2010.2.27(土)
これは、第391回から第392回までのコメント欄で連載した、「『鈴木牧之のこと』(Ⅰ~Ⅱ」)」を、『Mikikoのひとりごと』として、1本にまとめたものです。
鈴木牧之という人を、ご存じでしょうか?
“まきゆき”ではありませんよ。
“ぼくし”と読みます。
本名ではなく、俳号です。
ほんとの名前は、鈴木儀三治。
“ぎそうじ”と読むようです。
これも……。
どなたもご存じありませんよね。
本名の方は、わたしも知りませんでした。
でも、俳号の牧之の方には、馴染みがありました。
みなさんが知らなくても、別に不思議じゃないんです。
わたしが知ってたのは、牧之が新潟県の人だから。
それでは、鈴木牧之とは、どういう人なのでしょうか?
俳人?
ま、俳号を持つからには、俳句も作ったのでしょうが……。
彼の俳句を、わたしはひとつも知りません。
鈴木牧之は、「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」という本を書いた人なんです。
現代の人ではありません。
江戸時代の人。
生まれは、越後国魚沼郡の塩沢。
今の、南魚沼市です。
コシヒカリの産地ですね。
牧之はここで、明和7年(1770年)に生まれました。
家は、地元名産の小千谷縮(麻織物)の仲買商でした。
実家の「鈴木屋」は、有数の豪商だったそうです。
牧之の父親も俳句をたしなみ、俳号を牧水と称しました。
彼の家には、三国街道を往来する文人が、よく立ち寄ったそうです。
そんな家に生まれた牧之も、幼いころから学問や俳句を学びました。
絵師について、書画も学んだそうです。
といっても、家の本業は仲買商です。
19歳のとき、縮80反を売るため、牧之は初めて江戸に出されます。
そこで驚いたのは、江戸の冬です。
雪が……。
無い!
空は連日晴れ渡り、人々は、ほかの季節と変わりなく暮らしてます。
牧之は、雪が無い冬に驚いたわけですが……。
さらに驚いたのは……。
江戸の人が、豪雪に苦しめられる冬を、まったく知らないということでした。
今なら、テレビがありますから……。
今年新潟を襲った大雪も、連日報道されました。
新潟県にはたくさんの雪が降るということを、知らない日本人はいないでしょう。
でも、江戸時代は違います。
遠い地方のことなど、知る方法が無いんです。
身の回りが、世界のすべて。
なので、江戸に住むほとんどの人が、豪雪に苦しめられる暮らしを知らなかったのです。
若い牧之は燃えました。
知らしめねばならん!
越後の豪雪を!
江戸の人に!
牧之は国元に戻ると、すぐに執筆に取りかかりました。
雪の成因、雪の結晶のスケッチなど、科学的分析から筆を起こし……。
雪中に突然起こる洪水の話や、熊が人を助けた逸話……。
越後各地の案内から、一年間の暮らしぶりまで。
もちろん、家業である縮の素材や作り方、流通などについても詳述しました。
そのほかにも、雪国の生き物たちについての考察、雪国ならではの風習、方言、などなど……。
まさに博物学的な大著になりました。
ようやく書き上げたのが、寛政10年(1798年)。
19歳で江戸に出てから、10年近い歳月が経ってました。
牧之は、書き上げた原稿を、何とか出版したいと考えました。
でも……。
田舎商人の書いたものなど、取り合ってくれる出版元はありません。
幸い、父の時代から、文人との交流がありましたので……。
そのツテを頼りに、江戸の戯作者、山東京伝に原稿を持ち込みました。
京伝に添削を依頼し、連名で出版してもらおうと思ったのです。
京伝は引き受けてくれましたが、いつまで待っても版元が見つかりません。
待っているうちに……。
文化13年(1816年)、京伝は亡くなってしまいました。
京伝と連名での出版が叶わなかった牧之は……。
今度は原稿を、曲亭馬琴に持ちこ込みました。
馬琴も協力すると言ってくれましたが……。
なにしろ、「南総里見八犬伝」を書いてる真っ最中で……。
本腰を入れてもらえません。
待てど暮らせど、出版の話は現実化しませんでした。
そんな中、ようやく助けの手を差し伸べてくれたのは、京伝の弟の京山でした。
出版を引き受けてくれたのです。
ところが、この京山と馬琴は仲が悪かったんですね。
牧之が、京山の元から出版しようとしてることを知った馬琴は……。
なんと!
預かったままの原稿を、返してくれなかったんです。
頼んでも頼んでも……。
もちろん、江戸時代ですから、原稿は一部だけです。
写しなど取ってません。
牧之は、どうしたと思います?
なんと!
初編全3巻となった大著を、ぜんぶ最初から書き直したんですよ。
この逸話を知ったときは、体が震えました。
馬琴に対する怒りで、全身から針が噴き出しそうでした。
どうして、こんなことができるんでしょう?
こういう仕打ちをしたのが、物書きじゃなければ、まだわからないこともありません。
書き上げた原稿がどれほど大事かは、物書きにしかわからないですから。
でも、馬琴は作家ですよ。
わからないわけ、無いんです。
自分が、書き溜めた「南総里見八犬伝」の原稿を失ったら、どんな気持ちになるかを想像すれば。
たぶん馬琴は、わかってたからこそ、そういう仕打ちをしたんでしょうね。
忙しさにかまけて、牧之の頼みに本腰を入れなかったくせに……。
いざ、他所から出そうとすると……。
自分に頼んだくせにって、そういう意地悪をする。
意地悪どころじゃ済まないですよ。
犯罪だと思います。
ヒトデナシの因業ジジイです。
この逸話を知ってからわたしは、馬琴が大嫌いになりました。
でも、ほんと牧之は偉かった。
わたしがもし、今書き溜めてる「由美美弥の」未発表分、450枚を失ったら……。
再び書き直せる自信は、まったくありません。
たぶん、泣き暮らしたあげく……。
執筆自体を止めてしまうことでしょう。
しかし、牧之は違いました。
全3巻をすべて書き直したんです。
字だけじゃ無いんですよ。
牧之が、幼い頃から絵師について書画を学んだということを最初に書きましたが……。
原稿にも、ふんだんに自筆の挿し絵が入れられてるんです。
やっぱり、文字だけじゃ伝え切れない、と思ったんでしょうね。
つまり、その絵も、すべて書き直したってことですよ。
ほんとに、偉いです……。
越後人のねばり強さ、ここに極まれりって感じです。
それにつけても、馬琴の憎さよ……。
そして、ついについに……。
初編3巻が刊行されました。
書名「北越雪譜」。
天保8年(1837年)のことです。
初稿を書き上げたのが、1798年ですから……。
出版に漕ぎ着けるまで、実に39年もの歳月がかかったわけです。
28歳だった牧之は、67歳になってました。
で、その反響ですが……。
大ありでした。
大ベストセラーになったんです。
好評に応え、天保12年(1841年)には二編が発売されます。
牧之は、さらに三編、四編の構想も持っていたようですが……。
残念ながら、叶いませんでした。
命の方が、先に尽きてしまったんです。
二編を発売した直後、天保13年5月、72歳で牧之は亡くなりました。
ほんとに、もっと早く出版できてたらと……。
実を揉むほど悔しいです。
最後に付け加えておきますが……。
牧之は、家業を投げ出して出版の夢を追ってたわけじゃありません。
本業の仲買業にも精を出し、家財を3倍にしたそうです。
つくずく、凄い人ですね。
ひさびさの雪に降りこめられた冬。
他県のみなさんに、ぜひ鈴木牧之を知ってもらいたく、この稿を書きました。
春になったら……。
塩沢にある「鈴木牧之記念館」に、行ってみようかな……。
鈴木牧之という人を、ご存じでしょうか?
“まきゆき”ではありませんよ。
“ぼくし”と読みます。
本名ではなく、俳号です。
ほんとの名前は、鈴木儀三治。
“ぎそうじ”と読むようです。
これも……。
どなたもご存じありませんよね。
本名の方は、わたしも知りませんでした。
でも、俳号の牧之の方には、馴染みがありました。
みなさんが知らなくても、別に不思議じゃないんです。
わたしが知ってたのは、牧之が新潟県の人だから。
それでは、鈴木牧之とは、どういう人なのでしょうか?
俳人?
ま、俳号を持つからには、俳句も作ったのでしょうが……。
彼の俳句を、わたしはひとつも知りません。
鈴木牧之は、「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」という本を書いた人なんです。
現代の人ではありません。
江戸時代の人。
生まれは、越後国魚沼郡の塩沢。
今の、南魚沼市です。
コシヒカリの産地ですね。
牧之はここで、明和7年(1770年)に生まれました。
家は、地元名産の小千谷縮(麻織物)の仲買商でした。
実家の「鈴木屋」は、有数の豪商だったそうです。
牧之の父親も俳句をたしなみ、俳号を牧水と称しました。
彼の家には、三国街道を往来する文人が、よく立ち寄ったそうです。
そんな家に生まれた牧之も、幼いころから学問や俳句を学びました。
絵師について、書画も学んだそうです。
といっても、家の本業は仲買商です。
19歳のとき、縮80反を売るため、牧之は初めて江戸に出されます。
そこで驚いたのは、江戸の冬です。
雪が……。
無い!
空は連日晴れ渡り、人々は、ほかの季節と変わりなく暮らしてます。
牧之は、雪が無い冬に驚いたわけですが……。
さらに驚いたのは……。
江戸の人が、豪雪に苦しめられる冬を、まったく知らないということでした。
今なら、テレビがありますから……。
今年新潟を襲った大雪も、連日報道されました。
新潟県にはたくさんの雪が降るということを、知らない日本人はいないでしょう。
でも、江戸時代は違います。
遠い地方のことなど、知る方法が無いんです。
身の回りが、世界のすべて。
なので、江戸に住むほとんどの人が、豪雪に苦しめられる暮らしを知らなかったのです。
若い牧之は燃えました。
知らしめねばならん!
越後の豪雪を!
江戸の人に!
牧之は国元に戻ると、すぐに執筆に取りかかりました。
雪の成因、雪の結晶のスケッチなど、科学的分析から筆を起こし……。
雪中に突然起こる洪水の話や、熊が人を助けた逸話……。
越後各地の案内から、一年間の暮らしぶりまで。
もちろん、家業である縮の素材や作り方、流通などについても詳述しました。
そのほかにも、雪国の生き物たちについての考察、雪国ならではの風習、方言、などなど……。
まさに博物学的な大著になりました。
ようやく書き上げたのが、寛政10年(1798年)。
19歳で江戸に出てから、10年近い歳月が経ってました。
牧之は、書き上げた原稿を、何とか出版したいと考えました。
でも……。
田舎商人の書いたものなど、取り合ってくれる出版元はありません。
幸い、父の時代から、文人との交流がありましたので……。
そのツテを頼りに、江戸の戯作者、山東京伝に原稿を持ち込みました。
京伝に添削を依頼し、連名で出版してもらおうと思ったのです。
京伝は引き受けてくれましたが、いつまで待っても版元が見つかりません。
待っているうちに……。
文化13年(1816年)、京伝は亡くなってしまいました。
京伝と連名での出版が叶わなかった牧之は……。
今度は原稿を、曲亭馬琴に持ちこ込みました。
馬琴も協力すると言ってくれましたが……。
なにしろ、「南総里見八犬伝」を書いてる真っ最中で……。
本腰を入れてもらえません。
待てど暮らせど、出版の話は現実化しませんでした。
そんな中、ようやく助けの手を差し伸べてくれたのは、京伝の弟の京山でした。
出版を引き受けてくれたのです。
ところが、この京山と馬琴は仲が悪かったんですね。
牧之が、京山の元から出版しようとしてることを知った馬琴は……。
なんと!
預かったままの原稿を、返してくれなかったんです。
頼んでも頼んでも……。
もちろん、江戸時代ですから、原稿は一部だけです。
写しなど取ってません。
牧之は、どうしたと思います?
なんと!
初編全3巻となった大著を、ぜんぶ最初から書き直したんですよ。
この逸話を知ったときは、体が震えました。
馬琴に対する怒りで、全身から針が噴き出しそうでした。
どうして、こんなことができるんでしょう?
こういう仕打ちをしたのが、物書きじゃなければ、まだわからないこともありません。
書き上げた原稿がどれほど大事かは、物書きにしかわからないですから。
でも、馬琴は作家ですよ。
わからないわけ、無いんです。
自分が、書き溜めた「南総里見八犬伝」の原稿を失ったら、どんな気持ちになるかを想像すれば。
たぶん馬琴は、わかってたからこそ、そういう仕打ちをしたんでしょうね。
忙しさにかまけて、牧之の頼みに本腰を入れなかったくせに……。
いざ、他所から出そうとすると……。
自分に頼んだくせにって、そういう意地悪をする。
意地悪どころじゃ済まないですよ。
犯罪だと思います。
ヒトデナシの因業ジジイです。
この逸話を知ってからわたしは、馬琴が大嫌いになりました。
でも、ほんと牧之は偉かった。
わたしがもし、今書き溜めてる「由美美弥の」未発表分、450枚を失ったら……。
再び書き直せる自信は、まったくありません。
たぶん、泣き暮らしたあげく……。
執筆自体を止めてしまうことでしょう。
しかし、牧之は違いました。
全3巻をすべて書き直したんです。
字だけじゃ無いんですよ。
牧之が、幼い頃から絵師について書画を学んだということを最初に書きましたが……。
原稿にも、ふんだんに自筆の挿し絵が入れられてるんです。
やっぱり、文字だけじゃ伝え切れない、と思ったんでしょうね。
つまり、その絵も、すべて書き直したってことですよ。
ほんとに、偉いです……。
越後人のねばり強さ、ここに極まれりって感じです。
それにつけても、馬琴の憎さよ……。
そして、ついについに……。
初編3巻が刊行されました。
書名「北越雪譜」。
天保8年(1837年)のことです。
初稿を書き上げたのが、1798年ですから……。
出版に漕ぎ着けるまで、実に39年もの歳月がかかったわけです。
28歳だった牧之は、67歳になってました。
で、その反響ですが……。
大ありでした。
大ベストセラーになったんです。
好評に応え、天保12年(1841年)には二編が発売されます。
牧之は、さらに三編、四編の構想も持っていたようですが……。
残念ながら、叶いませんでした。
命の方が、先に尽きてしまったんです。
二編を発売した直後、天保13年5月、72歳で牧之は亡くなりました。
ほんとに、もっと早く出版できてたらと……。
実を揉むほど悔しいです。
最後に付け加えておきますが……。
牧之は、家業を投げ出して出版の夢を追ってたわけじゃありません。
本業の仲買業にも精を出し、家財を3倍にしたそうです。
つくずく、凄い人ですね。
ひさびさの雪に降りこめられた冬。
他県のみなさんに、ぜひ鈴木牧之を知ってもらいたく、この稿を書きました。
春になったら……。
塩沢にある「鈴木牧之記念館」に、行ってみようかな……。