2017.8.3(木)
お竜の言葉通り、咲は昼前に屋敷を訪れた。
膳を抱えた姿を勝手場から見つけて、伊織は待ちかねた様に咲に歩み寄る。
「では、参りましょうか」
「はい」
伊織は咲に続いて廊下を奥へと向かった。
「これを……」
蔵の前に着いた咲は、伊織に膳を預けて取り出した鍵で錠前を開けた。
細身を預ける様にして咲が取っ手を引くと、砂を噛む音と共に重い引き戸の隙間が広がっていく。
“いよいよ……”
咲に続いて框を跨ぎながら、嫌がおうにも伊織の胸は高鳴り始める。
いよいよ若の居場所を確かめる時が来たのだ。
いや、それより何より、夢にまで見た我が子に再会する時が来たのである。
蔵の奥へと進んだ咲は、帳場であろうか小さな机を設えた三畳ほどの板張りに上がった。
結い上げた髪から簪を引き抜くと、一枚の床板の継ぎ目に差し込む。
尺五寸ほどの板をこじ上げて、細い右手がその中を探った。
咲の目が上目遣いに泳いだ時、たがが外れた音と共に畳一枚ほどの床板が下方に沈んでゆく。
目を見開いて伊織は中を覗き込んだ。
薄暗い板階段の先は、奥からの灯りに揺らめく湿っぽい石積みの壁が続いている。
「さあ……」
膳を抱えたまま大きく息を吐くと、伊織は咲に続いて階段を降りていった。
四尺くらいの幅の通路を進むと、両側に太い木の格子が並んでいた。
中は六畳ほどの空間を石積みの壁が取り囲んで、土間も湿気で黒ずんでいる。
「ひゃ~ははは!!」
突然中から格子に取りついた女の奇声に、思わず伊織は身をのけ反らせた。
「彦様は、彦様は一緒じゃないのかい?」
とうに正気を失っていると思われるその女から伊織は目を逸らした。
向かいの牢ではまだ若い女が、焦点を失った眼差しをじっと宙に向けている。
「さあ早く。奥の突き当りの右側です」
咲もこの魔界から足を速めた。
突き当りの左右は、八畳ほどの比較的広い空間になっていた。
入り口の南京錠を開ける咲の肩越しに、伊織は忙しない視線を巡らす。
見つけるまでもなく、部屋の中央に置かれた畳の上にその子はじっと座していた。
“鶴千代さま……”
堪らず伊織はその目を閉じた。
胸の奥からこみ上げる熱い思いに震える唇を噛む。
「菊様、大丈夫ですか……?」
「は、はい、初めて地下に入り少し胸苦しくなりましたが、もう大丈夫でございます」
「では、中へ……」
地下牢で少しやつれて見えたが、鶴千代の目はまだ無垢な輝きを保っていた。
「こちらへお膳を……」
昼餉の膳を伊織から受け取ると、咲は鶴千代の前にそれを設える。
「若様、まだお持ちください」
「もう、毎回同じことを……。分かっておる」
鶴千代の澄まし顔に片頬を緩めて、咲は伊織を振り返った。
「菊様、あそこから御手水を。用足し場ではありますが、大丈夫、勢いよく水が流れておりますゆえ」
部屋の隅に一尺ほどの高さで四角く切り石が積まれ、その上に小さな桶と柄杓が置かれていた。
石積みの中に滔々と流れる湧き水を、伊織は柄杓で桶に汲み上げた。
「さあ、若様。このお水で手を洗って、口を濯いで……」
そう言って鶴千代の前に桶を置く咲に、伊織は心の中で手を合わせた。
桶の水で手を洗う鶴千代を伊織はじっと見つめた。
色白で愛らしいその瞳は、確かに羅紗姫の面影を強く感じる。
しかしやはり、凛と背筋を伸ばしたその風情は……自分の子に違いなかった。
わが胸でひたむきに乳を吸う赤子の顔が脳裏によみがえる。
ふと伊織の熱い眼差しに気付いた鶴千代は、眩しそうに二三度その瞳を瞬かせた。
「お前は……?」
膝を擦って斜に身体を避けると、咲はその微笑みを伊織に向けた。
「この者は菊と申します。以後、私と共に若の身の回りにお仕えいたします。どうかお見知りおきを」
口を開けば声が震えるような気がした。
黙ったまま両手をつくと、伊織は思いを込めて頭を下げた。
何かただならぬ雰囲気を感じた咲は、そんな伊織の様子をじっと見つめる。
「苦しゅうない。面を上げよ」
鶴千代の呼びかけで、伊織はゆっくりとその顔を上げた。
覗き込む頑是ない視線が自分に注がれている。
「お前、どうしてここに?」
その問いかけに一瞬移ろわせた眼差しが、土間で汚れた若の足を捉える。
唇を噛んで顔を上げた伊織は、もうその瞳に強い輝きを宿していた。
「私は……、私は若をお救いするためここに参りました」
思わず息を呑んだ咲が伊織を振り返った。
「私を救いに……?」
そう呟いた鶴千代に向かって、伊織はゆっくりと頷く。
「長い間ご苦労様でございました。私がこの牢からお救い申し上げ、その後は大石桔梗がお城までお供いたします」
「なに大石が、大石が参っておるのか?」
「はい。もう屋敷の外に控えているはず……」
そう言って再び伊織が頷いた途端、突然立ち上がった咲が牢の出口へと向かう。
「咲様!」
外から錠を下ろそうとする咲をようやく押しのけて、伊織は牢の外へ飛び出た。
「咲様! お待ちください!」
小走りに走り去る咲を追いながら伊織は叫ぶ。
「お願いです、咲様! 私は貴方を傷つけたくはない。それに、同じ子供を持つあなたならお分かりになるはず!」
叫びながら階段をよじ登った伊織はその動きを止めた。
伊織に背中を見せたまま、蔵の中で咲はその足を止めていた。
「はあ、はあ、咲様、どのような訳があるかは存じませぬが、貴方はお竜一家に加担するような方ではないはず。それは若へのお世話でよく分かっております。そして貴方なら、必ず母親の気持ちを分かってくださるはずと……」
「では菊様、貴方は若様の……」
背中を向けたまま咲はそうつぶやいた。
「はい……」
「では貴方は、鶴千代様のすべてをご存知なのですね……?」
黙って伊織がうなずいた後、蔵の中に暫時の沈黙が流れた。
「若様がここでお食事をなさるのは……?」
「これが最後でございます」
毅然とした口調で伊織は咲にそう答えた。
「では私はもうここに帰らずともよいということ……」
おもむろに咲は蔵の出口に向かって歩き始めた。
「咲様!」
そう叫んで二三歩後を追って、伊織はその足を止めた。
出口をくぐる咲の手から、外の光に映えた小さな輝きが舞い降りたからである。
伊織の視線の先で、牢と蔵の錠前の鍵が土間に落ちていた。
鍵を拾って外を窺うと、たむろしている若衆たちの間を咲の姿が何気なく表へと消えて行った。
臨時に手入れを頼まれたのだろうか、屋敷裏の林で二人の農民が下草に鎌を振るっている。一人は竹を組んだウマ(作業台)に乗って、作業を邪魔する下枝を切る様子も見て取れた。
「ねえあんた。そろそろ……、一休みしようよ」
「うむ、……い、いや……ああ、そうすっか」
腰に手を当てて伸びをすると、二人は手頃な切り株の上に腰を降ろして竹筒の水を口に運ぶ。
「頬かむりから耳を出して」
蔓の囁きに、桔梗は頬かむりの手拭いを耳の後ろによけた。
「小さな音も聞き漏らさぬように」
汗ばんだ顔に泥汚れがついて、農民にしては注意深い眼差しが屋敷の高い塀に向けられる。
「いよいよだな……」
そう呟いて、大石桔梗はもう一口竹筒の水を口に含んだ。
裏通りから四辻に出た旅芸人の女は、色っぽい眉を寄せて片手で西日を避けた。
軒下の日陰に身を寄せて、少し紅潮した顔に手拭いを使う。
それとなく向きを変えた眼差しの先では、珍しく女武芸者が藁筒の試し切りを披露していた。
背が高く器量の良い演者に見物客が付き、時折箱に小銭が落ちる音が聞こえる。
その時数回火打石の音が聞こえたかと思うと、提灯の並ぶ門口から暖簾をはねた若衆が七、八人姿を現わした。
一瞬女武芸者の方に目を向けたが、演台の横にぶら下げた一家の許可札を認めるとそのまま遊郭の方へと去って行った。
若衆たちを見送った女武芸者が目を向けた先で、見返す艶やかな目が微かに頷く。
着物の襟を直して武者震いの様に二三度肩を揺すると、お蝶は提灯の並ぶ門口へと足を進めた。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2017/08/03 07:52
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鶴千代
殿様の幼名に多い名前です。
水戸徳川家の世子は、代々幼名が鶴千代でした。
昔は、若年での死亡率が高かったですから……。
無事に成長して世継ぎとなれるよう、“鶴は千年”の“鶴”を付けたんでしょうね。
“鶴は千年”の由来は、中国のようです。
鶴と亀は仙人のしもべで、「鶴は千年、亀は万年の寿命を楽しむ」とあるとか。
ちなみに、実際の鶴の寿命は、20~30年だそうです。
しかしこれは、過酷な野生化での寿命で……。
動物園で飼われると、50~80年生きる場合もあるとか。
わたしの子供のころは、千鶴という子が、同級生に必ずといっていいほどいました。
今は、あんまりポピュラーな名前じゃないようですね。
やっぱり、“せんずる”とか言われるからでしょうか?
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2. ハーレクイン- 2017/08/03 17:22
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鶴千代……
で、わたしが真っ先に思い浮かべるのは『新納鶴千代』
郡司次郎正『侍ニッポン』の主人公ですが、数度にわたって映画化されまして、こちらの方が有名でしょうか。
わたしは小説、つまり原作本があることを知りませんでした。
新納鶴千代は、幕末の彦根藩主・井伊直弼の落胤。
が、その出自を知らぬまま、放蕩無頼の生活の果て、なんやかんやあって水戸浪士たちの尊王攘夷思想にかぶれるがそれも中途半端。
で、裏切り者の疑いをかけられ、それを晴らすため単身、大老になっていた井伊直弼、つまり我が実父の暗殺を企てるも失敗。捕らえられ、直弼に開国の必要を諄々と説かれ、またも揺らぐ鶴千代。
放免された鶴千代は、母から井伊直弼が実父であると明かされる。一瞬呆然としつつも「今頃になって……」と冷ややかに呟く鶴千代。
やがて、水戸浪士たちによる井伊直弼襲撃の日。鶴千代は、父を救うため、雪を蹴立てて桜田門外に向かう……。
♪人を斬るのが侍ならば
恋の未練がなぜ斬れぬ
伸びた月代寂しく撫でて
新納鶴千代にが笑い
(映画『侍ニッポン』の主題歌)
『新納』の読みは正しくは「にいろ」ですが“しんのう”と間違って歌われることが多いそうです。
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3. ハーレクイン- 2017/08/03 17:31
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千鶴
同級生にいたことは無かったと思いますが、下の名前まではなあ、あまり気にしなかったですね。
芸能人には池脇千鶴サンがいます。
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4. Mikiko- 2017/08/03 19:57
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新納鶴千代
大人になっても鶴千代なんですか?
元服をしなかったってこと?
千鶴の語源は、千羽鶴なんでしょうね。
鶴は千年じゃないよね。
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5. ハーレクイン- 2017/08/03 23:28
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大人の鶴千代
放蕩無頼を重ねていましたから、元服の儀式をやってもらえなかったのでは。
儀式では、確か前髪を下して月代を剃る。つまり髷を結うんじゃなかったかなあ。よくは知りません。
>千鶴の語源は千羽鶴
じゃあ、「千羽」の語源と云うか、なぜ「千」なんだろう。
やはり「千代に八千代に」かなあ。
>鶴は千年?
20~30年と、自分で書いてはるではアーリア人。
千年の寿命があれば、地球の支配者になれます。曰く“鶴の惑星”。
面白くもなんともなさそうです。
『萬亀』という屋号の店があるようです。無論「亀は万年」から取ったんでしょう。
某サラリーマン漫画に『万亀氏』という登場人物がいます。
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6. Mikiko- 2017/08/04 07:39
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千羽鶴
折り鶴が、初めて文献に現れるのは……。
1700(元禄13)年出版の『當流七寶 常盤ひいなかた』だそうです。
遅くとも、江戸前期から折られていたわけです。
この折り鶴と、「鶴は千年」の故事が結びつき……。
病気快癒・長寿を願って、羽鶴の風習が生まれたそうです。
「亀は万年」の折り亀(万匹亀?)が普及しなかったのは……。
1万個も作るのが大変すぎたからに違いありません。
ヘタすれば、それで命を縮めます。
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7. ハーレクイン- 2017/08/04 12:14
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千年・万年
折り鶴
起源は1700年(元禄13年)。
意外と新しいんですね。なんとなく、平安の頃と思ってました。じゃあ、恭子に折らせてはいかん訳か(大概にせえよ、の番宣)。
鶴の折り方は母親に教わりました。あといくつか教わったんですが、忘却の彼方です。あ、鶴は今も折れます。
折り亀
そんなのあるのか、と云いますとあるでしょう。
わたし『楽しい折り紙』とかなんとかと云うタイトルの本を二冊持っています。全部折ってやろうと考えたんですが、未だに一つも折れていません。
よーし、今年後半戦?の目標はこれだな。まずは……紙を買いに行こう。
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8. Mikiko- 2017/08/04 18:15
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デイサービスのレクで……
折り紙はするんでないの?
あと、塗り絵とか。
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9. ハーレクイン- 2017/08/04 22:45
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折り紙レク
月に一度、系列の幼稚園(保育園だったか)のガキどもが、交流と称してやってきます。
わたし、一度それにかち合ったことがあります。その時の企画が折り紙でした。あとで聞いたら、塗り絵などもあるとか。