2017.10.31(火)
志摩子の横に立つ道代は、表札を読もうとした。
「おど、る……」
志摩子は、道代に続いた。
「くま……」
二人は声を揃えた。
「あん」
二人の一歩前に出、苫屋と、その表札を確認した秀男が受けた。
「踊る熊、で……あん、はおかしいですやろ」
「おどるくまあん……そないですなあ」
と道代は、どちらにともなく、呟いた。
志摩子が続ける。
「あん、は……いおり、とも読めるわなあ」
秀男が振り向いた。志摩子に目を遣り問い掛ける。
「踊る熊のいおり、ですかいな、意味はまあ通りますけんど表札でおますさかいになあ、たてもん(建物)の名前としては……」
「おかしいわねえ」
言った言葉を自ら否定する志摩子であった。
道代がそっと声を掛けた。
「秀はん、その……メモ書きには……」
書いてまへんのか、と道代が続ける前に、秀男が手のメモを道代に翳(かざ)し、答える。
「そこまでは書いてえへんなあ」
「そない……どすか」
道代は、ぼんやりと呟いた。
秀男が教師の口調になった。
「おどる、も、くま、も、訓読みやなあ」
「くん、よみ……」
秀男は、正面から道代に向いた。
「せや、ほんで漢字にはも一つ、音読みゆうのんがある」
「おん、よみ……」
「せや、くんは訓練のくん、おんは音(おと)と書く」
「くんと……おん……」
「せや、お道はん、あんたの名前の道、やが」
「へえ……」
「みち、は訓読みや」
「くんで……みち」
「ふむ、で、音(おん)やと、どう、やな」
「どう……」
「せや、道は道路(どうろ)ともゆうやろ、そのどう、や」
「へえ……」
畳み掛けられて道代は呆然となった。
言われてみれば、で、道(みち)も道路(どうろ)も、これまで数え切れぬほど使ってきた言葉だ。
しかし、言葉にこのようにきちんと決まりごとがあるとは……。今さらながらに道代は、無学文盲とまではいかないが、ろくに勉強、学問をしてこなかった我が身を顧みた。
いまさら、ではあろうが、せめて秀男の教えてくれることは、少しでも記憶にとどめよう、と考える道代であった。幼い折の、志摩子の家出騒動の際、秀男に八坂神社の由来を教わった記憶が、鮮やかに道代に蘇った。
(そないゆうたら……)
(さっき、野宮〔ののみや〕はん〔野宮神社さん〕でも……)
(なんや、教わったなあ)
(えーと)
(なんやったか……)
(せや! だいさん!)
(代わりにお参り、の代参)
(ほれで)
(ほれで今度は……みち、と、どう)
(あれ?)
(ほな)
(ほな、うちの名前)
(道代は……えーと、どう、だい……とも読めるんか)
(どうだい……)
知らぬ間に、道代は軽く笑んでいた。
(どうだい、どうだい……)
言葉には出さず、幾度か繰り返す道代の夢想は、志摩子の言葉で破られた。
「ほな、秀はん」
「へい、姐さん」
「このたてもん(建物)の読み方……踊る熊のいおり、は訓やろか、音(おん)ですやろか」
秀男は即答した。
「訓、ですなあ」
「ほな、音やと……」
「踊る、は、よう、ですなあ」
「よう……」
「姐さんらのやらはる、踊りですけんど、舞踊(ぶよう)とも云いますやろ」
「あ、へえ、ぶよう……」
「あの、舞踊のよう、ですなあ」
「ははあ、よう……」
秀男は、今度は志摩子を教える教師になった。
「熊は……音では、ゆう、ですけんど……これはええ言葉、思いつきまへん、そのまんま覚えとくんなはれ」
「熊(くま)は、ゆう……うーん、忘れそやなあ」
志摩子は、横の道代を見遣り、声を掛けた。
「よう覚えといてや、道」
「へえ!」
打てば響く……秀男の言葉を一言も聞き漏らすまい、と身構えていた道代の返答は素早かった。
「なんや道、えらい気合入ってるやないの」
「へえ、姐さん」
志摩子と道代は、軽く微笑み合った。女の街、祇園で長年、縺れ合う様に生きてきた志摩子、舞妓の小まめと、その付け人道代。その二人だけに通い合う一体感から生まれる笑みであったろうか。
そこへ、秀男の教師然とした声が掛かる。
「ほな……さっきの、踊る熊のいおりは訓読みで……音(おん)やとどないなりますやろ」
志摩子も道代も、一瞬言葉に詰まった。つい今しがた聞いた秀男の説明は既に霞の中である。記憶の糸を手繰り、文字を、言葉を手繰り寄せる二人であった。
「踊る、は……えーっと、舞踊の……よう、やったか」
これは志摩子。
秀男が答える。
「そないですなあ、姐さん」
「熊は……ゆう」
覚えといてや、と我が主、志摩子に命じられた道代の答えであった。
秀男が即答する。
「せやのう、お道はん、ほな、続けて読んだら?」
期せずして、志摩子と道代は、声を合わせた。
「よう、ゆう……」
最後の庵で迷う二人に、秀男が助け舟を出した。
「庵(いおり)は訓、音読みやと、あん」
志摩子と道代は、改めて声を合わせた。
「よう、ゆう、あん!」
秀男は、莞爾として笑った。利発な生徒に対する教師の笑みだった。
「そないですなあ姐さん、お道はん、お見事」
志摩子が道代の肩に片腕を回し、軽く抱き寄せながら秀男に応じる。
「そらあ秀はん、あんだけ丁寧におせて(教えて)もろたら……なあ、道」
道代は志摩子に肩を抱かれたまま、秀男の手前、少し身を固くして首肯した。
「ほんまに……」
三人の間に、しばらく沈黙が下りた。
志摩子、道代、そして秀男の三人は、目前にある荒屋(あばらや)を改めて見遣り、その表札の墨文字を頭の中で転がした。
踊熊庵。
音で、ようゆうあん。
訓で読み下せば、熊の踊る庵(いおり)……。
語の響きも、その意味するところも、いかにも異様であった。
人里を遠く離れた、山の奥のそのまた奥。
さらに地を離れた仙境、いや、地の底の更に底。
人外の魔境か、妖(あやかし)の住居(すまい)か。
果たして人の住むところか。
打ち捨てられた無人の小屋ではないのか。
もし住まうものがあれば、それは魑魅か魍魎か……。
しかし、ここは嵯峨野、竹林の道の只中。
古刹天龍寺のすぐ脇。
さらに天龍寺のその向こうには京・嵐山の名勝、渡月橋。
そして、聖地、野宮(ののみや)の社(やしろ)。
国の鉄路、山陰本線の嵯峨駅も徒歩の範囲。
そのような場所に果たして……。
風が出た。
葉擦れが起こる。
竹が鳴った。
竹が喚(おめ)いた。
(来たか)
(来て、しもうたか)
♪鴨の河原の水やせて
咽ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/10/31 07:59
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ようゆうあん
大阪語に「よういわんわ」があります。
「あきれてものが言えない」の意ですが、他にも各種ニュアンスを含む、いかにも大阪、の語です。
今回、小まめの志摩子のお座敷の場に設定しました「踊る熊のいおり」『踊熊庵』は、この「よういわんわ」をもじったものです……というのは後付け(おい)。
遠藤周作センセ『狐狸庵』からの発想です。
踊る『踊』が一文字目、二文字目は動物名に、で色々考えました。真っ先に思いついたのは猿“踊猿庵”でしたが、猿では「志摩子の恨み」の場としてはあまりに軽い。で、種々検討のうえ、熊にしました。
問題は、秀男センセの国語の授業。
生徒が生徒ですから懇切丁寧。ですが『熊』の音読みが「ゆう」を納得させるうまい手を思いつきませんでした。で、センセ曰く「そのまんま覚えとくんなはれ」。
これでは教師失格ですね。
書き上げた後、管理人さんから「『熊掌(ゆうしょう)』があるで」と教わりました。いわゆる『熊の手』、中華料理の材料ですね(なんでも食べる、は中華の極意)。
しかし残念ながら後の祭り、で責任はすべて秀男センセに押し付けることになりました。
それはともかく、次回、道代と志摩子はいよいよ妖の館、踊熊庵に踏み込むことになります。待ち受けるは魑魅か魍魎か(熊、ちゃうんかい)。
次回を乞う!ご期待。
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2. Mikiko- 2017/10/31 19:55
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「よういわんわ」
笠置シヅ子の『買い物ブギ』に出てきます。
歌詞では、“わてほんまによういわんわ”と記載されますが……。
耳には、“わてほんまによいわんわ”と聞こえます。
『熊掌(ゆうしょう)』。
文字どおり、熊の掌を煮こんだ料理です。
わたしがこの語を記憶してたのは、左右の掌、どちらを食べるかというエピソードから。
どっちがどっちだったか忘れましたが……。
食べる方の掌は、蜂蜜を掬うのに使うので甘く……。
逆に、食べない方の掌は、冬眠の間、お尻の穴を覆ってるから臭いんだそうです。
もちろん、ヨタでしょうが。
しかし、“踊熊”だと、熊が踊るんじゃなくて……。
熊を踊らすになるのでは?
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3. ハーレクイン- 2017/10/31 22:16
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よいわんわ
早口でしゃべると↑こうなります、よういわんわ。
>熊を踊らす
わてほんまによいわんわ。
熊以外に、虎や狼も候補に挙がりましたが、これではあまりに“いかにも”ですね。
特に狼だと“踊狼庵”で“ようろうあん”。下手したら“養老院”になっちゃいます。
♪わてほんまによいわんわ。
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4. Mikiko- 2017/11/01 07:26
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踊る動物
やっぱり、狸でしょうか。
「踊狸庵(ようりあん)」。
なかなか趣があります。
↓熊では、マレーグマが面白いです。
https://www.youtube.com/watch?v=KPJdrUhRRYc
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5. ハーレクイン- 2017/11/01 09:21
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踊狸庵
狐狸庵センセさえいなきゃあなあ、です。
♪つ つ 月夜だ
みんな出て 来い来い来い
マレーグマ
『ベルクマンの規則(Bergmann’s rule)』「同類の低温動物の体は、寒い場所ほど大きい」の実例として、よく引き合いに出されます。
ホッキョクグマ>ヒグマ>ツキノワグマ>マレーグマ
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6. Mikiko- 2017/11/01 19:44
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違いがわかる男
遠藤周作は、「白い人」で、1955(昭和30)年に芥川賞を受賞してます。
狐狸庵先生ものは、1963(昭和38)年から書き始めたようです。
志摩子たちの現在時間は、これより前でないの?
「遠藤周作が名乗った『狐狸庵』は、この嵯峨野にある『踊狸庵』をもじったものと云われている」と書けばいいではないか。
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7. ハーレクイン- 2017/11/01 23:07
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小まめ時間
1950年代の初めころ、と考えています。
ですから、狐狸庵先生ご登場よりずっと前になりますね。
そういう意味では、“踊狸庵”を用いても、物語の内で「パクリや!」の謗りを受けることはないでしょう。
そらそうです、小まめのころには『狐狸庵』は実在しなかったわけですから。
問題は読者。
今が今、『アイリス』をお読みになっている方は、『狐狸庵』も“踊狸庵”もご存知ということになるわけで、「あの野郎、臆面もなくパクリおって、工夫のない奴め」と思われてしまうではありませんか。
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8. Mikiko- 2017/11/02 07:39
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本編でしれっと書いておいて……
コメントで謝っとけばいいんです。
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9. ハーレクイン- 2017/11/02 08:53
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空(そら)っ惚(とぼ)ける
「しらばっくれる」「白を切る」「知らん顔の半兵衛」。
いろいろありますが、どうもしっくりきません。
あ、「面従腹背」(違うって)。
やはり、『熊』で行きます(もう掲載済みだって)。
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10. ハーレクイン- 2017/11/02 17:23
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踊熊庵異聞
←あゝしつこい。
今日、読んだ小説の登場人物。
物語内のハンドルネームが『古猿庵(こえんあん)』でした。げげ、ですね。
まったくの脇役ですから……作者め、考えるのがめんどくさくってパクった、と見ました。
人気あるなあ、狐狸庵センセ。
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11. Mikiko- 2017/11/02 19:57
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古猿庵
宮部みゆきでしょうか?
わたしは最近、通勤の車中、スマホで『青空文庫』を読んでます。
著作権の切れた作品だけなので、最近の作家は読めません。
今、読んでるのは、江戸川乱歩。
文章は少し古くさくなりましたが、十分面白いです。
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12. ハーレクイン- 2017/11/02 21:17
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その名はミヤベ
当たりです。
『ペテロの葬列』ですね。
1980年代ですから、もう40年ほど前になりますか。ペーパー商法で名を馳せた?豊田商事事件。
これにねずみ講を絡めた架空の悪徳商法を題材に取った物語。『火車』の系列になりますか。いや、かなり違うか。
青空文庫
スマホで読めるんですか。
マジに導入を考えてみるかな。
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13. Mikiko- 2017/11/03 07:58
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スマホ
わたしは本体を、ヤフオクで買いました。
10,800円(税込)。
それに、データ通信だけ出来るSIMを入れて使ってます。
料金は、月々、521円(税込)の固定です。
スマホは、電車で読めることはもちろん、寝転がって読めるのも利点です。
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14. ハーレクイン- 2017/11/03 10:15
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>寝転がって……
文庫本も寝転がって読めますが……パソやタブレットでは無理でしょうね。
しかし、1万円もするのか……。携帯の本体はタダだったけどなあ。
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15. Mikiko- 2017/11/03 12:01
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タダより高いものはなし
それは、月々の通信費で稼ぐシステムだったからです。
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16. ハーレクイン- 2017/11/03 13:59
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高い通信費
確かに、毎月1万円近くしてました。
よく知らないまま、ホイホイと契約しちゃったもんなあ。もう、解約しましたが。











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