2017.11.4(土)
1年をかけて苦労して収穫するより……。
よその収穫物を奪ってしまった方が、ずっと簡単だからです。
襲われる方も、黙って奪われてはいられません。
当然、戦いが始まります。
↑土井ヶ浜遺跡は、弥生時代前期から中期の墓地遺跡。
社会科の授業で習った縄文と弥生の暮らしのイメージは、まったく逆でした。
縄文人は、その日暮らしで、獲物の捕れないときは空き腹を抱えて堪えるしかない。
弥生人は、集団で農業をし、収穫物を消費しながら安定した暮らしをしていた。
年貢もありませんしね。
でも、現実は、逆だったんです。
弥生時代は、血で血を洗う、富の奪い合いの時代でした。
さきほどの柩の親子も、おそらく他の集落の戦闘員に襲われ……。
殺されてしまったのでしょう。
なぜ、こんな小さな子供まで殺したのか?
それはもちろん、復讐を恐れてのことです。
子供を生かしておけば、いつか父の仇を討ちに来るかも知れない。
↑これは、曾我兄弟の仇討ち(鎌倉時代初期)。
敵は、女子供まで皆殺しです。
このしきたりは、戦国時代まで続きました。
復讐の連鎖を断つためには、相手を潰滅させるほかはないのです。
現在の世界で、内乱がいっこうに終結せず、復讐の連鎖が続くのは……。
中途半端に休戦したりしてるからです。
どちらかの勢力が根絶やしにならない限り……。
戦争に終止符が打たれることはないでしょう。
話が陰惨になってしまいました。
展示に戻りましょう。
↑「み」
これはもう、だいぶ時代が進みましたね。
飛ばしたんでしょうか?
今となっては、わかりません。
どう見ても、江戸時代です。
港でもあり、宿場でもある感じです。
ネットを調べてみたところ……。
どうやら、『松戸宿』のようです。
『松戸宿』は、水戸街道の『千住宿』から2つ目の宿場町でした。
ジオラマで、海のように見えるのは、江戸川です。
対岸の江戸側には、『金町松戸関所』が置かれてたそうです。
↑今の東京都葛飾区東金町になります。
江戸川に橋はなく……。
江戸と松戸を往来する人は、渡し船で行き来してました。
↑松戸市の渡しと云えばこれですが……。『金町松戸関所』の渡しは、もう少し上流にありました。
『松戸宿』近在の農家には……。
対岸に農地を持ち、自家用船で川を往来する者もあったそうです。
『松戸宿』は、南北に約1キロほどの範囲に広がっていました。
松戸はまた、水運による物資集積地としても栄えており……。
数百軒の家並みが並ぶ、大規模な集落を形成してました。
物資運搬のための運河としても使われた『坂川』が、市街地の中を流れてました(ジオラマでは確認できませんね)。
↑「み」
昔の農村の様子です。
下総台地(たぶん、左上の薄緑色の部分)と江戸川に挟まれ……。
「下谷(したや)」と呼ばれた低地です。
右下に、不規則なパッチワークのように見えるのは、田んぼです。
一見、豊かそうですが……。
上のジオラマで、左上の下総台地の縁近くに、黒い線が刻まれています。
これがおそらく、さっき出てきた『坂川』ではないでしょうか。
この川が、台地の水を集めて、度々あふれたそうです。
特に収穫前、台風による被害が頻繁にあったとか。
3年に1度の収穫があればよいほどだったらしいです。
↑「み」
農作業に使われた「舟」です。
田んぼの中には堀と呼ばれる水路が流れ、収穫した稲は「舟」で運搬したとか。
なんだか、亀田郷と似てますね。
↑「み」
田植えと収穫時期のスケジュールは、今の新潟市と一緒です。
新潟でも、昔は、稲架木(はさぎ)で稲を干してました。
↑昭和30年の新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)の風景。
でも今は、ほとんど見られません。
戦後、田んぼの区画整理で、田んぼが四角に区切られたとき……。
畦に植えられてた稲架木は、多くが伐採されてしまったのです。
↑新潟市秋葉区満願寺に残る稲架木並木。区画整理のとき、26軒の農家が協力して、各地の稲架木をこの農道へ移植したそうです。
区画整理の目的は、農作業の機械化を進めるためです。
機械を入れて作業するには、田んぼが四角である方が効率がいいからです。
残った稲架木にも、別の試練が待ってました。
戦後に入ってきた、アメリカシロヒトリ(いわゆる、アメシロ)という蛾の幼虫です。
↑親は、雪の女王のように綺麗です。
アメリカ軍の軍需物資に着いて渡来したと云われてます。
稲架木に使われるのは、モクセイ科のトネリコという木です。
このトネリコの葉が、アメシロの大好物だったんです。
稲架木は並んでるので、あっという間に被害が広がります。
↑幼虫は、キモさ抜群です。
葉を食べ尽くされて丸坊主になってしまううえ、アメシロの巣の見た目も悪いので……。
次々と、伐採されてしまいました。
博物館に戻りましょう。
↑「み」
「下谷(したや)」の住まいです。
↓なんたるかは、説明書きをご参照下さい。
↑「み」。
備えはしていても、雨の時期は怖かったでしょうね。
避難用の「舟」を、軒下に吊してた家も多かったそうです。
さて、長々と松戸の歴史を書いてきましたが……。
実は、これまでの展示を見ることは、今回の目的ではありませんでした。
順路にあったので、足早に見て通っただけです。
今回、この博物館を訪ねた目的は、↓です。
↑「み」
これも、松戸市の歴史の一部としての展示ですが……。
これまで見てきた展示とは、スケールが桁違いです。
まずは、『常盤平団地』とは、どういう団地かということから説明します。
建てたのは、かつて存在した『日本住宅公団』。
1955(昭和30)年に設立された特殊法人です。
設立目的は、もちろん、住宅や宅地の供給です。
現在は、独立行政法人『都市再生機構(UR都市機構)』となってます。
『常盤平団地』は、畑や雑木林だった51万坪の土地を造成して建てられました。
4階建て中層公団住宅、170棟。
戸数は、4,839。
ショッピングセンター、集会所、病院、小学校も併設されました。
早い話、農村の中に、人工都市が忽然と出現したわけです。
↑現在の『常盤平団地』です。
「常盤平」の名称は、公募で決められました。
松戸市の「松」から、常盤の松にちなんだ命名だそうです。
『常盤平団地』の入居募集が開始されたのは、1959(昭和34)年。
1962(昭和37)年の10次募集をもって入居が完了しました。
抽選の最高倍率は、73.2倍だったそうです。
松戸市の人口は、7万9千人から、11万5千人に増えました。
また、建設当時は、グリーンベルトという緑地帯を設ける首都圏整備計画が行われており……。
『常盤平団地』でも、元々の雑木林を残すなど、施策に沿った緑地が確保されました。
しかし、その後、このグリーンベルト構想は消滅してしまいます。
そのため、後から開発された『常盤平団地』周辺の地域では、緑がほとんど失われてしまいました。
皮肉なことに、この地域で最も緑が残るのは、『常盤平団地』となったのです。
で、この『松戸市立博物館』には……。
この『常盤平団地』の1室が、再現されてるのです。
これだけなら、別段、珍しくもありませんが……。
『松戸市立博物館』のスゴいところは……。
団地の建物ごと再現してることです。
ジオラマじゃありませんよ。
なんと!
実物大です。
よく、こんなものを造ろうと思ったものだと、感心してしまいます。
実際の団地は4階建てですが……。
さすがに再現された建物は、2階部分までです。
再現された1室は、この1階部分にあります。
もちろん、建物の外階段から、そのお部屋にお邪魔することになります。
再現された1室に住む架空の家族には、緻密な人物設定までされてます。
小説を書く身として、大いに反省させられますね。
こんな細かい設定、考えたことがありませんから。
↓以下、『松戸市立博物館』の説明資料の転載です。
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この2DKの住人を紹介します。昭和35年(1960年)4月に結婚し、そのまま常盤平団地に入居した兼二郎(夫・29才)、陽子(妻・27才)の2人には、翌年4月に真理子(長女・1才)が誕生しました。
兼二郎は地方都市の商家の次男として生まれ、地元の高校から東京にある大学へ進学、現在は品川にある家電メーカーに勤務しています。趣味は映画と音楽鑑賞、特にフランス映画とモダンジャズを好んでいます。
陽子は東京の勤め人の家庭の末娘として生まれ、都内の高校を卒業して兼二郎と同じ家電メーカーに勤めていました。
社内のサークル活動で知り合った2人は、昭和34年の秋に婚約し、翌年の春に予定した結婚後の新居を探し始めていました。
当時話題となっていた公団住宅の入居募集を新聞で知り、陽子の母の実家が松戸だったこともあって、池袋の丸物デパートに設けられた公団住宅の入居受け付けで常盤平団地の2DKを申し込み、幸運にも入居の資格を得ました。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
入居申込みの受付場所まで設定されてます。
それでは、ご紹介しましょう
↓謙二郎と陽子です(もちろん、モデルですが)。
↑残念ながら、こんな写真しか見つかりませんでした。
さっそく、2人の新居を訪ねてみましょう。
↑「み」
夕暮れでしょうか。
停められたバイクが、良い味出してます。
もう1度、言っておきますが、完全に実物大です。
まさに、タイムスリップして、昭和30年代の団地に迷いこんだ気分になります。
そう云えば、なぜわたしがこの施設を訪ねたか言ってませんでした。
早い話、わたしは昔の団地が大好きなんです。
こういうところで生まれ育ちたかったと、心から思います。
実は、この『松戸市立博物館』を訪ねるのは、2度目なんです。
最初に来たのは、10年以上前です。
そのころは『Mikiko's Room』をやってなかったので……。
写真も撮らず、文章も残してませんでした。
最近では、古い団地の間取りをリフォームしたりするのが流行りのようです。
リノベーションって云うんですか?
↓ワンルームのフローリングみたいな。
わたしは、ああいう部屋には、まったく魅力を感じません。
団地サイズの畳(170cm×85cm)の、狭い和室が大好きなんです。
実はこの『常盤平団地』、まだ立派な現役で……。
常時、空き部屋の入居募集もなされてます。
↑現在の『常盤平団地』です。入居率はいいようです。都心に通うには、東京西部より、ずっと便利ですからね。
ただ、空いてる部屋は、ほとんどが4階で……。
たまに、3階があるくらい。
1,2階の部屋は、まず空かないようです。
普通のマンションと逆ですね。
なぜかと云えば、エレベーターが無いからです。
団地を出て行くのは、階段の上り下りが辛くなった方たちなんです。
当然のごとく、3,4階に集中します。
で、現在、URで入居者が募集されてる部屋は、間取りも表示されてます。
この間取りが、わたしの理想なんです。
↓標準的な間取りは、こんな感じ。
いいですよね。
和室が2部屋。
後は、ダイニングキッチンだけ。
ちなみに、このダイニングキッチンという言葉は、和製英語です。
ダイニングルーム(食堂)とキッチン(台所)をくっつけたもの。
当初は、日本住宅公団の中でだけ使われた符丁だったそうです。
さて、この部屋、どう使います?
もちろん、1人暮らしです。
わたしなら、ダイニングキッチンの左隣の和室を、居間にします。
夕食の晩酌も、ここでします。
もちろん、座卓です。
冬は、こたつ。
↑これこれ。
テレビを、左の壁際に置きます。
隣室との壁でしょうから、あまり大きな音は出せません。
AV鑑賞は、ヘッドホンをしなければなりませんね。
ま、晩酌時には見ませんからいいです。
でも、歳を取って耳が遠くなったら、ついついボリュームを上げてしまうでしょう。
こういう団地暮らしでは……。
近隣の住人とトラブルになったら、一気に快適さが失われてしまいます。
外部スピーカーを接続して、それをこたつの上に置けば良いですね。
テレビの音声は消しておきます。
なお、この和室で食事を摂るのは、夕食だけです。
朝食は、ダイニングキッチンでいただきます。
いちいち、和室まで運ぶのが面倒ですから。
もう1室、床の間のある和室は、寝室に使います。
もちろん、畳に布団を敷きます。
歳を取ったら、上げ下ろしが大変?
いえいえ。
上げ下ろしなんかしませんよ。
万年床です。
↑なごむのー。
わたしは、東京の和室のアパートにも住みましたが、常に万年床でした。
上げるのは、母が上京するときだけでした。
何を隠そう、現在の寝室も万年床です。
いちおう、目隠しに古い枕屏風を立て回してます。
↑わたしのとは形も置き方も違いますが、意図はこういうことです。
母には、病人がいるようだと不評ですが、これは譲りません。
昼間、寝室を別の用途に使う必要があるのなら、布団を上げるのは当たり前。
でも、純然たる寝室としてしか使わないのであれば……。
布団を上げる必要はないのです。
ベッドだって、早い話、万年床ですよ。
あ、この部屋には、パソコンも置きます。
場所は、浴室との境の壁前ですかね。
問題は、机を入れるかですよね。
入れるとしたら、畳が痛まないよう、小さい絨毯を敷かなきゃなりません。
↑こちらは、ホットカーペット。これもアリですね。
でも、座卓にパソコンというのも、いいんじゃないでしょうか。
↑これは、良さげですね。女性の部屋です。キーボードカバーがなんとも優雅です。
腰に悪そうですけど。
ちょっとまた話が脱線しました。
ところで、この『常盤平団地』、入居するには、収入の条件があります。
でも、勘違いしないでください。
市営住宅のように、収入が少ない人しか入れないんじゃないんです。
真逆です。
一定の収入、もしくは貯蓄がなければなりません。
こちらに現在の入居条件が書かれてます。
簡単に云うと……。
月収が家賃の4倍あるか、貯蓄額が家賃の100倍あるかのいずれかということになります。
家賃が5万円とすると……。
月収は、20万円以上。
貯蓄額であれば、500万円ということです。
困窮してる人は、とうてい入居できません。
入居が始まった当初は、もっと条件が厳しく、家賃の5.5倍の月収が必要でした。
なので、松戸市役所の若い職員では条件を満たせず、申し込みができなかったそうです。
実際に入居した人たちは、東京都心部の大企業に勤務する人が大半だったとか。
つまり、『常盤平団地』に入居できたのは……。
エリートサラリーマンたちということでしょう。
さて、博物館の展示に戻りましょう。
↑「み」
明かりが灯っている部屋が、謙二郎と陽子の愛の巣(恥ずかし)です。
1階ですが、窓はかなり高い位置にあるので……。
外を通る人から、部屋の中が見える心配はないでしょう。
↑「み」
1階の部屋でも、階段を少し上がります。
右の壁に設置されてるのは、集合ポストです。
↑「み」
左側に部屋の扉がありますが、これは謙二郎と陽子のお向かいさんです。
2人の部屋の扉は、これと向かい合った右側にあります。
正面の扉には、南京錠が掛かってるようです。
何でしょうね?
↑「み」
お邪魔します。
手前にある枠のようなものは、この向こう進入禁止の展示柵です。
和室にソファーを入れてますね。
『常盤平団地』に入居した若い夫婦は……。
洋風生活を積極的に取り入れようとしていた世代でしょう。
実際、パン食の割合が非常に高かったそうです。
後ほどの写真に、懐かしいトースターが映ってるかも知れません。
↑飛び出すパンに驚く猫。パンしか焼けませんが、やっぱりトースターは、このタイプが楽しいですね。
左の黒電話が懐かしいですね。
わが家でも、置き台にレースがかかってた気がします。
↑「み」
↑「み」
いきなり、ベランダに出てしまいました。
洗濯機前の柵は、もちろん侵入禁止用です。
階を縦に貫く排水パイプまで再現されてます。
実は、この部屋、ベランダからも出入りができるようになってるんです。
もちろん、本物の住宅ではそんなことは出来ません。
ベランダにアクセス口を設けたのは、見学時の流れを作るためだと思います。
おそらくこの施設は、松戸市内の小学生が、社会科授業で見学に来るんじゃないでしょうか。
↑やっぱり来てました。でも、『常盤平団地』内での写真がないのです。おそらく先生は、児童が展示物に触ったりしないかの監視に手一杯で、写真を撮ってる余裕がないんじゃないでしょうか。
団体見学の場合、入口が玄関だけだったら、内部は大混雑になります。
何人かずつに分けて入れなくてはなりません。
ベランダから抜けられるようにすれば、見学順路が出来るわけです。
↑「み」
また部屋に戻って、冷蔵庫を撮ってます。
おそらく、順不同に撮るだけ撮っておいて……。
原稿を書くとき、部屋ごとにまとめて紹介するつもりだったのかも知れません。
でも、原稿執筆にそんな余裕はありませんでした。
自転車操業です。
掲載直前に原稿を書く感じになってます。
なので、写真を撮った順番にしかご紹介できません。
ご了承下さい。
なお、この冷蔵庫ですが、ある特徴があります。
↓わかりますか?
↑「み」。矢印のところです。
取っ手に、鍵穴があるんです。
つまり、鍵が掛けられるようになっているということ。
子供のつまみ食い防止でしょうか?
共稼ぎで、鍵っ子が少なくなかったでしょうから。
↑昭和40年ころ。プロの鍵っ子。
あと、これは想像でしかありませんが……。
金庫代わりに使ってた家庭があったのかも?
でも、出かけるとき、いちいち冷蔵庫に鍵を掛けるってのも面倒ですよね。
ま、習慣化なんでしょうけど。
なお、現在の冷蔵庫ですが、もちろん鍵は付いてないと思います。
↓でも、外付けできる鍵が売られており、鍵の需要はあるようです。
ご家族に認知症の方がおられる場合、冷蔵庫に鍵が必要になるのだとか。
切ないですね。
↑「み」
ダイニングテーブルです。
このテーブル、わたしも見覚えがあります。
“デコラ貼り”と云うようです。
正式名称は、『メラミン化粧板』。
“デコラ”は、住友ベークライトの商標です。
長所としては、耐久性、特に耐摩耗性が高く、さまざまな色や柄があり、光沢を持った高級感ある仕上がり、伸縮や狂いが少ない、など。
短所としては、経年による色褪せがおきやすく、接着端部から剥離して破損しやすいことなど。
わたしが子供のころ、わが家のコタツ板は、この“デコラ”でした。
裏と表で模様が違ってましたね。
表は、普通の木目調。
裏は、青緑色の大理石風。
裏を使うのは、お正月中だけでした。
青緑色の柄が出てるときは、特別な日というワクワク感がありましたね。
↓このテーブルで、特に記憶があるのは、筋が入った縁の金属部分です。
↑「み」
残念ながら、今は販売されてないようです。
画像検索しても、まったくヒットしません。
↓唯一、ヤフオクで出品されてた、『メラミン化粧板』のコタツ板を発見。
↓こちらが、木目調の表面です。
わが家にあったのより高級な感じです。
↓裏面は、かなり強烈な色彩になります。
この裏面を、お正月に見てみたかった気もします。
↑「み」
中央にシンクがあるシステムキッチンは、これが最初のようです。
右がガス台、左が作業台になります。
ポイントシステムと呼ばれたそうです。
この形式は、当時の家政学の常識から外れたもので……。
機能を疑問視する声も多かったとか。
でも、同じ料理を、従来の形式の流しと作り比べてみると……。
ポイントシステムの効率の良さが実証されたとか。
それでも、『暮しの手帖』などでは、批判されたようです。
↑創刊は、1948(昭和23)年。
↓左端に、ジューサーが写ってます。
↑「み」
この家電は、すぐに使われなくなって仕舞われてしまう率ナンバーワンだったようです。
わが家には、1度もあったことがありません。
とにかく、使った後に綺麗に洗うのが大変だったみたいです。
↑「み」
システムキッチンを、別角度から撮ったもの。
左側に、洗面台があります。
わたしが不思議だったのは、この洗面台の位置です。
↑「み」。不思議だったので、アップで撮ってます。
洗面台の脇に、横桟の入ったガラスの仕切りが見えます。
↓これは、玄関の外から室内を撮ったもの。
↑「み」
左側に、横桟の入ったガラスの仕切りがありますね。
つまり、この裏側に洗面台があるのです。
お風呂は、玄関を入って右手、トイレの先の突き当たりです。
↓前に載せた間取り図に、色を塗ってみました。
↑「み」。水色が洗面台です。
この位置に洗面台があるのは、外から帰ってきた子供に手洗いを習慣づけたり……。
母親が、歯磨きの様子を見守れるようにする目的があったようです。
ある意味、合理的だと思いました。
↑「み」
お風呂です。
風呂桶は、小判型と呼ばれたもの。
木製ですが、内釜が組みこまれたガス風呂です。
排気の煙突も出てますね。
当時は画期的なシステムだったのでしょうが……。
浴室内で火を炊くのは、なんだか怖いですよね。
わたしは、ガス風呂というのを、1度も体験したことが無いのです。
物心ついたときから、電気温水器から給湯されるお風呂でした。
↑「み」
踏みこんで撮ってます。
お風呂やトイレなどの水回りの変遷は、実に興味深いです。
↑「み」
異様にメカニカルな構造が剥き出しになってます。
水がかかっても、大丈夫だったんですかね?
裸のお尻があたってしまうこともあったのでは?
熱くないんでしょうか?
パイロットコックを開いてパイロットに点火し、本コックを開いてバーナーに点火する手順だったとか。
さっぱりわかりません。
↑「み」
トイレです。
建設最初から、洋式でした。
↓「常盤平団地入居の栞」より。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
洋式便器は、便器に背を向けてお坐り下さい。便座(蓋のようなかんじの額縁式のもの)は、大変壊れやすく、勢いよく降ろしますと、ヒビが入り、約三000円の損失となりますので、取扱いには十分御配慮下さい。
水洗便所は、綿、新聞紙、吸殻等は絶対禁物です。もし、一戸で詰まらせますと、その階全部が詰まり、大工事となります。そして、その工事費は、直接その該当者が、該当者不明の時は、階段全員の共同負担ということになりますので、よくお気をつけて下さい。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
家賃は、5,350円だったそうですから、便座の蓋が3,000円というのは、超絶高価です。
今なら、3万円くらいにあたるでしょう。
↑「み」
玄関の上がり框から、外を覗いたところ。
左手が階段です(手すりがわずかに見えてます)。
向かい側の扉は、お向かいさんですね。
おそらく、反転した相似形の間取りなんだと思います。
↑「み」
これは逆に、外から玄関内を覗いたところ。
ドアの内側に付いてるのは、新聞受けですね。
階下の集合ポストではなく、各戸まで届けてくれたんでしょうか?
ひょっとしたら、それもサービス競争のひとつだったのかも知れませんね。
「うちは、ドアの新聞受けまでお届けします」とか言って。
入口の右手に、穴の空いたボックスが組みこまれてます。
これは、牛乳箱だそうです。
↓お向かいさんの写真に、全貌が写ってました。
↑「み」
蓋を開けなくても、届いてるかどうか外から見えますね。
でも、今だったら危ないですよね。
毒でも入れられたら大変です。
牛乳瓶の蓋は紙だったでしょうから、注射器なんか簡単に刺せます。
↑蓋を開ける道具のようです。
↑「み」
玄関ドアが開いてるところです。
不思議なのは、その陰になってる、もう1枚の扉です。
南京錠が掛かってますが、取っ手がチャチです。
↑「み」。ピンボケですみません。
簡易的な扉に見えます。
この扉の向こうは、左右の部屋のキッチンが向かい合ってるところです。
↓構造を想像出来る写真がありました。
↑「み」
左奥の炊飯器があるところ。
白い壁が突き出してます。
お向かいの部屋のキッチンにも、同じ出っ張りがあるはず。
つまり、出っ張りは、この写真で見える2倍の横幅があることになります。
物置かと思いましたが……。
奥行きは浅く、さほどの物が入るスペースとも思えません。
それに物置なら、左右の居宅用に別々になってるはずでしょう。
つまり、共同のものを仕舞っておく場所です。
これで、ピンと来ました。
きっと、玄関前や階段の清掃は、左右の家で持ち回りなんです。
すなわち、そのための掃除道具を入れておく場所なんです。
たぶん、「掃除当番」と書いた木札に、この掃除道具入れの鍵が付いてるんだと思います。
↑これは、ごみステーションの当番札のようです。
それを、向かい合わせでやり取りするんですね。
自分の当番が終わったら、お向かいの新聞受けに、木札を入れるんじゃないですか。
想像ですが、たぶん合ってるんじゃないかな。
↑「み」
玄関の下駄箱です。
けっこう入りそうですね。
でも新潟では、この作りでは困ります。
長靴が入らないからです。
冬場、東京の大雪のニュースをテレビで見ると……。
ほとんどの人が、革靴やスニーカーのまま歩いてます。
もちろん、持ってないからでしょう。
その大きな理由のひとつは……。
玄関に、長靴を仕舞っておけるスペースがないためだと思います。
でも、これからの時代、豪雨による冠水が頻発するようになると思います。
長靴1足くらいは、用意しておくべきじゃないでしょうか。
↑こんなのもあります。
↑「み」
奥の四畳半です。
ベビーベッドが置かれてます。
謙二郎と陽子は、ベッドの隣に布団を敷いて寝たのでしょう。
この狭さでは、万年床生活は不可能です。
奥に見える机みたいなのは、ミシンですね。
↑「み」
実はわたし、四畳半の部屋がある家に住んだことが無いのです。
狭くて落ち着きそうですよね。
昨年見た『江戸東京たてもの園』の女中部屋には、二畳というのもありました。
↑「み」。昭島市にあった『西川家別邸』。
執筆したり、寝たりするには、最高の部屋だと思いました。
内田百閒が建てた家は、三畳間が三間あるだけの家で……。
百閒は、「三畳御殿」と称したそうです。
集中して執筆するには、狭い方がぜったいいいです。
↑「み」
同じ部屋を、別の角度から。
ミシンの隣の鏡台が懐かしいです。
子供のころ、母の化粧道具を勝手に使って、叱られたことを思い出します。
ミシンの前のスツールですが、うちのもこういう背もたれが無いタイプです。
ミシンは前屈みでかけるので、背もたれは要らないという発想なのでしょうか。
このタイプのスツールは、踏み台にもなるし、けっこう便利です。
↑「み」
これは隣の六畳間です。
居間として使われてます。
奥のテレビ画像は、嵌めこみではなく、ちゃんと映像が流れてます。
当時の番組のようで、このあたりも凝ってますね。
なお、このソファーですが……。
子供が大きくなると、邪魔になる家具の筆頭だったそうです。
↑拝借画像です。
子供部屋を作らなければなりませんからね。
奥の四畳半を子供部屋にすれば……。
両親は、六畳で寝なければなりません。
ソファーなんか置いておけなくなるわけです。
捨てるのももったいないので、実家に送った人も多かったみたいです。
↑「み」
おー、こんなところに、洗面台のいい写真がありました。
位置がよくわかりますね。
左側が、扉の開いた玄関です。
子供たちは、外から帰ったら、この洗面台で手を洗うよう躾けられたのでしょう。
↑「み」
これは、キッチンからベランダを見たもの。
ベランダは、この展示へのもうひとつの出入り口になってます。
ベランダに面するのは、キッチンと六畳間。
↓ベランダの展示柵に囲まれたところに洗濯機があります。
↑「み」
ガラス戸を開けるだけで、キッチンから洗濯機にアクセスできるわけで……。
家事動線的には、便利だったと思います。
↑「み」
これは、ベランダの展示用出入り口から、ベランダ奥(六畳間方面)を見たもの。
左手にある灰色の柵は、本来のベランダ柵です。
ベランダの突き当たりに扉がありますが、これは物置です。
けっこう考えられてて便利です。
でも、火事などでベランダから避難するときは、反対側にしか行けません。
今のマンションで物置がベランダにないのは……。
両側に逃げられるようにするためでしょうか?
↑「み」
これは、ベランダの外から、六畳間を覗いたもの。
実際の団地では、わたしが立ってるところは中空ですから……。
この角度で覗かれることはありません。
ガラスの枠が、なんだか脆弱ですね。
地震があったら、たちまち割れそうです。
日本の高度成長期が、ずっと右肩上がりで来れたのは……。
大都市圏での地震が、その間に無かったことも大きな要因だと思います。
よその収穫物を奪ってしまった方が、ずっと簡単だからです。
襲われる方も、黙って奪われてはいられません。
当然、戦いが始まります。
↑土井ヶ浜遺跡は、弥生時代前期から中期の墓地遺跡。
社会科の授業で習った縄文と弥生の暮らしのイメージは、まったく逆でした。
縄文人は、その日暮らしで、獲物の捕れないときは空き腹を抱えて堪えるしかない。
弥生人は、集団で農業をし、収穫物を消費しながら安定した暮らしをしていた。
年貢もありませんしね。
でも、現実は、逆だったんです。
弥生時代は、血で血を洗う、富の奪い合いの時代でした。
さきほどの柩の親子も、おそらく他の集落の戦闘員に襲われ……。
殺されてしまったのでしょう。
なぜ、こんな小さな子供まで殺したのか?
それはもちろん、復讐を恐れてのことです。
子供を生かしておけば、いつか父の仇を討ちに来るかも知れない。
↑これは、曾我兄弟の仇討ち(鎌倉時代初期)。
敵は、女子供まで皆殺しです。
このしきたりは、戦国時代まで続きました。
復讐の連鎖を断つためには、相手を潰滅させるほかはないのです。
現在の世界で、内乱がいっこうに終結せず、復讐の連鎖が続くのは……。
中途半端に休戦したりしてるからです。
どちらかの勢力が根絶やしにならない限り……。
戦争に終止符が打たれることはないでしょう。
話が陰惨になってしまいました。
展示に戻りましょう。
↑「み」
これはもう、だいぶ時代が進みましたね。
飛ばしたんでしょうか?
今となっては、わかりません。
どう見ても、江戸時代です。
港でもあり、宿場でもある感じです。
ネットを調べてみたところ……。
どうやら、『松戸宿』のようです。
『松戸宿』は、水戸街道の『千住宿』から2つ目の宿場町でした。
ジオラマで、海のように見えるのは、江戸川です。
対岸の江戸側には、『金町松戸関所』が置かれてたそうです。
↑今の東京都葛飾区東金町になります。
江戸川に橋はなく……。
江戸と松戸を往来する人は、渡し船で行き来してました。
↑松戸市の渡しと云えばこれですが……。『金町松戸関所』の渡しは、もう少し上流にありました。
『松戸宿』近在の農家には……。
対岸に農地を持ち、自家用船で川を往来する者もあったそうです。
『松戸宿』は、南北に約1キロほどの範囲に広がっていました。
松戸はまた、水運による物資集積地としても栄えており……。
数百軒の家並みが並ぶ、大規模な集落を形成してました。
物資運搬のための運河としても使われた『坂川』が、市街地の中を流れてました(ジオラマでは確認できませんね)。
↑「み」
昔の農村の様子です。
下総台地(たぶん、左上の薄緑色の部分)と江戸川に挟まれ……。
「下谷(したや)」と呼ばれた低地です。
右下に、不規則なパッチワークのように見えるのは、田んぼです。
一見、豊かそうですが……。
上のジオラマで、左上の下総台地の縁近くに、黒い線が刻まれています。
これがおそらく、さっき出てきた『坂川』ではないでしょうか。
この川が、台地の水を集めて、度々あふれたそうです。
特に収穫前、台風による被害が頻繁にあったとか。
3年に1度の収穫があればよいほどだったらしいです。
↑「み」
農作業に使われた「舟」です。
田んぼの中には堀と呼ばれる水路が流れ、収穫した稲は「舟」で運搬したとか。
なんだか、亀田郷と似てますね。
↑「み」
田植えと収穫時期のスケジュールは、今の新潟市と一緒です。
新潟でも、昔は、稲架木(はさぎ)で稲を干してました。
↑昭和30年の新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)の風景。
でも今は、ほとんど見られません。
戦後、田んぼの区画整理で、田んぼが四角に区切られたとき……。
畦に植えられてた稲架木は、多くが伐採されてしまったのです。
↑新潟市秋葉区満願寺に残る稲架木並木。区画整理のとき、26軒の農家が協力して、各地の稲架木をこの農道へ移植したそうです。
区画整理の目的は、農作業の機械化を進めるためです。
機械を入れて作業するには、田んぼが四角である方が効率がいいからです。
残った稲架木にも、別の試練が待ってました。
戦後に入ってきた、アメリカシロヒトリ(いわゆる、アメシロ)という蛾の幼虫です。
↑親は、雪の女王のように綺麗です。
アメリカ軍の軍需物資に着いて渡来したと云われてます。
稲架木に使われるのは、モクセイ科のトネリコという木です。
このトネリコの葉が、アメシロの大好物だったんです。
稲架木は並んでるので、あっという間に被害が広がります。
↑幼虫は、キモさ抜群です。
葉を食べ尽くされて丸坊主になってしまううえ、アメシロの巣の見た目も悪いので……。
次々と、伐採されてしまいました。
博物館に戻りましょう。
↑「み」
「下谷(したや)」の住まいです。
↓なんたるかは、説明書きをご参照下さい。
↑「み」。
備えはしていても、雨の時期は怖かったでしょうね。
避難用の「舟」を、軒下に吊してた家も多かったそうです。
さて、長々と松戸の歴史を書いてきましたが……。
実は、これまでの展示を見ることは、今回の目的ではありませんでした。
順路にあったので、足早に見て通っただけです。
今回、この博物館を訪ねた目的は、↓です。
↑「み」
これも、松戸市の歴史の一部としての展示ですが……。
これまで見てきた展示とは、スケールが桁違いです。
まずは、『常盤平団地』とは、どういう団地かということから説明します。
建てたのは、かつて存在した『日本住宅公団』。
1955(昭和30)年に設立された特殊法人です。
設立目的は、もちろん、住宅や宅地の供給です。
現在は、独立行政法人『都市再生機構(UR都市機構)』となってます。
『常盤平団地』は、畑や雑木林だった51万坪の土地を造成して建てられました。
4階建て中層公団住宅、170棟。
戸数は、4,839。
ショッピングセンター、集会所、病院、小学校も併設されました。
早い話、農村の中に、人工都市が忽然と出現したわけです。
↑現在の『常盤平団地』です。
「常盤平」の名称は、公募で決められました。
松戸市の「松」から、常盤の松にちなんだ命名だそうです。
『常盤平団地』の入居募集が開始されたのは、1959(昭和34)年。
1962(昭和37)年の10次募集をもって入居が完了しました。
抽選の最高倍率は、73.2倍だったそうです。
松戸市の人口は、7万9千人から、11万5千人に増えました。
また、建設当時は、グリーンベルトという緑地帯を設ける首都圏整備計画が行われており……。
『常盤平団地』でも、元々の雑木林を残すなど、施策に沿った緑地が確保されました。
しかし、その後、このグリーンベルト構想は消滅してしまいます。
そのため、後から開発された『常盤平団地』周辺の地域では、緑がほとんど失われてしまいました。
皮肉なことに、この地域で最も緑が残るのは、『常盤平団地』となったのです。
で、この『松戸市立博物館』には……。
この『常盤平団地』の1室が、再現されてるのです。
これだけなら、別段、珍しくもありませんが……。
『松戸市立博物館』のスゴいところは……。
団地の建物ごと再現してることです。
ジオラマじゃありませんよ。
なんと!
実物大です。
よく、こんなものを造ろうと思ったものだと、感心してしまいます。
実際の団地は4階建てですが……。
さすがに再現された建物は、2階部分までです。
再現された1室は、この1階部分にあります。
もちろん、建物の外階段から、そのお部屋にお邪魔することになります。
再現された1室に住む架空の家族には、緻密な人物設定までされてます。
小説を書く身として、大いに反省させられますね。
こんな細かい設定、考えたことがありませんから。
↓以下、『松戸市立博物館』の説明資料の転載です。
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この2DKの住人を紹介します。昭和35年(1960年)4月に結婚し、そのまま常盤平団地に入居した兼二郎(夫・29才)、陽子(妻・27才)の2人には、翌年4月に真理子(長女・1才)が誕生しました。
兼二郎は地方都市の商家の次男として生まれ、地元の高校から東京にある大学へ進学、現在は品川にある家電メーカーに勤務しています。趣味は映画と音楽鑑賞、特にフランス映画とモダンジャズを好んでいます。
陽子は東京の勤め人の家庭の末娘として生まれ、都内の高校を卒業して兼二郎と同じ家電メーカーに勤めていました。
社内のサークル活動で知り合った2人は、昭和34年の秋に婚約し、翌年の春に予定した結婚後の新居を探し始めていました。
当時話題となっていた公団住宅の入居募集を新聞で知り、陽子の母の実家が松戸だったこともあって、池袋の丸物デパートに設けられた公団住宅の入居受け付けで常盤平団地の2DKを申し込み、幸運にも入居の資格を得ました。
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入居申込みの受付場所まで設定されてます。
それでは、ご紹介しましょう
↓謙二郎と陽子です(もちろん、モデルですが)。
↑残念ながら、こんな写真しか見つかりませんでした。
さっそく、2人の新居を訪ねてみましょう。
↑「み」
夕暮れでしょうか。
停められたバイクが、良い味出してます。
もう1度、言っておきますが、完全に実物大です。
まさに、タイムスリップして、昭和30年代の団地に迷いこんだ気分になります。
そう云えば、なぜわたしがこの施設を訪ねたか言ってませんでした。
早い話、わたしは昔の団地が大好きなんです。
こういうところで生まれ育ちたかったと、心から思います。
実は、この『松戸市立博物館』を訪ねるのは、2度目なんです。
最初に来たのは、10年以上前です。
そのころは『Mikiko's Room』をやってなかったので……。
写真も撮らず、文章も残してませんでした。
最近では、古い団地の間取りをリフォームしたりするのが流行りのようです。
リノベーションって云うんですか?
↓ワンルームのフローリングみたいな。
わたしは、ああいう部屋には、まったく魅力を感じません。
団地サイズの畳(170cm×85cm)の、狭い和室が大好きなんです。
実はこの『常盤平団地』、まだ立派な現役で……。
常時、空き部屋の入居募集もなされてます。
↑現在の『常盤平団地』です。入居率はいいようです。都心に通うには、東京西部より、ずっと便利ですからね。
ただ、空いてる部屋は、ほとんどが4階で……。
たまに、3階があるくらい。
1,2階の部屋は、まず空かないようです。
普通のマンションと逆ですね。
なぜかと云えば、エレベーターが無いからです。
団地を出て行くのは、階段の上り下りが辛くなった方たちなんです。
当然のごとく、3,4階に集中します。
で、現在、URで入居者が募集されてる部屋は、間取りも表示されてます。
この間取りが、わたしの理想なんです。
↓標準的な間取りは、こんな感じ。
いいですよね。
和室が2部屋。
後は、ダイニングキッチンだけ。
ちなみに、このダイニングキッチンという言葉は、和製英語です。
ダイニングルーム(食堂)とキッチン(台所)をくっつけたもの。
当初は、日本住宅公団の中でだけ使われた符丁だったそうです。
さて、この部屋、どう使います?
もちろん、1人暮らしです。
わたしなら、ダイニングキッチンの左隣の和室を、居間にします。
夕食の晩酌も、ここでします。
もちろん、座卓です。
冬は、こたつ。
↑これこれ。
テレビを、左の壁際に置きます。
隣室との壁でしょうから、あまり大きな音は出せません。
AV鑑賞は、ヘッドホンをしなければなりませんね。
ま、晩酌時には見ませんからいいです。
でも、歳を取って耳が遠くなったら、ついついボリュームを上げてしまうでしょう。
こういう団地暮らしでは……。
近隣の住人とトラブルになったら、一気に快適さが失われてしまいます。
外部スピーカーを接続して、それをこたつの上に置けば良いですね。
テレビの音声は消しておきます。
大きな手元スピーカー ANS-701 |
なお、この和室で食事を摂るのは、夕食だけです。
朝食は、ダイニングキッチンでいただきます。
いちいち、和室まで運ぶのが面倒ですから。
もう1室、床の間のある和室は、寝室に使います。
もちろん、畳に布団を敷きます。
歳を取ったら、上げ下ろしが大変?
いえいえ。
上げ下ろしなんかしませんよ。
万年床です。
↑なごむのー。
わたしは、東京の和室のアパートにも住みましたが、常に万年床でした。
上げるのは、母が上京するときだけでした。
何を隠そう、現在の寝室も万年床です。
いちおう、目隠しに古い枕屏風を立て回してます。
↑わたしのとは形も置き方も違いますが、意図はこういうことです。
母には、病人がいるようだと不評ですが、これは譲りません。
昼間、寝室を別の用途に使う必要があるのなら、布団を上げるのは当たり前。
でも、純然たる寝室としてしか使わないのであれば……。
布団を上げる必要はないのです。
ベッドだって、早い話、万年床ですよ。
あ、この部屋には、パソコンも置きます。
場所は、浴室との境の壁前ですかね。
問題は、机を入れるかですよね。
入れるとしたら、畳が痛まないよう、小さい絨毯を敷かなきゃなりません。
↑こちらは、ホットカーペット。これもアリですね。
でも、座卓にパソコンというのも、いいんじゃないでしょうか。
↑これは、良さげですね。女性の部屋です。キーボードカバーがなんとも優雅です。
腰に悪そうですけど。
ちょっとまた話が脱線しました。
ところで、この『常盤平団地』、入居するには、収入の条件があります。
でも、勘違いしないでください。
市営住宅のように、収入が少ない人しか入れないんじゃないんです。
真逆です。
一定の収入、もしくは貯蓄がなければなりません。
こちらに現在の入居条件が書かれてます。
簡単に云うと……。
月収が家賃の4倍あるか、貯蓄額が家賃の100倍あるかのいずれかということになります。
家賃が5万円とすると……。
月収は、20万円以上。
貯蓄額であれば、500万円ということです。
困窮してる人は、とうてい入居できません。
入居が始まった当初は、もっと条件が厳しく、家賃の5.5倍の月収が必要でした。
なので、松戸市役所の若い職員では条件を満たせず、申し込みができなかったそうです。
実際に入居した人たちは、東京都心部の大企業に勤務する人が大半だったとか。
つまり、『常盤平団地』に入居できたのは……。
エリートサラリーマンたちということでしょう。
さて、博物館の展示に戻りましょう。
↑「み」
明かりが灯っている部屋が、謙二郎と陽子の愛の巣(恥ずかし)です。
1階ですが、窓はかなり高い位置にあるので……。
外を通る人から、部屋の中が見える心配はないでしょう。
↑「み」
1階の部屋でも、階段を少し上がります。
右の壁に設置されてるのは、集合ポストです。
↑「み」
左側に部屋の扉がありますが、これは謙二郎と陽子のお向かいさんです。
2人の部屋の扉は、これと向かい合った右側にあります。
正面の扉には、南京錠が掛かってるようです。
何でしょうね?
↑「み」
お邪魔します。
手前にある枠のようなものは、この向こう進入禁止の展示柵です。
和室にソファーを入れてますね。
『常盤平団地』に入居した若い夫婦は……。
洋風生活を積極的に取り入れようとしていた世代でしょう。
実際、パン食の割合が非常に高かったそうです。
後ほどの写真に、懐かしいトースターが映ってるかも知れません。
↑飛び出すパンに驚く猫。パンしか焼けませんが、やっぱりトースターは、このタイプが楽しいですね。
左の黒電話が懐かしいですね。
わが家でも、置き台にレースがかかってた気がします。
↑「み」
↑「み」
いきなり、ベランダに出てしまいました。
洗濯機前の柵は、もちろん侵入禁止用です。
階を縦に貫く排水パイプまで再現されてます。
実は、この部屋、ベランダからも出入りができるようになってるんです。
もちろん、本物の住宅ではそんなことは出来ません。
ベランダにアクセス口を設けたのは、見学時の流れを作るためだと思います。
おそらくこの施設は、松戸市内の小学生が、社会科授業で見学に来るんじゃないでしょうか。
↑やっぱり来てました。でも、『常盤平団地』内での写真がないのです。おそらく先生は、児童が展示物に触ったりしないかの監視に手一杯で、写真を撮ってる余裕がないんじゃないでしょうか。
団体見学の場合、入口が玄関だけだったら、内部は大混雑になります。
何人かずつに分けて入れなくてはなりません。
ベランダから抜けられるようにすれば、見学順路が出来るわけです。
↑「み」
また部屋に戻って、冷蔵庫を撮ってます。
おそらく、順不同に撮るだけ撮っておいて……。
原稿を書くとき、部屋ごとにまとめて紹介するつもりだったのかも知れません。
でも、原稿執筆にそんな余裕はありませんでした。
自転車操業です。
掲載直前に原稿を書く感じになってます。
なので、写真を撮った順番にしかご紹介できません。
ご了承下さい。
なお、この冷蔵庫ですが、ある特徴があります。
↓わかりますか?
↑「み」。矢印のところです。
取っ手に、鍵穴があるんです。
つまり、鍵が掛けられるようになっているということ。
子供のつまみ食い防止でしょうか?
共稼ぎで、鍵っ子が少なくなかったでしょうから。
↑昭和40年ころ。プロの鍵っ子。
あと、これは想像でしかありませんが……。
金庫代わりに使ってた家庭があったのかも?
でも、出かけるとき、いちいち冷蔵庫に鍵を掛けるってのも面倒ですよね。
ま、習慣化なんでしょうけど。
なお、現在の冷蔵庫ですが、もちろん鍵は付いてないと思います。
↓でも、外付けできる鍵が売られており、鍵の需要はあるようです。
超強力な冷蔵庫の鍵ロック取れない蔵○南京鍵ロックセット○ |
ご家族に認知症の方がおられる場合、冷蔵庫に鍵が必要になるのだとか。
切ないですね。
↑「み」
ダイニングテーブルです。
このテーブル、わたしも見覚えがあります。
“デコラ貼り”と云うようです。
正式名称は、『メラミン化粧板』。
“デコラ”は、住友ベークライトの商標です。
長所としては、耐久性、特に耐摩耗性が高く、さまざまな色や柄があり、光沢を持った高級感ある仕上がり、伸縮や狂いが少ない、など。
短所としては、経年による色褪せがおきやすく、接着端部から剥離して破損しやすいことなど。
わたしが子供のころ、わが家のコタツ板は、この“デコラ”でした。
裏と表で模様が違ってましたね。
表は、普通の木目調。
裏は、青緑色の大理石風。
裏を使うのは、お正月中だけでした。
青緑色の柄が出てるときは、特別な日というワクワク感がありましたね。
↓このテーブルで、特に記憶があるのは、筋が入った縁の金属部分です。
↑「み」
残念ながら、今は販売されてないようです。
画像検索しても、まったくヒットしません。
↓唯一、ヤフオクで出品されてた、『メラミン化粧板』のコタツ板を発見。
↓こちらが、木目調の表面です。
わが家にあったのより高級な感じです。
↓裏面は、かなり強烈な色彩になります。
この裏面を、お正月に見てみたかった気もします。
↑「み」
中央にシンクがあるシステムキッチンは、これが最初のようです。
右がガス台、左が作業台になります。
ポイントシステムと呼ばれたそうです。
この形式は、当時の家政学の常識から外れたもので……。
機能を疑問視する声も多かったとか。
でも、同じ料理を、従来の形式の流しと作り比べてみると……。
ポイントシステムの効率の良さが実証されたとか。
それでも、『暮しの手帖』などでは、批判されたようです。
↑創刊は、1948(昭和23)年。
↓左端に、ジューサーが写ってます。
↑「み」
この家電は、すぐに使われなくなって仕舞われてしまう率ナンバーワンだったようです。
わが家には、1度もあったことがありません。
とにかく、使った後に綺麗に洗うのが大変だったみたいです。
↑「み」
システムキッチンを、別角度から撮ったもの。
左側に、洗面台があります。
わたしが不思議だったのは、この洗面台の位置です。
↑「み」。不思議だったので、アップで撮ってます。
洗面台の脇に、横桟の入ったガラスの仕切りが見えます。
↓これは、玄関の外から室内を撮ったもの。
↑「み」
左側に、横桟の入ったガラスの仕切りがありますね。
つまり、この裏側に洗面台があるのです。
お風呂は、玄関を入って右手、トイレの先の突き当たりです。
↓前に載せた間取り図に、色を塗ってみました。
↑「み」。水色が洗面台です。
この位置に洗面台があるのは、外から帰ってきた子供に手洗いを習慣づけたり……。
母親が、歯磨きの様子を見守れるようにする目的があったようです。
ある意味、合理的だと思いました。
↑「み」
お風呂です。
風呂桶は、小判型と呼ばれたもの。
木製ですが、内釜が組みこまれたガス風呂です。
排気の煙突も出てますね。
当時は画期的なシステムだったのでしょうが……。
浴室内で火を炊くのは、なんだか怖いですよね。
わたしは、ガス風呂というのを、1度も体験したことが無いのです。
物心ついたときから、電気温水器から給湯されるお風呂でした。
↑「み」
踏みこんで撮ってます。
お風呂やトイレなどの水回りの変遷は、実に興味深いです。
↑「み」
異様にメカニカルな構造が剥き出しになってます。
水がかかっても、大丈夫だったんですかね?
裸のお尻があたってしまうこともあったのでは?
熱くないんでしょうか?
パイロットコックを開いてパイロットに点火し、本コックを開いてバーナーに点火する手順だったとか。
さっぱりわかりません。
↑「み」
トイレです。
建設最初から、洋式でした。
↓「常盤平団地入居の栞」より。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
洋式便器は、便器に背を向けてお坐り下さい。便座(蓋のようなかんじの額縁式のもの)は、大変壊れやすく、勢いよく降ろしますと、ヒビが入り、約三000円の損失となりますので、取扱いには十分御配慮下さい。
水洗便所は、綿、新聞紙、吸殻等は絶対禁物です。もし、一戸で詰まらせますと、その階全部が詰まり、大工事となります。そして、その工事費は、直接その該当者が、該当者不明の時は、階段全員の共同負担ということになりますので、よくお気をつけて下さい。
+++++++++++++++++++++++++++++++++
家賃は、5,350円だったそうですから、便座の蓋が3,000円というのは、超絶高価です。
今なら、3万円くらいにあたるでしょう。
↑「み」
玄関の上がり框から、外を覗いたところ。
左手が階段です(手すりがわずかに見えてます)。
向かい側の扉は、お向かいさんですね。
おそらく、反転した相似形の間取りなんだと思います。
↑「み」
これは逆に、外から玄関内を覗いたところ。
ドアの内側に付いてるのは、新聞受けですね。
階下の集合ポストではなく、各戸まで届けてくれたんでしょうか?
ひょっとしたら、それもサービス競争のひとつだったのかも知れませんね。
「うちは、ドアの新聞受けまでお届けします」とか言って。
入口の右手に、穴の空いたボックスが組みこまれてます。
これは、牛乳箱だそうです。
↓お向かいさんの写真に、全貌が写ってました。
↑「み」
蓋を開けなくても、届いてるかどうか外から見えますね。
でも、今だったら危ないですよね。
毒でも入れられたら大変です。
牛乳瓶の蓋は紙だったでしょうから、注射器なんか簡単に刺せます。
↑蓋を開ける道具のようです。
↑「み」
玄関ドアが開いてるところです。
不思議なのは、その陰になってる、もう1枚の扉です。
南京錠が掛かってますが、取っ手がチャチです。
↑「み」。ピンボケですみません。
簡易的な扉に見えます。
この扉の向こうは、左右の部屋のキッチンが向かい合ってるところです。
↓構造を想像出来る写真がありました。
↑「み」
左奥の炊飯器があるところ。
白い壁が突き出してます。
お向かいの部屋のキッチンにも、同じ出っ張りがあるはず。
つまり、出っ張りは、この写真で見える2倍の横幅があることになります。
物置かと思いましたが……。
奥行きは浅く、さほどの物が入るスペースとも思えません。
それに物置なら、左右の居宅用に別々になってるはずでしょう。
つまり、共同のものを仕舞っておく場所です。
これで、ピンと来ました。
きっと、玄関前や階段の清掃は、左右の家で持ち回りなんです。
すなわち、そのための掃除道具を入れておく場所なんです。
たぶん、「掃除当番」と書いた木札に、この掃除道具入れの鍵が付いてるんだと思います。
↑これは、ごみステーションの当番札のようです。
それを、向かい合わせでやり取りするんですね。
自分の当番が終わったら、お向かいの新聞受けに、木札を入れるんじゃないですか。
想像ですが、たぶん合ってるんじゃないかな。
↑「み」
玄関の下駄箱です。
けっこう入りそうですね。
でも新潟では、この作りでは困ります。
長靴が入らないからです。
冬場、東京の大雪のニュースをテレビで見ると……。
ほとんどの人が、革靴やスニーカーのまま歩いてます。
もちろん、持ってないからでしょう。
その大きな理由のひとつは……。
玄関に、長靴を仕舞っておけるスペースがないためだと思います。
でも、これからの時代、豪雨による冠水が頻発するようになると思います。
長靴1足くらいは、用意しておくべきじゃないでしょうか。
完成品 ベンチブーツラック |
↑こんなのもあります。
↑「み」
奥の四畳半です。
ベビーベッドが置かれてます。
謙二郎と陽子は、ベッドの隣に布団を敷いて寝たのでしょう。
この狭さでは、万年床生活は不可能です。
奥に見える机みたいなのは、ミシンですね。
↑「み」
実はわたし、四畳半の部屋がある家に住んだことが無いのです。
狭くて落ち着きそうですよね。
昨年見た『江戸東京たてもの園』の女中部屋には、二畳というのもありました。
↑「み」。昭島市にあった『西川家別邸』。
執筆したり、寝たりするには、最高の部屋だと思いました。
内田百閒が建てた家は、三畳間が三間あるだけの家で……。
百閒は、「三畳御殿」と称したそうです。
集中して執筆するには、狭い方がぜったいいいです。
↑「み」
同じ部屋を、別の角度から。
ミシンの隣の鏡台が懐かしいです。
子供のころ、母の化粧道具を勝手に使って、叱られたことを思い出します。
ミシンの前のスツールですが、うちのもこういう背もたれが無いタイプです。
ミシンは前屈みでかけるので、背もたれは要らないという発想なのでしょうか。
このタイプのスツールは、踏み台にもなるし、けっこう便利です。
↑「み」
これは隣の六畳間です。
居間として使われてます。
奥のテレビ画像は、嵌めこみではなく、ちゃんと映像が流れてます。
当時の番組のようで、このあたりも凝ってますね。
なお、このソファーですが……。
子供が大きくなると、邪魔になる家具の筆頭だったそうです。
↑拝借画像です。
子供部屋を作らなければなりませんからね。
奥の四畳半を子供部屋にすれば……。
両親は、六畳で寝なければなりません。
ソファーなんか置いておけなくなるわけです。
捨てるのももったいないので、実家に送った人も多かったみたいです。
↑「み」
おー、こんなところに、洗面台のいい写真がありました。
位置がよくわかりますね。
左側が、扉の開いた玄関です。
子供たちは、外から帰ったら、この洗面台で手を洗うよう躾けられたのでしょう。
↑「み」
これは、キッチンからベランダを見たもの。
ベランダは、この展示へのもうひとつの出入り口になってます。
ベランダに面するのは、キッチンと六畳間。
↓ベランダの展示柵に囲まれたところに洗濯機があります。
↑「み」
ガラス戸を開けるだけで、キッチンから洗濯機にアクセスできるわけで……。
家事動線的には、便利だったと思います。
↑「み」
これは、ベランダの展示用出入り口から、ベランダ奥(六畳間方面)を見たもの。
左手にある灰色の柵は、本来のベランダ柵です。
ベランダの突き当たりに扉がありますが、これは物置です。
けっこう考えられてて便利です。
でも、火事などでベランダから避難するときは、反対側にしか行けません。
今のマンションで物置がベランダにないのは……。
両側に逃げられるようにするためでしょうか?
↑「み」
これは、ベランダの外から、六畳間を覗いたもの。
実際の団地では、わたしが立ってるところは中空ですから……。
この角度で覗かれることはありません。
ガラスの枠が、なんだか脆弱ですね。
地震があったら、たちまち割れそうです。
日本の高度成長期が、ずっと右肩上がりで来れたのは……。
大都市圏での地震が、その間に無かったことも大きな要因だと思います。