2017.1.5(木)
暖簾の外に足を踏み出すと、もう早出の旅人たちがいそいそと往来を行き交っている。
10年ぶりの京の都、旅籠の前に立った伊織は胸いっぱいに早朝の空気を吸った。
暖簾の中から相次いでお蝶と紫乃が姿を現す。
両手で髪を整えるお蝶の横で、帯刀紫乃は大長刀の長柄を揺すって根付を確かめた。
「お蝶」
伊織は前を向いたままお蝶に声をかける。
「10年前はここが旅の終わりだったが……」
髪にあてた手がふと止まって、お蝶はゆっくりと頷いた。
「この度は、……、こっからが本番です」
艶のある瞳の奥に鋭い輝きが浮かんだ。
長刀を右肩にあてた紫乃が伊織の顔を窺う。
「では、ここからは……?」
伊織はお蝶と紫乃を振り返った。
「若狭街道を北へ……。熊川、小浜といよいよ後二、三日の行程……」
お蝶と紫乃は伊織の言葉に頷く。
「では……、出立しよう」
足を踏み出した伊織の後ろから、お蝶と紫乃も目前に迫った試練に思いを馳せつつその背中に続いた。
「いらっしゃ……あ!」
応対に出た丁稚が口を開けて上を見上げる。
続いて番頭はじめ使用人の目が一斉にその女に注がれた。
大概の男なら見上げるほど背の高いその女は、白い顔をほんのりと桜色に染めて長い睫毛を瞬かせる。
その背中から、色浅黒く、目鼻立ちのはっきりした女が姿をあらわした。
何故か熊川にある京の大店三笠屋の出店を訪ねたのは、術を解いた蓬莱を引き連れた根来の副頭領、沙月女であった。
「若狭薬問屋の沙月と申します。本日はこちらで若奥さまとお約束を……」
口上を聞いた番頭が、いそいそと上り框ににじり寄る。
「沙月様、お聞きしております。若奥様も先ほど京の本店から着いております。さ、どうぞこちらへ」
「有難うございます」
そう返事をした沙月女は後ろの蓬莱を振り返る。
「では蓬莱、お前はそちらの縁台でお話が済むまで待たせていただきなさい」
「はい、沙月様……」
大きな体に似合わず蚊の泣くような小さな声で返事をすると、蓬莱は店の片隅の縁台に腰を下ろした。
丁稚を呼んでお茶とお菓子を申し付けた番頭が笑顔で振り返る。
「さ、では沙月様、こちらへ……」
沙月が店の奥に姿を消すと、帳場でそろばんの手を止めた使用人たちが顔を寄せる。
「大きくて驚いたけど、すらりとしていい女だねえ……」
「あたしは本当に丹後の天女様が舞い降りたのかと思ったよ」
時折自分を盗み見る視線にも気付かぬふりで、蓬莱は物憂げな視線をじっと外の往来に向けていた。
「では番頭さん、ここはもういいから。お茶も私が入れて差し上げます。大事な商談があるので、少しの間人払いをお願いします」
「はい、承知致しました。では、若奥様……」
番頭が障子の向こうに消えるのを見届けると、京の大店の嫁“史(ふみ)”は正面の沙月女を見つめた。
年の頃は二十五、六だろうか、才走った雰囲気がその色気を妨げてはいるが、育ちの良さそうな美人である。
瞳に愛らしい輝きを宿しながら、意外にも豊満な体つきを地味な着物に包んでいた。
「若奥様、その後如何です? 若旦那様の方は……」
そう問われた史は、目を伏せて首を振った。
「相変わらず花街に通い詰めで、聞けばまだ若い舞妓を水揚げして可愛がっているとのこと……。お年でお体の具合も良くないお父様お母様に相談するわけにもゆかず、もう本当に私はどうしたらよいか……」
「若奥様……」
悲しげに俯いた史の顔を覗き込む様にして沙月女はつぶやいた。
「私は最初に京の橋のたもとでお見かけした時、身投げでもなさるんじゃないかと心配致しました」
「その節はお世話になり……、あの時は本当に身でも投げたい気持ちでした……」
しかしその様子を窺う沙月目の顔に、何故かうっすらと意味深な笑みが浮かんだのである。
「あのお薬はよく効きましたでしょう?」
「ええ、何だか気持ちが楽になって……、し、しかし……」
「分かっております。若奥様は薬のことより、その後私と深い仲になったことを気にしていらっしゃるんでしょう……?」
史は黙ったまま畳の目を見つめている。
「私は女でありながら、若奥様のお美しさにどうしても自分を押さえることが出来ませんでした。私はこのような女なのです。男よりも、女同士の気持ちが嬉しくて……」
「女同士の気持ちが……?」
史の眼差しが畳の上から少し沙月女に動いた。
「こんなお優しい若奥様を苦しめる旦那様を私は許せない。そして身が細るほど思い悩まれている若奥様がおいたわしく、そしてそして私は……、若奥様を愛おしく思うてしまったのでございます」
「そんな……」
顔を逸らした史の後ろで、沙月女はその女心を窺う。
「しかし、このように若奥様を悩ませているのなら、私は申し訳なくて……」
「いえもう……、もう忘れることにいたしましょう」
史は沙月女の気持ちを遮るように言った。
その様子を見た沙月女は、その瞳に鈍い輝きを宿し始める。
「私は花街にも沢山知り合いがおります。若旦那様には少しお灸をすえて目を覚ましていただく手はずもとれますよ……」
史は思わず沙月女に顔を上げた。
「そ、それは本当ですか!?」
「ええ、本当ですとも。男なんて子供と一緒で、少し痛い目を見ないと分からないんですから」
しばし宙を見つめた史であったが、やがて沙月女に向かって居住まいを正すように座り直した。
「沙月さん、どうかよろしくお願いします」
「ええ分かりました、若奥様の為ですもの。でもその代わりと言ってはなんですが、京の蔵の方は……?」
「ええ、開いている蔵が二つほどありますからご商売にお使いください。大旦那様も私の言うことなら何でも聞いてくださいますから」
沙月女はその浅黒い顔を輝かせる。
「有難うございます。では、若奥様にはもう一度この漢方を召されてお気持ちを楽に……。あまりご心痛が続きますとお体に触ります」
「い、いえ、もう本日は……」
そんな戸惑う史の声を聞きながら、沙月女はゆっくりと薬箱から小さな袋を取り出したのである。
「さあ奥様これを……」
水煙管を史の前に推し進めながら、沙月女は史の横に身を添わせる。
道具を見下ろす史の横顔を沙月女は熱い眼差しで見つめた。
「や……、やはり奥様……」
「え……?」
史がそう呟いて傍らの沙月女に顔を向けた途端、
「若奥様!」
横崩しに沙月女の胸に抱きよせられた。
「あ! い、いけません、もう、もう忘れると!」
「私には忘れることなど出来ません! 若奥様、お願いです、お許しを……」
抗う史のうなじに顔を伏せて、益々その豊満な身体を抱きよせながら沙月女は訴える。
「あ、いや、やめて! お願い、もう許して……」
「はあ……奥様、お慕いしております。お願いです、奥様……!」
うなじから這い上がった熱い吐息が耳元に漂って、史の身体に熱い疼きが沸き起こる。
「お願いです。奥様……。お薬を召されていたといっても、初めての私とあんなに何度もお喜びになったではありませんか……」
「ち、違う………違います!」
「いいえ違いません。生まれたままの姿で、私たちは幾度も幾度も……」
沙月女の唇が史の頬をなぶった。
「ひ……!」
史のか弱いうめきと共に、女同士の唇がみっちりと重なり合った。
姿勢を崩した二人の身体が茣蓙の上に倒れ込む。
両手を張って身を捩る史の身体を、沙月女は強くその両手で抱き込む。
逃げる唇に浅く深く沙月女の唇が重なり続ける。
やがて史の眉間に縦皺がなくなっていき、その両手が戸惑いながら沙月女の背中に廻されていく。
ようやく唇を離して沙月女は史の耳元に囁いた。
「若奥様、ここではもうこれ以上は……。明日は蔵をお借りに私も京までお供いたしますのでまたゆっくりと二人だけで……」
さすがに目の前の沙月女の視線に耐え切れず、史は目を閉じたまま小さく頷いた。
往来を照らしていた夕日も屋並みの向こうに隠れて、すっかり薄暗くなった外の景色を蓬莱は見つめている。
「もうおひとつどうぞ」
「あ、ありがとう」
お茶をつぐ丁稚に礼を言った時、店の奥から沙月女の姿が現れた。
目くばせを受けた蓬莱は暖簾をくぐって外に出ていく。
往来に出た途端、蓬莱はその足を止めた。
その眼差しが珍しく斜め上に向けられた。
“大長刀……”
長刀を担いだ若い女が目の前を通り過ぎて行ったのだ。
蓬莱も根来の修行のうち長刀を扱ったことがないではなかった。
しかし今の世に長刀を担いだ、それも女武芸者を見ることはなかったのである。
“あたしほどじゃないが、背の高い女だ……“
長刀を担いだ女の背中を見送りながら、蓬莱は胸の内でそう呟いた。
どうやらその前を行く侍と旅芸人との三人連れの様に見える。
“侍と年増の旅芸人……?”
どこか訝しく思わないでもなかったが、大長刀の女武芸者の印象が強くて蓬莱はそれ以上考えることをやめた。
「待たせたね。さあ行こうか」
店を出た沙月女の声で蓬莱は我に返った。
二人は宿へ向かって歩き始める。
「沙月女、あの女を抱いてきたのか……?」
「いいや」
沙月女は傍らの蓬莱を見上げながら返事をした。
「さっきは京の蔵の段取りを付けただけだ。あたしは明日、若奥様と京へ行く。あんたは小浜に帰って飛燕と一緒に若の身の廻りを見張っておくれ」
「ふ~ん……」
気のない返事に沙月女は蓬莱の顔を見上げる。
「なんだ、妬いてるのかい? お役目じゃないか……。明日からしばらくお別れだから、今夜は仲良くしようよ」
「いやだ」
「ええ!? 蓬莱……、蓬莱……?」
大股で歩き去ってゆく蓬莱を、沙月女は苦笑いで追った。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2017/01/05 07:54
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水煙管
ペルシャが発祥のようです。
イスラム圏で普及したとか。
日本には、いつごろ渡来したんですかね?
仕組みは、さっぱりわかりません。
1回の燃焼時間が1時間だそうです。
ヒマ人しか吸えません。
長時間吸うので……。
吸いこむ煙の総量は、紙巻きたばこよりも多くなるそうです。
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2. アブラカダブラHQ- 2017/01/05 08:37
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↑唱えたくなっちゃうね
水煙管
要するに、煙を水中に潜らせりゃええんやろ、ということでやってみたことがあります。
実験室のフラスコ、それにガラス管とかゴム管を組み合わせてさあでけた。吸ってみたんですが、全く煙がやってこずに大失敗。
フラスコの容量が大きすぎたのかなあ。
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3. Mikiko- 2017/01/05 19:45
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水が……
フィルターの役目をするということなんですね。
↓ペットボトルで作れる自作キットがありました。
https://www.taimado.com/onlinestore2/products/detail.php?product_id=703
しかし、この店の名前……。
『大麻堂』ってのは、マズいんでないの?
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4. 宮部たまきHQ- 2017/01/05 21:06
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水フィルター
そういうことでしょうね。
大麻堂。
おもしろーい。
今、何かと話題のようですから、向こう受けを狙ったんじゃないですかね。
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5. Mikiko- 2017/01/06 07:26
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そう云えば……
“タバコ”という単語は、ポルトガル語でしたね(tabaco)。
日本には、室町時代末期から安土桃山時代……。
ポルトガルの宣教師によって持ちこまれたそうです。
江戸時代初期には全国に普及しましたが……。
非常に高価な薬品としての扱いであり、喫煙できるのは裕福な武士か商人だけだったとか。
わたしがタバコを止めて、何年になるでしょう。
昔のコメントログを遡ったら、わかりました。
2013年1月でした。
もう、4年になるんですね。
わたしの自慢は、止めて以来、1本も吸ってないことです。
でも今でも、肉料理を食べた後、コーヒーを飲んだ後などに、無性に吸いたくなることがあります。
あそこで細巻きのシガーが吸えたら、さぞ美味しいことでしょう。
地球が滅びるとわかったら、ぜったいに吸うと思います。
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6. 禁酒は難しいHQ- 2017/01/06 12:57
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贅沢品
「tabacoはポルトガル語」
英語はtobaccoだそうです。
しかし高価ねえ。
時代物では結構気軽に吸っているようですが。
>止めて以来、1本も吸ってない
それを「止めた」というのでは。
1本でも吸えば元の木阿弥です。
以前に書きましたが、わたしが止めた後の感想は「もうあんなしんどい思いせんでええんや」でした。吸いたくなったことは一度もありません。まあ、一生分を吸った、ということだったのでしょう。
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7. 醜女- 2017/01/06 19:25
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醜女が美人をイジメるのが好きですか。
私は老婆や醜女が美人や生娘を性的にいたぶるのが大好きなのですが…。逆もまた然りですね。
レズレイプが大好きなので作品の中に入れていただきたいです。
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8. Mikiko- 2017/01/06 19:50
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ハーレクインさん&醜女さん
> ハーレクインさん
しんどかったら、なんで吸ってたんでしょう?
わたしは止めてから、しばらくの間、電子タバコを吸ってた覚えがあります。
ニコチンを欲するよりも、手持ち無沙汰に困ったんです。
無意識に手が、タバコを探すんですね。
> 醜女さん
わたしの小説ですが……。
最近の、167~168章は、レズレイプに近いかも知れません。
男も出ちゃいますけどね。
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9. 清原和博ハーレクイン- 2017/01/06 21:08
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だからあ
しんどくてたまらんのに吸ってしまう。
これがニコチン、たばこ中毒です。
そういう意味では、たばこはれっきとした薬物。国が税金のために販売に手を貸すなど、とんでもない話です。
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10. Mikiko- 2017/01/07 07:55
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しんどいと云うのは……
肺が苦しいとか、そういうことですか?
タバコ農家が残ってる限り、タバコは売られ続けるでしょう。
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11. 薬物依存ハーレクイン- 2017/01/07 10:17
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しんどい
そういうことですね。
「高い金払(はろ)て、なんでこないしんどい思いせなならんねん。アホちゃうか」
なんて考えながら吸っていました。