2008.7.9(水)
由美は跳ね起きた。
そのまま個室を飛び出す。
美弥子の個室からは、扉の下を抜けて水が溢れ出ていた。
美弥子の扉を叩く。
「水が溢れてますよ!
何か詰まってるんじゃないですか?」
応えはなかった。
おそらく、壁際に立ち竦んだままなのだろう。
「開けてください!
あたしが何とかしますから!」
まだ応えはない。
由美の裸足の足を、水が浸し始めた。
由美は更に扉を叩いた。
「このままだと、トイレが水浸しになっちゃいますよ!
開けてくれないなら、人を呼んできます」
「……待って」
そう応えながらも、しばらくの間があった。
まだ迷っているのだろうか。
由美が再び扉を叩こうとしたとき、ようやくラッチの外れる音がした。
扉が細く開いた。
由美は、そこから身を滑り込ませた。
目を伏せたまま後ろ手に鍵を掛けると、そのまま四つん這いになる。
便器からは、泉のように水が湧き出していた。
由美の脳裏に一瞬、幼い頃お伽噺で読んだ、『溢れる井戸』の一場面が浮かんだ。
美弥子とは、まだ目を合わせていない。
由美の目の端に、立ち竦む美弥子の両脚だけが見えた。
そしてその脚の前に這い蹲る姿こそは、由美にとって精一杯の謝罪の気持ちでもあったのだ。
由美は、躊躇いなく水溜まりに腕を差し入れた。
水底に沈むショーツに指が掛かる。
排水穴に呑み込まれようとしていた小さな布地を指先に絡め、ゆっくりと引き上げる。
まるで、魔界に引き込まれそうになった魂を、この世に引き戻そうとするかのように。
やがて由美の指が、水面に浮上した。
白いショーツは、しっかりとその指に絡んでいる。
由美は、もう一方の手を添えてその布地を掴むと、一気に引っぱった。
魔界は抵抗を見せ、両者の間でショーツが引き伸ばされた。
空間が歪んだように見えた。
しかし次の瞬間、呆気なく勝負はついた。
由美の手に、布地が残っていた。
魔界はゴボゴボと呪いの言葉を吐きながら、向こうの世界に戻って行った。
見る見る水が引いてゆく。
それを見届けた由美は、ショーツを掴んだままゆっくりと起ち上がった。
大切な宝を奪い返してきた、ナイトのように。
女王様の前に。
そのまま個室を飛び出す。
美弥子の個室からは、扉の下を抜けて水が溢れ出ていた。
美弥子の扉を叩く。
「水が溢れてますよ!
何か詰まってるんじゃないですか?」
応えはなかった。
おそらく、壁際に立ち竦んだままなのだろう。
「開けてください!
あたしが何とかしますから!」
まだ応えはない。
由美の裸足の足を、水が浸し始めた。
由美は更に扉を叩いた。
「このままだと、トイレが水浸しになっちゃいますよ!
開けてくれないなら、人を呼んできます」
「……待って」
そう応えながらも、しばらくの間があった。
まだ迷っているのだろうか。
由美が再び扉を叩こうとしたとき、ようやくラッチの外れる音がした。
扉が細く開いた。
由美は、そこから身を滑り込ませた。
目を伏せたまま後ろ手に鍵を掛けると、そのまま四つん這いになる。
便器からは、泉のように水が湧き出していた。
由美の脳裏に一瞬、幼い頃お伽噺で読んだ、『溢れる井戸』の一場面が浮かんだ。
美弥子とは、まだ目を合わせていない。
由美の目の端に、立ち竦む美弥子の両脚だけが見えた。
そしてその脚の前に這い蹲る姿こそは、由美にとって精一杯の謝罪の気持ちでもあったのだ。
由美は、躊躇いなく水溜まりに腕を差し入れた。
水底に沈むショーツに指が掛かる。
排水穴に呑み込まれようとしていた小さな布地を指先に絡め、ゆっくりと引き上げる。
まるで、魔界に引き込まれそうになった魂を、この世に引き戻そうとするかのように。
やがて由美の指が、水面に浮上した。
白いショーツは、しっかりとその指に絡んでいる。
由美は、もう一方の手を添えてその布地を掴むと、一気に引っぱった。
魔界は抵抗を見せ、両者の間でショーツが引き伸ばされた。
空間が歪んだように見えた。
しかし次の瞬間、呆気なく勝負はついた。
由美の手に、布地が残っていた。
魔界はゴボゴボと呪いの言葉を吐きながら、向こうの世界に戻って行った。
見る見る水が引いてゆく。
それを見届けた由美は、ショーツを掴んだままゆっくりと起ち上がった。
大切な宝を奪い返してきた、ナイトのように。
女王様の前に。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2008/07/09 07:22
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文中にある『溢れる井戸』について。
「お伽噺で読んだ」と書きましたが、そういうお伽噺は存在しません(たぶん)。
わたしが知っているのは、『溢れる井戸』の「実話」です。
わたしの住んでいる新潟市の中心部に、「異人池」と呼ばれる池がありました。
この池はなんと、井戸が溢れて出来た池だったです。
そんなに昔の話じゃありません。
明治になってからのことです。
その場所は、今でこそ市の中心部になっていますが、当時は町外れの砂丘のふもとでした。
そこにカトリックの教会が建ちました。
敷地内に、洗濯のための井戸が掘られました。
その井戸が溢れたのです。
砂丘に滲みた雨水が、井戸から湧き出したのです。
あっという間に、大きな池が出来ました。
いつしか、教会の尖塔を映すその池は、「異人池」と呼ばれるようになりました。
この話をわたしは、三芳悌吉という人が描いた「ある池のものがたり」という絵本で知りました。
古書店で絵に引かれて買ったのですが、井戸が溢れて出来た池という「ものがたり」も十分魅力的でした。
今、「異人池」はありません。
自然に枯れて、干上がってしまったそうです。
最近、異人池のあった辺りに、『溢れる井戸』のモニュメントが出来ました。
枡形の井戸から、ちゃんと水が溢れています(勢いの無い噴水みたいですが)。
池も無くなり、地名としても残っていないのですが、高級住宅街になったこの辺りのマンションには、やたら「異人池」の名前が付いています。
やっぱり「異人池」という語には、エキゾチックな響きがあるからなのでしょうね。