2017.11.7(火)
竹の声を聞いたのは、道代だけだった。
(ここは我らの領地だ)
(ここは我らの縄張りだ)
(お前などの来るところではないわ)
竹の声を聴くのは、二度目の道代だった。
初めは他でもない、この竹林の道の入り口に立った時だった。
その時も竹は言った。
(帰れ)(戻れ)(立ち去れ)(去ね)……と。
(帰れ)
(戻れ)
(立ち去れ)
(去〔い〕ね)
(帰れ)
(戻れ)
(立ち去れ)
(去ね)
(帰れ)
(戻れ)
(立ち去れ)…………
今、竹は、さらに続けて喚(おめ)いた。
(去〔い〕ね、と……)
(あれほど云うてやったに)
(来て、しもうたか)
(もはや知らぬぞ)
(もはや我らにはどうしようもなきことぞ)
(これも運命〔さだめ〕か)
(好きにするがよい)
(好きにするがよいわ)
(見届けては、やる……)
今、竹は、さらに(見届ける)と……。
初めて竹の喚(おめ)きを聞いたとき……道代は硬直した。一歩も動けず、その場に立ち竦(すく)んだ。
しかし今、道代の耳には、どこか励ましとも聞こえる竹の喚きだった。
(何があっても……)
(何があっても姐さんを)
お守りします、と改めて我が身に刻み込む道代だった。
竹の喚きは、葉擦れに変わった。
嵯峨野竹林の上空を、初冬の京の風が吹き過ぎた。
沈黙を破ったのは秀男だった。
「ほな、姐さん……儂はこれで。お戻りは車、呼んどくれやっしゃ」
志摩子は、苫屋の表札から秀男に視線を移した。その口を突いて出た言葉は、いかにも頼りなげであった。
「秀はん……もう、行かはるのん?」
「へい、ここは間違いの(無)う、今夜のお座敷の場、お送りしたらすぐもんて(戻って)来い、と女将さんの言い付けどしたさかい……」
「ああ……そないなこと、言わはってたなあ」
「へい、儂も戻ってやらんならんこと、まだおますよってに(あるので)……すんまへんが」
一呼吸おいて、志摩子は柔らかく声を掛けながら一揖(いちゆう)する。
「おおきに、秀はん、ほんまにお世話さんどした」
道代も志摩子に習い、こちらは無言、深々と腰を折った。
道代が顔を上げたとき、秀男は既に背を向けていた。道代の表情には、縋るような色合いがあったが、やはり言葉は出なかった。
道代は、左手に探る手を感じた。確かめるまでもなく、隣に立つ志摩子の右手だった。道代の左手の五指と、志摩子の右手の五指。合わせて十本の指は、互いに縋り合うように絡み合った。道代と志摩子は互いの手指で会話を交わした。
(姐さん)
(道)
(姐さん……)
(道、ええか)
(へえ、姐さん)
(行くえ〔行きますよ〕)
(へえ!)
(道、あんた……)
(へえ、姐さん)
(何があっても)
(へえ)
(守ってくれるんやろ)
(もちろんどす!)
(ほうか、おおきに〔有難う〕な)
(今さら何を、姐さん)
(道……)
一度、固く握りしめ合った後、どちらからともなく指を緩め、握り合った手は離れた。
志摩子と道代は、改めて声を掛け合った。
「行くえ、道」
「へえ、姐さん」
志摩子は振り向いた。改めて竹林の只中の苫屋、踊熊庵(ようゆうあん)に向き合う。
道代も志摩子から半歩下がった位置で、やはり向き直った。
志摩子は、道代を見遣ることなく歩みを進めた。二歩、三歩……四歩目は半歩で止まる。志摩子の目前に、踊熊庵の入り口があった。板を組んだ引き戸、ガラスは嵌められていない。呼び鈴の類は……これも無かった。
志摩子は片手を上げ、板戸を軽く叩き、声を掛けた。
「※おおきに」
「おおきにー、おたの申します」
※有難う、の関西語であるが、
この場合は、芸・舞妓が訪(おとな)いを入れる(訪問時に声を掛ける)ときの決まり文句。
応答はない。
人声も……何の気配もない。
再び声を掛けようとする志摩子の脇を、道代がすり抜けた。
「姐さん、うち(私)が……」
志摩子の返事を待たず、道代は戸を叩いた。志摩子の手のときよりも大きな音を、板戸がたてた。
「ごめんやす」
応答はない。
さらに数度板戸を叩きながら、道代は声を張り上げた。
「ごめんやーす、おたの、申しまーす」
ようやく、屋内に気配があった。声は無く、ややあって引き戸が内から揺れた。引き開けられる。意外なほど滑らかに、戸は開いた。
男の顔が、半分ほど開いた引き戸の間から覗いた。
見かけぬ顔だった。今夜の主人、相馬禮次郎ではない。
男は無言、問い掛ける眼差しで道代を見た。
「あの……祇園の……」
それだけを聞いて、男はやはり無言で背を向けた。板戸は開けたままである。
道代は、志摩子を見返った。
「姐さん……」
志摩子は無言で道代に近寄った。
道代は、志摩子を確認したのち、先に立って開いた戸の間をくぐった。
志摩子は変わらず無言のまま、ゆっくりと道代に続いて屋内に踏み入った。立ち止まる。
道代は志摩子を残したまま後ろに戻り、引き戸を閉じた。
戸の閉じる音を、志摩子は背中で聞いた。外の光が掻き消えた屋内は、まだ目の慣れない志摩子には、夜暗(やあん)かと思えるほど薄暗かった。
(来た……)
(来て、しもた〔しまった〕)
(戻れん)
(もう、戻れん)
(何があろうが……)
志摩子の右手が宙を泳いだ。
呼ばれたように、道代の左手が宙で迎えた。
仄暗い踊熊庵の屋内。道代と志摩子の片手どうしは、互いに命綱であるかのようにしっかり絡み合った。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/11/07 10:39
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やってきました踊熊庵(ようゆうあん)
頼みの秀男も去り、妖しの苫屋の前に取り残された道代と志摩子。ですが、ここまで来てしまえばもはや後には引けません。
とりあえず、登場しましたのは「男」それだけ。
終始無言ですから、正体の知り様もありませんが、いずれ踊熊庵の関係者なのでしょう(説明になってへんわ)。
道代と志摩子、縋るは互いの片手のみ。
鬼が出るか蛇が出るか(相馬のおっさんやろが)いよいよ物語はクライマックス、「志摩子の恨み」を語ることになります。
恨む相手はもちろん、料理人あやめ。
次回を乞う!ご期待。
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2. Mikiko- 2017/11/07 19:51
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竹林に熊で……
連想するのは、ジャイアントパンダですね。
パンダは竹しか食べないと思ったら大間違い。
本来、雑食性です。
動物の肉も食べます。
野生のパンダは、ときに人里に下り、家畜を襲うこともあるそうです。
高橋留美子の『らんま1/2 』に、水をかぶるとパンダになる親父が出てきます。
登場した「男」は、その種の怪人か?
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3. ハーレクイン- 2017/11/07 21:27
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>その種の怪人
ぜんぜん違います。ごく普通の男(ひと)。
いや、普通、でもないか。
それにしても「竹に熊でパンダ」。まったく気づきませんでした。今から改名するかなあ、踊る熊の庵(あー、めんどくせえ)。
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4. Mikiko- 2017/11/08 07:29
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パンダ
どういう利点があって、あの模様になったんでしょうね?
動物園で人気者になるためではないはず。
保護色?
雪くらいは降るでしょうが……。
竹の生えてる地域は、さほどの寒冷地ではないはず。
夏場、毛色が変わらないのが腑に落ちません。
岩場ならわかりますが、竹が生えてれば、背景は緑ですよね。
警告色とも考えにくいです。
なんでですかね?
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5. ハーレクイン- 2017/11/08 09:36
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大熊猫 ←ジャイアントパンダ
確かに、あの模様は不可解旋盤、おっと千万です。
まあ、天敵が存在しない(捕食される危険がない)ということと、食植性(獲物に逃げられる心配がない)ということで、不都合はないんでしょうけど。
動物園用としか考えられないですね。
あ、「その為に保護の対象になる → 絶滅回避につながる」
思いつきですが、↓これでどうでしょう。
つまり、突然変異によりあの模様を獲得した個体が保護され、無事に生息・繁殖を繰り返し現在に至る……。
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6. Mikiko- 2017/11/08 19:42
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パンダが保護されるようになったのは……
ごく最近でしょう。
それ以前は、絶滅危惧種となるまで、数を減らしたわけです。
それはひとえに、あの目立つ柄のせいだと思います。
見つけやすいので、食用に狩られたに違いありません。
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7. ハーレクイン- 2017/11/08 21:50
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>食用に狩られた
パンダって、美味いんですかね。
いや、それ以前に、毒とかないんでしょうか。
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8. Mikiko- 2017/11/09 07:20
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パンダを食べると……
目に隈が出るでしょう。
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9. ハーレクイン- 2017/11/09 17:27
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>目に熊、いや隈
ならば、シマウマを食べると縞模様ですな。
2頭食べるとタータンチェックに……。
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10. Mikiko- 2017/11/09 20:03
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パンダ
↓やはり、食べられてました。
https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/48807/
中国人が、食べないはずないんですよ。
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11. ハーレクイン- 2017/11/09 21:24
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パンダ肉
キロ1,000万円だそうです。
無論闇取引。捕まったら死刑。