2017.5.11(木)
屋敷の中に静寂が戻って、陣内伊織はそっと寝床から身を起こした。
お竜をはじめ根来の一味は早朝から何処かへ出かけたようである。
廊下に面した戸襖から顔を出すと、右手は明かりの灯った帳場に人の気配がする。
大引け後に遊郭の世話から戻って来たのか、飯炊きの老婆に食い物を催促する若い衆の声が聞こえた。
逆に左へ目を転じると、小さな池を巡って奥へと渡り廊下が続いている。
寝床脇の手拭いを掴んで伊織はそっと廊下へ出た。
まだ辺りは薄暗い中、手拭いを池の水で絞りすぐさま部屋へ取って返す。
急いで伊織は襦袢を脱ぎ、自分の身体を丹念に拭き始めた。
女同士の睦みごとで、身体中にお竜の匂いが染み付いているような気がしたからである。
再び胸の内に言いようのない悲しみがこみ上げる。
“ゆるして、お蝶さん……”
気持だけは負けないつもりだった。
だが無念にも体がお竜に屈した時、何もかもが白い霧に覆われた様に我を忘れたのも確かであった。
伊織は固く両目を閉じてその身体を清め続けた。
いつの間にか外の光に障子紙が白く映えて、その中に格子桟が黒い線を描いている。
身繕いを終えた伊織は、再び心の中に強い心が戻るのを感じた。
“それもこれも、無事若様をお救いするため……”
両膝の上で固くこぶしを握り締めて、伊織はその切れ長の目を開く。
お竜たちが出かけている間は、若の居場所を探る絶好の機会に違いなかった。
先ほど池に手拭いを浸した時、まだ薄暗くてよく分からなかったが、渡り廊下は椿の中木を合図に小さな離れと蔵に向けて分かれている様に見えた。
離れは床下まで池が入り込んでおり、格好はいいがいかにも無防備な建物である。
やはりもう一方の蔵のような建物は調べておかねばならないと感じた。
そう心に決めて立ち上がろうとした時、外の廊下のきしむ音に伊織はその動きを止めた。
静々とした足音が表から近づいてくる。
やがて建具が戸襖から障子に変わったところで、身体の前に膳を抱えた女性の影が障子紙に映り込んだ。
その上品な影はゆっくりと奥へ動いていき、やがて池に向かって消えた。
急いで伊織は立ち上がって障子を細く開ける。
自分と同じ年頃だろうか、上品に髪を結いあげた女性の姿が蔵の前に見えた。
その女性は袖から出した鍵で扉を開けて中に姿を消した。
“よし、一か八か……”
伊織は障子を開けて廊下へ出ると、足音を忍ばせて蔵へと向かった。
根来のいない屋敷に残ったのは限られた人数である。
若を見つければ、もう相手を切り破ってでもここから助け出す覚悟だった。
蔵の前に立つと、伊織は大きく息を吐いて扉の取っ手を掴んだ。
意を決して扉を引き開け中に身を躍らせると、薄暗がりに忙しない視線を巡らせる。
“なに……?”
伊織は呆然と立ち尽くした。
中には若の姿どころか、先ほど入ったはずの女の姿さえ見えなかったのである。
“こ、こんなばかな……”
蔵の中央に進んだ伊織は周囲に隈なく目を配る。
しかし貸し賃のかたであろうか、中には家財道具や骨董が所狭しと並べられているばかりであった。
「奥さん、奥さん!」
その時、帳場の方から自分を呼ぶ代貸しの声が聞こえた。
素早く蔵を出ると、伊織は離れの裏手へと回り込む。
「申し訳ありません。あまりお庭がきれいだったもので、つい拝見しておりました」
頭を下げる伊織の顔を、廊下の上から代貸が睨み付けた。
「勝手に中をうろうろしてもらっちゃ困るんだ。さあまかないの手伝いをして、その後あんたも飯にしな」
「は、はい。ではすぐに……」
急いで勝手場に向かう伊織の背中に再び代貸の声がかかる。
「明日には潮影の仲間も帰ってくる。あんたの寝る場所も無くなるから、通いで手伝いしな。親分からおあしは半分預かってるから夕方渡すが、残りは奉公次第だな」
伊織は足を止め代貸を振り返った。
「はい、有難うございます」
頷いた代貸の顔が醜くほころんだ。
“根来の一味も帰ってくる。もう早めに勝負をかけなければ……”
もう伊織はあの蔵の中に若がいることを確信していた。
どんなカラクリかは分からないが、女が中で姿を消したのがその何よりの証拠だったのである。
物陰から竜神一家の入り口を窺いながら、お蝶は小さなため息をついた。
早朝から物々しくお竜たちが出かけた後は、拍子抜けするほど何事もなく時が過ぎた。
しかし静かな時が流れるほど、胸を締め付けるように不安は大きくなっていく。
“伊織様はどうしたのかしら……?”
それとなく店の中を窺っても、伊織の姿を見つけることは出来なかった。
“こうなったら紫乃様に応援を頼んで、あたしは客を装って中に入ってみるか……”
お蝶は物陰から姿を現わすと、竜神一家に背を向けて歩き始めた。
しかし宿へと急ぐはずのお蝶の足取りは、何故か途中で検討外れに向きを変えた。
たびたび道端の店先を覗き込みながら、まるで暇つぶしに散歩しているようにさえ見える。
やがて一軒の露店に立ち止まると、お蝶は並べられた小さな手鏡のひとつを手に取った。
色っぽい年増のお出ましに、慌てて腰を上げた店の親父が満面の笑みを浮かべる。
「この鏡も姐さんみたいな別嬪に使ってもらえりゃ本望でさあ。出来たらあたしが鏡になってお役に立ちたいくらいで、えっへへへ……」
「まあ、そんなお上手言って。うふふ、じゃあ褒められついでに、ちょっと化粧でも直そうかしら……」
ぱっちりした二重瞼を瞬かせてお蝶は手鏡を覗き込む。
手鏡の中に五六間後ろからそれとなく様子を窺う行商女の姿が映った。
「ごめんね、おじさん。あいにく今は持ち合わせがないの。今度通った時には必ずもらうからね」
「姐さん、この鏡なら差し上げたいとこだけど、もう一度お顔拝見したいんで今日んところは我慢しまさあ。えっへへへ……」
好色そうな主人に片目をつぶると、お蝶は鏡を置いてそのまま町外れへと歩き去っていく。
やがて人影の無い杉林に足を踏み入れたお蝶は、ひとつの切り株に腰を降ろして白い首筋に手拭いを使った。
懐に手を入れて手拭いをしまい込むとふらりと立ち上がる。
そのまま数歩進んだ時、突然振り返ったお蝶が右手の鉄つぶてを投げた。
木の幹から身を乗り出していた行商の女は、慌ててつぶてを避けて地面に転がった。
さらに裾を乱して突き進みながら、お蝶は再びつぶてを投げつける。
女が袖を振って包むようにつぶてを避けた時、飛びかかったお蝶の右手にはもう逆手に握られた短刀が輝いていた。
仰向けのまま女の左手がお蝶の右手首を掴む。
「ま、待て!」
「お前、根来の仲間か!」
「違う! 根来じゃない!」
「でもお前、忍びじゃないか!!」
互いの手を掴んだまま、二人の女の身体が杉の落ち葉の上を転がる。
「まて! まて!!」
その時、近くから走り寄った若侍の声が杉林に響いた。
「我々は根来ではない! 竜神一家を見張るあなたを見つけて、余人を交えず話す機会を待っていたのだ」
「な、なんですって……?」
組み合ったままお竜の動きが止まった。
「あなたは、あなたはお蝶さんではないか?」
「……ど、どうしてあたしの名前を……?」
お蝶の返事を聞いた途端、大石桔梗の顔が輝いた。
あらためて組み合った女の顔を見ると、お蝶はゆっくりと右手の小刀から力を抜いた。
「よかった。やっと見つけることが出来た」
立ち上がったお蝶に、大石桔梗はその顔を輝かせた。
「あなたはいったい……?」
「私の名は大石桔梗と申す。羅紗様の命を受け、伊織様を助けて若をお救いするため丹波より参った」
桔梗はその少年の様な瞳でお蝶を見つめた。
「そうですか、羅紗姫様のご命令で……」
やっと蔓も身を起こすと、三人はほどよく並んだ切り株に腰を降ろした。
その表情を険しくして、桔梗はお蝶に問いかける。
「ときに今、伊織様は何処に……?」
お蝶も鋭い眼差しで桔梗を見返す。
「お武家の奥方に身を変えて竜神一家に入り込んでおられます。でも、それから様子が分からなくて……」
「やはりそうか……」
表情を曇らせたお蝶を見ながら、桔梗も腕を組んで凛々しい眉を吊り上げた。
その横顔を窺いながら蔓が静かに口を開く。
「桔梗様、こちらも忍びが二人になりました。根来たちが顔を揃えぬうちに手を打てるかもしれません」
桔梗は蔓にうなずいた。
二人のやり取りにお蝶も上体を乗り出す。
「実はあたしの方にも一人助っ人がいるんです。時が惜しゅうございます。早速宿で手筈を決めましょう」
「うむ」
深くうなずいてお蝶を見つめた後、何故か桔梗はその口元を緩めた。
「やはりお蝶さんであったか、まったく羅紗様よりお聞きした通りの方であった」
襟元に手を当てたお蝶は、切り株の上で居住まいを正した。
「まあ、どんな風にお聞きになったんですか?」
一瞬記憶をたどって目をさ迷わせた桔梗だったが、やがてお蝶にまっすぐ向き直った。
「とてもきれいな、というか色気のある方と聞いたと思う……。いやしかし、現にその通りであった」
「まあ! お若いのにお上手ねえ……。お世辞でも、いい男に褒められるとやっぱり嬉しゅうござんすよ……」
傍らで蔓が珍しくその相好を崩す。
「ふ、いい男ねえ……」
「え、えへん、では早速……。お蝶さんは宿に向かってくれ。我らは各々離れてその後を追う」
「わかりました」
再び顔を引き締めて立ち上がった三人は、各々周囲をうかがいながら歩き始めたのである。
もう城の外を夕暮れが赤く包んでいる。
夕餉の膳に箸を置いた羅紗は小さなため息をついた。
階段のきしむ音に顔を上げると、長いまつげを二三度瞬かせた。
「羅紗様……」
廊下から姿を現わした初音は、お膳の上に置かれたままの箸を見てそうつぶやいた。
「初音か……」
「そのように召し上がらねば、お体に障ります」
襖を締めて初音は羅紗の前に身を寄せた。
心配そうにのぞき込む初音から、羅紗はじっと顔を伏せたままである。
「十年前江戸に向かう道中で、人は生きていくうちに呪われるのだと教えてくださった方がおった。初音……、私は、私はもう、呪われてしもうた……」
羅紗は茣蓙に片手をつくと、耐え切れぬように固くその目を閉じた。
「呪われたなど、羅紗様、なぜそのような……?」
じっと目を閉じたまま、羅紗はその重い口を開く。
「鶴千代のことを思うと、心配で心が張り裂けそうに痛む。じゃ、じゃがあの双子たちとの忌まわしいひと時を思い出すと、何故苦しみを忘れるような気がするのじゃ……。そ、そしてそんな時、私の身体も……うううう………」
とうとう羅紗の目から茣蓙の上に透明なしずくが落ちた。
「羅紗様……!」
膝を擦って近づくと、初音は羅紗の肩をしっかりと抱いた。
「お労しい羅紗様……」
泣きぬれた頬に初音は自分の頬を重ねる。
「羅紗様に降りかかる呪いはこの初音も一緒に被ります……。そして、そして、私があの世に持ち去りまする……」
「初音!」
羅紗は初音の顔を見つめた。
やつれた表情を初音もじっと見返す。
「その時一刻でも苦しみが薄らぎますか? お身体が、その……元気におなりですか?」
「そ、それは……」
口ごもった羅紗に、初音はその表情を和らげて口を開く。。
「鶴千代様のことは伊織様や桔梗様に任せて、今私たちに出来ることは無事を祈ることだけです。でも、このようにご心痛のままでは羅紗様はお身体を壊してしまいます」
初音は羅紗を抱きよせて、その顔を胸に抱えた。
「子供の頃の様に私にお甘えください」
そう呟きながら、初音の手が羅紗の下半身へと伸びていく。
「あ……、初音……」
着物の裾を初音の手がかき分けた時、羅紗は一瞬身を抗わせた。
「羅紗様、何もかも忘れて私に甘えて……」
初音の手が優しく太ももの肌に触れた時、羅紗はその瞳をゆっくりと閉じたのである。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2017/05/11 07:56
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蔵の中
こんな題名の小説があったなと、久しぶりに思い出しました。
横溝正史の小説でした。
書かれたのは、昭和10年(1935)年。
この小説、昭和56(1981)年に、角川で映画化されています。
この映画で、主演の少女役を演じた松原留美子は……。
ニューハーフでした。
これで覚えてるんでした。
新潟市に、旧日本銀行新潟支店長役宅があり……。
現在、『砂丘館』という施設名で一般公開されています。
戦前の日銀支店長役宅で、現存するものは、新潟と福島の2つだけだそうです。
この役宅に、蔵があるのです。
別棟になっているのではなく、役宅内の部屋みたいな感じで母屋に接続されています。
↓この蔵は現在、ギャラリーなどとして利用できます。
http://www.sakyukan.jp/kura-riyou.html
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2. パンツの中HQ- 2017/05/11 16:56
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↑それは「穴」
蔵の中
知らんなあ。
○○の中、で思いつくのは『藪の中』ですが関係ないよね。
で、ニューハーフ松原留美子。
これも知らんなあ。
なんか(松原智恵子+高橋留美子)÷2、みたいだけど話がどんどん遠ざかるなあ。
で、蔵
小学校の友人に質屋の息子がいました。
こいつの自宅の裏庭でビー玉(こちらでは『ラムネ』)遊びとか、釘刺しとかやりましたが、その庭の隅に蔵がありました。
無論中に入ったわけじゃなし、当時は何の興味もなかったんでほとんど記憶にありません。
話はそれだけ。どんとはらい。
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3. Mikiko- 2017/05/11 19:42
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蔵と云えば……
江戸川乱歩。
土蔵を書斎にしてたことは有名です。
↓なんとその蔵、立教大学にあるようです。
http://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rampo/
質屋の蔵。
質草を燃やしてしまったら大変ですからね。
『蔵のある家』は、ミサワホームの製品ですが……。
↓実際には、屋根裏部屋です。
http://www.misawa.co.jp/kura/
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4. 質屋の友ハーレクイン- 2017/05/12 03:06
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土蔵の怪二題
まずは日向子姐さん『百物語』
男あり。
商用での逗留先、目覚めると戸外が仄明るい。
朝かと外に出ると、月明かりに土蔵の白壁が照り映える夜半。
その壁から手が生えていた。
手は月の光を掬い取る形で掌を天に向け、
造り物と見え、美しく、固く動かない。
男(仏像の手をいたずらしたものであろうか)
翌朝見れば痕跡もない。
その夜は、土蔵の別の所から生えていた。
名工の作か、
眺めていると時を忘れるようであった。
ふと、近くの柘榴をもいで載せた。
その翌朝、出立前に見れば、
手も柘榴も無かった。
続いて小野不由美姐さん『十二国記』
少年、実は自覚無き麒麟。
夜半、親の叱責を受け、小雪舞う裏庭に裸足で立たされる。
震える少年。
ふと見ると、土蔵の陰から白い手が伸び、おいでおいでをする。
土蔵の裏は隣家の塀、その隙間は到底人が入れるとは思えぬ狭さ。
おいでおいでに惹かれ、近寄る少年。一歩、二歩……。
矢庭に、手に手を掴まれ、引き込まれる少年。
その先は異世界、十二国の……。
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5. Mikiko- 2017/05/12 07:27
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蔵から手
尻が出てる方が、よほど面白いと思いますが。
使い道、さまざまです。
ま、手でもサービスは出来ますけどね。
筒井康隆の『佇むひと』を思い出しました。
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6. 二階から目薬HQ- 2017/05/12 12:13
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蔵から尻
出ていたとして、使う気しますかね(何に使うんだろう)。
●藪から棒
を思い出しましたが、面白くもなんともないな。
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7. Mikiko- 2017/05/12 19:44
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お百姓さんが使います
下に、肥たごを置いておけばいいんです。
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8. たらり~ハーレクイン- 2017/05/12 22:56
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尻からうんこ
なるほどー、ですがよく考えたら当たり前ですな。
鼻から牛乳、なんてのがありました。