2017.10.24(火)
「何してんのん、道、行くえ(行きますよ)、早(は)よ、来(こ)んかいな」
嵯峨野は竹林の道、野宮神社の境内。拝殿前の石段に腰を下ろす道代は顔を上げた。
境内の石畳の向こう、入口の鳥居、黒木鳥居の下に道代の主人、祇園の舞妓、小まめこと竹田志摩子が立ち、此方(こちら)を向いていた。その隣には、小まめの志摩子が属する置屋の下働きの老爺、秀男がやはり此方を向いて立っている。
軽く片手を上げ、道代に声を掛けたのは小まめの志摩子。
呼ばれた道代は小まめの付き人の道代、小野道代である。
道代は、立ち上がる前にまず返答をした。
「へ、へえ!」
立ち上がり、小走りに志摩子に駆け寄りながら道代はもうひと声。
「すんまへん!」
駆けながら道代は空を見上げた。木の間越し、暮れ泥(なず)む嵯峨野の空。その空の向こうに、道代は何やら艶めかしい情景を見たような気がしたが、それは目覚める直前の夢のように掻き消える。
(なん〔何〕やったんやろ……)
(どない〔どう〕しやはったんやろ……)
(え?)
(誰が、や)
(何が、や……)
道代は、確かに見たはずの長い夢を思い返そうとしたが、すぐに、夢を見ていたことすら忘れてしまう。
(どうぞ……)
(どうぞ、おしやわ〔幸〕せに……)
誰への思いなのか、何のための思いなのか、それは道代自身にも最早判然とせぬまま……。
「すんまへん! お待たせしました」
ぶつかるような勢いで、道代は志摩子に駆け寄った。
そんな道代を、抱き留める様に受け止め、志摩子は笑い掛けた。
「道」
「へえ」
「あんた、口元によだれ(涎)ついとおるえ(付いていますよ)」
「へ!?」
慌てて口元に片手を遣る道代に、志摩子は笑い交じりに声を掛ける。
「うそや嘘や、なんも付いてえへん」
「姐さん……」
「あんた、道……寝とったんか?」
「寝る、て……」
「夢でも見てたような顔しとるで」
言われて道代は、掻き消える情景をもう一度思い浮かべようとしたが、そのことすらすぐに意識から消えた。
「夢……へえ、夢、どすなあ」
「もう、しっかりしてや、お道姐さん」
姐さん、と笑い混じりに声を掛けられ、道代は背筋を伸ばした。胸前の風呂敷包を、改めて抱え直す。
「すんまへん、姐さん、お待たせしました、秀はん」
案内役の秀男にも頭を下げる道代を見遣り、秀男は身を返しながらひと声。
「ほな、行きまひょか」
先に立って黒木鳥居を潜る秀男の後を、志摩子、道代の主従が後先になって潜り抜ける。三人は一列になって数段の石段を下り、京都嵯峨野は竹林の道に降り立った。誰云うともなく振り返った志摩子主従は横並びに、改めて鳥居越し、拝殿に向かって頭を下げた。
秀男が、志摩子と道代を等分に見比べ、改めて声を掛ける。
「ほな……行きまひょか」
言って秀男は左手に身を回した。先頭に立って、先ほど野宮神社にやって来た道を戻って行く。
後に続く志摩子と道代。
秀男はいくらも行かず立ち止まった。分かれ道である。秀男の前方は、国鉄嵯峨駅へ戻る道。右手は、竹林の道を更に奥へ進む道。背後を振り返った秀男は、志摩子に声を掛けた。
「姐さん、こっちですわ」
こっち、と秀男が指す先は竹林の道の只中。軽く上り坂になっている。秀男は返事を待たず、体を元に戻し、自ら指し示した方向に歩み始めた。
あとに続く志摩子。
道代は更にその後に続く。
秀男、志摩子、道代の順に縦並びの三人は、さらに竹林の道の奥へと踏み入った。
行き交う人は、相変わらず一人としていない。
志摩子の足元、履いたおこぼ(木靴)が、時折道の小石に当たり軽やかな音を立てる。それ以外は、鳥の声も、葉擦れも、人の会話も、何の音もない静謐な竹林の道を、三人は黙々と歩いた。
道は変わらず、軽くではあるが登り勾配である。
道代の脳裡には、野宮神社での思いは既に無い。あるのは、主、志摩子への気遣い、それだけであった。
三人の間の沈黙は、道代によって破られた。
「姐さん、大丈夫どすか」
志摩子は振り返らず、前への歩みを進めながら、少し声を上げて返答した。
「だいじょうぶ、て、なんえ(何ですか)道」
道代もつられて声を大きくする。
「お足元、大丈夫どすかいな」
「ふん、このくらい、なんともあるかいな」
「そない……どすか」
「あんたの方がえらそう(きつい;疲れた)やで、道、大丈夫かいな」
道代はさらに声を上げた。
「うちは……姐さん、体(からだ)使うんが仕事ですさかい(ですから)……」
「身体(からだ)使うゆ(云)うたら……うちらかてせやで(そうだよ)道、あんた一遍、踊りやっとうみ(やってみなさい)どんだけえらい(疲れる)か」
「そらあ、そうどすやろけんど……」
軽く振り向いた秀男が、足を止めずに二人に声を掛けた。
「まあまあ、まだ時間は十分おますよって(ありますから)ゆっくり行きましょかい」
その秀男の傍ら、道の左手に簡素ではあるがしっかりした構えの門が現れた。門扉は閉じている。幅が二、三尺はあろうかという巨大な門柱には、これも巨大な表札が掛かっている。縦書きで『天龍寺』とあった。
秀男が立ち止まる。
追いついた志摩子と道代。
門柱に目を遣った道代が、思わず、という風に声を上げた。
「あれ、てんりゅうじ、はん……」
志摩子が応じる。
「天龍寺、て……道、さっきあんたがゆ(言)うとった……」
「へえ……なんで、こないなとこ(こんな所)に……」
秀男が、笑い混じりに応える。教え子に対する教師の口調であった。
「お道はん、あんたの思てる天龍寺はんは、嵐電(らんでん;嵐山〔あらしやま〕電鉄)の嵐山駅の前やろ」
「へ、へえ」
「あこ(あそこ)は、ゆ(言)うてみたら天龍寺はんの正門や」
「正門……」
「せや、ほんでここはまあ、ちょと失礼な言い方やが、裏門ゆうことやな」
道代は、半ば魂消(たまげ)るような、信じられない、という色合いの声を上げた。
「へええー、ほな秀はん、あこ(あそこ)からここまで、みいんな天龍寺はんの境内、ゆ(云)うことどすか」
「そうゆうことやなあ」
「はああー」
道代には、それ以上の言葉は無い。
(なんちゅう〔なんと云う〕広さやろ)
(なんちゅうおっきさ〔大きさ〕やろ)
(天龍寺はん……)
秀男が言葉を継いだ。
「いったい、なんぼ(幾つ)のたてもん(建物)が中にあるんかのう、わし(儂)らも見当もつかんわ」
「…………」
「まあ、時間があって、あ(開)いとったら、ちょと見物さしてもらいたいとこやが……」
志摩子が被せた。
「残念ながらし(閉)まってますし、そないな時間もおへんわなあ」
「へえ……」
呟く道代に、志摩子は声を継いだ。
「まあ、今度時間あったら、ゆっくり来(こ)さしてもらおやないの、なあ、道」
そないな機会があるやろか、とは呑み込んで、道代は志摩子を軽く見遣りながら応じた。
「そないですなあ、姐さん」
「ほな、行きまひょか」
秀男はさっさと歩みを進める。
続く志摩子と道代。
いくらも行かず、秀男は立ち止まった。
道の縁を見ながら、しばらく行き来する。
「えーっと、この辺のはずやが……」
置屋の女将、辰巳としに渡された物であろう。秀男は、手にした小さなメモ書きと、道の左右を幾度か見比べながら行きつ戻りつした。
「お、これやな」
言って秀男は振り返った。志摩子に声を掛ける。
「姐さん、ここですわ」
言い置き、後も見ずに秀男は竹林に踏み込んだ。
慌てて志摩子が後を追う、道代が続いた。
竹林の中の、道とも見えぬ小径は少し下り勾配になっている。
軽い足取りの秀男を追って、志摩子と道代は手を取り合い、縺れ合いながら続いた。
秀男が足を止める。
志摩子と道代はその隣に立った。
今にも崩れそうな苫屋が三人の前にあった。
道代は、小さな表札に目を留める。
掠れかけた墨文字。達筆の筆文字ではあるが、道代にも何とか読めた。
『踊熊庵』
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/10/24 12:22
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とざい!
とうざい(東西)~。
長々と(だらだらと)書き進めて参りました『アイリス』平安京編。幕でございます。
いったん、平安期の野宮、野宮神社に戻ろうか。恭子と兵部の名残の一発を書こうか、とも考えましたが、既に連載回数は延べ30回を数えております平安京編。始めたのが今年の3月28日、なんと半年以上も道代の妄想話を続けてしまいました。
これはなんぼ何でも、ということでございまして、些か強引ではありますが話は現在、と云いますか小まめ時間。若き日の志摩子の時点に戻ることになります。
続くは志摩子の恨み話。「地獄を見せたる」とまで志摩子の言う、あやめへの恨み語りが始まることになります。
今後とも、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
天龍寺
今回、あっさり通り過ぎました古刹、天龍寺。
禅寺です。
正式名称と云いますか、山号・寺号は『霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざん てんりゅうしせいぜんじ)』と称します。
開基は足利尊氏。
足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺で、京都五山の第一位(誰が決めたんや)。「古都京都の文化財」として、なんと世界遺産に登録されています。
精進料理を出す店(おそらく宿坊)が境内にありまして、湯豆腐がウリだそうです。嵯峨・嵐山にお越しの節はお試しください……ですが話の都合上、天龍寺は素通りです。
ということでございまして……
『アイリスの匣』嵯峨野編、舞台は変わりまして『踊熊庵』で御座います。
なんて読むんや、も含めまして続きは次回。今後の展開を乞う!ご期待。
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2. Mikiko- 2017/10/24 19:53
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天龍寺
庭園参拝料、高校生以上500円。
諸堂参拝料、さらに追加で300円。
現在、法堂にて「雲龍図」特別公開中、参拝料、さらに追加で500円。
合計、1,300円(団体割引等一切なし)。
坊主丸儲け、貧乏人に仏縁なし。
天龍寺直営・精進料理店「篩月(しげつ)」。
年中無休。
250人までオッケー。
コースは、下記のとおり(税込)。
「雪(一汁五菜)」3,000円。
「月(一汁六菜)」5,000円。
「花(一汁七菜)」7,000円。
お酒も飲めます。
なお、お店は庭園にありますので、庭園参拝料500円が別途必要となります。
材料原価は、1割程度?(儲かりまっせー)
湯豆腐のお店は、「西山艸堂(ぜいざんそうどう)」でしょうか?
料理は「湯豆腐定食」のみで、3,150円(税込)。
お酒も飲めます。
庭園内じゃないみたいなので、庭園参拝料は不要のようです。
材料原価は不明ですが……。
スーパーで豆腐を3千円も買ったら、腹が破裂するほど食べられます。
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3. ハーレクイン- 2017/10/24 22:21
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タダじゃないんだ 天龍寺。
正門も裏門も、どちらも覗いただけ。中には入りませんでしたからねえ。
それにしても、庭を見るだけで500円! 金沢の兼六園はタダ……じゃなかったか。昔は良かったなあ。
貧乏人は麦を食え、というやつだな(関連性、無し)。
雲龍図って……
まさか北斎?
今、大阪の『あべのハルカス』で北斎展をやってますが……。
湯豆腐の店
店名は覚えてません。テレビでちらっと見ただけでしたからねえ。
しかし、豆腐料理は豆腐が命。スーパーの水増し豆腐ではどもならんでしょう(スーパーの、だったりして)。
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4. Mikiko- 2017/10/25 07:27
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兼六園
タダではありませんでした。
18歳以上、310円。
ただし、団体割引があり、30人以上で250円です。
ま、こちらは、管理費が県の予算から出ますからね。
天龍寺の「雲龍図」は……。
加山又造画伯(1927~2004)によるものだそうです。
北斎に「雲龍図」という絵はないみたいですぞ。
湯豆腐。
わたしは、木綿豆腐が好きでないんですよね。
なので、わが家の湯豆腐は、絹ごしです。
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5. ハーレクイン- 2017/10/25 12:17
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金取り兼六
以前はタダだったんだけどね。
しかし、310円とはえらく半端な。
10円くらいまけんかい、ですがそこがお役所仕事でしょうか。
北斎に雲龍無し
あ、そうなん。
じゃあ、娘のお栄かな。
お栄の号は応為ですが、これは親爺殿からしょっちゅう「おーい、おい、おうい」と呼ばれていたからだとか。
え? 加山又造画伯?
絹ごし湯豆腐
掬うとき、ぐずぐずに崩れちゃうんじゃないの?
まあ、豆腐掬い、なんて便利グッズがあるようですが。
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6. Mikiko- 2017/10/25 19:44
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310円
おそらく、消費税が5%になったときに、300円から値上げしたんでしょう。
消費税を加えると315円になりますが……。
おつりの手間を考え、5円は切り捨てたんだと思います。
8%になったときは据え置きにして……。
再来年の10%への改正では、330円に値上げすると思います。
湯豆腐。
わが家では、お鍋からは、穴あきお玉で掬います。
煮ると硬くなるので、小鉢から食べるときは箸で摘まめます。
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7. ハーレクイン- 2017/10/25 22:41
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310円改め予定の330円
要するに、内税ということですな。
珍しいと云いますか、良心的と云いますか……。
どっちにしても収納の手間はかかりますわな。いっそ切りよくワンコイン、500円に(やめてくれよ)。
穴あきお玉
はいはい、あれね。
金網製の“ミニざる”みたいなのもあります。これは、汁がほとんど入らない優れもの。タレの“薄まり”が少ないです。
しかし「煮ると硬くなる」って……越後の豆腐は美味そうですな。
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8. Mikiko- 2017/10/26 07:21
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入館料などを……
外税で表記してるところは、まず無いと思います。
電車やバスの料金と一緒です。
「越後の豆腐は美味そう」。
皮肉を言わんでも良かろう。
煮ると硬くなるのは、凝固剤に「GDL(グルコノデルタラクトン)」を使ってるからだとか。
スーパーなどの激安豆腐がそれだそうです。
「にがり」を使った豆腐は、硬くならないそうです。
そんな豆腐、食ったことないわ。
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9. ハーレクイン- 2017/10/26 17:12
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グルコノデルタラクトン
ものすごい凝固力だそうです。水でも固めちゃうとか(んなアホな)。
絹ごしを止めて木綿にすれば?
端っから硬いんだから気にならないでしょう。
わたしは近頃、焼き豆腐一本です。
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10. Mikiko- 2017/10/26 19:48
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だから……
木綿豆腐は、好きじゃないんです。
豆腐臭い味がするじゃないですか。
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11. ハーレクイン- 2017/10/26 22:30
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>豆腐臭い味
意味不明。
豆腐なんだから当然でしょう。
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12. Mikiko- 2017/10/27 07:25
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豆腐の味が、さほど強くなく……
舌触りがツルンとしてるのがいいんです。
早い話、スーパーの絹ごし豆腐ですね。
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13. ハーレクイン- 2017/10/27 11:43
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舌触り
絹ごしなんだから「喉越し」とカマすべきだったな。
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14. Mikiko- 2017/10/27 21:31
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なるほど
勉強させていただきました。
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15. ハーレクイン- 2017/10/28 01:59
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絹ごし
それにしても、長いこと食べていません。
崩れるのは承知、で久しぶりに試してみますかね。穴あきミニお玉、どこやったかなあ。