2017.1.3(火)
「すんまへん、秀はん」
「えらいすんまへん、お待たせしてしまいまして」
志摩子と道代は、同時に秀男に声を掛けた。
辛抱強く、というより何の苛立った風情も見せぬまま、悠然と二人を見守っていた秀男は、二人に返答した。その声音は、佇まいと同じく、いや、それ以上に泰然としたものだった。
「もうよろしか、姐さん、お道はん」
「へえ」
「すんまへん、大丈夫どす」
志摩子と道代は、再び同時に言葉を返した。
軽く顔を綻ばせた秀男は、体を反転させて竹林の道の奥に向き直った。歩みを始めると同時に、志摩子にとも道代にともつかない声を掛ける。
「ほな行きまひょか」
秀男の歩調は、何事もなかったように落ち着き払い、一歩一歩を確かめるようなゆったりとしたものだった。
秀男に肩を並べて歩く志摩子の足元は、舞妓の正規の履物とも云えるおこぼ(ぽっくり)である。
おこぼは、高下駄のように高く厚みがある。しかし、底には下駄のような歯は無く、乱暴な言い方をすれば“木の塊に鼻緒”であろうか。外見は、いかにも重そうである。しかし、底を大きく刳り抜いてあり、見た目ほどの重みは無い。もちろん、履いた状態ではこの刳り抜きは見えない。
台の部材は杉、いいものでは桐を用いる。台面(踏み面)には畳表様の上敷きが張ってあるが、これは実際には竹製である。
安手のおこぼは、まさに木の塊である。しかし、舞妓が常用する物の多くは漆塗や蒔絵を施し、鼻緒も朱色の地に花模様など、全体に美麗な造りになっている。特におこぼの側面は、いわば「足元の顔」である。黒や朱一色という簡素なものもあるが、多くはその地色に花鳥風月などの意匠をあしらった、どこまでも華やかで艶やかな、履く者はもちろん、周りの者の気も浮き立たせるような履物である。
舞妓は、その頭部に花簪を着け、衣装は贅を凝らした目も眩むような振袖に、舞妓の象徴であるだらりの帯を締める。そして、その足元を支え、飾るのが、花簪にも、だらりの帯に比べても遜色のない、華やかなおこぼなのである。
頭のてっぺんから足の爪先まで、という言葉がある。一般に隙のない出で立ちを表すものであるが、舞妓の装いがまさにそれであった。
今の志摩子の装いも何ら変わりはなかった。だがしかし、今の志摩子は道行を羽織っている。つまり、だらりの帯も含め、舞妓衣装のほとんどは地味な色合いの道行の下に隠されていた。それだけにかえって、志摩子の頭部を飾るぶらやビラかんざしなどの花簪と、足元を支えるおこぼの華やかさは際立っていた。
舞妓のおこぼは、履き慣れない者がいきなり履いたとすると、はじめは恐ろしさに一歩も前に出ないだろう。それほどの独特の履物である。
祇園の石畳ならともかく、今、志摩子が歩んでいるのは竹林内の土の径である。歩きやすいはずはないのだが、志摩子の足取りは確かなものだった。それは、志摩子がどれほど舞妓の衣装・出で立ちに馴染んでいるかの証明のようなものだった。
だが、志摩子が今歩んでいる竹林の道は、土の道である。祇園の石畳であれば、聞き惚れそうになるほど軽やかな音を立てるおこぼは、今は静かに、志摩子の歩みと共にひっそりと先へ進むだけだった。
道代は、秀男と志摩子に数歩遅れて歩みながら、志摩子の後ろ姿に見入っていた。
志摩子の側頭部で揺れるぶらと、足元で規則正しく左右交互に前へ進むおこぼは、道代の視線を引き付けて離さなかった。道代は、先ほどのもの狂おしい焦燥感を忘れ、志摩子のことだけを思い続けていた。
(小まめ姐さん……)
(ほんまにお奇麗やなあ)
(いや、奇麗ゆうより)
(何や、貫禄みたいなもんがお付きにならはったような)
(そらそや)
(もうすぐ、芸妓はんやもんなあ)
(姐さん……)
(小まめ姐さん、うち)
(うち生涯、姐さんのお供、さしてもらいます)
(姐さんのおそば、離れるもんやおへん)
(ほして……万一なんぞのこと、あったら)
(姐さん、お守りします)
(誰にも、指一本、触らせしません)
(うちのこの身ぃ投げ出してでも)
(お守りします、姐さん)
(小まめ姐さん)
(姐さん……)
道代が気付いたときには、目の前にいたはずの志摩子の姿が無かった。秀男も見当たらない。
先ほどの焦燥感が、道代の内部で首を擡(もた)げかけた。それを振り捨てるように道代は足を速めた。その先、径は行き止まりだった。道代の頭に血が上った。
幼い頃、誰かに聞かされた話がよみがえる。複雑に入り組む洞窟に入り込んだ人が、あてもなくあちこちさ迷い歩く。洞窟は次第に細くなり、もはや立っては歩けない。這いずるように進む行く手は……行き止まり。行くも戻るもならず、思わず上げる絶叫……。
道代は、上げかけた絶叫を無理やり呑み下し、来た径を振り返る。誰もいない。向き直り、狂おしく首を横振る。左右に視線をさまよわせる……。
そこが曲がり角であることに、道代はようやく気付いた。径は直角に折れ曲がり、道代の右手に伸びていた。すぐ先に秀男と志摩子の後ろ姿があった。
道代は大きく息を吐いた。安堵の吐息だった。道代の目に泪が滲んだ。情けない、という思いが絞り出させた泪だった。
(なんや)
(なにしてんねや、うち)
(アホちゃうか)
(アホや)
(ほんまに、アホや)
(さっきの事もそうやし……)
(うち、おかしいんやろか)
(頭、おかしなったんやろか)
(もう、まともやないんやろか)
(こないなことで)
(姐さん、お守りするやなんて)
(でけるんやろか)
(いっそ、お暇いただいた方が……)
(ええんちゃうやろか)
(今のままやったら)
(かえって姐さんのご迷惑に……)
(しやけど〔だけど〕)
(しやけど、そないなこと……)
(どないしょ)
(どないしたらええんやろ)
(姐さん……)
志摩子が振り向いた。
「道、早(は)よ来んかいな。また遅れとるえ」
それを聞いたとたん、喝を入れられたように道代の背筋が伸びた。いまが今、思い悩んだことなど奇麗に忘れ、道代は小走りに二人を追った。
「すんまへん、遅なりました」
「あんた、道……また妙なこと考えとったんやないやろね」
「え、いえ、あの考えるて、なんも、あの……」
しどろもどろな道代の返答は、そのまま道代の心中を吐露していた。
志摩子は、溜め息を吐きそうになったが、それは噛み殺した。これではしょうがない。志摩子は、道代に片手を伸べながら言った。
「道」
「へ、へえ」
「あんたも手ぇ出し(出しなさい)」
「へえ……」
道代は、おずおずと片手を差し出した。
その手を、志摩子は軽く握る。伸べた手を引き戻し、道代を引き寄せた。
「ね、姐さん……」
「こないしたら、あんた遅れることないやろ」
「ほんでも姐さん」
「なんや、いやなんか、道」
「嫌て、そないなこと……」
志摩子の口調は、少し楽しそうになった。
「手ぇ繋ぐて、子供みたいで恥ずかしいか?」
「へえ、いえ、あの……」
「さっき、うちら。径の真ん中で抱き合(お)うたりしたやん」
「いや、あのそんな……すんまへん、姐さん」
「なんも謝ることないけど、あれに比べたら、手ぇ繋ぐくらいなんやのん」
「姐さん……」
「もたもたしとったら、日ぃ暮れてまう。行くえ、道」
志摩子は、少し先で待っている秀男に向かって歩き出した。その片手は体の後ろに伸びている。その手には、道代の片手がしっかり握られていた。
(姐さん)
(小まめ姐さん)
(姐さんと手ぇ繋いで歩くやなんて)
(もったいない)
(しやけど姐さん)
(嬉しおす)
(うち、嬉しおす)
(ほんまに嬉しおす)
(おおきに、姐さん)
(姐さんのお手、温〔ぬく〕い)
(柔〔や〕らこい)
(温〔ぬく〕うて柔〔や〕らこい)
(姐さん……)
道代と志摩子は、繋いだ手を時折軽く振りながら、全く同じ歩調で竹林の道を歩み続けた。
コメント一覧
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1. 竹取りの翁HQ- 2017/01/03 09:35
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↑以前にやったかなあ
竹林の道
長引いておりますが、もうこれ以上ネタもありません。なんせ行けども行けども、どこまで歩いてもさほど風景は変わりません。ひたすら竹、竹、竹……。
ということでございまして、次回、いよいよ“とうちゃこ”でございます。
なんですが、この先1か所、いや2か所のビューポイントがあります。しかし、ゆっくり見物などしている暇はなくなりました。次々回から、いよいよ「志摩子の恨み」が明かされていくことになります。
今後とも志摩子と道代。さらに、あやめと久美の活躍に乞う!ご期待。
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2. Mikiko- 2017/01/03 12:46
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おこぼ
画像で見たことはありますが、名称は知りませんでした。
雪道で、雪が詰まらないものですかね?
竹林の道。
大雪が降ると、かなりの竹が折れるんじゃないでしょうか。
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3. 舞妓Haaaan!!- 2017/01/03 14:46
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↑阿部サダヲ主演の東宝映画、2007年公開
録画してたんですが、見る前に消去しちゃいました
「HQ」がハンネに入りませんでした
ぽっくり
とも云うそうです、おこぼ。
うっかり髪飾りや白塗りの顔ばかりに見惚れていると、せっかく舞妓はんとすれ違っても見過ごしてしまうかもしれません。是非、足元にも注意したいものです。
がしかし、わたしはまだ本物の舞妓はんを見たことありません。舞妓物を書いていながらいかんなあ(料理物じゃなかったのか)。「舞妓はんの実物を見る」今年の課題はこれだな。
しかし、近ごろは貸衣装で祇園を徘徊する「偽舞妓」が横行しているとか。そういう商売があるそうなんですね。
雪の竹林
京都に雪は少ないですから大丈夫でしょう。
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4. Mikiko- 2017/01/03 18:41
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偽舞妓
立ち居振る舞いで見破れずにどうするんです。
ま、見破れないような子がいたら、スカウトでしょうが。
高校時代、京都の修学旅行で、手の平に入るほどの舞妓人形を買ってきました。
彼女は今も、うちの書棚の中で、当時のままの姿でいます。
愛しきかな。
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5. 腑抜けハーレクイン- 2017/01/03 20:23
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立ち居振る舞いで……
それはそのとおりですね。
しかし舞妓はんのあの衣装。
これまで何やかんやと書かせていただきましたが、実際に目の当たりにするとどうでしょう。
高く結い上げた日本髪。
塗り重ねられた顔の白粉。
ぽってりと厚みのある質感の和服。
胸高に結んだ帯。
襟元と、裾の紅(くれない)
(『アイリスの匣』#107)
野田太郎が、初めて目にした祇園の舞妓。小まめの志摩子のいでたちです。“見破る”云々どころか「誑かされる」のは間違いのないところでしょう。
舞妓人形
いいものをお持ちですねえ。
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6. Mikiko- 2017/01/04 07:29
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舞妓
一番重要な素質は、顔に汗をかかないことじゃないでしょうか。
あの衣装で京都の夏は、そうとう過酷だと思います。
汗かきかどうかは、体質ですからね。
夏の偽舞妓は、スゴいことになる方もいるのでは?
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7. 隣は須磨と明石HQ- 2017/01/04 12:12
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夏の偽舞妓
割増料金を取られたりして。
もちろん、染み抜き代です。
かんけーないけど、神戸市の西のはずれに舞子。舞子の浜という景勝地があります。かつては白砂青松、だったんでしょうが今は海水浴場が出来て、まあ夏は騒がしいことです。
舞妓さんは……残念ながら見かけたことありません。
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8. Mikiko- 2017/01/04 18:34
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舞妓人形
↓こちらです。
http://blog-imgs-74.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/20150422063020ea3.jpg
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9. 舞妓の志摩子HQ- 2017/01/04 20:36
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舞妓人形ページ
いやあ、懐かしいですね。
あやめ・久美コンビに絡む、京都中京署の六地蔵警部補に醍醐保巡査(役職、あってるかなあ)。
この後、新京極でお茶するんですよね、4人で。
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10. Mikiko- 2017/01/05 07:37
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人形写真
アイリスのコメントで載せてたんですね。
97回。
よく覚えてましたね。
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11. 舞妓の志摩子HQ- 2017/01/05 17:42
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『アイリスの匣』
は、ここまで176回。
コメを含め、その内容は隅から隅まで頭に入っています(大ウソ)。