2017.5.9(火)
斎王群行。
京を発って伊勢に向かう、斎王の行列である。
時の天皇の代理である斎王に供奉する行列である斎王群行は、壮麗を極める。
群行の中心である斎王は、宮中の女性の最高位の衣装を纏い、輿に乗る。輿は葱花輦(そうかれん)と称する、神輿にも見紛う絢爛たる乗り物で、十数人もの正装の役夫がこれを担う。
斎王に供奉する者は数百人もの多きを数える。
まず、斎王に直接仕える多くの着飾った女官。彼女達も輿に乗るか、あるいは牛車に揺られる。
次いで、道中を警護する衛士達。その多くは徒歩であるが、騎乗する者もいる。全て刀剣を佩き、弓を負い、矢筒を腰に……万が一にも斎王に、と万全の備えである。だが、その装束は宮中での礼服に威儀を正している。
加えて、数えもきれぬ人数の男と女。宮中の人手が総出かと思わせるような人員が、斎王群行を形作るのである。
更には、乗用の馬。荷駄を積んだ牛馬。牛車を牽く牛……。幾十頭もの獣も斎王群行の一員である。
斎王群行は、これほどの人員、物資から成るのである。都の内であればまだしも、京を出外れれば道は狭い。山に掛かれば人一人がやっと、などという道もある。したがって群行は長くなる。先頭から末尾までどれほどになるのか。涯も見えぬ、などと称しても強(あなが)ち大仰でもない。そのように思わせる斎王群行の様であった。
僅か一人の斎王の為にこれほど……。
いや、そうではない。
斎王群行は確かに斎王のものであるが、天皇のものでもあるのだ。
見よや、この威勢、と国中の者に見せ付ける。斎王群行は、時の天皇がこの国の統治者である、ということをまさに形で表す、改めて万人に知らしめる儀式であるのだ。だからこその斎王群行の威儀なのである。
膨大な人員を注ぎ込み、夥しい費えもものかは執り行われる斎王群行は、天皇の代替わりに伴ってのものである。つまり、新天皇の即位を満天下に知らしめる儀式であるのだ。
斎王は天皇の名代。そして、この国の主祭神、伊勢神宮のアマテラスの託宣の元にあるのが天皇である。
「われこそ日本の主」と、無言のうちに宣言する儀式が斎王群行なのである。
斎王とはそういう存在なのだ。だからこそ、斎王に選定されるのは、天皇の息女なのである。
斎王群行の道筋は時により変化したが、おおむねは決まっていた。京から東に向かって滋賀は近江の国を抜け、鈴鹿越えで伊勢の国、今の三重県に入る。旅程は五泊六日。
斎王恭子の場合、九月九日の夜に都を発ち、翌日に近江の琵琶湖畔沿い、瀬田(勢田)で一泊。次いで、甲賀、垂水と泊を重ねて鈴鹿越えの後、伊勢に入り泊。最後の泊りは伊勢の国の一志(いちし)である。
斎王の宿泊には、新たに建物が造営される。これを頓宮(とんくう)と称する。「頓」は額(ぬか)ずくの意であるが、すぐに、即座に、の意もある。急ごしらえ、は言い過ぎであろうが急ぎ造営した仮の宮、という含みは無論ある。頓宮は、斎王出立の後は直ちに取り壊されるのだ。
一夜のみの宮……。あとには痕跡すら残らず、今となっては正確な頓宮の所在地はほとんど確認されていない。贅沢と云えば贅沢で無駄な費えともいえようが、これも天皇の威光の一環なのであろうか。
斎王群行はその途次、いくつかの川の畔を辿(たど)り、また渡る。瀬田川、野洲(やす)川、鈴鹿川、金剛川、祓(はらい)川……。
斎王は、川に行き当たるたびに禊を行う。鴨川での禊から始まった斎王の精進潔斎の日々。それは、伊勢に至る直前まで続くのだ。いや、斎王が斎王である限りは、禊がなくなることは無い。禊は、神に仕える斎王の最も重要な属性と云えるのかもしれなかった。
伊勢での斎王の居所は伊勢神宮ではない。神宮から三、四里を隔てた地に造営された斎王の為の宮、斎宮(さいくう)に住まうのだ。これは頓宮とは異なり半永久的な施設である。
斎宮は、野宮神社や、まして頓宮のような簡素なものではない。その敷地は東西がおよそ十七町(2キロメートル)、南北およそ六町(約700メートル)。その広さは百町歩(およそ140ヘクタール)という広大なものである。この中に、斎王の住まいする主神殿をはじめ、数多くの建物が造営された、もはや一つの街と云っても過言ではない斎王の聖域が斎宮なのである。
この斎宮から伊勢神宮へ、斎王は祭祀の度に通う。
伊勢神宮で行われる主な祭祀は、秋の新嘗祭(にいなめさい)をはじめ年に三度。これを三節祭と称するが、それに加えて季節ごとの細かな祭祀が多くある。斎王の一年の暮らしは「神事に始まり神事に終わる」と云われる所以である。
そのたびに、群行の時ほどではないがそれに劣らぬほどに威儀を正し、斎王はその姿を人々に見せつけるかのように、華麗に往還するのだ。
(明日は伊勢へ……)
(いや)
(もはや今日の事であろうか)
斎王恭子(のりこ)は、北の兵部卿宮(ひょうぶのきょうのみや)との狂乱の戯れの中、ふとそんなことを考えた。
(われは斎王)
(伊勢神宮に仕える巫女にして、斎宮の主)
(その、神の下部〔しもべ〕が今、何を……)
膝立ちのまま、兵部に後ろ抱きにされた恭子は、その両の乳房と乳首を嬲られていた。乳首に生じる鮮烈な快感は身を貫き、恭子の体を内から炙り上げる。
だが恭子は、その感覚をどこか他人事のように感じながら思いを巡らせた。いや、何者かと会話を始めた。
(われはまこと、斎王……なのであろうか)
(何をいまさら、恭子よ)
(男を知らぬ無垢な身、が斎王の絶対条件)
(そうよのう、恭子よ)
(それは幼いころから幾度も言い聞かされてきた)
(そうよ、知らぬ筈はなかろう、恭子よ)
(知っておる、よく知っておる、百も承知じゃ、左様な事)
(で、何をしておる、恭子よ)
(今、何を、と問うか)
(いや、これまで何を成してきたのかと問うておる、恭子よ)
(これ……まで、とてか)
(そうよ、おぬしのこの痴戯、痴態、神も恐れぬ振る舞い)
(おお)
(今に始まったことではあるまい、恭子よ)
(そうじゃ、おおっ、そうじゃ)
恭子(のりこ)の両の乳房。そのそれぞれの頂点から高く突き出す凝(しこ)り切った両の乳首は、兵部の両手と十指に蹂躙されるままだった。乳房と乳首を、供物のように捧げる恭子であった。そして、その供物に対する降し物は、激越な快感だった。その快感に反応して、恭子の陰部からはとめどなく淫水が零れ出た。だが、それすら今の恭子には他人事であった。
(そうじゃ、あれは……)
恭子と兵部は、いわゆる乳兄弟だった。いや、乳姉弟と云うべきだろうか。
姉弟・従姉弟ほど近くはないが、類縁を辿るのも難しいというほど遠い関係でもない。いずれ縁戚であるのは間違いのない二人であったが、どちらも母親との縁は薄かった。
そうでなくともこの時代、実の母親から直に乳を与えられるなどということはまず無かった。乳母(めのと)の乳によって育つのが通例の事であった。そういうことでは、乳母は実の母親も同然。いや、それよりもはるかに近しい間柄であった。
二人の乳母はもちろん宮中に仕える女官、名を笹津由(ささつゆ)と云う。先ほど、この恭子の居室への侵入を手引きしたとして兵部が名を明かした人物であった。
女官笹津由。恭子、兵部の乳母。恭子にはもちろん、兵部にとっても因縁浅からぬ人物であった。
コメント一覧
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1. 下っ端衛士HQ- 2017/05/09 10:21
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斎王も人の子
斎王恭子(のりこ)と兵部。北の兵部卿宮の、狂乱の戯れが続きます。
恭子自身も述べていますが、斎王は神の下部(しもべ)。その神の使いが、神の聖域たる嵯峨野は野宮神社での肉の饗宴に耽る……。
余人はいざ知らず(あかんよ~、誰がやっても)斎王には許されぬ暴挙でありましょう。
天も恐れぬ恭子の振る舞いですが、まあ敢えて弁護をするなら、それほど兵部に惚れている。
さらに言えば、たとえ地獄に落ちても本望と、そこまでの思いの成せる業でしょうか(兵部はどう考えてるのかなあ、まあ男はどーでもよろしい)。
それはともかく、どうも話は二人が若い頃(今も十分若いんでしょうけど)。宮中でのエッチシーンに繋がりそうです。その仕掛人は二人の乳母、女官の笹津由。
この人物、名前を付けちゃったからなあ。
やはり登場させないわけにもいきません。次回以降、恭子・兵部に笹津由が絡んで、さらにドロドロのぐじゅぐじゅの。テレビの昼ドラも斯くや、の話が展開することになります(長くなるなあ『野宮神社の場』)。
乞う!ご期待。
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2. Mikiko- 2017/05/09 19:51
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斎王軍港
否、群行。
人ごとながら、もっとも心配なのはトイレです。
男はいいとして、女性はどうしたんですかね?
特に、斎王。
いくら神のしもべでも、身体は人間です。
しかも、あの衣装ですよ。
ほんとに、どうしたんでしょうね。
わたしが考えるに……。
斎王には、影武者がいたんじゃないでしょうか?
斎王が脇道で尻をまくってる間、輿には影武者が乗ってるわけです。
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3. 便所コオロギHQ- 2017/05/09 23:08
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↑昆虫カマドウマ(竈馬)の俗称
斎王トイレ問題
禊の時は当然、したでしょう(ホンマかーい)。
曰く、川屋(厠):漢字はマジです。
山野・山中ではどうするか。
そんなもの、お付きの女官(怖いよー、エラいさんになると)の鶴の一声「みな皆、後(うしろ)向きゃれ!」
これで全員輿に背を向ける。ちらとでも振り返ろうものなら即、首が飛びます。
で、悠然と輿を降りる斎王殿下(とは云わんか)。衣装の裾を捲り上げ(もちろん支えるのは下っ端の女官連中)いたすわけです、斎王妃殿下(は、おかしいな、妃じゃないし)。
何の問題もこれ無し。地には平和を(小松のおっちゃんの中編)。
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ここでギョーム連絡です
管理人さん。
今回の本文、下から41行目。
量→両
に訂正を、よろしくお願いします。
「りょう」が沢山あったせいか、やらかしちゃいました。
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4. Mikiko- 2017/05/10 07:24
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カマドウマ
昔、自転車小屋の中で見たことがあります。
こちらでの俗称は、シケムシ(湿気虫)ですね。
斎王群行。
先行部隊がいたはずです。
食事や宿の準備を、指揮監督する役割です。
その付帯業務として、そこここにトイレも設えたんじゃないでしょうか。
もちろん、穴を掘って天幕を張る程度でしょうが。
訂正、完了してます。
いつものことながら、後になって気づくというのが立派(?)です。
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5. シケてやがんなあHQ- 2017/05/10 12:15
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シケムシ
シデムシ(死出虫)と読んでしまった。
こやつ、カブトムシの親戚ですが(ゆかりちゃんとは無関係)動物の死体を主食とします
「埋葬虫」とも書くそうで、いろんなやつがいるものです
>そこここにトイレ
ったって、一町置きに作るわけにもいかんでしょう。せいぜい、1日の旅程当たり2,3か所。
それではシンボでけへん、というトイレの近い斎王もいたのでは。おしっこは、催せばすぐにしたいものです。
訂正、確認しました
ありがとうございます。
>後になって気付くというのが立派
続けて「ミスらない方が更に立派」と言いたいのかね。
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6. Mikiko- 2017/05/10 19:54
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簡単なことを思いつきました
輿の中に、携帯トイレを置いとけばいいのです。
タイプミスは必ずあるものですが、推敲でどれだけ取れるかがキモです。
わたしは必ず、紙に打ち出して推敲してます。
画面上だけでは、どうしても見逃してしまうので。
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7. 藪の中ハーレクイン- 2017/05/10 23:33
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↑意味、違うって
輿の中
狭いよー。
畳半畳分くらいですね。まさに「座って半畳寝て一畳」(意味、違うって)。
携帯トイレ、もしひっくり返したら、絶対“頭からおしっこ”です。輿は揺れるしねえ。
>紙に打ち出して推敲
ほう。
万全の体制、と云いたいところですが、一人での推敲では完璧を期するのは無理でしょう。誰かに見てもらいたいところですが、そうもいきませんわな。
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8. 手羽崎 鶏造- 2017/05/11 03:56
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ヒントになりそうな話を歳上の山好き男性から
聞いたことがあります。
彼は学生時代、ちゃんとした山岳部に入っていて、
尾瀬に皇太子(今の天皇)が訪れた際に、付き添い
部隊として、木製一人用トイレ(ドア付)を担ぐ
役割をしたことがあったそうです。
重くないの?と聞いたら、便器は別の人が運ぶ
ので重くなかった。大便用?いいや兼用と申してました。
私の推論は、皇室の場合、野ぐそ・野ションはありえない。まして女性です、専用の厠を随行していたと考えます。
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9. キジ撃ちハーレクイン- 2017/05/11 05:52
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↑山用語で野ぐそ
>手羽崎 鶏造さん
『木製一人用ドア付きトイレ 兼用便器別(長すぎるって)』ですか。要するに「人力運搬可能の仮設トイレ」ということですね。
Mikiko説の「穴を掘って天幕」説と、「携帯トイレ(いわゆるおまる)」説の中間になりますか。
なるほど、これなら設営・撤去の手間いらず。“頭からおしっこ”も防げる、と。
なるほど。
江戸期、江戸城大奥の話ですが……
正室・側室の用足しには、お付きの腰元がわんさと随行する。で、そのお付きの中には「拭き取り専任」なんてのがいたそうです。
何を言いたいかと申しますと、高貴なお方はトイレでも自らは何もしない(「きばる」「いきむ」は、しますが)。見られたり触られたりに慣れている。野ぐそ・野ションなど何ほどの事もない、と思うのですがどうでしょう。
むろんこれは古の話。今上天皇が立ちションをされたとは、わたしも思いません。
それにしても、山岳部がトイレ担ぎですか。
わたしも多少は山経験あり、の口です。感慨深いものがあります。
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10. Mikiko- 2017/05/11 07:20
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運搬トイレ
これは、大いにあり得ますね。
昔は便器なんかありませんから、トイレの“側(がわ)”だけ運べばいいわけです。
底のない籠みたいなものにすれば、運ぶのも楽でしょう。
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11. 割れ鍋に綴じ蓋HQ- 2017/05/11 08:04
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↑かんけーないけど、こんなの思い出しちゃったよ
底のない籠
要するに、単なる「目隠し」ということで、本質的には垂れ流しということですな。野ぐそと一緒じゃん。
あ、一人分なんだから小さな穴を掘って埋めればいいのか。人手は腐るほどあるんだから簡単だね。