2016.12.27(火)
道代は、志摩子の視線に引かれるように顔を上げた。道代の視線は、志摩子のそれとほぼ同時に秀男を捉えた。
道代の視界に入った秀男は、変わらず悠揚とした風情であったが、心なしか気づかわしげにこちらを見ているように道代には思えた。その表情は、周りを囲む竹叢の影のせいか、次第に深くなる夕闇のせいか、それとも秀男が、竹の葉叢を透かして落ちてくるその日の最後の残光を背にしているためか、道代にはよくは見て取れなかった。
よくは見て取れないが、秀男の風情は待たされ、焦れたという風には、道代には思えなかった。
今の、尋常とは思えない道代と、それを気遣いながらも持て余したような志摩子を包み込むような、抱え込み慰撫しようというような、そんな秀男に道代には思えた。
(秀はん……)
(すんまへん)
(あ、うち……)
(こないな道端で)
(姐さんと抱きおうたりして)
(いややわ)
(秀はんの他は)
(だあれも見てへんけんど)
(しやけど……)
(さっき、大声出したんも)
(みいんな、秀はんに聞かれてもうた)
(いややわ、うち)
先ほどの物狂おしい様を秀男に見られた。いや、それより、今が今、他に誰もいないとはいえ、このような道端で志摩子と抱擁を交わしている。性的な色合いは全くないとはいえ、秀男に醜態を曝したことに道代は気付いた。
冷え、凍え切った道代の腹の底に、何やら熱い塊が生じた。その塊から発する熱は道代の全身に一気に行き渡り、凍えた道代の体を温めた。
一気に熱くなった道代の体は、何やら喝を入れられたように背筋までまっすぐ伸びた。
(うち……何してたんやろ)
その道代の変化を敏感に感じ取ったか、志摩子は、首を無理やり捩って秀男の方に向けていた顔を、元に戻した。
道代に正対する。
道代の両の二の腕の上から、羽交い絞めにしていた自らの腕を緩める。改めて道代の両の肩に手を置き、道代を軽く押しやってその顔を覗き込んだ。
道代の視線は、志摩子のそれと正面からぶつかり、絡み合った。
「道……」
「へえ、姐さん」
「さっき、あんたがゆ(言)うたことなあ」
「へ……」
「この先には悪いもん、よ(良)うないもんがおる、て」
「へえ……」
「うちの事思てゆうてくれてるあんたの事や。なんぞこの先にあるんは間違いないやろ、なあ、道」
志摩子は、この先に何やらあるという道代の言い様を信じる気になったようだ。その道代の主張は、根拠も何もない、生理的な感覚に過ぎないのだろうが、志摩子の感覚は道代のそれと同調していると言えるのかもしれなかった。
「へ、へえ」
「しやけどな、道」
「へえ、姐さん」
「あんたにこんなんゆうのんも今更やねんけど」
(なにごとやろ、姐さん)
「へえ」
「うちもここまで祇園で頑張ってきた」
「へえ」
「ほんで、何とか、周りに認めてもらえるようんなった」
「へえ」
「あれが祇園の小まめや、て、ゆうてもらえるようんなった」
「へえ!」
(ほんまに。何を今さらやわ、小まめ姐さん)
「ほらまあゆ(云)うても、しょせん売りもん買いもんの身ぃや」
「へ……」
「ほんな、世間様の表舞台に立って胸張れるような、ほんな立場やない、ゆうのんもようわかっとる」
(そないなこと!)
「姐さん……」
「しやけどな、道」
「へえ」
「うちは、祇園の舞妓や」
「へえ、もちろんどす」
「ほんで、無事衿替え済ましたら、晴れて芸妓や」
「へえ、そないどす!」
(ほんまに、姐さん……)
「しょせん、世間様の隅っこでひっそり生きる身ぃやけんど、ほれでも、うちはどなたにも後指、指されるようなことした覚えはない」
「そないなこと……もちろんどす、姐さん」
「ほれやったら。どうせやったら、芸の道でどこまで行けるか、登り詰めてみたいやん」
「へえ! 姐さん」
「ほの為やったら……少々のこと、なんちゅう事あれへん」
「姐さん……」
「悪いもん、よ(良)うないもんゆうたかて、まさか、物の怪や化けもん(物)がおるわけやないやろ」
「姐さん」
「ほれに、うちにはあんたがおる。いっつもそばにいてくれるあんたがなあ」
あんたがおる。
その志摩子の言葉を聞いたとたん、道代の腹の底に、いや、胸の奥に、先ほどと同様の、いやもっと熱い塊が生じた。その塊は、一気に道代の胸を駆け昇り、喉と目からその熱のままの嗚咽と泪を吐出させた。
道代は、自ら志摩子に抱き付いた。先ほどのお返しのように両腕を志摩子の背に廻し、固く抱きしめた。
離してなるか、と志摩子を抱きしめながら、道代は文字通り手放しで泣き出した。歓喜の号泣だった。
志摩子は、道代の腕の下になった自らの両腕の、肘から先を伸ばして道代の背に廻した。二人の体勢は、先ほどとは互いに逆になっていた。志摩子は、両の手で道代の背を軽く幾度も叩いた。あやす様に、宥める様に、いつまでも叩き続けた。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。二人はようやく身を離した。
道代の、幼子のような泣き声はようやく収まっていた。落ち着いた道代は、離れ際、志摩子の肩の湿りに気付いた。一歩後ろに下がり、深々と志摩子に頭を下げる。
「姐さん……」
「どないしたん、道」
「す、すんまへん!」
「なんやの、そないに……どないしたん」
「姐さんのお肩。えらい濡らしてしまいました、うち」
「肩?」
「へえ、うち、えらい泣いてしもたもんやさかい……」
「ああ、あんたの泪かいね」
「すんまへん、今、お拭きします」
道代は、懐から手早く手巾を取り出した。志摩子の肩に当てようとする。
志摩子は笑いながら、顔の前で手を振った。
「かめへんかめへん。そないなことせいでも」
「せやかて姐さん……」
「着物がじかに濡れた、ゆうわけやなし。道行、羽織ってるんや、どってことないわ」
「ほんでも姐さん」
「泪やろ、あんたの。きれえなもんやない。まさか鼻水、ゆうわけやなし」
道代は、伸ばしかけた手を止め、手巾を掴んだままその場に固まるしかなかった。
「すんまへん。すんまへん、姐さん」
「さあ、行こか。道」
「へえ、姐さん」
志摩子は口調を改めた。
「なあ、道……」
「へえ、姐さん」
「この先何があっても……鬼が出ようが蛇が出ようが」
「姐さん……」
「あんたが守ってくれるんやろ」
「へえ! 姐さん」
志摩子は満面に笑みを湛えた。軽やかに体を反転させ秀男に向き直る。歩み始めた。
道代は、数歩遅れて志摩子を追う。その歩調は志摩子のそれに見事に同調していた。
主の志摩子が先導し、従の道代が付き随う。それは、これまで限りなく繰り返してきたのと何ら変わらぬ主従二人の振る舞いだったが、実は、道代が志摩子を支え、守り、自在に動かしているのかもしれなかった。
コメント一覧
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1. 『羊たちの沈黙』HQ- 2016/12/27 08:44
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↑ホプキンス主演“人喰いレクター”ものの第1弾
傑作です、ホプキンスの怪演に注目
まあ、原作(トマス・ハリス)がいいんですけど
長引いております
『アイリスの匣』京都編嵯峨野の場。
祇園の置き屋を出発してここまで、いったい何回かかったのでしょうか。ようやくたどり着いた嵯峨野ですが、実はここまではまだまだ前置き、本格的な嵯峨野話はこれからなんですね(おいおい)。
何をもたついとんねん、ですが作者としましては楽しく書かせていただいております。とはいえ、いつまで引っ張るわけにも参りません(やっぱり引っ張っとったんかい!)。
まあ、最終目的地(そんな映画ありました。主演は“レクター博士”のアンソニー・ホプキンス)はもうすぐそこ、まで来ているんですが、“とうちゃこ”は、さあ次回か、次々回か(ええかげんにせえよ)。
どうぞ気長にお付き合いください。
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2. Mikiko- 2016/12/27 19:51
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“とうちゃこ”
初めて知りました。
『にっぽん縦断 こころ旅』という番組で、火野正平さんがチャリで旅をしてるんですね。
火野さんが、到着を“とうちゃこ”と言うことから、番組のサブタイトルみたいになってるようです。
残念ながら、1度も見たことがありません。
日野さんは、67歳。
サイクリングとは無縁のイメージがありましたが、思いがけず健康的なんですね。
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3. 人生下り坂HQ- 2016/12/27 21:24
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>1度も見たことがありません
実は、わたしも見たことありません(なーんのこっちゃい)。
タイトルが面白いんで印象に残ってるだけなんですが、こうなると一度見ておかんと義理を欠きますね。
番組HPに「たくさんの人々と出会い、上り坂にあえぎ、下り坂に笑い……」なんて、ありました。
火野正平氏は1949年生まれ、わたしと同期なんですね。
元気だなあ。
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4. Mikiko- 2016/12/28 07:31
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そういえば最近……
旅をしてるふうの自転車を見ません。
昔は駅などで、輪行袋から出した自転車を組み立ててる人をよく見ました。
道路でも、のぼり旗を立てて走ってたりしたものです。
明らかに減ったように思いますが、なぜなんですかね?
町の自転車屋が無くなったのと連動した現象でしょうか。
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5. ♪われは湖の子~HQ- 2016/12/28 13:17
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減った自転車旅行
ふむ。
あまり気にしたことなかったなあ。
それにしても、町の自転車屋が無くなったって……いっぱいありまっせ、こっちには。
こちらで手軽な自転車旅行と云いますと、琵琶湖1周が定番でしょうか。
200㎞くらいだそうです。ぶっ飛ばせば1日で回れるんでしょうか。でも、ゆっくり近江の名所を見物しながら、2,3日かけて回りたいところです。
わたし、中学生の時に悪友と淡路島一周を企画しましたが、諸般の事情(主に親の大反対)で、あっさり流れちゃいました。
そういえば、自転車で日本一周、がテーマの漫画がありましたが、作者もタイトルも覚えていません。
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6. Mikiko- 2016/12/28 19:43
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町の自転車屋
どうやって食べてるんですか?
こちらでは、安い自転車がホームセンターに出回ってるので……。
自転車屋で自転車を買う人はほとんどいないでしょう。
パンクなどのメンテも、ホームセンターでやってますし。
↓なんと、Wikiに『自転車旅行』というトピックがありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E6%97%85%E8%A1%8C
ユースホステルの減少や、無人駅での野宿規制の強化などから、『自転車旅行』は衰退していったとのこと。
早い話、乗り物に乗るお金のない人が、自転車旅行をしてたということですかね。
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7. 美しい海を見たよHQ- 2016/12/28 22:47
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↑童謡『花の街』
自転車屋の町
完全に二極化しています。
大型店は販売主体。
広い店内はもちろん、外の駐車場の一部にまで商品を並べて売りまくっています。
零細店は修理で小銭を稼ぎます。
大事なことは地域密着ですね。町内の自転車所有者とその自転車の状況は、すべて把握しておかねばなりません。でも主な日常業務はパンク修理くらいでしょうから、やはり自転車が売れないと苦しいでしょうね。
ただ、大型店で腹立つのは修理が雑なこと。売りまくって儲けてますから「パンク修理なんぞちまちまやっとれるかい」なんでしょうか。
バスの、じゃなくて自転車の旅
今は様変わりしてるんじゃないですかね。
金持ちが、楽しむために自転車に乗るわけです。宿はユースや無人駅ではもちろんなく、高級ホテルか老舗旅館でしょうか。
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8. Mikiko- 2016/12/29 07:22
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地方には……
自転車にとって快適でない道路がたくさんあります。
その道を延々と走っていくには、自転車でなければダメという強いファクターが必要です。
その最たるものは、やっぱりお金でしょう。
お金があるのに自転車で旅をするという人は、やっぱり少ないでしょうね。
旅と云えば……。
BSジャパン『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』。
来春の放送は、1月5日(木)17時20分から。
場所は、台湾。
つまり、『THE MOVIE』の放送です。
公開から、1年待たずにBS登場ですね。
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9. 「あるよ」HQ- 2016/12/29 08:19
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路線 THE MOVIE バス
これが太川-蛭子コンビのテレビファイナル、ということなんですかね。
実は先日、こちらの地上ローカル局、大阪テレビで新コンビの初番組を流しました。
まあ当然でしょうが、まだまだぎごちなかったです。今後に期待、ですね。
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10. Mikiko- 2016/12/29 19:33
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新作の最終回が……
1月にあるはずです。
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11. バスじじいHQ- 2016/12/29 20:24
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「新作」の「最終回」
わ、わからぬ。
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12. Mikiko- 2016/12/30 07:38
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新作は……
BSジャパンではなく、テレビ東京で放送されます。
次回、テレビ東京で放送される新作が、今のコンビの最終回ということです。
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13. センチメンタルHQ- 2016/12/30 11:43
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↑ジャーニー
1948年米国映画(他にもいっぱいあります)
テレビ東京
ということは、テレビ大阪は系列局のはずだから、1月の放送は現コンビのラスト旅ということですか。