2017.5.16(火)
(そうじゃ)
(あれは……そう……)
(あのとき、わたくしは……)
斎王恭子(のりこ)の追憶は、十年(ととせ)近くを遡った。恭子はようやく幼女から少女に、そう云えるようになった頃であったろうか。その前年、恭子は月のものを見るようになっていた。
外面、外見は折節(おりふし)、匂やかな女の風情を垣間見せるようになった恭子ではあったが、その内面は未だ幼子の頃と何ら変わらぬ無邪気な子供であった。
恭子は、板敷きの廊下を半ば転げるように駆けていた。お付きの女官の誰ぞに見つかればきつく窘(たしな)められる。もし乳母(めのと)の笹津由に見つかりでもしようものなら、ひょっとして折檻の一つも……。そうも思える恭子の振る舞いであった。
しかし、そのような懸念とは無縁の今の恭子であった。
(お休みじゃ)
(琴のお稽古は)
(今日はお休みじゃ)
(わたくしが怠けるに非ず)
(お師匠様のせいじゃ)
恭子は、心中で独りごち乍(なが)ら、弾む足取りで廊下を駆けた。子犬か子猫かと見まごう、弾むような恭子の足取りであった。
(お師匠様の)
(お師匠様のお体の具合が)
(お宜しくなき、とのこと)
(それゆえのお休みじゃ)
(なんと嬉しきことよ)
恭子(のりこ)は、左へ折れる廊下を駆け乍ら曲がった。
目には見えぬ手に押され、体を右に持って行かれる。その力に抗い、恭子の華奢な裸足の足裏、拇指が廊下の板を噛んだ。そのか弱い足指の力では到底、見えぬ手に抗いきれない。恭子は左の腕を伸べ、廊下の角の柱に左の五指を掛けた。恭子はその指に、腕に、肩に、それなりに満身の力を込め、倒れようとする体を支えた。その甲斐あってか、廊下の角を何とか曲がり終えた恭子は体勢を立て直し、さほど速度を落とすことなく、さらに廊下の板敷きに軽い足音を立てながら駆け続けた。
穏やかな春の風に舞う胡蝶もかくや……。見る人がおればそのように見たであろう、恭子の身の熟(こな)しであったが、駆け去るその背を見守るものは、早くも散り始めた花の乱舞のみであった。
駆け乍ら恭子は、心中さらに独りごちた。
(お師匠様には申し訳なきことじゃが)
(かほど嬉しきことがあろうか)
(いや、恭子よ)
(ひょっとして、お師匠様のご病気)
(ひょっとして願いはせなんだか)
(稽古嫌さに)
(ひょっとして……)
(もしそうであれば)
(仮にも師に対し)
(あまりに不忠、不敬……)
何者かに糾弾されたように思えた恭子(のりこ)は、駆けながら軽く頭(かぶり)を振った。
(左様な事は……)
(そこまでのことは……)
(しかし)
(琴など……)
(琴など、何がよきものか)
(何が楽しゅうてあのような……)
(わたくしにはとんとわからぬ)
(あのようなもの)
(お好きなお方がお好きになさればよろしいのじゃ)
恭子の暫時の躊躇い、我が身を顧みる思いは即座に霧消した。恭子の内を、楽しき思いだけが一杯に占めた。
(なんと嬉しきことよ)
(お休みじゃ)
(この弥生のよき日差し)
(われを祝うておるようじゃ)
(お会いできる)
(思いもかけず今日)
(お会いできるのじゃ)
(もうすぐじゃ)
(そこを今一度曲がれば)
(お会いできる)
恭子(のりこ)は、片足で二度ずつ交互に軽く跳び撥ね乍(なが)ら歩みを進めた。右足で二度、左足で二度、右で二度、左で二度……。
板敷きの廊下に立てる恭子の弾む足音は、その心中をそのまま表していた。
(兵部さま……)
恭子には果てもなく続くかと思われる廊下の路。木張りの路。
路の右は樹木が果ても見えず植わり、緑の壁となっている。
左は廊下に沿ってこれも果てなく続く板戸、板壁。
木張りの路を通る人、行き交う人、板戸を開けて現れる人は一人としてなく、恭子はひとり旅を続けた。
(ここじゃ)
(着いた)
(参りましたぞ)
(恭子が参りましたぞ、兵部さま)
入口の板戸は開け放たれ、御簾を下したのみのとある部屋の手前で恭子(のりこ)は立ち止った。軽く息を付く。
部屋の主は、兵部。北の兵部卿宮(ひょうぶのきょうのみや)。
兵部は、恭子(のりこ)と同じく今上天皇、時の皇尊(すめらみこと)の縁戚に連なる者である。恭子の方が聊かは時の天皇に近い立場ではあるものの、二人はごく近い縁戚。生まれ歳も同じ。その乳を飲んで育った乳母も同じ笹津由。恭子と兵部はいわゆる乳兄弟であるが、その生まれも育ちも実の兄弟同然の二人であった。
わずか十数日ではあるが恭子の方が兵部に先んじて生を受けており、厳密に二人の間柄を云うならば乳姉弟とも云えようか。
だが、そのような血肉の関係は扨置(さてお)き、恭子と兵部は、その幼少の頃の日々を共に過ごした、いわゆる幼馴染でもあった。起居も、食事も、昼日中の遊び戯れも、殆どの時を同じくした二人であった。
無論恭子(のりこ)は女子、兵部は男子。長ずるにしたがって、共に過ごす時も場所も少なく、その暮らしぶりさえ次第に異なるものになって行ったのは当然の事であった。
兵部がそれをどう感じていたか。無論恭子にはわからぬ事であったが、しかし恭子の想いはただ寂しい。それに尽きたであろうか。日常の暮らしには、これほどと思えるほど多くの女官が傅(かしず)く。その「痒いところに手の届く」至れり尽くせりの世話ぶりは、時に煩(うるさ)く感じるほどであった。
しかし、兵部はいない。
いやむろん、数日に一度。十数日に一度ほどではあるが、折節に二人は顔を合わせた。会えば以前と同様親しく語り合い、懐かしい遊びに興じもした。だが……そのような機会は時とともに間遠になって行った。
昼の日中は恭子も気が紛れる。何をすることもなくぼんやり座り込んでいる時にも、まわりには数人の女官が侍っている。少しでも恭子が黙り込んでいると、時を置かずに誰かしらが話しかけてくる。兵部の事を考えさせないようにしているのだろうか。まさかそのような事もあるまいが、と恭子が思うほどであった。
だが夜は……。延べられた褥に横たわり、目を閉じるとすぐに兵部の面影が浮かぶ。声が聞こえる。恋しさに悶え苦しむ。それほどの事ではない。いや、そもそもそれほどの関係の二人ではない。ただの幼馴染に過ぎないのだ。
暫時、目指す兵部の部屋の前に立ち止まった恭子(のりこ)の脳裏を、そのようなこれまでの事が瞬時に掠めた。恭子はもうこれで幾日、兵部と顔を合わせていなかったものか。
(だが)
(だが今日は……)
(久しや)
(久しや、兵部さま)
(今日は久方ぶり)
(ゆっくりとお話ができる)
恭子は声も掛けず、御簾をはぐろうと手を伸ばした。
と、その手が止まった。
室内から漏れ聞こえる声を、恭子の耳が聞き留めた。
(この声は……)
(これは、笹津由では)
(笹津由が何故に……)
二人の乳母(めのと)であった笹津由。
彼女は変わらず恭子に傅(かしず)く女官であったが、兵部の世話役からは既に外れているはず。
そのことに思い至った恭子は、御簾をはぐることはせず、室内から漏れ聞こえる声に耳を澄ませた。
「兵部さま」
笹津由の声であった。
「されば兵部さま」
「………」
それに応(いら)う兵部の声は聞こえない。
笹津由は重ねて呼びかけた。
「お手を……」
「………」
変わらず、兵部の応(いら)えは無い。いや、恭子には聞き取れなかったものか。
代わりに恭子の耳が捉えたものは、微かな衣摺れであった。恭子は、御簾に顔を寄せ、その隙間に目を当てた。
コメント一覧
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1. 雑兵ハーレクイン- 2017/05/16 11:52
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殿上の皇女
が、どのような日常を送っていたのか、内裏の内部がどのような構造だったのか、皇女・皇族が内裏のどこに住まっていたのか……。
そういう知識が無いと、今回の『アイリス』にリアリティが無くなるわけですが、無論わたしの能力の遠く遥かに及ばぬ所。まさに、地上のどん亀が天上界を思いを致すようなもの。宣伝を兼ねてさらに申し上げますと、地上をのたのた歩くしかないガチョウのモルテンが、天空高く飛翔するガンの群れに憧れるようなもの(わかるかな)。
何をアホ書いとんねん、との向きには、ぜひ叱責とご教示を賜りたく、お願い申し上げます。
>片足で二度ずつ交互に軽く跳び撥ねながら歩みを進めた
>右足で二度、左足で二度、右で二度、左で二度……
恭子(のりこ)の駆けっぷりですが、いわゆるスキップですね。
恭子のルンルンぶりが納得できようというものです。
で、その、浮かれ恭子の目指す先は仲良しこよしの兵部さま。
ようやく到着やれ嬉しや、ですが先着していたうるさ型の女官笹津由。
さあ、恭子・兵部に笹津由が絡んで、話はどう展開する。
待て! 次回。
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2. Mikiko- 2017/05/16 20:08
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琴の稽古が嫌であろうことは……
実に、よくわかります。
わたしも、音楽はダメでしたから。
リコーダーとか。
今でも、唾臭い吸い口の臭いが蘇ります。
気が滅入る思い出です。
でも、こんなわたしの持ち物となったリコーダーは、もっと可哀想だったと思います。
何の未練も無く、捨ててしまったんでしょうね。
もっといい持ち主に当たりたかったよね。
ごめんね。
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3. ♪馬鹿な女のHQ- 2017/05/17 01:44
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↑♪怨みぃ~ぃぃ節い~
(梶芽衣子『怨み節』)
リコーダーは嫌じゃ
どなたにも得手不得手、向き不向きがあり、苦手とするものがあるわけですが……わたしは「地道な努力」ってえ奴が大の苦手でした。
これでは琴もリコーダーもへったくれもありません。で、今も苦手で現在に至る、と。
まあ、わたしの事はさて置き斎王恭子です。
そもそもこの斎王話は道代の妄想。その妄想の登場人物恭子が、今度は思い出話を始めるという、まあいわば“妄想のマトリョーシカ”になっちゃっています。
この調子で続けますと、いくらでも妄想繋がりが可能なわけですがとんでもない。そんなことをやっている暇はホントはないわけでして、速やかに小まめ時間の野宮神社に立ち戻り、懸案の「小まめのお座敷」「志摩子の怨み」を始めたいと思います。
それにしても、この『アイリス』。主人公はもちろん女料理人あやめですが、今頃どこで何をしているのでしょうか。
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4. Mikiko- 2017/05/17 07:25
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高校では……
美術と音楽の選択制だったので、迷わず美術を選びました。
美術が得意だったわけではなく、あくまで音楽が嫌だったのです。
ちなみに、中学の美術の通知表では……。
3年間で、1から5まで、すべて取りました。
志摩子の怨み。
すっかり忘れてましたね。
忘却とは……。
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5. 手羽崎 鶏造- 2017/05/17 09:45
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おじゃまします。兵部、兵部?、最近どこかで見た名だと思ってましたら、長岡兵部大輔(ひょうぶのたいふ)藤孝でした。明智憲三郎著の「本能寺の変
431年目の真実」という本を読んだのですが、この本、明智光秀の謀反を旧来の俗説に対して、実証的に推理を試みたものなのですが、氏の推理結果はここでは申しませんが、盟友・細川藤孝がなぜ光秀の要請に応えず同調しなかったのか(決起しておれば秀吉との戦局は変わった?)、藤孝の子・忠興の妻、細川ガラシャ(光秀の娘・玉)が何を神に祈ったのか、とても説得力があり、面白く読ませてもらいました。<私は秀吉、家康よりも、ちょっぴり光秀びいき>
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6. エロか芸術かHQ- 2017/05/17 12:40
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Mikikoさん&手羽崎 鶏造さん
>Mikikoさん
美術か音楽か
うちの高校ではまとめて「芸術」と称していました(大層な)。
わたしは無論、迷いなく音楽でした。
授業内容は主に合唱。
男女共学でしたから「混声四部合唱」てな事でしたでしょうか(私はテナー;テノール)。あとはレコード鑑賞(もちろんクラシックのみ)、作曲などでした。
合唱での発声のコツを一つ教わりました。腹式呼吸はもちろんとして「気道をまっすぐ垂直に」「上顎、歯の付け根あたりに声をぶつける感じで」てなことでしたか。
>手羽崎 鶏造さん
長岡兵部大輔(ひょうぶのたいふ)藤孝
何もんじゃい、と悩んじゃいましたが{長岡}と「藤孝」でひょっとして、と思えば書いてはりますね。光秀の盟友にして義理の息子、細川藤孝ですか。
藤孝はさて置き(さて置くな)女房のガラシャこと玉はよく知っています。京と大阪の府境近く、藤孝ゆかりの京都府長岡京市では、毎秋(11月だったかな)「ガラシャ祭」が催されます。
ガラシャに扮した若い女性が輿に乗り、市中をパレードします。残念ながら、一度も見たことありません。
斎王恭子の想い人、兵部こと「北の兵部卿宮」は、もちろんわたしがテキトーにでっち上げた名前です。兵部卿は軍の長官職ですが、これも全く無関係。ですが、作中のキャラには似合わなかったですね。
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7. Mikiko- 2017/05/17 19:42
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音楽室
ヨーロッパの作曲家の写真が、壁にずらっと貼ってあった記憶があります。
縦ロールみたいな髪型でしたね。
わたしの合唱のコツは……。
もちろん、口パクです。
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8. ♪筑波山麓HQ- 2017/05/17 21:44
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↑♪混声合唱団~
コンダクターはガマ蛙~
(デューク・エイセスの名曲)
>縦ロールみたいな髪型
バッハ、とかハイドンでしょうか。
ベートーベンは「もじゃもじゃ頭」だから違うよね。
『花よ志』の仲居、久美。あやめの相方が↓こんなこと言ってます。
(音楽やったらベートーベン)
(これしかないやろ)
(音楽室にようけ〔沢山〕)
(へんちくりんな〔変な〕かっこ〔恰好〕の人の絵ぇ)
(掛けたぁった〔掛けてあった〕けど)
(ベートーベンは一発で覚えたわ)
(あれが天才の顔、ゆ〔云〕うんやろなあ)
(センセは努力の人やぁ〔人だ〕とかゆわはった〔などと仰った〕けど)
参考文献:『アイリス』#138;力ずくの番宣
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9. Mikiko- 2017/05/18 07:18
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そんな会話があったことは……
まーったく、覚えてませんでした。
こうやって再掲されても、まるで思い出しません。
よく覚えてましたね。
わたしは、自分の書いたものでも忘れます。
確認したいことがあって読み返すと、実に新鮮です。
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10. 人の書いた物はHQ- 2017/05/18 07:56
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会話
ではありません。
久美の独白です(まさか「久美? 誰、それ?」だったりして)。
わたしは、自分の書いたものは隅から隅まで覚えております(大ウソ)。











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