2016.12.31(土)
デスクは、あるにはあったんです。
でも、ベッドの枕元で壁を向いており、テレビは真後ろになります。
わたしは、テレビを見ながら食べたいんです。
と云って、食事のためだけに、大掛かりな部屋の模様替えをするわけにもいきません。
そもそも、お腹が空きすぎてて、そんな気力もありませんでした。
なにしろ、朝食を6時前に摂ってから、12時間以上、何も口にしてないんです。
お願いだから、わたしにテレビを見ながらメシを食わせてくれ!
ほかには何もいらん。
ただそれだけが望みです。
となれば、テレビとの位置関係からして、ベッドの上で食べるしかありません。
しかし!
ベッドの上に食材を並べるのは、はばかられました。
当然、不安定です。
自らの粗忽を鑑みるに……。
食材をひっくり返さずに夕食を終える自信は、とうていありませんでした。
なんとしても、ベッドの上に、安定して食材を並べられるアイテムが必要です。
灰色の脳細胞をフル回転させ、あたりを見回しました。
ありました。
必死に考えれば、思いつくものです。
ホテルの部屋には、避難経路図などが入ったバインダーが備え付けられてます。
硬い表紙で、2つに開くタイプ。
この部屋にも、当然ありました。
これだ!
これを開いてベッドに載せれば、小さいながらもテーブル代わりになります。
さっそく実行。
といって、バインダーに直接食材を載せて汚してしまっては、申し訳ないです。
でも、大丈夫。
わたしはいつも、荷物の中に、レジ袋を数枚入れてあります。
まったく嵩にならないうえ、いろんな用途に使えるからです。
まさに今が、そのときでした。
レジ袋で、バインダーを両脇から包み、保護します。
これで見事、テーブルが完成!
↓食材を並べました。
↑「み」。右のノートパソコンは、わたしが背負ってきたものです。翌朝、『Mikiko's Room』の投稿は、これで行いました。
テレビは目の前。
安倍総理の不景気な顔が映ってますが、わたしは大いにご満悦でした。
↓夕食の全貌です。
↑「み」
まずは、両脇からご説明。
右サイドは、『豚レバー焼き(¥144・税別、以下同じ)』。
↑「み」
歩き回ったせいか、鉄分を欲しました。
左サイドは、『生姜キュウリ(¥139・50円値引き品)』。
↑「み」
わたしは、野菜系を食べないと胸焼けするので、青物は必須です。
量も十分でした。
そして、本日のメインディッシュは、中央!
言わずと知れた『かき揚げ(¥147×2)』。
↑「み」
ボリューム満点、しかも2個。
目が嬉しかったです。
キュウリの下方にあるのは、袋入りのお醤油。
↑「み」
これは、自宅から持参したものです。
嵩張らず、漏れる心配もないすぐれものです。
もちろん、かき揚げに掛けます。
天ぷらに生醤油は、実によく合います。
天つゆなどに漬けると、かき揚げのパリパリ感が損なわれてしまいますが……。
生醤油なら、歯ごたえそのままです。
そして!
お酒はなんと、本物のビール。
『スーパードライ』は、毀誉褒貶ありますが……。
スッキリしてて、とても飲みやすいと思います。
エビスなどは、わたしには重たく感じます。
『スーパードライ』を評価するドイツ人も多いそうです。
販売開始は、1987年。
来年、30周年ですね。
このビールがヒットした最大の要因は、デザインじゃないかと思います。
かっちょいーですよね。
わたしが、自腹で本物のビールを飲むのは、旅先と、胃カメラ検査の後だけです。
それ以外のときは、第3のビールですから、基本、何を飲んでも美味しいんですけどね。
食事を終えたあとは、ビールから焼酎に切り替えました。
わたしがいつも選ぶのは、『いいちこ』。
↑『下町のナポレオン』というフレーズは、どうもね。こんなの、書かなきゃいいのに。
飲み慣れた味です。
旅先で冒険して外れるとイヤなので。
それに、『いいちこ』には、紙パックがあって便利です。
サミットストアにも、900mlのパックがあったので買いました。
もちろん、こんなにたくさんは飲めませんが、これより小さいパックが無いので仕方ありません。
余った焼酎は、いつもペットボトルに詰めて持ち帰ります。
紙パックのままだと、リュックに入れると嵩張るので。
もちろん、帰りの新幹線で飲んだりはしませんよ。
『いいちこ』は、旅の夜には、水割りで飲みます。
これが一番、翌朝に響かない飲み方だと思います。
二日酔いじゃ、旅の2日目が台無しですから。
氷は、ロックアイスをサミットで買ってあります。
冷蔵庫の冷凍室には入らないので……。
例年は、お風呂の洗面ボウルに袋のまま入れて使います。
↑「み」。わたしが泊まった部屋のです。もちろん、氷は解けていきますが、1晩飲む分としては、十分間に合います。
でも、今年の部屋はキッチン付きですので、シンクに置いておけました。
↑「み」
例年だと、氷の補充には、トイレに入らなければなりませんでした。
それが今年は、飲んでるすぐ脇のキッチンでできたので、微妙に便利でしたね。
もちろん、キッチンのない部屋には泊まれないと思うほどではありませんが。
ちなみに『いいちこ』は、家でも昼酒として飲んでるんですが……。
最近、お気に入りなのは、トマトジュース割りです。
↑拝借画像です。わたしが、こんなグラスを使うと、必ずひっくり返します。ポッカレモンを垂らすと美味しいですよ。
さてさて。
テレビをザッピングで眺めながら、いつの間にか眠りに付いたようです。
↑ほぼ、こんな状況。
若いころは、ひとり飲みでも、ぐでんぐでんになったりもしましたが……。
↑もちろん、こんなことはしません。ていうか、シラフでも、こんなとこ登れませんがな。
最近はもう、酔っ払うより先に眠くなるようになりました。
おかげで、飲みすぎずに済みます。
そして、翌朝。
前夜確かめた天気予報が悪かったので、起きるとすぐに窓を開けてみました。
↑「み」
案の定、ザーザー降りです。
隣にコンビニがあるので、朝食は、そこで朝に調達しようかとも思ったのですが……。
わざわざ出かけるのも面倒くさいと思い、昨日のスーパーで調達してありました。
この雨の中、外に出る気にはならないので、大正解でした。
ましてや、『松屋』まで食べに行くなど、億劫すぎますね。
てなわけで、おにぎりとお新香、カップのお味噌汁の朝食を、テレビを見ながら摂りました。
↑写真を撮るのを忘れました。これは、サミットのおにぎりの拝借画像。わたしが食べたのは、明太子とツナマヨでした。ビニールを順番どおり外していくのが楽しいんですよね。
これは、正解でしたね。
部屋から出なくて済むのは、実に楽でした。
着替える必要もありませんし。
今度から宿泊は、朝食なしのプランにして、部屋で食べることに決定です。
さて、この日は金曜日。
『Mikiko's Room』の投稿があります。
投稿回のデータは、ノートパソコンに移して持って来てあります。
あ、書き忘れてましたが、有線LANが部屋に付いてるので、ネット接続は問題ありません。
↑「み」。左の丸まってる青い線が、備え付けのLANケーブルです。
投稿も済み、朝風呂にも入りましたが、雨は止みそうもありません。
チェックアウトは、10時まででいいのですが……。
いつまでもゴロゴロしててもしょうがないので、出かけることにします。
↓扉の外のテンキーロックです。
↑「み」
精算はチェックインで済んでますし、鍵を返す必要もないので、フロントは素通りです。
↓ゆうべ撮れなかったホテルの佇まいを、傘の下からパチリ。
↑「み」
雨のせいか、物寂しいですね。
向う隣にコンビニが見えます。
『スリーエフ台東谷中三丁目店』。
入りませんでしたが、お酒も売ってるようです。
さて、出発です。
↓すぐに、新潟で地図を見てるときから、歩いてみようと思ってた道に入ります。
↑「み」
クネクネと、うねってるのがおわかりでしょうか。
通称『へび道』。
何でうねってるかというと、昔、ここが川だったからです。
藍染川です。
川は今でも、この道の下を暗渠となって流れてるそうです。
暗渠化されたのは、大正12年。
思いのほか古くて驚きました。
↓まったく河川改修が行われてない状態で、暗渠にされてますね。
↑左上にある『松屋』が、『ホテルリブマックス日暮里』から3分のお店です。
川の名前の由来は、まさしくそのまんまで……。
川筋に染物屋があって、川の色が藍色に染まっていたためだそうです。
このことから連想するのは、職人が川に入り、反物を洗ってる情景です。
↑原田泰治『友禅流し』。
でも、ここでは、それは無かったんじゃないでしょうか。
単に、排水だけが流されてたんだと思います。
だからこそ、暗渠化が出来た。
反物の洗い場に使われなくなったのは、ドブ川化したためだと思います。
ほとんど、下水道化してたわけですね。
↑江戸時代の藍染川(元図には彩色なし)。このころは、反物を洗ったりしてたのかも知れません。
さてさて。
クネクネくねっていて見通しが悪いためか、車はほとんど通らなかったです。
でも、そのせいか、自転車が多かったですね。
スーツを着て乗ってる男性は、通勤に使ってるのでしょうか。
傘を差しての運転で、曲がった向こう側から、スピードも落とさずに飛び出してきます。
↑「み」
怖い思いをしました。
実は前日、『江戸東京たてもの園』へ続く歩道を歩いているときも……。
自転車が、わたしのすぐわきを、スピードを落とさず走り抜けて行くんです。
↑「み」。アジサイの植えこみがはみ出してるので、歩道が狭くなってました。
東京では、こういう交通マナーが当たり前なんですかね。
事故が起こらないのが不思議なくらいです。
↓へび道を抜けたあたりで、こんな建物を発見。
↑「み」
隣のマンションと、SUV車がつや消しですが……。
↓入口には、『染物洗張』と描かれてありました。
↑「み」
まさしく、藍染川の由来そのものですね。
でも、こういう商売が、まだ成り立ってるということに驚きました。
さすが東京です。
むしろ、少なくなった業種には、全国から注文が来るのかも知れません。
↓途中、新築住宅のビラを発見。
↑「み」
値段を見直しました。
6,380万ですよ。
3LDKで、建物90㎡。
3LDKという間取りから考えると、90㎡というのは、延床面積でしょうね。
2階建てで、総2階に近ければ、建築面積は、この半分です。
45㎡、13.6坪。
建ぺい率60%で、ギリギリに建ててるとすると、敷地は、23坪になります。
新潟市だったら、2,000万がいいところでしょう。
ていうか、敷地23坪の建売住宅なんて、売られてません。
最低でも、その倍でしょう。
こんな物件が6,380万というのは、地方の人間から見たら、完全にバブルですよ。
↑バブル期の中古(!)マンションの広告。さすが、桁が違いました。
ここまでして、千駄木に住む理由って何なんでしょう。
↑こんないいところがありました。名称はいただけませんが。
上野の裏手までやってきました。
↓『上野動物園』の裏側です。
↑「み」
たぶん、ここからは入れないと思います。
岩のようなのは、サル山ですかね。
↑サル山の表側です。よーわかりませんね。
この道路だったと思いますが、なんだか谷間のようになって、薄暗い道でした。
↑やっぱり、サル山みたいですね。
街路には、ハマヒサカキとツツジが混植されてました。
↑確か、この道路だったと思います。ガードレールに沿って植えられてるのが、ハマヒサカキとツツジです。
うっかり、写真を撮り忘れましたが、2つの植物は、対照的な状態でした。
ハマヒサカキは元気で、ツツジは弱ってました。
原因は、すぐにわかりました。
陽あたりが悪いんです。
ハマヒサカキは陰樹で、ツツジは陽樹なんです。
ハマヒサカキは、海岸近くの植栽によく使われます。
塩害に強いんですね。
新潟では、海岸沿いの新潟砂丘に西海岸公園が整備されてますが……。
その遊歩道の縁取りとして、ハマヒサカキが植えられてます。
↑遊歩道の両側に伸びる、刈り込まれた低木がハマヒサカキです。
まわりは、クロマツの林で、陽はほとんど差しません。
日陰に強い樹木なのです。
↑小粒な照葉(しょうよう)が可愛いです。日陰と乾燥に強いので、砂丘地の西海岸公園にはぴったりなんです。
ここでまた、少々脱線します。
新潟の幹線道路、国道などの植栽には、海岸線に自生するような樹木が使われることが多いです。
海岸から遠い道路でもです。
シャリンバイやトベラなどですかね。
↑『シャリンバイ(車輪梅)』の名は、一箇所から放射状に枝が出て車輪のように広がり、花が梅に似ていることから付きました。
さて、それはなぜでしょう?
実は、雪のせいなのです。
といって、それらの樹木が、特に雪に強いわけではありません。
強いのは、塩害に対してです。
ではなぜ、海から遠い積雪のある地域で、塩害に強い樹木が使われるのかと云うと……。
幹線道路には、凍結防止剤や融雪剤が撒かれるからです。
凍結防止剤は塩化ナトリウム、融雪剤は塩化カルシウムです。
↑雪を融かす効果は同じですが、塩化ナトリウムは持続性に優れ、塩化カルシウムは即効性に優れます。
早い話、塩ですね。
これらにより解けた雪は、シャーベット状になり……。
車がそれを跳ねあげて走ります。
もちろん街路樹も、そのしょっぱい雪をかぶるわけです。
これでおわかりでしょう。
まさしく、塩害そのものです。
塩害に耐性のない樹木は、ひと冬で枯れてしまいます。
さてさて。
いらないことを書きました。
『動物園通り』に戻りましょう。
どうやらこの道路、台東区の区道のようです。
たぶん、街路樹の設計が行われたときは、こんなに両側の樹木が茂ってなかったのでしょう。
で、特に日陰に強い植物を意識しての設計はされなかったんだと思います。
しかし、陰樹と陽樹を混植するってのは、どんなもんなんですかね。
↓『水月ホテル鴎外荘』というのがありました。
↑「み」
当然、森鴎外にゆかりがあるはずです。
でも、こんな近代的なホテルに、鴎外が泊まったわけがありません。
今回、改めて調べてみました。
敷地内に、森鴎外の旧居を保存してあるんだそうです。
小説『舞姫』が書かれた間(『舞姫の間』)では、宴席などもできるようです。
↑『舞姫の間』。35畳だそうです。ほんとにこんな部屋で執筆したんですかね。落ち着かないですよね。
どこかから移築されたものではなく、元々、ここにあったということらしいです。
現在の住所は、台東区池之端ですが……。
昔は、下谷区上野花園町という町名でした。
江戸時代には、寛永寺の花畑だったとか。
鴎外は、明治22(1889)年、27歳の時、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し……。
上野花園町の赤松家の持家に住んだとのこと。
↑緑色が鴎外邸(たぶん)。
『舞姫の間』から臨める庭には、樹齢300年の樹木も残り……。
まさしく、鴎外が眺めていた景色が残っているようです。
↑しかしながら、鴎外が眺めてたころから、130年近くが経ってます。なんだか、ジャングル風呂みたいですね。
その屋敷と『水月ホテル』の関係は、ざっと調べただけではわかりませんでした。
森鴎外の旧居、ぜひ拝みたいところですが……。
これは、ホテル内の施設ということでしょうから、当然、宿泊しなければ見れないのでしょうね。
と思ったら、なんと、日帰り温泉もありました。
↓その名も、『鴎外温泉』。
料金は、料金1,650円(税込)だそうです。
旧居の見学も出来るようです。
『舞姫の間』に宴席が入ってれば、無理でしょうが。
でも、宿泊費を見てみましたが、たまげるほどではありません。
2食付きのシングルで、2万円くらいでした。
↑広さも設備も、『ホテルリブマックス日暮里』と大差ないようです。
探したら、素泊まりのプランもありました。
7,884円(税込)でした。
『ホテルリブマックス日暮里』が、7,000円ですから、884円は鴎外旧居の見学料と考えれば、決して高くありません。
地方から遊びに来て、ついでに鴎外の旧居も見てみたいという方には、良いホテルじゃないでしょうか。
上野から近くて便利ですし。
なおここで、いらんことを少し書いておきます。
鴎外がこの屋敷に住んだのは、わずか1年少しのようです。
なんとなれば、赤松登志子と離婚したからです(結婚生活は、1年半)。
この屋敷は赤松家の持ち家ですから、当然、鴎外が出なくてはなりません。
鴎外は、赤松家の人たちと折り合いが良くなかったそうです。
あまり居心地のいい家ではなかったのでしょうね。
さて、ようやく上野まで来ました。
↓言わずと知れた『不忍池』です。
↑「み」
まだ雨が降ってました。
でも、この池を眺めた瞬間は、雨降りで良かったと思いましたね。
雨の蓮池、とても目に嬉しかったです。
↑「み」
東京のど真ん中に、こんな景色が広がってるんですからね。
東京に来て、とても羨ましく思うのは、緑が豊富なことです。
街路樹も、とてつもなく太いです。
↓『上野恩賜公園』、通称『上野公園』入口です。
↑「み」
ここもまた、鬱蒼たる森のようでした。
雨に緑が映えますね。
静かな雨の公園に見えますが……。
上の写真、右奥の階段を登ると、景色が一変しました。
↓これです。
↑「み」
中学生らしい集団が、うじゃうじゃいます。
この日は金曜日。
登校時間は、とっくに過ぎてるはず。
これだけ集団で遅刻してるとは考えられません。
少し歩くと、ようやく腑に落ちました。
中学生の話す言葉に、微妙なイントネーションがあります。
つまり、東京の子ではない。
学生服姿も垢抜けないというか、ま、良く言えば素朴な感じです。
修学旅行ですね。
↑ありましたねー。
それも、2つや3つの学校じゃありません。
いったい、どれだけの学校がここに集まってるのでしょうか。
旅先の興奮なのでしょう、声高に喋り合ってて、ムクドリの群れみたいです。
その囀りにかぶさって、男の先生の怒声、女の先生の金切り声が聞こえます。
↓ムンクの『叫び』。手前の人物は、叫んでいるのではありません。叫びを聞いているのです。
先生って、ほんとに大変ですね。
修学旅行、さぞ憂鬱だろうなと、同情してしまいます。
これが、毎年あるんですからね。
ならなくて良かった。
集団が途切れないので、うっかり撮り忘れましたが……。
世界文化遺産に登録された、『国立西洋美術館』もありました。
でも、わたしの目的地は、そこではありません。
そのすぐ隣に建つ『国立科学博物館』です。
でも残念ながら、その外観も撮ってませんでした。
↑拝借画像です。
これは、撮り忘れじゃないと思います。
すなわち、この日は伊勢志摩サミットの2日目。
しかも、上野という東京の中心地。
警備の警察官がたくさんいたんです。
カメラを向ける雰囲気じゃなかったです。
入口では、ひとりひとり、手荷物検査がありました。
↑こちらは、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでの手荷物検査の様子。『国立科学博物館』では、雨だったこともあり、薄暗く嫌な雰囲気でした。
このとき初めて、サミットの日に旅程を組んだことを後悔しました。
わたしのリュックは、当然、金属探知機に反応します。
ノートパソコンやら、そのAC電源やら、携帯の充電器やら、金属製品満載ですから。
入口の両脇に長テーブルが並べられてました。
そのひとつの案内され、上に置かれたプラスチックのカゴに中身を出すよう言われます。
↑別な施設の拝借画像ですが、こんな感じでした。このゲート型金属探知機、なんとレンタルもあるようです。
わたしに応対したのは女性のスタッフです。
警察官なんでしょうが、制服ではなく、パンツスーツでした。
リュックには、当然、下着類も入ってます。
不透明な袋に入れてあるので、それも開けさせられるのかと……。
ここで、初めて怒りに近い感情が発現しました。
でも、そこまではしなくて済みました。
荷物を半分くらい出したとき、女性スタッフに「もう結構です」と言われたのです。
膨れたリュックの中身を怪しんだものの……。
出てくるのがガラクタばかりなので、呆れたのかも知れません。
↑わたしのではありません。
さて、荷物を詰め直し、ようやく入館です。
入ってみると、中に修学旅行の生徒で満載。
なぜ、こんなに人気なのかは、入口でもらった『館内ガイド』を見てわかりました。
入館料は、一般が620円。
しかし!
なんと、高校生以下が、すべて無料なんです。
ここなら、間違いなく半日時間を潰せます。
しかも、タダ!
修学旅行の定番コースなんでしょうね。
さて、真っ先にわたしがしなければならないことは……。
巨大なリュックを預けることです。
子供が走り回ってる中でこんなのを背負ってたら、ぶつかられてひっくり返りかねません。
展示物を引っ掛けたりする恐れもありますしね。
で、案内のお姉さんにロッカーのありかを聞いたところ……。
なんと!
館内のロッカーは、封鎖してあるとのことです。
何のために入口で荷物検査されたんじゃ!
再び怒りモードに入りそうになりましたが、中庭にあるロッカーは使えるとのこと。
ま、仕方ありません。
まずは、そのロッカーに向かいます。
↓途中、覗いた館内のロッカーはこの有様。
↑「み」
↓屋外のロッカーに到着。
↑「み」
戸外ですが、もちろん屋根がかかってます。
料金はリターン式で、荷物を出すときに戻ってきます。
ようやく見学開始です。
↓古めかしい造りです。
↑「み」
耐震性、大丈夫なんでしょうかね?
↓日本の動物ですね。
↑「み」
イノシシとシカが並んでると、どうしても花札を連想してしまいます。
↓これは、屋久杉の輪切りだと思います。
↑「み」
修学旅行の子どもたちは、クリップボードを持って、しきりに何か書いてます。
↑わたしが行ったときの写真ではありません。
学校に、課題を提出しなければならないんでしょうね。
わたしもメモしてれば、もっと詳しいレポートが出来たのですが……。
まさか、この日の見学の模様を書くのが、半年以上も先になるとは思いもしなかったのです。
何を見たのか、今となってはもう、忘却の彼方です。
↓首長竜の骨格標本ですね。
↑「み」
このときは、ただ通り過ぎただけでしたが……。
この首長竜、タダものではありませんでした。
フタバスズキリュウです。
まさしく、日本で見つかった首長竜です。
発見されたのは、1968(昭和43)年、福島県いわき市です。
発見者がまた、驚きです。
当時、高校生だった鈴木直(ただし)さん(1951~)。
↑『フタバスズキリュウの発見と化石少年の夢』というトークショー(2007)。立っている方が鈴木さん。
この発見により……。
日本本土で、中生代の大型爬虫類の化石が発見されることはないとされていた当時の定説が覆されたのです。
フタバスズキリュウの“スズキ”は、まさしく発見者の名前ですが……。
それでは、“フタバ”とは何か?
これは、発見された場所が、双葉層群という地層だったからです。
この名前で思い出したのが、福島県立双葉高校。
たしか、甲子園に出てたよなと調べたら……。
夏の甲子園に、3回出場してました。
うち、2回は、初戦に勝ってます。
旧制中学からの伝統校でした。
↑“双葉”を表す緑の胸マーク。
校名の由来は、双葉郡双葉町にあるからです。
いわき市の北、太平洋に面した町です。
原発事故により、現在もまだ、町域の大部分が帰還困難区域となってるようです。
高校も当然、影響を受けました。
双葉郡広野町に、新たに中高一貫校の『ふたば未来学園高等学校』が作られました。
これに伴い、双葉高校は新たな生徒の募集を停止し、2017年3月の卒業生を送り出した後……。
「休校」ということになるようです。
例によって、脱線してしまいました。
フタバスズキリュウに戻ります。
わたしが、発見時の話を読んで興味を持ったのは、大量のサメの歯が一緒に見つかったという点。
一部は、フタバスズキリュウの骨に刺さってたそうです。
そのことから、この個体は、サメに襲われた、もしくは死体にサメが群がったものと考えられているそうです。
ここでわたしが疑問に思ったのは、何で歯が落ちてるのかと云うこと。
よっぽど硬い肉なのかと思いました。
でも、違ってました。
サメの歯は、実に簡単に抜けるそうなんです。
でも、大丈夫。
後ろ側に次の歯がスタンバイしていて、前の歯が抜けると、すぐに移動して来るんだそうです。
噛みついて落ちなくても、2日くらいで抜け替わるとか。
一生で、2万本の歯を使うと云われてます。
鮫の歯は、鱗が変化したものなんだそうです。
↓これはおなじみ、アンモナイト。
↑「み」
↓上の方に、『川下由太郎コレクション』とあります。
↑「み」
川下由太郎(かわしたよしたろう)氏は、学者ではありません。
↑なかなか独特なファッションセンスをお持ちだったようです。ピンクのゴム手(?)が素敵です。
生まれたのは、1939(昭和14)年、青森県下北郡田名部町(現・むつ市)。
中学校を卒業後、北海道で林業に従事し、1963(昭和38)年からは三笠市(夕張市の隣)の炭鉱で勤務されました。
1991(平成3)年からは、ハンターやガイドとして野外事業に従事されていましたが……。
2000(平成12)年、交通事故により逝去されました(享年61)。
川下氏は、1960年代にアンモナイトと出合い、収集を趣味とするうち、その学問的意義に興味を抱くようになったそうです。
抜群の探究心と徹底した採集力で、アンモナイトの新属や新種を相次いで発見されました。
炭鉱勤務ということから、掘るのは得意だったんでしょうね。
大学や博物館の研究者と連名で論文を発表し、その業績は国際的にも高い評価を得ているそうです。
その業績を讃え、多くのアンモナイトに川下氏の名前がつけられています。
1985(昭和60)年には、稚内市でクビナガリュウの化石を発見し、1992(平成4)年に「ソウヤカワシタリュウ」と命名されています。
アンモナイトは、大きなものでは直径1メートルほどになるそうです。
化石ですから、もちろん石です。
重量は、250キロを超えるものもあったそうです。
発掘場所には、重機などは入れません。
すべて人力での作業となります。
↓発掘の様子です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「パキデスモセラス
大夕張産出の大物 一九七六(昭和五十一)年十月(晴)
大夕張鹿島支流で、直径約八十センチメートルの大型アンモナイトが、小沢(こざわ)の水の流れを止めていた。
見たところ、プゾシア類である。
何とか割らないで運び出そうと考え、仲間に頼んで、タイヤを転がすように、三人で少しずつ移動させ、ようやく五日目で本流まで転がしてきた。
本流は水が多く、なかなか思うようにいかず、アンモナイトと一緒に何度も転んだ。
ライトバンに積んで運ぶ途中でも、パンクするなど最後のさいごまで苦労した」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
実は、この『単独旅行記Ⅲ』を書きつつ、自分で撮った写真を見て、初めて川下さんの名前を知りました。
で、この度、改めて調べて記述したわけです。
見学してるとき、わたしはほとんど説明書きを読まないのです。
とりあえず写真だけ撮っておくというのは、いい手法ですね。
↓これは、トナカイですかね?
↑「み」
あ、ヘラジカか?
川下氏がこんなものまで発掘したとは書かれてないので……。
おそらくもう、川下コレクションのエリアを出てたんだと思います。
↓螺旋状の階段が吹き抜けになっています。
↑「み」
1番底の模様の上に、吊るされた金属球が浮いてます。
↑「み」
わたしはこの写真を撮ったときは、永遠に振り続ける振り子かと思ってました。
でも、今、改めて調べて、違ってたことがわかりました。
この振り子は、「フーコーの振り子」と呼ばれてます。
特殊な振り子ではありません。
単に、4階の天井から階段の吹き抜けを通して吊るされた金属球が、地下1階で振れてるだけの仕組みです。
↑天井の支点。
見ていてもわかりませんが、空気の抵抗や支点の摩擦により、振幅はだんだんと小さくなります。
4時間で半分くらいになるそうです。
開館時間の9時に職員によって振られ、振幅が半分になる13時に、もう1度振り直されます。
↑振り子を振り直す職員。
閉館は17時ですから、この時点でも、振幅は半分になってます。
でも、このときは振り直されることはなく、夜のうちには自然に止まるのでしょう。
さてそれでは、この何の仕掛けもない振り子、どんな意味があるのでしょう。
単に大きいというだけ?
おもりは、直径23㎝のステンレス球で、重さは約50㎏。
↑鉄球だと、錆が付いたりして、バランスが狂ってしまうからでしょうか?
これを吊るすステンレス線の長さは、19.5メートル。
確かに大きいですが、ギネス級というレベルではありません。
世界には、もっと大きな振り子は、数え切れないほどあるでしょう。
実際、初めてこの振り子の公開実験が行われたときは、これより遥かに大きな振り子が使われました。
おもりは鉄球で、これを吊るす鋼鉄線は、67メートルありました。
設置された場所は、パリのパンテオン。
この振り子実験の考案者は、フランスの物理学者、レオン・フーコーでした。
フーコーは、自宅の地下室や天文台で実験を行い……。
振り子により、ある証明が出来ることを確かめました。
1851年のことです。
日本では幕末で、嘉永4年。
将軍は、12代徳川家慶。
ペリーが、浦賀沖に来航する2年前になります。
そして、その翌年の1852年。
フーコーは、ナポレオン3世の後援を得て、パンテオンでの大掛かりな実験を行うこととなりました。
実験と云っても、単に振り子を振るだけです。
特に難しい実験ではありません。
それでは、何のための実験かと云うと……。
これで、地球が自転されてることを証明することが出来るのです。
どういうことかと云うと……。
この振り子、少しずつ振れる方向が動いていくのです。
軌道が回転していくんですね。
1周に必要な時間(日)は、「1日/sinθ(θは振り子の場所の緯度)」で算出できるそうです。
この式も、フーコーが見つけました。
赤道ではまったく回転運動が起こらず、北半球では右回り、南半球では左回りになります。
なお、フーコーという人は、在野の研究者でした。
この公開実験を見た、アカデミックの科学者たちは、こんな簡単な実験は、過去に誰かが思いついて行っているはずだと考え、記録をあたりますが……。
そのような実験は存在しなかったのです。
当時はまだ、地動説が一般人にまでは浸透していなかった時代でした。
↑こういうレベル。
振り子の動きにより、地球が自転していることを、まざまざと見せつけられた人たちは……。
たいへんなショックを覚えたそうです。
以来、万国博覧会などの大きな催しでは、たびたびフーコーの振り子が設置されることとなりました。
↑日本最大(ケーブル長、25.1メートル)の『フーコーの振り子』。長崎県の福済寺というお寺にあります。振り子は、観音様の体内の空洞で振れてるそうです。合掌。
でも、ベッドの枕元で壁を向いており、テレビは真後ろになります。
わたしは、テレビを見ながら食べたいんです。
と云って、食事のためだけに、大掛かりな部屋の模様替えをするわけにもいきません。
そもそも、お腹が空きすぎてて、そんな気力もありませんでした。
なにしろ、朝食を6時前に摂ってから、12時間以上、何も口にしてないんです。
お願いだから、わたしにテレビを見ながらメシを食わせてくれ!
ほかには何もいらん。
ただそれだけが望みです。
となれば、テレビとの位置関係からして、ベッドの上で食べるしかありません。
しかし!
ベッドの上に食材を並べるのは、はばかられました。
当然、不安定です。
自らの粗忽を鑑みるに……。
食材をひっくり返さずに夕食を終える自信は、とうていありませんでした。
なんとしても、ベッドの上に、安定して食材を並べられるアイテムが必要です。
灰色の脳細胞をフル回転させ、あたりを見回しました。
ありました。
必死に考えれば、思いつくものです。
ホテルの部屋には、避難経路図などが入ったバインダーが備え付けられてます。
硬い表紙で、2つに開くタイプ。
この部屋にも、当然ありました。
これだ!
これを開いてベッドに載せれば、小さいながらもテーブル代わりになります。
さっそく実行。
といって、バインダーに直接食材を載せて汚してしまっては、申し訳ないです。
でも、大丈夫。
わたしはいつも、荷物の中に、レジ袋を数枚入れてあります。
まったく嵩にならないうえ、いろんな用途に使えるからです。
まさに今が、そのときでした。
レジ袋で、バインダーを両脇から包み、保護します。
これで見事、テーブルが完成!
↓食材を並べました。
↑「み」。右のノートパソコンは、わたしが背負ってきたものです。翌朝、『Mikiko's Room』の投稿は、これで行いました。
テレビは目の前。
安倍総理の不景気な顔が映ってますが、わたしは大いにご満悦でした。
↓夕食の全貌です。
↑「み」
まずは、両脇からご説明。
右サイドは、『豚レバー焼き(¥144・税別、以下同じ)』。
↑「み」
歩き回ったせいか、鉄分を欲しました。
左サイドは、『生姜キュウリ(¥139・50円値引き品)』。
↑「み」
わたしは、野菜系を食べないと胸焼けするので、青物は必須です。
量も十分でした。
そして、本日のメインディッシュは、中央!
言わずと知れた『かき揚げ(¥147×2)』。
↑「み」
ボリューム満点、しかも2個。
目が嬉しかったです。
キュウリの下方にあるのは、袋入りのお醤油。
↑「み」
これは、自宅から持参したものです。
嵩張らず、漏れる心配もないすぐれものです。
もちろん、かき揚げに掛けます。
天ぷらに生醤油は、実によく合います。
天つゆなどに漬けると、かき揚げのパリパリ感が損なわれてしまいますが……。
生醤油なら、歯ごたえそのままです。
そして!
お酒はなんと、本物のビール。
『スーパードライ』は、毀誉褒貶ありますが……。
スッキリしてて、とても飲みやすいと思います。
エビスなどは、わたしには重たく感じます。
『スーパードライ』を評価するドイツ人も多いそうです。
販売開始は、1987年。
来年、30周年ですね。
このビールがヒットした最大の要因は、デザインじゃないかと思います。
かっちょいーですよね。
わたしが、自腹で本物のビールを飲むのは、旅先と、胃カメラ検査の後だけです。
それ以外のときは、第3のビールですから、基本、何を飲んでも美味しいんですけどね。
食事を終えたあとは、ビールから焼酎に切り替えました。
わたしがいつも選ぶのは、『いいちこ』。
↑『下町のナポレオン』というフレーズは、どうもね。こんなの、書かなきゃいいのに。
飲み慣れた味です。
旅先で冒険して外れるとイヤなので。
それに、『いいちこ』には、紙パックがあって便利です。
サミットストアにも、900mlのパックがあったので買いました。
もちろん、こんなにたくさんは飲めませんが、これより小さいパックが無いので仕方ありません。
余った焼酎は、いつもペットボトルに詰めて持ち帰ります。
紙パックのままだと、リュックに入れると嵩張るので。
もちろん、帰りの新幹線で飲んだりはしませんよ。
『いいちこ』は、旅の夜には、水割りで飲みます。
これが一番、翌朝に響かない飲み方だと思います。
二日酔いじゃ、旅の2日目が台無しですから。
氷は、ロックアイスをサミットで買ってあります。
冷蔵庫の冷凍室には入らないので……。
例年は、お風呂の洗面ボウルに袋のまま入れて使います。
↑「み」。わたしが泊まった部屋のです。もちろん、氷は解けていきますが、1晩飲む分としては、十分間に合います。
でも、今年の部屋はキッチン付きですので、シンクに置いておけました。
↑「み」
例年だと、氷の補充には、トイレに入らなければなりませんでした。
それが今年は、飲んでるすぐ脇のキッチンでできたので、微妙に便利でしたね。
もちろん、キッチンのない部屋には泊まれないと思うほどではありませんが。
ちなみに『いいちこ』は、家でも昼酒として飲んでるんですが……。
最近、お気に入りなのは、トマトジュース割りです。
↑拝借画像です。わたしが、こんなグラスを使うと、必ずひっくり返します。ポッカレモンを垂らすと美味しいですよ。
さてさて。
テレビをザッピングで眺めながら、いつの間にか眠りに付いたようです。
↑ほぼ、こんな状況。
若いころは、ひとり飲みでも、ぐでんぐでんになったりもしましたが……。
↑もちろん、こんなことはしません。ていうか、シラフでも、こんなとこ登れませんがな。
最近はもう、酔っ払うより先に眠くなるようになりました。
おかげで、飲みすぎずに済みます。
そして、翌朝。
前夜確かめた天気予報が悪かったので、起きるとすぐに窓を開けてみました。
↑「み」
案の定、ザーザー降りです。
隣にコンビニがあるので、朝食は、そこで朝に調達しようかとも思ったのですが……。
わざわざ出かけるのも面倒くさいと思い、昨日のスーパーで調達してありました。
この雨の中、外に出る気にはならないので、大正解でした。
ましてや、『松屋』まで食べに行くなど、億劫すぎますね。
てなわけで、おにぎりとお新香、カップのお味噌汁の朝食を、テレビを見ながら摂りました。
↑写真を撮るのを忘れました。これは、サミットのおにぎりの拝借画像。わたしが食べたのは、明太子とツナマヨでした。ビニールを順番どおり外していくのが楽しいんですよね。
これは、正解でしたね。
部屋から出なくて済むのは、実に楽でした。
着替える必要もありませんし。
今度から宿泊は、朝食なしのプランにして、部屋で食べることに決定です。
さて、この日は金曜日。
『Mikiko's Room』の投稿があります。
投稿回のデータは、ノートパソコンに移して持って来てあります。
あ、書き忘れてましたが、有線LANが部屋に付いてるので、ネット接続は問題ありません。
↑「み」。左の丸まってる青い線が、備え付けのLANケーブルです。
投稿も済み、朝風呂にも入りましたが、雨は止みそうもありません。
チェックアウトは、10時まででいいのですが……。
いつまでもゴロゴロしててもしょうがないので、出かけることにします。
↓扉の外のテンキーロックです。
↑「み」
精算はチェックインで済んでますし、鍵を返す必要もないので、フロントは素通りです。
↓ゆうべ撮れなかったホテルの佇まいを、傘の下からパチリ。
↑「み」
雨のせいか、物寂しいですね。
向う隣にコンビニが見えます。
『スリーエフ台東谷中三丁目店』。
入りませんでしたが、お酒も売ってるようです。
さて、出発です。
↓すぐに、新潟で地図を見てるときから、歩いてみようと思ってた道に入ります。
↑「み」
クネクネと、うねってるのがおわかりでしょうか。
通称『へび道』。
何でうねってるかというと、昔、ここが川だったからです。
藍染川です。
川は今でも、この道の下を暗渠となって流れてるそうです。
暗渠化されたのは、大正12年。
思いのほか古くて驚きました。
↓まったく河川改修が行われてない状態で、暗渠にされてますね。
↑左上にある『松屋』が、『ホテルリブマックス日暮里』から3分のお店です。
川の名前の由来は、まさしくそのまんまで……。
川筋に染物屋があって、川の色が藍色に染まっていたためだそうです。
このことから連想するのは、職人が川に入り、反物を洗ってる情景です。
↑原田泰治『友禅流し』。
でも、ここでは、それは無かったんじゃないでしょうか。
単に、排水だけが流されてたんだと思います。
だからこそ、暗渠化が出来た。
反物の洗い場に使われなくなったのは、ドブ川化したためだと思います。
ほとんど、下水道化してたわけですね。
↑江戸時代の藍染川(元図には彩色なし)。このころは、反物を洗ったりしてたのかも知れません。
さてさて。
クネクネくねっていて見通しが悪いためか、車はほとんど通らなかったです。
でも、そのせいか、自転車が多かったですね。
スーツを着て乗ってる男性は、通勤に使ってるのでしょうか。
傘を差しての運転で、曲がった向こう側から、スピードも落とさずに飛び出してきます。
↑「み」
怖い思いをしました。
実は前日、『江戸東京たてもの園』へ続く歩道を歩いているときも……。
自転車が、わたしのすぐわきを、スピードを落とさず走り抜けて行くんです。
↑「み」。アジサイの植えこみがはみ出してるので、歩道が狭くなってました。
東京では、こういう交通マナーが当たり前なんですかね。
事故が起こらないのが不思議なくらいです。
↓へび道を抜けたあたりで、こんな建物を発見。
↑「み」
隣のマンションと、SUV車がつや消しですが……。
↓入口には、『染物洗張』と描かれてありました。
↑「み」
まさしく、藍染川の由来そのものですね。
でも、こういう商売が、まだ成り立ってるということに驚きました。
さすが東京です。
むしろ、少なくなった業種には、全国から注文が来るのかも知れません。
↓途中、新築住宅のビラを発見。
↑「み」
値段を見直しました。
6,380万ですよ。
3LDKで、建物90㎡。
3LDKという間取りから考えると、90㎡というのは、延床面積でしょうね。
2階建てで、総2階に近ければ、建築面積は、この半分です。
45㎡、13.6坪。
建ぺい率60%で、ギリギリに建ててるとすると、敷地は、23坪になります。
新潟市だったら、2,000万がいいところでしょう。
ていうか、敷地23坪の建売住宅なんて、売られてません。
最低でも、その倍でしょう。
こんな物件が6,380万というのは、地方の人間から見たら、完全にバブルですよ。
↑バブル期の中古(!)マンションの広告。さすが、桁が違いました。
ここまでして、千駄木に住む理由って何なんでしょう。
↑こんないいところがありました。名称はいただけませんが。
上野の裏手までやってきました。
↓『上野動物園』の裏側です。
↑「み」
たぶん、ここからは入れないと思います。
岩のようなのは、サル山ですかね。
↑サル山の表側です。よーわかりませんね。
この道路だったと思いますが、なんだか谷間のようになって、薄暗い道でした。
↑やっぱり、サル山みたいですね。
街路には、ハマヒサカキとツツジが混植されてました。
↑確か、この道路だったと思います。ガードレールに沿って植えられてるのが、ハマヒサカキとツツジです。
うっかり、写真を撮り忘れましたが、2つの植物は、対照的な状態でした。
ハマヒサカキは元気で、ツツジは弱ってました。
原因は、すぐにわかりました。
陽あたりが悪いんです。
ハマヒサカキは陰樹で、ツツジは陽樹なんです。
ハマヒサカキは、海岸近くの植栽によく使われます。
塩害に強いんですね。
新潟では、海岸沿いの新潟砂丘に西海岸公園が整備されてますが……。
その遊歩道の縁取りとして、ハマヒサカキが植えられてます。
↑遊歩道の両側に伸びる、刈り込まれた低木がハマヒサカキです。
まわりは、クロマツの林で、陽はほとんど差しません。
日陰に強い樹木なのです。
↑小粒な照葉(しょうよう)が可愛いです。日陰と乾燥に強いので、砂丘地の西海岸公園にはぴったりなんです。
ここでまた、少々脱線します。
新潟の幹線道路、国道などの植栽には、海岸線に自生するような樹木が使われることが多いです。
海岸から遠い道路でもです。
シャリンバイやトベラなどですかね。
↑『シャリンバイ(車輪梅)』の名は、一箇所から放射状に枝が出て車輪のように広がり、花が梅に似ていることから付きました。
さて、それはなぜでしょう?
実は、雪のせいなのです。
といって、それらの樹木が、特に雪に強いわけではありません。
強いのは、塩害に対してです。
ではなぜ、海から遠い積雪のある地域で、塩害に強い樹木が使われるのかと云うと……。
幹線道路には、凍結防止剤や融雪剤が撒かれるからです。
凍結防止剤は塩化ナトリウム、融雪剤は塩化カルシウムです。
↑雪を融かす効果は同じですが、塩化ナトリウムは持続性に優れ、塩化カルシウムは即効性に優れます。
早い話、塩ですね。
これらにより解けた雪は、シャーベット状になり……。
車がそれを跳ねあげて走ります。
もちろん街路樹も、そのしょっぱい雪をかぶるわけです。
これでおわかりでしょう。
まさしく、塩害そのものです。
塩害に耐性のない樹木は、ひと冬で枯れてしまいます。
さてさて。
いらないことを書きました。
『動物園通り』に戻りましょう。
どうやらこの道路、台東区の区道のようです。
たぶん、街路樹の設計が行われたときは、こんなに両側の樹木が茂ってなかったのでしょう。
で、特に日陰に強い植物を意識しての設計はされなかったんだと思います。
しかし、陰樹と陽樹を混植するってのは、どんなもんなんですかね。
↓『水月ホテル鴎外荘』というのがありました。
↑「み」
当然、森鴎外にゆかりがあるはずです。
でも、こんな近代的なホテルに、鴎外が泊まったわけがありません。
今回、改めて調べてみました。
敷地内に、森鴎外の旧居を保存してあるんだそうです。
小説『舞姫』が書かれた間(『舞姫の間』)では、宴席などもできるようです。
↑『舞姫の間』。35畳だそうです。ほんとにこんな部屋で執筆したんですかね。落ち着かないですよね。
どこかから移築されたものではなく、元々、ここにあったということらしいです。
現在の住所は、台東区池之端ですが……。
昔は、下谷区上野花園町という町名でした。
江戸時代には、寛永寺の花畑だったとか。
鴎外は、明治22(1889)年、27歳の時、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し……。
上野花園町の赤松家の持家に住んだとのこと。
↑緑色が鴎外邸(たぶん)。
『舞姫の間』から臨める庭には、樹齢300年の樹木も残り……。
まさしく、鴎外が眺めていた景色が残っているようです。
↑しかしながら、鴎外が眺めてたころから、130年近くが経ってます。なんだか、ジャングル風呂みたいですね。
その屋敷と『水月ホテル』の関係は、ざっと調べただけではわかりませんでした。
森鴎外の旧居、ぜひ拝みたいところですが……。
これは、ホテル内の施設ということでしょうから、当然、宿泊しなければ見れないのでしょうね。
と思ったら、なんと、日帰り温泉もありました。
↓その名も、『鴎外温泉』。
料金は、料金1,650円(税込)だそうです。
旧居の見学も出来るようです。
『舞姫の間』に宴席が入ってれば、無理でしょうが。
でも、宿泊費を見てみましたが、たまげるほどではありません。
2食付きのシングルで、2万円くらいでした。
↑広さも設備も、『ホテルリブマックス日暮里』と大差ないようです。
探したら、素泊まりのプランもありました。
7,884円(税込)でした。
『ホテルリブマックス日暮里』が、7,000円ですから、884円は鴎外旧居の見学料と考えれば、決して高くありません。
地方から遊びに来て、ついでに鴎外の旧居も見てみたいという方には、良いホテルじゃないでしょうか。
上野から近くて便利ですし。
なおここで、いらんことを少し書いておきます。
鴎外がこの屋敷に住んだのは、わずか1年少しのようです。
なんとなれば、赤松登志子と離婚したからです(結婚生活は、1年半)。
この屋敷は赤松家の持ち家ですから、当然、鴎外が出なくてはなりません。
鴎外は、赤松家の人たちと折り合いが良くなかったそうです。
あまり居心地のいい家ではなかったのでしょうね。
さて、ようやく上野まで来ました。
↓言わずと知れた『不忍池』です。
↑「み」
まだ雨が降ってました。
でも、この池を眺めた瞬間は、雨降りで良かったと思いましたね。
雨の蓮池、とても目に嬉しかったです。
↑「み」
東京のど真ん中に、こんな景色が広がってるんですからね。
東京に来て、とても羨ましく思うのは、緑が豊富なことです。
街路樹も、とてつもなく太いです。
↓『上野恩賜公園』、通称『上野公園』入口です。
↑「み」
ここもまた、鬱蒼たる森のようでした。
雨に緑が映えますね。
静かな雨の公園に見えますが……。
上の写真、右奥の階段を登ると、景色が一変しました。
↓これです。
↑「み」
中学生らしい集団が、うじゃうじゃいます。
この日は金曜日。
登校時間は、とっくに過ぎてるはず。
これだけ集団で遅刻してるとは考えられません。
少し歩くと、ようやく腑に落ちました。
中学生の話す言葉に、微妙なイントネーションがあります。
つまり、東京の子ではない。
学生服姿も垢抜けないというか、ま、良く言えば素朴な感じです。
修学旅行ですね。
↑ありましたねー。
それも、2つや3つの学校じゃありません。
いったい、どれだけの学校がここに集まってるのでしょうか。
旅先の興奮なのでしょう、声高に喋り合ってて、ムクドリの群れみたいです。
その囀りにかぶさって、男の先生の怒声、女の先生の金切り声が聞こえます。
↓ムンクの『叫び』。手前の人物は、叫んでいるのではありません。叫びを聞いているのです。
先生って、ほんとに大変ですね。
修学旅行、さぞ憂鬱だろうなと、同情してしまいます。
これが、毎年あるんですからね。
ならなくて良かった。
集団が途切れないので、うっかり撮り忘れましたが……。
世界文化遺産に登録された、『国立西洋美術館』もありました。
でも、わたしの目的地は、そこではありません。
そのすぐ隣に建つ『国立科学博物館』です。
でも残念ながら、その外観も撮ってませんでした。
↑拝借画像です。
これは、撮り忘れじゃないと思います。
すなわち、この日は伊勢志摩サミットの2日目。
しかも、上野という東京の中心地。
警備の警察官がたくさんいたんです。
カメラを向ける雰囲気じゃなかったです。
入口では、ひとりひとり、手荷物検査がありました。
↑こちらは、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでの手荷物検査の様子。『国立科学博物館』では、雨だったこともあり、薄暗く嫌な雰囲気でした。
このとき初めて、サミットの日に旅程を組んだことを後悔しました。
わたしのリュックは、当然、金属探知機に反応します。
ノートパソコンやら、そのAC電源やら、携帯の充電器やら、金属製品満載ですから。
入口の両脇に長テーブルが並べられてました。
そのひとつの案内され、上に置かれたプラスチックのカゴに中身を出すよう言われます。
↑別な施設の拝借画像ですが、こんな感じでした。このゲート型金属探知機、なんとレンタルもあるようです。
わたしに応対したのは女性のスタッフです。
警察官なんでしょうが、制服ではなく、パンツスーツでした。
リュックには、当然、下着類も入ってます。
不透明な袋に入れてあるので、それも開けさせられるのかと……。
ここで、初めて怒りに近い感情が発現しました。
でも、そこまではしなくて済みました。
荷物を半分くらい出したとき、女性スタッフに「もう結構です」と言われたのです。
膨れたリュックの中身を怪しんだものの……。
出てくるのがガラクタばかりなので、呆れたのかも知れません。
↑わたしのではありません。
さて、荷物を詰め直し、ようやく入館です。
入ってみると、中に修学旅行の生徒で満載。
なぜ、こんなに人気なのかは、入口でもらった『館内ガイド』を見てわかりました。
入館料は、一般が620円。
しかし!
なんと、高校生以下が、すべて無料なんです。
ここなら、間違いなく半日時間を潰せます。
しかも、タダ!
修学旅行の定番コースなんでしょうね。
さて、真っ先にわたしがしなければならないことは……。
巨大なリュックを預けることです。
子供が走り回ってる中でこんなのを背負ってたら、ぶつかられてひっくり返りかねません。
展示物を引っ掛けたりする恐れもありますしね。
で、案内のお姉さんにロッカーのありかを聞いたところ……。
なんと!
館内のロッカーは、封鎖してあるとのことです。
何のために入口で荷物検査されたんじゃ!
再び怒りモードに入りそうになりましたが、中庭にあるロッカーは使えるとのこと。
ま、仕方ありません。
まずは、そのロッカーに向かいます。
↓途中、覗いた館内のロッカーはこの有様。
↑「み」
↓屋外のロッカーに到着。
↑「み」
戸外ですが、もちろん屋根がかかってます。
料金はリターン式で、荷物を出すときに戻ってきます。
ようやく見学開始です。
↓古めかしい造りです。
↑「み」
耐震性、大丈夫なんでしょうかね?
↓日本の動物ですね。
↑「み」
イノシシとシカが並んでると、どうしても花札を連想してしまいます。
↓これは、屋久杉の輪切りだと思います。
↑「み」
修学旅行の子どもたちは、クリップボードを持って、しきりに何か書いてます。
↑わたしが行ったときの写真ではありません。
学校に、課題を提出しなければならないんでしょうね。
わたしもメモしてれば、もっと詳しいレポートが出来たのですが……。
まさか、この日の見学の模様を書くのが、半年以上も先になるとは思いもしなかったのです。
何を見たのか、今となってはもう、忘却の彼方です。
↓首長竜の骨格標本ですね。
↑「み」
このときは、ただ通り過ぎただけでしたが……。
この首長竜、タダものではありませんでした。
フタバスズキリュウです。
まさしく、日本で見つかった首長竜です。
発見されたのは、1968(昭和43)年、福島県いわき市です。
発見者がまた、驚きです。
当時、高校生だった鈴木直(ただし)さん(1951~)。
↑『フタバスズキリュウの発見と化石少年の夢』というトークショー(2007)。立っている方が鈴木さん。
この発見により……。
日本本土で、中生代の大型爬虫類の化石が発見されることはないとされていた当時の定説が覆されたのです。
フタバスズキリュウの“スズキ”は、まさしく発見者の名前ですが……。
それでは、“フタバ”とは何か?
これは、発見された場所が、双葉層群という地層だったからです。
この名前で思い出したのが、福島県立双葉高校。
たしか、甲子園に出てたよなと調べたら……。
夏の甲子園に、3回出場してました。
うち、2回は、初戦に勝ってます。
旧制中学からの伝統校でした。
↑“双葉”を表す緑の胸マーク。
校名の由来は、双葉郡双葉町にあるからです。
いわき市の北、太平洋に面した町です。
原発事故により、現在もまだ、町域の大部分が帰還困難区域となってるようです。
高校も当然、影響を受けました。
双葉郡広野町に、新たに中高一貫校の『ふたば未来学園高等学校』が作られました。
これに伴い、双葉高校は新たな生徒の募集を停止し、2017年3月の卒業生を送り出した後……。
「休校」ということになるようです。
例によって、脱線してしまいました。
フタバスズキリュウに戻ります。
わたしが、発見時の話を読んで興味を持ったのは、大量のサメの歯が一緒に見つかったという点。
一部は、フタバスズキリュウの骨に刺さってたそうです。
そのことから、この個体は、サメに襲われた、もしくは死体にサメが群がったものと考えられているそうです。
ここでわたしが疑問に思ったのは、何で歯が落ちてるのかと云うこと。
よっぽど硬い肉なのかと思いました。
でも、違ってました。
サメの歯は、実に簡単に抜けるそうなんです。
でも、大丈夫。
後ろ側に次の歯がスタンバイしていて、前の歯が抜けると、すぐに移動して来るんだそうです。
噛みついて落ちなくても、2日くらいで抜け替わるとか。
一生で、2万本の歯を使うと云われてます。
鮫の歯は、鱗が変化したものなんだそうです。
↓これはおなじみ、アンモナイト。
↑「み」
↓上の方に、『川下由太郎コレクション』とあります。
↑「み」
川下由太郎(かわしたよしたろう)氏は、学者ではありません。
↑なかなか独特なファッションセンスをお持ちだったようです。ピンクのゴム手(?)が素敵です。
生まれたのは、1939(昭和14)年、青森県下北郡田名部町(現・むつ市)。
中学校を卒業後、北海道で林業に従事し、1963(昭和38)年からは三笠市(夕張市の隣)の炭鉱で勤務されました。
1991(平成3)年からは、ハンターやガイドとして野外事業に従事されていましたが……。
2000(平成12)年、交通事故により逝去されました(享年61)。
川下氏は、1960年代にアンモナイトと出合い、収集を趣味とするうち、その学問的意義に興味を抱くようになったそうです。
抜群の探究心と徹底した採集力で、アンモナイトの新属や新種を相次いで発見されました。
炭鉱勤務ということから、掘るのは得意だったんでしょうね。
大学や博物館の研究者と連名で論文を発表し、その業績は国際的にも高い評価を得ているそうです。
その業績を讃え、多くのアンモナイトに川下氏の名前がつけられています。
1985(昭和60)年には、稚内市でクビナガリュウの化石を発見し、1992(平成4)年に「ソウヤカワシタリュウ」と命名されています。
アンモナイトは、大きなものでは直径1メートルほどになるそうです。
化石ですから、もちろん石です。
重量は、250キロを超えるものもあったそうです。
発掘場所には、重機などは入れません。
すべて人力での作業となります。
↓発掘の様子です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「パキデスモセラス
大夕張産出の大物 一九七六(昭和五十一)年十月(晴)
大夕張鹿島支流で、直径約八十センチメートルの大型アンモナイトが、小沢(こざわ)の水の流れを止めていた。
見たところ、プゾシア類である。
何とか割らないで運び出そうと考え、仲間に頼んで、タイヤを転がすように、三人で少しずつ移動させ、ようやく五日目で本流まで転がしてきた。
本流は水が多く、なかなか思うようにいかず、アンモナイトと一緒に何度も転んだ。
ライトバンに積んで運ぶ途中でも、パンクするなど最後のさいごまで苦労した」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
実は、この『単独旅行記Ⅲ』を書きつつ、自分で撮った写真を見て、初めて川下さんの名前を知りました。
で、この度、改めて調べて記述したわけです。
見学してるとき、わたしはほとんど説明書きを読まないのです。
とりあえず写真だけ撮っておくというのは、いい手法ですね。
↓これは、トナカイですかね?
↑「み」
あ、ヘラジカか?
川下氏がこんなものまで発掘したとは書かれてないので……。
おそらくもう、川下コレクションのエリアを出てたんだと思います。
↓螺旋状の階段が吹き抜けになっています。
↑「み」
1番底の模様の上に、吊るされた金属球が浮いてます。
↑「み」
わたしはこの写真を撮ったときは、永遠に振り続ける振り子かと思ってました。
でも、今、改めて調べて、違ってたことがわかりました。
この振り子は、「フーコーの振り子」と呼ばれてます。
特殊な振り子ではありません。
単に、4階の天井から階段の吹き抜けを通して吊るされた金属球が、地下1階で振れてるだけの仕組みです。
↑天井の支点。
見ていてもわかりませんが、空気の抵抗や支点の摩擦により、振幅はだんだんと小さくなります。
4時間で半分くらいになるそうです。
開館時間の9時に職員によって振られ、振幅が半分になる13時に、もう1度振り直されます。
↑振り子を振り直す職員。
閉館は17時ですから、この時点でも、振幅は半分になってます。
でも、このときは振り直されることはなく、夜のうちには自然に止まるのでしょう。
さてそれでは、この何の仕掛けもない振り子、どんな意味があるのでしょう。
単に大きいというだけ?
おもりは、直径23㎝のステンレス球で、重さは約50㎏。
↑鉄球だと、錆が付いたりして、バランスが狂ってしまうからでしょうか?
これを吊るすステンレス線の長さは、19.5メートル。
確かに大きいですが、ギネス級というレベルではありません。
世界には、もっと大きな振り子は、数え切れないほどあるでしょう。
実際、初めてこの振り子の公開実験が行われたときは、これより遥かに大きな振り子が使われました。
おもりは鉄球で、これを吊るす鋼鉄線は、67メートルありました。
設置された場所は、パリのパンテオン。
この振り子実験の考案者は、フランスの物理学者、レオン・フーコーでした。
フーコーは、自宅の地下室や天文台で実験を行い……。
振り子により、ある証明が出来ることを確かめました。
1851年のことです。
日本では幕末で、嘉永4年。
将軍は、12代徳川家慶。
ペリーが、浦賀沖に来航する2年前になります。
そして、その翌年の1852年。
フーコーは、ナポレオン3世の後援を得て、パンテオンでの大掛かりな実験を行うこととなりました。
実験と云っても、単に振り子を振るだけです。
特に難しい実験ではありません。
それでは、何のための実験かと云うと……。
これで、地球が自転されてることを証明することが出来るのです。
どういうことかと云うと……。
この振り子、少しずつ振れる方向が動いていくのです。
軌道が回転していくんですね。
1周に必要な時間(日)は、「1日/sinθ(θは振り子の場所の緯度)」で算出できるそうです。
この式も、フーコーが見つけました。
赤道ではまったく回転運動が起こらず、北半球では右回り、南半球では左回りになります。
なお、フーコーという人は、在野の研究者でした。
この公開実験を見た、アカデミックの科学者たちは、こんな簡単な実験は、過去に誰かが思いついて行っているはずだと考え、記録をあたりますが……。
そのような実験は存在しなかったのです。
当時はまだ、地動説が一般人にまでは浸透していなかった時代でした。
↑こういうレベル。
振り子の動きにより、地球が自転していることを、まざまざと見せつけられた人たちは……。
たいへんなショックを覚えたそうです。
以来、万国博覧会などの大きな催しでは、たびたびフーコーの振り子が設置されることとなりました。
↑日本最大(ケーブル長、25.1メートル)の『フーコーの振り子』。長崎県の福済寺というお寺にあります。振り子は、観音様の体内の空洞で振れてるそうです。合掌。