:46
-
花屋の店先に通う男性・・・
それをみてある状況を思い出しました。
舞台は花屋ではなく、新宿の通りに面している、ある小さなアクセサリー店。
小さなアクセサリーを週に一度、必ず買っていく男性。そんな高価なものではなくおもちゃに毛の生えた程度の安物のちいさなアクセサリー。
決まってその店で買って小さな袋に入れてもらう。
ある日からその男性は、その店を素通りしていく。あえて店を見ないように。
いつしか、その男性はその通りを二度と通ることはなく、いつしかその店自体を忘れてしまった。
・・・てなことを思い出しました。
-
––––––
4. Mikiko- 2011/04/06 19:58
-
印象に残ってる小説があります。
梶尾真治の「クロノス・ジョウンターの伝説」。
http://blog-imgs-46.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20110406174003c4b.jpg
切ない物語でした。
新刊では買えないみたいですね。