2017.3.28(火)
「え、なになに。どないな話? 一つ聞かせてえな、秀はん」
いろんな話を見聞きした、という秀男の言葉を受け、志摩子は少し声を大きくした。秀男に話をせがむ。
俯く道代の頭越し、秀男と志摩子の視線が軽く絡み合った。
秀男は笑み、志摩子に当てた視線を元に戻しながら語り継ぐ。浮かべた笑みは苦笑いとも見えた。
「そないですなあ、あれは……」
いつの事でしたか、と続ける秀男の言葉をほとんど聞き流し、道代はなんということもなく嵯峨野、野宮(ののみや)神社の境内に目を遣った。しかし道代の目は、静謐な神社の境内ではなく、自身の内を見ていた。
(斎王はん……)
(なんちゅうことやろ)
(どない考えたらええんやろ)
(ご自分の祈願でお伊勢参りしやはる)
(それやったらわかる)
(人にはみいんな願いがある)
(うちかて……ある)
道代は眼を閉じた。
(ほんで〔それで〕みんな、願掛けに行かはるんや)
(お寺はんやら、神社はんやらに行かはるんや)
(なんかに縋るように、寺社詣でをしはるんや)
(この京に)
(神社仏閣は星の数ほどもある)
(ほんだけ〔それほど〕、人の願いが多いゆうことなんやろか)
(ほんだけ、京のお人は業(ごう)が深い、ゆうことなんやろか)
(うちも……せやろか)
(ほんでも〔それでも〕……)
道代は、固く目を閉じたまま、さらに深く俯いた。
(斎王はんは)
(ほんでも斎王はんは)
(ご自分の祈願のために伊勢に行かはるんちゃう〔お行きになるのではない〕)
(天皇はんの)
(天皇はんの願いのため)
(この国すべてのお人の願いのため)
(行かはるんや)
(伊勢に行かはるんや)
道代は、自分の腿の上に置いた両手を、さらに固く組み合わせた。道代の左右の十指は、少しの隙間もなく絡み合った。
(いったい、どないな〔どのような〕)
(どないなお気持ちやったんやろ、斎王はん……)
道代の思いは、遥か平安の昔に遡った。
恭子(のりこ)は、延べられた夜具にそっと滑り込んだ。
時は九月、長月の初めころ。
京の街中はともかく、ここ嵯峨野の只中(ただなか)にある野宮(ののみや)神社には、涼しいというより、すでに肌寒いような秋風が吹き過ぎる。そのような季節であった。
恭子が身に纏うものは、純白の単衣の夜着のみ。戸外とさほど変わらぬ冷え冷えとした室内の空気に身を竦(すく)め、恭子は夜具の上掛けを襟元まで引き上げた。
恭子(のりこ)は、寝に就く前の先ほど、ふと縁に出て見上げた月を思い浮かべた。
空には雲一つなく、中天に高く掛かる、凄まじいまでに冴えわたる上弦の月、弓張り月は、恭子には我が胸を刺し貫こうとする、研ぎ澄まされた刃(やいば)のように思えた。
弦月から漏れ落ちる光の刃。その切っ先に貫かれたい、この静謐な野宮の地で果てたい。そのように思った恭子であった。
恭子(のりこ)。
当代天皇の第三皇女。
過ぐる一日(いちじつ)、卜占により、斎王に選定された恭子であった。
斎王は、天皇の代理として伊勢神宮に仕える祭司である。
天皇はこの国を統べる者。
伊勢神宮は、この国の主祭神アマテラスを祭る最高位の社。
そして斎王は、信仰の対象である伊勢と、俗人の代表としての天皇の間に立ち、儀式・典礼を司る者。人であって人ではなく、限りなく神に近いがむろん神ではない。
人と神との間に立つ者。それが斎王であった。
斎王恭子(のりこ)。
しかし恭子はやはり人であり、生身(なまみ)の女であった。
恭子は、夜具に身を横たえ、枕に頭を預けながら心中で呟く。
(兵部〔ひょうぶ〕さま……)
室内には人声も、物音もない。戸外には吹き過ぎる風の音もない。ものみな押し黙るような、凍りつく様な静寂の中、時折、かすかな衣擦れが聞こえる。
恭子が、夜具の中で身じろぎする、その動きがたてる音であった。
(眠れない……)
恭子は、再び心中で呟いた。
(何故……)
(いや、わかっておろうが、恭子よ)
(未練なことよ)
心中、自らと会話する恭子(のりこ)は、来し方を思い浮かべた。
恭子が斎王に選定されたのは、およそ二年の昔、恭子十四歳の春であった。
斎王とは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える女祭司。いや、斎王は女であって女ではない。女を捨て、人としての身も半ば捨て、人と神との間に立ってこの国の安寧を祈念する。
それは「斎王である」としか言いようのない、人と神との、両者の代理なのであった。
恭子(のりこ)は寝返りを打った。体と夜具との間に大きな隙間が生じた。その隙間から、秋の嵯峨野の冷気が忍び入ってきたが、恭子は夜具を直そうともしなかった。
斎王は通常、当代天皇の息女から選ばれる。父の代理として伊勢神宮に仕えるのが斎王なのだ。選定される息女は若い女性。その多くが十代の、未婚の女性であった。
未婚である、処女であるというのは、神に仕える身としての斎王の、絶対条件であった。
斎王に選定された天皇の息女は、まず、鴨川で禊を行う。京の河川と云えば、誰もがまず鴨川を考える。京の顔ともいえる鴨の清流で、斎王は最初の禊を行うのだ。人から神に近づく。その初めの儀式が鴨川での禊であった。
鴨での禊を終えた斎王は、宮中に新たに造営された神殿に籠もり、精進潔斎の日々を過ごす。これが一年。
その後また一年、今度は嵯峨野、野宮神社内の神殿で精進潔斎の日々を送ることになる。
斎王恭子(のりこ)は今、二年の長きにわたる精進潔斎の日々の、最後の夜を過ごしていた。
(兵部〔ひょうぶ〕、さま……)
恭子は、再び心中で呟いた。
未練なことよ、の自嘲もその呟きを止められなかった。
兵部。
北の兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)。
斎王恭子(のりこ)の想い人。
恭子が唯一、肉の関わりを持った男であった。
(あ……)
恭子(のりこ)の両の手が、自らの胸に伸びた。左手は左の、右手は右の乳房に被さる。
恭子の右手の人差し指と親指。二本の指のその先が、恭子の右の乳首を捉える。上から親指が、下から人差し指が、二本の指のその先が恭子の右の乳首に触れる。
(ああ……)
恭子の右手の二本の指は右の乳首をしっかり捉えた。恭子は、二本の指のその先で、乳首を弄る。撫でる。掻く。擦る。摩る……。
恭子の左手と左の乳首は、右のそれと同様に戯れあう。
(あはあああ……)
恭子の左手は左の乳房を離れた。離れた左手は右の乳房にあてがわれた。右の乳房を下から掬い上げる。
(は、はああああ)
恭子(のりこ)の右の乳房は、自身の右の手で上から、左の手で下から挟み込まれた。両の手に捉えられた乳房は高く大きく変形し、「これ見よや」と云わんばかりにその頂点に乳首を突き出した。
斎王恭子の右の乳首は、何者かを糾弾するように、天に向かって突き上がった。
コメント一覧
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1. 姓名判断ハーレクイン- 2017/03/29 05:21
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アイリスの匣
斎王編に突入です。
嵯峨野話を始めましたとき、まさかここまで長くなろうとは思っていませんでした。
志摩子のお座敷
これは物語全体のクライマックスに至る序章で、重要な場面です。嵯峨野話はそのお座敷話を始めます前の、ほんの軽い挿話、のはずでした。
ところが! 野宮神社とその謂れに気付いてしまったのが運の月星太陽。
斎王
実に魅力的な存在です。
じつに実に妖しい(ん?)歴史です。
これは書かざるべけんや、ということで始まりました、斎王恭子(のりこ)の物語。
まあ、そんな大長編にするつもりは毛頭ございません。“禁断の一発”をやって幕引きにいたしますので、しばらくお付き合い願います。
あ“禁断”と申しますのは、本文に書きましたように斎王は未婚、処女であるというのが絶対条件だったからなんですね。その禁忌を犯そうという、神も恐れぬアイリスの所業。読者も同罪……かな。
で、斎王編の主人公、恭子(のりこ)内親王でございます。
この恭子という名。読みはともかく、あまりに俗っぽいやんけと思われるでしょう(実は、わたしの学生時代の同窓生の名前です。ごめんな、きょうこちゃん)。
実は、この名前を決めるにあたり、実在した方ではさすがにまずかろう、で歴代斎王の名前を調べました。あまりに多いので一部をご紹介しますと……。
久子ひさこ
雅子まさこ(お)
隆子たかこ
恭子たかこ(おお)
嘉子よしこ
敬子たかこ
潔子きよこ(おおお)
てなことです。
もちろん晏子やすこ、徽子よしこ、弉子まさこ、懽子よしこなど、それっぽい(どんなんや)名もありましたが……。
まあ、言ってみれば普通にそこらを歩いているような方々が多くおられました。それに、ほとんどの斎王が00子です。上代にはそうでない名もありましたが。
ということで斎王恭子(のりこ)。暫くお付き合い願います。
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2. Mikiko- 2017/03/29 07:33
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子の付く名前
一番古い記録では、『古事記』に現れるそうです。
雄略天皇に求婚される女性、“赤猪子”。
なんて読むんでしょうね?
しかし、赤いイノシシって……。
赤はキツネでないの?
女性名に「子」が広まったのは、平安時代だそうです。
嵯峨天皇が、内親王に「○子」と命名すると決めてからだとか。
鎌倉時代には、貴族の女性名として「○子」がすっかり定着したそうです。
すなわち、「○子」は貴族の名前だったんです。
その後、武家社会になると、女性の地位が著しく低下し、名前が簡略化されます。
皇族以外の女性には、子が付かなくなるのです。
江戸の庶民など、“おみよ”とかですもんね。
これが、明治の王政復古で、「○子」が復活したわけですが……。
最近はまた、子の付かない、庶民のオナゴばかりになりました。
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3. 姓名占いハーレクイン- 2017/03/29 11:56
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赤猪子
原文では『引田部赤猪子』。読み下しは『引田部(ひけたべ)のアカヰの子』
引田部は氏、赤猪は父親の名前、子は子供の意味だそうですから、女性自身(お)の名前じゃないんですね。
「引田部赤猪の娘」というところでしょうか。
しかし雄略天皇。かなりの女たらしだったとか。
嵯峨天皇の「子」
この天皇の第十皇女が仁子(よしこ)内親王で、5歳で斎王に卜定されました。『斎王0子』は、この仁子さんが嚆矢のようです。
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4. Mikiko- 2017/03/29 19:46
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なるほど
赤猪は、父親でしたか。
しかしこれ、本名なんですかね?
最近は、子のつく名前に復活の兆しがあるようです。
やっぱり、皇族がみんな子がついてますからね。
眞子さま、佳子さま、愛子さま。
愛子さま、一時期激やせが心配されてましたが……。
先日の卒業式の映像では、さほどじゃなかったですよね。
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5. ♪猪が飛び込むHQ- 2017/03/29 23:14
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↑♪牡丹鍋(『デカンショ節』)
本名赤猪
まあ、なんせ古事記ですから、半分神話の世界です。
本名云々以前に、実在の人物かどうかも判然としません。
子のつく名前
わたしの姉妹従姉妹連中は、ほとんど「子」ですね。
友人関係も同年代は「子」。
陽子、千恵子、美智子、恭子(お)、由子、康子、清子、貴子、道子……。
あ、正美ってのがいるなあ。
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6. Mikiko- 2017/03/30 07:27
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今の小学校では……
子の付く名前は、学年に数名のようです。
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7. ♪およしなさいよHQ- 2017/03/30 08:46
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↑♪無駄ぁ~なことー(映画『座頭市』シリーズの劇中歌
数名の「子」
いじめられたりしないだろうね。
今は何でもいじめネタにされるそうです。
〽いやな世の中だなあ(座頭市の名ゼリフ)
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8. Mikiko- 2017/03/30 19:49
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座頭市のセリフは……
「いやな渡世だなぁ(都政に非ず)」でしょう。
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9. 逆手斬りハーレクイン- 2017/03/30 21:30
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↑座頭市の剣法その1
世の中→渡世
お、そうでした。
♪これは寝すぎた(ん?)しくじった
まあ「言いたいことは同じ」ということで……。
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10. Mikiko- 2017/03/31 07:30
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言いたいことは同じでも……
それをどう表現するかが、芸術なのです。
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11. 『浪人街』HQ- 2017/03/31 12:37
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↑1990年の松竹映画 勝新の遺作
『座頭市』
が芸術かどうかはともかく(勝新太郎御大、および関係者の方々、ご免)……、
>どう表現するか……
に異論はありません。