2017.11.9(木)
羅紗は娘の背中を見てその足を止めた。
若くしなやかな肢体を志那服の青白い輝きが際立たせている。
両手をついた女の脇を抜けて、羅紗は用人部屋の上座へと進んだ。
外に控えた初音に小さく頷いてその娘に言葉をかける。
「苦しゅうない。面を上げよ」
ゆっくりと上がった上品な小顔を羅紗は注意深く見つめる。
どこか香しさを放つその女は、やはり大陸の血を感じさせた。
「お前、言葉に不自由はないそうじゃが、名は何と申す?」
娘の顔が明るく輝いた。
「春蘭と申します。母が日の本の生まれで、子供の頃より二つの言葉を使こうておりました」
その返事に頷きながら、羅紗は気がかりなことを春蘭に問わずにいられなかった。
「お前は商いで日本に参ったそうじゃが、その是非はともかく、潮影で怖い目に合うたそうじゃな?」
「は、はい……潮影とそれから、小浜で……」
「なに、小浜で!?」
思わず声を高めた羅紗は、廊下の初音と目を見合わせる。
「どのような事を見聞きしたのか、私に話してはくれぬか」
何かに怯える様に俯いた春蘭は、目を閉じ両手で自分の胸を抱いた。
「怖い……」
「怖い……?」
小刻みに肩を震わせ始めた春蘭の顔を、羅紗は訝し気に覗き込む。
「暗い……石の牢屋……。気が狂うた女たち………」
「牢屋……」
そのつぶやきに羅紗は身を乗り出した。
「怖い女たち……。それから……、それから……小さな子供……」
「子供!」
羅紗は顔を上げて初音と顔を見合わせた。
「そ、それはどの様な子であった? してその牢屋はどこにあるのじゃ!」
「こ、怖い……やめて! 怖い~! わああ~~……」
突然取り乱した春蘭は、前に崩れ落ちて泣き声を上げた。
羅紗は慌てて春蘭の肩に手を添える。
「すまぬ、怖いことを思い出させたのじゃな。しかしこの城におればお前は何も怖がることはない。しばらく落ち着いてから、また話を聞かせてはくれぬか?」
春蘭は羅紗に泣きぬれた顔を上げる。
「有難うございます……。羅紗様のお傍に私を置いてください。落ち着きましたらお話ししとうございます……」
羅紗は涙の伝う娘の頬に右手を添えると、優しい笑みを浮かべた。
「わかった。私の寝所の下にお前の部屋を取らせよう。話す気になったらいつでも周りの者に声をかけよ。今夜はゆっくりと休むがよいぞ」
春蘭は潤んだ瞳で羅紗を見上げながら、頬にあてられた羅紗の右手を両手で包んだ。
思わず胸の高鳴りを覚えながら、羅紗は外の初音に目を向ける。
「では……」
小さく初音と頷き合うと、羅紗は立ち上がって部屋を後にした。
やっと尾根の木立が途切れて、重い足を止めた伊織は周りの地形に視線を巡らせる。
初夏の鮮やかな緑の息吹が、長月に入った今は微かに渋みを帯び始めていた。
「ふう……」
伊織は胸の奥につかえた息を吐いた。
短い仮眠を挟んで一昼夜丹波へと山道を辿ったが、我が子の姿はおろか根来の背中さえ見つけることは出来ない。
“方角違いか……?”
救出前夜にあらかたの道筋は話し合ったものの、見知らぬ土地では尾根ひとつ違えば居場所が分からぬのも当然かもしれない。
せっかく見晴らしの良い場所に出たこともあり、伊織は周りの景色に目を向けることにした。
昼下がりの山に聞こえるのは風の音ばかり。
時の流れと共に、日に照らされた緑の中を雲の影が動いていく。
“うん……?”
視野の片隅で何かが小さく動いたような気がした。
ひとつ南の尾根、北側の斜面の暗がりに伊織は目を凝らした。
深い木立の隙間に、急な斜面をよじ登る黒装束が見えた。
“根来か……?”
伊織は尾根道を逸れて南の谷へと足を踏み出した。
その影が根来かどうかは分からない。
しかし若の居場所に検討が付かない以上、その黒装束を追うことに伊織は望みを託したのである。
急な斜面を下りながら、伊織は10年ぶりに会った我が子の面影を切ない胸の痛みと共に追いかけていた。
もう丹後の国境が目前に迫っていた。
商人夫婦であろうか、亭主が引く荷車を後ろから年かさの女房が両手で押している。
荷台の上は積み荷を覆ったむしろが小ぢんまりと盛り上がっていた。
「あんた、大丈夫? 少し休みましょうか?」
登りで息が荒くなった引手に、後ろから女房の声がかかる。
亭主と思しき若い男は、ほんのりと顔を赤く染めた。
「はあはあ………。よし、ではあの左上がりを登り切ったら少し休むとするか」
「はい。じゃあもうひと踏ん張り……」
蔓は大石桔梗の言葉に笑みを浮かべると、嬉しそうにそう返事を返した。
しかし細い山道が左上がりに差し掛かったあたりで、何故か桔梗の足がぴったりと止まった。
十間ほど登った道脇に二人の人影が見えた。
錫杖を肩に担いだ大柄な女の隣に、目つきの鋭い色黒の女が切り株に座っている。
切り株の女が立ちあがると、二人は何気なく桔梗たちに向かって歩き始めた。
後ろを窺う桔梗に、蔓はそっとむしろの下から藁筒を前に押し出した。
もう逃げ足を使う余裕は無い。
もう三間に近付いた二人の女に桔梗と蔓は頭を下げた。
「商いかい……?」
沙月女の問いかけに、大石桔梗は急いで被った傘を脱ぐ。
「は、はい。これから丹後から但馬へ商いに参る途中でございます」
「ふうん。で、この荷は……?」
蓬莱は片手で持った錫杖を荷のむしろに向ける。
「はい、薬でございます。あちらでは、よう効くと喜んでいただいておりまして……」
「そうかい……」
沙月女は蔓の恵比須顔に笑みを返しながら荷に近付く。
「じゃあ、あたし達にもちょっとその薬、見せてもらおうか」
急いで蔓は沙月女の前に身を割り込む。
「申し訳ございません。このような薬は日の光を嫌いまして……」
「何か見せられないようなものを積んでるんじゃないだろうね」
蔓を睨み据えた沙月目に桔梗が口を開く。
「申し訳ございません。私たちの商いはお客様のお求めに合わせて暗所で薬を調合いたしますので。どうか今日のところはこれで……」
桔梗は懐から状差しを取り出して沙月目に差し出す。
「いいから荷の中身をちょっと見せな!」
とうとう蓬莱が錫杖をむしろの下に差し込んだ時、
「わかりました。お客様ちょっとお待ちを」
桔梗はむしろの下の藁筒に手をかけた。
途端に蔓が荷車を坂の下へと引き下げる。
藁筒から抜き放った桔梗の大刀が水平に沙月女を襲った。
危うく飛び下がって沙月女はその一撃を避ける。
坂下へと逃げる荷車の車輪を蓬莱の錫杖が襲った。
派手な音を立てて右前の車輪が吹き飛ぶ。
傾いて坂道に突っかかった荷車から鶴千代の身体が転がり落ちた。
「蓬莱!!」
沙月女の叫びと共に蓬莱の巨漢が鶴千代に向かって突き進む。
蔓は背中に鶴千代を庇うと、懐から掴みだしたものを蓬莱に向けて投げる。
先端に鉛を結わえた紐が両足首に絡み付き、蓬莱はもんどりうって山道に転がった。
間髪入れず小刀片手の蔓が蓬莱の上に飛びかかる。
しかし蓬莱に馬乗りになった途端、蔓の身体は易々と二間以上も下に跳ねばされた。
「鶴千代様!!」
桔梗は山道に転がった鶴千代の身体を急いで抱き起す。
「私の後ろに!」
背中に鶴千代を庇うと、大石桔梗は沙月女に向かって大刀を上段、小刀を身体の前に斜に掲げた。
ようやく両足に絡んだ縄を解いて蓬莱も沙月女の横に立ちあがる。
「もうこれまでだ。大人しく若を渡せ」
そう言い放って沙月女が前に進もうとした時、
鈍い爆裂音と共に白い煙が辺りを包み込んだ。
「桔梗様! さあ早く逃げて!!」
「蔓!」
鶴千代の肩を抱いた桔梗がその声に顔を上げる。
「早く!!」
急きたてる蔓の声に、桔梗と鶴千代は白い煙の向こうに姿を消した。
途端に空気を震わせる不気味な音が舞い上がる。
「ほ、蓬莱!」
沙月女の叫びが上がった途端、蓬莱の笑い声が聞こえた。
「あっははは、なんだまたお前だったのかい。沙月女、あたしの後ろにおいで」
白い煙が薄らいでいくにつれて、不気味な音も消えて行った。
煙の消え去った後に蓬莱が仁王立ちに立ちはだかっていた。
その足元には仮面を被ったような蜂が幾匹も地に落ちている。
蔓は唇を噛んで林道わきの木立に飛び上がった。
「往生際の悪いやつだね。時間稼ぎかい? 沙月女、どうする?」
沙月女は蓬莱の大きな背中からゆっくりと姿を現わす。
「後ろから寝首を掻かれてもかなわないからねえ。こいつとは先にけりを付けようじゃないか」
根来の二人に見上げられながら、蔓は悲壮な表情で唇を噛んだ。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2017/11/09 07:51
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長月(ながつき)
旧暦の9番目の月です。
ちなみに、本日11月9日を旧暦にすると……。
↓9月21日になります。
http://www.arachne.jp/onlinecalendar/kyureki/
まさしく、長月の終盤。
長月の語源は、定かでないようです。
夜が長くなる月とも、雨が長くなる月とも云われてます。
確かに、夜はすっかり長くなりました。
もう一度、旧暦の月名をおさらいしておきましょう。
1月 睦月(むつき)
2月 如月(きさらぎ)
3月 弥生(やよい)
4月 卯月(うづき)
5月 皐月(さつき)
6月 水無月(みなづき)
7月 文月 (ふみづき)
8月 葉月(はづき)
9月 長月(ながつき)
10月 神無月(かんなづき)
11月 霜月(しもつき)
12月 師走(しわす)
今年も押し詰まってきました。
1年がほんとに早いです。
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2. ハーレクイン- 2017/11/09 17:35
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>丹後から但馬へ……
但馬は「たじま」ですが、これを“たんば”と読んだ御仁がいました。そりゃ『丹波』ですがね。
旧暦の月名
なんかの機会にやろうと思ってましたが、先を越されました(斎王編でやればよかった)。
ならば、各月のまたの名を……。
1月 睦び月
2月 衣更着
3月 木草弥生い茂る月
4月 卯の花月
5月 早月、早苗月
6月 水の月
7月 穂含月、女郎花月
8月 葉落ち月
9月 夜長月
10月 神の月
11月 霜の降る月、雪待ち月
12月 師匠趨走月
♪年のはじめの例とて~(早すぎるって)
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3. Mikiko- 2017/11/09 20:06
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但馬と云えば……
柳生但馬守宗矩。
ちなみに、俳優の柳生博さんは、柳生家の末裔だとか。
博さんのお子さんの真吾さんは、NHK『趣味の園芸』の司会で楽しませていただきましたが……。
若くして、癌で亡くなられました。
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4. ハーレクイン- 2017/11/09 21:47
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柳生但馬守宗矩←やぎゅうたんばのもりそうく(前コメの御仁の読み方;たぶん)
柳生家は関西発祥だと思います。
柳生博氏は茨城県。まあ、柳生家は徳川時代は江戸在住だったでしょうから、博氏が関東出身も納得ですね。
柳生真吾氏は咽頭がんだったそうです。享年47歳。
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5. Mikiko- 2017/11/10 07:28
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柳生宗矩
生まれは、大和国柳生庄(現・奈良市柳生町)。
父は剣豪、柳生石舟斎。
石舟斎が徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際……。
父と共に家康に謁見し、200石で家康に仕えることとなったそうです。
宗矩の長男は、柳生十兵衛。
宗矩だけが、政治家になりました。
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6. ハーレクイン- 2017/11/10 11:14
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奈良でしたか
柳生家。
柳生十兵衛も有名ですね。
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7. Mikiko- 2017/11/10 19:40
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柳生十兵衞三厳
映画などでは、隻眼として描かれますが……。
肖像画では両目が描かれており、十兵衛が隻眼であったという記録は無いそうです。
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8. ハーレクイン- 2017/11/10 22:07
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片目の重兵衛
なんででしょう。やはり映画の演出?
↓こんなの思い出しました。
♪片目のジャックは行くよ
夕陽に照らされて……
(克美しげる『片目のジャック』)
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9. Mikiko- 2017/11/11 08:11
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克美しげる
↓『エイトマン』の主題歌を歌った人です。
https://www.youtube.com/watch?v=vcTELCKq7bo
その後、歌謡曲路線に転じ、紅白にも2度出場しましたが……。
やがて、低迷。
脱却を図り、音楽関係者への接待を続けて、借金まみれ。
ようやく、東芝レコードから再デビューできましたが……。
借金時代から貢がせていた愛人を、足手まといになると考えて殺害。
10年の実刑判決を受けました。
7年後に仮出所した後も、覚醒剤不法所持で逮捕。
8ヶ月の実刑。
2013年、脳出血で死去。
享年75。
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10. ハーレクイン- 2017/11/11 11:18
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嫌われエイトマンの一生
↑山田宗樹『嫌われ松子の一生』のパロ。
中谷美紀主演で映画にもなりました。
しかし、殺人に覚醒剤ですか。
>足手まとい云々は、なんか映画のようです。
波乱万丈と云いますか何と言いますか……。
まったく知りませんでした。
♪ジョニー リメンバー・ミー……
(克美しげる『霧の中のジョニー』)