2016.12.11(日)
Wikiによれば……。
宗偏は、「明暦元(1655)年、千宗旦(そうたん)の推挙で三河国吉田藩主・小笠原忠知に、茶道をもって30石5人扶持(100石格)で仕える」とあります。

↑宗旦は、千利休の孫。
↓三河国吉田藩は、現在の愛知県豊橋市。

↑渥美半島の付け根です。
江戸幕府が開かれてから、半世紀。
「茶道をもって仕え」られる、平和な世になったと云うことでしょうね。
江戸時代の給料の計算はややこしくて、これを調べてると投稿に間に合わないので省略。
でも、100石格というのは、そこそこの棒給だったようです。
単純に米の値段で換算すると、年収750万円くらいになるとか。
このとき宗偏は、まだ28歳です。
その後、元禄10(1697)年、吉田藩の職を甥の宗引へ譲って江戸に下り、本所に居を構えます。
42年間勤めあげ、宗偏70歳のときですから、十分努めは果たしたというところでしょう。
この本所で興したのが「宗偏流」です。
ところで、元禄という元号で、真っ先に思い出すのは忠臣蔵ですよね。
討ち入りは、元禄15(1702)年12月14日。

そして、舞台となった吉良上野介の上屋敷は、本所松坂町。

↑両国のすぐ近くです。吉良邸跡の一部は、『本所松坂町公園』になってます。
年代もまさに、宗偏が本所に住まってたころです。
というか、宗偏は、赤穂浪士の討ち入りに、われ知らず重大な役割を担うことになります。
さて、続きです。
吉良上野介も、宗偏と同じく千宗旦の弟子だったんです。

↑ご存知、吉良上野介。どれだけ憎々しく演じるかが、俳優の腕の見せ所。この役をやってる俳優さんは、とても楽しかったと思います。この画像は、進藤英太郎。
その縁で宗偏は、たびたび吉良邸の茶会に招かれてました。
赤穂浪士は、そこを見逃しませんでした。
浪士の一人、大高源五が、脇屋新兵衛という変名で、宗偏に弟子入りします。
もちろん、吉良邸の情報を得るためです。

↑大高源五は、浪士随一の俳人。討ち入り前日、笹竹売りに変装して吉良邸を偵察した帰り、両国橋の上で、親交のあった宝井其角とばったり出会います。源五は「西国に仕官が決まった」と告げ、謎の句を残して去ります。西国とは、あの世のことだったんですね。
そこで源五が宗偏から聞き出したのが、「12月14日、吉良邸で茶会」という情報。
となれば、この日、上野介は必ず屋敷にいる。

↑浪士が入手していた吉良邸絵図面。
討ち入りの日は、こうして決定されました。
実は、宗偏は脇屋新兵衛の正体を知りながら、わざと茶会の日を教えたとも云われてます。
なお、ここからは余談ですが……。
吉良邸情報探索のからみで、ちょっとお時間を拝借。
情報探索で思い出すのは、何と言っても“夜泣き蕎麦屋の十助”です。
赤穂浪士の一人、杉野十平次です。
吉良邸近くで夜泣きそばの屋台を開き、吉良邸の動向を探ってました。

吉良邸の門番に大盛りサービスしたり、酒を振る舞ったりして取り入り……。
代金代わりに水を所望して、邸内に入り込んだりもしたそうです。
この蕎麦屋の常連客が、かねてより浅野贔屓の俵星玄蕃でした。
玄蕃は、尾張藩の武士でしたが……。
訳あって浪人し、吉良邸近くの横網(よこあみ)町で宝蔵院流の槍の道場を開いていました。
玄蕃には、十助がただの蕎麦屋ではないことが、ひと目でわかりました。
なぜなら、丼を差し出す指には、竹刀ダコがあったからです。
しかし、鍛錬を積んだ武士が夜泣き蕎麦屋になろうというのは、そうとうな訳があるはず。
玄蕃はあえてその訳を聞かず、蕎麦屋と客の付き合いを続けます。
蕎麦屋の十助も、玄蕃を「先生」と呼び、親しみを持って接しました。
そして、12月14日の夜。
この日、玄蕃は自宅でひとり呑んでました。
まさにそのとき!
冴えきった冬の大気に乗って届いてくる、太鼓の音を耳にします。
玄蕃の住まいから吉良邸までは、わずか1キロあまり。
陣太鼓の音色は、はっきりと吉良邸方向から聞こえてきます。
そしてその音色こそ、一打ち二打ち三流れ……。
まさしく、山鹿流の陣太鼓にほかなりません。
当時、吉良邸で何かあるとすれば、それは「赤穂浪士の仇討ちだ」というのは、江戸っ子なら百も承知のことでした。
もちろん、玄蕃も知ってました。
すぐさま、先祖伝来、俵弾正(たわらだんじょう)工夫の槍を掴んで飛び出します。
九尺(2.7メートル)もある大槍です。
↓以下、三波春夫先生『元禄名槍譜 俵星玄蕃』の名ゼリフ。
『けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻眼の吊る如く、長押にかかるは先祖伝来俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて一足表に踏み出せば、天は幽暗地は凱々たる白雪を蹴立てて行手は……。松阪町~!』
このセリフの箇所では、毎回鳥肌が立ちます。
さて!
吉良邸に駆けつけると、まさに討ち入りが始まろうとするところでした。
総大将の蔵之助を見つけ駆け寄り、助太刀を申し出ます。
しかし、蔵之介には丁寧に断られます。
敵を討つのは、浅野の家臣に限られた務めだからです。
玄蕃もそれを悟り、槍を引きます。
その折、目の前を駆け抜けていく浪士がひとり。
その浪士が、振り向きざまに玄蕃に声をかけます。
「先生!」
その浪士こそまさしく、“夜泣き蕎麦屋の十助”その人でした。
「おうッ、蕎麦屋かー」
これが蕎麦屋の十助との今生の別れになることを、玄蕃は一瞬にして悟りました。
玄蕃は、吉良邸に背を向けると、槍を構えて仁王立ち。
もちろん、邪魔する者があれば、ひとりとして通さないという気構えです。

〽打てや響けや 山鹿の太鼓
月も夜空に 冴え渡る
夢と聞きつつ 両国の
橋のたもとで 雪ふみしめた
槍に玄蕃の 涙が光る
それではお聞きください。
↓三波春夫先生による『元禄名槍譜 俵星玄蕃』、フルバージョンです。
さて。
何で、討ち入りの話をしてたんですかね?
あー、そうそう。
山田宗偏が、大高源五に吉良邸の茶会の日時を教えたという逸話からでした。
いやー。
実に面白いです。
物事を調べ出すと、さまざまなことが繋がってきます。
「禍福は糾える縄の如し」(ちょっと違う?)。
共に雪の日に起きた2つの大事件。
赤穂浪士の討ち入りと、二・二六事件。
これに関係した2人にゆかりの建物、『会水庵』と『高橋是清邸』が、目と鼻の先に建ってるんです。

不思議な運命を感じずにはおられません。
さてさて。
パンフレット解説の続きに戻りましょう。
この『会水庵(かいすいあん)』を建てたのは、山田宗偏ではないのです。
ここから、忠臣蔵に脱線してしまいました。
『会水庵』の施主は、宗偏が興した「宗偏流」の茶人、山岸宗住(会水)です。
この宗住を調べてみたら、またまた驚くべき事実を発見。
なんと、この『会水庵』が最初に建てられたのは、新潟県長岡市だったんです。
山岸宗住は、長岡市にある真照寺の出身で、本名は普該。
こちらも、お寺の息子です。
茶禅一昧(さぜんいちみ)という言葉があるように、茶の湯と禅は本質が同一だという考えがあります。

宗住は、若いころから、茶の湯、生け花、能などに親しむ育ちだったようです。
長岡では、江戸時代から藩主牧野家の茶道が宗偏流であったそうで……。

↑長岡市には立派な資料館もあるようです。今度、行ってみなくては。
宗住も、自然と宗偏流を習いました。
号の『会水』は、長岡にかつてあった『会水(あいみず)城』からとったそうです。
長岡に建ったのがいつなのか調べましたが、ほとんど情報が得られませんでした。
それ以前に、山岸宗住の生年すらわかりませんでしたが……。
執念で探索。
ようやく、1954(昭和29)年、89歳で亡くなったという記述を見つけました。
ということは、生まれは、1865(元治2・慶応元)年前後。
『会水庵』の竣工は大正期のようです。
しかし山岸家は、1927(昭和2)年、東京吉祥寺に移住します。
何で移住したのかは不明ですが、わたしが邪推するに……。
宗住は、この茶室を異常に気に入ってしまっていた。
いや、偏愛していた。
なぜなら、『会水庵』を吉祥寺に移築してるんです。
長岡を出たのは、『会水庵』が雪で潰れるのを恐れたからじゃないでしょうかね。

↑新潟の雪は湿っていて、ひとりでに落ちてはくれません。重いので、放っておけば確実に家が潰れます。
その後、山岸家が没落したのか、宗住がボケてしまったのかわかりませんが……。
第2次世界大戦中に、山岸邸は住友金属に買い取られ、会社の寮として利用されます。
戦後しばらくすると、更地にするために、家屋や樹木などが個々に売りに出されました。
その中から、劇作家の宇野信夫が、『会水庵』『腰掛待合』『蹲踞』『灯龍』を買い取り、西荻に移築したそうです。
1957(昭和32)年のことです。
宇野信夫という劇作家は、寡聞にして知りませんでした。

基本的には歌舞伎作者のようです。

↑小説も書いてます。
「昭和の黙阿弥」と称され、日本芸術院会員、文化功労者に選ばれてます。
彼もまた、『会水庵』を偏愛したひとりなのでしょう。
そしてその最後の主が亡くなった後……。
『江戸東京たてもの園』に移されるわけです。
長岡→吉祥寺→西荻→小金井。
3回目の移築で、おそらくは終の棲家を得たわけです。
簡素な造りなので、簡単に移築できたんでしょうね。
『江戸東京たてもの園』への移築に際しては……。
水屋の位置など、可能な限り、山岸宗住の吉祥寺時代に戻されたそうです。
『会水庵』は元々、母屋に接続して造られてたそうなので……。
現在は、『西川家別邸』にくっつけられて建ってます。

何かにくっつけなかったら、元々なかった壁を造ることになってしまいますからね。
あと、パンフレットの説明書きでわからなかったのは、『台目畳(だいめだたみ)』。
茶室用の畳で、京間畳の4分の3の大きさだそうです。
わたしはずっと、畳のサイズは、180㎝×90㎝だと思ってました。
↓でも、地域や造りによってサイズが違ったんです。
----------------------------------
●京間畳(縦191.0cm×横95.5cm)
●中京間畳(縦182.0cm×横91.0cm)
●江戸間畳(縦176.0cm×横87.8cm)
●団地間畳(縦170.0cm×横85.0cm)
----------------------------------
団地間ってのは、ほとんどインチキですよね。
何で“台目”と云うのかは、いろいろ書いてありましたが、ややこしいので省略。
↓『三畳台目』の茶室とは、こんな感じ。

↓凹んでる部分は、床の間か水屋のようです。

狭くて、落ち着きそうです。
炉もあって煮炊きできるし……。
水屋をトイレとお風呂に改造すれば、ここだけで住めるんじゃないですかね。

さてさて。
長らくご紹介して参りましたが……。
『江戸東京たてもの園』の屋外展示は以上です。
↓帰りがけ、ビジターセンター(『光華殿』)内の展示を、ちらっと見たようです。

↑「み」。『東京の地形の変遷と気候』というパネル。
しかし、撮った写真はこれだけでした。
見事にお座なりです。
疲れ切ってしまい、見る気力も無くなってたので、早々に撤退したのでしょう。
↓入口の金木犀の幹を、もう1枚。

↑「み」
ほんとに、スゴい幹です。
↓再び、小金井公園の中を通って戻ります。

↑「み」。ほぼ快晴になりました。
とにかく、広々とした公園でした。
小金井市は、災害後、仮設住宅を建てる土地に困りません。
あ、ここは東京都の所有地でしたね。
大規模な仮設団地ができるんじゃないでしょうか。
この『江戸東京たてもの園』には、西武新宿線の『花小金井駅』から歩いて来ました。

でも帰りは、『花小金井駅』には戻りません。
当初の予定では、この後、JR中央線の『武蔵境駅』まで歩くつもりでした。

でも、ほぼ足萎えのような仕儀になってしまっており、とうてい不可能。
『江戸東京たてもの園』の真ん前には、JR中央線の『武蔵小金井駅』行きのバス停があります。

バス停に向かって、ヘロヘロ歩きながらも、バスが来ないか、振り向いて確認。
こういうときに限って、やってきました。
気力を振り絞って、バス停まで走ります。
走りながらバスを振り返り、乗る意志をアピール。
少しくらい待ってくれるはずです。
幸い、バス停に人が、2,3人いたので、バスを待たせることもなく乗りこめました。

↑どこのバスだったかも覚えてません。たぶんこの西武バスだと思います。
座れなかったら辛いと思ってましたが、運良く空いてました。
やっぱり、平日に来て良かった。
余裕ゼロだったので、バスの写真を撮ることは出来ませんでした。

↑埼玉を走る西武バス。こんな室内でした。
↓到着した『武蔵小金井駅』構内を1枚。

↑「み」
↓ホームからも撮ってました。

↑「み」
窓の外から見える街は、普通の都会ですね。
『武蔵小金井駅』から『武蔵境駅』までは、中央線で2駅。

『武蔵境駅』が都心寄りになります。
乗車時間は、わずか4分です。
↓『武蔵境駅』の南口を出ます。

↑「み」。この画像では閑散として見えますが、実際にはかなり人通りがありました。
さて、この駅に降りたわけは、バスに乗るためです。
昨年の『単独旅行記Ⅱ』では、山手線の『大塚駅』から、宿近くの総武線『錦糸町駅』までバスに乗りました。

↑停留所数、35。所要時間、55分。
今年も、宿の近くまで長距離を乗れるバスを探しました。
宿は、山手線の内側に取ってあります。
しかも、山手線の東側の輪っかのすぐ内側です。
さすがに、山手線の西の輪っかを突っ切って、東側まで1本で行ける路線はありませんでした。
いずれも、山手線の西の輪っか止まりです。
一番長かったのが、『武蔵境駅南口』→『新宿駅西口』行きだったのです。
小田急バスです。

↑小田急バスのカラーリング。乗ってしまえば、みんな同じですが。
停留所の数は、始点終点を入れて、42もあります。
さすがに、これを全区間乗る客は、いないでしょう。
本数も、なんと、1日に4本しかありません。

10:20、13:06、16:00、19:34。
田舎のバスみたいですね。
『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で、時刻表を見て愕然とするパターン。

わたしが乗るのは、もちろん、16:00発です。
乗り過ごしたら、3時間半も待つわけにいきませんから、計画はおじゃんです。
なので、早めに到着して待つつもりでした。
いつも乗り物にギリギリになりがちなわたしですが、今回は大丈夫でした。
『武蔵小金井駅』まで、バスを使ったおかげです。

終点の『新宿駅西口』着は、17:05分。
実に、1時間5分の長旅です。
↓すべての停留所(通過時間)です(この便は、08-南浦、13-井の頭文化園、14-公園入口、15-吉祥寺駅中央口には停まりません)。
武蔵境駅南口(16:00)→ 武蔵野赤十字病院(16:02)→ 井口・日赤入口(16:03)→ 塚(16:04)→ 曙住宅(16:05)→ 第七小学校前(16:06)→ 八幡前(三鷹市)(16:08)→ 連雀通り商店街(16:11)→ 下連雀(16:13)→ 明星学園入口(16:14)→ 万助橋(16:15)→ 吉祥寺駅(南口)(16:23)→ 吉祥寺営業所前(16:24)→ 本田南町(16:24)→ 松庵町(16:26)→ 松庵東(16:28)→ 大宮前五丁目(16:29)→ 都立西高前(16:30)→ 大宮前三丁目(16:32)→ 大宮前一丁目(16:33)→ 上高井戸(16:35)→ 北高井戸(16:36)→ 浜田山(16:38)→ 浜田山四丁目(16:40)→ 西永福(16:42)→ 永福町(16:44)→ 水道横丁(16:46)→ 笹塚二丁目(16:48)→ 笹塚駅(16:49)→ 幡ヶ谷原町(16:51)→ 幡ヶ谷駅(16:53)→ 幡代(16:54)→ 新国立劇場初台駅入口(16:55)→ 東京オペラシティ南(16:56)→ 西参道(東京都)(16:57)→ プレッソイン新宿前(16:58)→ 角筈二丁目(16:59)→ 新宿駅西口(17:05)

これだけ長時間乗れば、新潟のバスだったら、500円以上はします。
でも、東京のバスは、距離に関係なく一律料金。
220円です。
わたしはずっと、210円だと思ってたのですが、改めて調べたら、220円でした。
どうやら、2014年4月の消費税率改定のときに、10円あがったようです。
Suicaで乗るので、料金は覚えてなかったのです。
ちなみに、『武蔵境駅』から『新宿駅』まで、JR中央線を使うと、310円です。

時間は、20分。
1時間5分乗れて220円のバスと、たった20分で310円もする電車。
娯楽性対決では、バスの圧勝ですね。
路線バスに関しては、東京が羨ましくてなりません。
ま、住む気にはなれませんが。
バスを待つ間は、ベンチにへたり込んでました。

↑「み」
ご老人が来ないことを祈りつつ。
もちろん、ベンチを譲らなきゃならないからです。
お一人来られましたが、幸い、ベンチは2人がけなので、起たなくても大丈夫でした。
今度から、老婆の変装をして行きましょうかね。

↑カツラ、売ってました。
疲れきったわたしの姿勢は、十分老婆で通用すると思います。
さて。
バスは、ちゃんと発車時間前にやってきました。
始発ですから当たり前のようですが、折り返し便のダイヤだと、始発でも時間どおり来ない場合があります。
この前の『新宿駅西口』発の便は、『武蔵境駅南口』着が、12:50分です。
当然、そのバスは、別の路線に回るでしょうから、折り返しダイヤじゃありません。
わたしが、始発からの乗車にこだわるのは、いい座席を確保したいからです。
ロングシートは論外です。

ボックスシート、できれば2人がけ。

その窓側。
通路側に誰かが座ってくれれば、お年寄りが乗ってきても、席を譲らずにすみます。
窓の外を見たいので、寝たふりは出来ないのです。
さてさて。
この日も、無事、右サイド後方のボックスシートに座ることが出来ました。
↓『武蔵境駅』を定刻に出発です。

↑「み」
↓バスの中も、ちゃんと撮ってありました。

↑「み」
ガラガラでしたね。
席を譲る心配もありません。
窓の外は、どのあたりか忘れましたが、武蔵野らしい風景です。
↓これはたぶん、吉祥寺あたりだと思います。

↑「み」
都市計画のないまま街が出来た感じです。
もちろん、散歩するにはその方が楽しいのですが。
東京は、路地が面白いです。
↓座席を、左側に移りました。

↑「み」
実は、最初に右側に席を取ったのは、新幹線や高速バスで新潟東京間を行き来するときの癖なんです。
行きは午前中なので、東京に南下するわけです。

↑柏崎が強調されてますが、意味はありません。この図が一番見やすかっただけです。
日差しは東ですから、座席の左側が陽あたりになります。

↑四国高速バス『さぬきエクスプレス』の画像を拝借。
自分ひとりなら、眩しくても我慢するんですが……。
前の座席の人がカーテンを引いてしまうと、視界が遮られてしまいます。

↑特におばさんは、紫外線を少しでも浴びたくないのか、曇ってても閉められる場合があります。
それが嫌なので、日の当たらない右側を取るわけです。
逆に、帰りは午後になります。
新潟に北上するので、日差しは西、つまり左側の座席が陽あたりです。
つまり、行きも帰りも、右側に席を取るのが習わしになってるわけです。
それでついつい、路線バスでも、右側に座ってしまいました。
でも、路線バスは、あっちこっち方向を変えますから……。
どっちから陽が射すなど、さほど気にする必要はないわけです。
第一、カーテンがありませんから、眩しくても、視界が遮られる心配もないのです。
路線バスでは、左側の座席の方が面白いです。
右側だと、道路を隔てた向こうに街が見えます。
でも、左側は、すぐ歩道ですから、歩いてる人の顔も、立ち並ぶお店の看板も間近に見えるのです。
座席を左側に移すと、歩道に面した建物がよく見えます。
↓これは、新宿に近いところだと思います。

↑「み」
なんだと思います?
なんと、コインロッカーがびっしり並んでるんです。

↑「み」
新潟では、まったく見ない光景です。
観光客用ですかね?
新宿を見学するのに、カートを引いてじゃ大変ですから。
英語、韓国語、中国語の表示があります。
「COIN-LOCKER」というのは、和製英語かと思ったら、どうやら列記とした英語のようです。
↓終点の『新宿駅西口』に着きました。

↑「み」。写ってるバスは、わたしが乗ってきた車両で、折り返しの『武蔵境駅南口』行き【17:15発】になります。
新宿に近づくにつれて渋滞して、少し遅れたと思います。
17時を回り、夕方っぽくなってきましたね。
この季節の旅行で良いところは、日が長いことです。
冬なら、もう真っ暗になってます。
一番日が長いのは、もちろん夏至ですが、このころは梅雨の真っ最中。

梅雨が明ければ、猛暑です。

やはり、梅雨前のこの時期が、旅行にはベストでしょうね。
新宿駅。
この駅に入るのは、いったい何年ぶりでしょう。
駅なんだからすぐわかると思ってましたが……。
正直、けっこう迷いました。
私鉄がいっぱい乗り入れてるのです。

↑新宿駅の構内図。わかろうという気にすらなりません。
時間を気にしてる状況だったら、軽くパニクってたと思います。
すっかり、田舎者になってました。
↓ようやく、JRの入り口を発見。

↑「み」
山手線に乗りこみます。
↓車中で撮った画像。

↑「み」
わたしが住んでたころとの大きな違いは、こういった情報が表示されることですね。
わたしが降りたのは、『西日暮里駅』。

西口を出ます。
山手線の内側です。
荒川区になります。
山手線の内側が荒川区というのは、ちょっと意外ですが……。
『西日暮里駅』の西側だけ、荒川区が山手線の内側に食いこんでるんです。

↓駅を出てすぐのところにあったのが、こちら。

↑「み」
言わずと知れた開成高校です。
東大合格者数、日本一の高校ですね。

平日の夕方でしたので、門を出て来る高校生もいました。
新潟では、ちょっと見かけないタイプの学生でした。
見るからに賢こそうで、「勉強できんぞー」オーラが出まくってました。

↑制服は違います。
↓名前を知ってる通りを発見。

↑「み」
『よみせ通り』。

↑「み」
このあたりは、もう荒川区を突き抜け、台東区に入ってます。
地名は、谷中。
いわゆる“谷根千(やねせん)”として有名なエリアですね。

↑猫の真上の駅が、わたしが降りた『西日暮里』。“谷根千”は、谷中・根津・千駄木の略称です。
と云ってわたしは、『谷根千』探索に来たのではありません。
正直、下町の風情には、さほど興味がないのです。
ていうか、調味料の貸し借りをしたりする近所付き合いは、積極的にお断りです。

↑必ず植木鉢が並んでます。
わたしの目指す先は、スーパーマーケットなのです。
事前に、宿近くのスーパーを調べておきました。
そこで、本日のいちばん重要な用事を足さねばなりません。
すなわち、夕食と明日の朝食の仕入れです。
今回、わたしの泊まる宿には、朝食がないのです。

↑昨年まで、2年続けて泊まったスーパーホテルには、朝食が付いてました。「無料」というより、宿泊費に込みということですね。
食堂自体がありません。
つまり、厨房関係の設備がまったくないホテル。
当然、その分、値段が安くなるわけです。
と云っても、カプセルホテルじゃありませんよ。
普通のシングルルームです。
一昨年は、大宮。
昨年は、亀戸。
都心からは外れたエリアでしたので、朝食付きのコースを取れました。
今年は、上野にほど近い山手線の内側ですから、高くつくのは仕方ありません。
ということで、大好きなバイキング朝食は諦め、スーパーで調達することにしたのです。
さてさて。
わたしが行ったスーパーは、『サミットストア千駄木店』。

不忍通りに面してます。
さっきの『よみせ通り』が区境で、住所は文京区千駄木になります。
わたしが新潟でいつも行くスーパーとは、比べ物にならないほど小さいスーパーです。
コンビニに毛が生えたくらいの規模。
でも、土地代は、たぶんこっちの方が高いんでしょうね。
お店の前には、ママチャリがずらっと並んでました。

↑これは、夕暮れ時の写真ではないと思います。わたしが行ったときは、もっとたくさん停まってました。人もたくさんいて、とてもカメラを出して撮影するような雰囲気ではなかったです。
わたしが行く新潟のスーパーに、チャリで来る人はまずいないでしょうね。
ほぼ100%、車です。
滑走路のような駐車場が広がってます。

別に、威張ってるわけではありません。
まったく文化が違うなと、しみじみ感じるだけです。
ご主人の転勤で新潟に来る奥さんは、車の運転が出来ないと大変ですよ。
暮らしていけないと思います。
冬なんか、チャリ乗れないんですよ。
雪が積もるんですから。

↑新潟市街です。歩道は除雪された雪でてんこ盛り。車道は踏み固められてツルツル。チャリ走行は不可能です。
さてさて。
その、こじんまりとしたスーパーでお買い物です。
小さいスーパーのいいところは、買い忘れをしても、すぐその売り場に戻れることです。
わたしが行くスーパーは違います。
食品売り場まで来たとき、電池を買い忘れてたことに気づいた場合、ほとんど絶望的な気分になります。
電気製品売り場まで、100メートルくらい戻らなければなりませんから。
大げさと思われるかもしれませんので……。
スーパーの名前を明かします。
『PLANT(プラント)-5』です。

↑「み」。日用品コーナーから、食品売り場方向を撮影。はるか先の突き当りの向こうが、食品売り場です。
福井県に本社があります。
スーパーとホームセンターが合体したお店です。
店名の、後ろに付く“5”という数字ですが……。
PLANTの店舗には、“1”から“6”まであります。
これは、何を表す数字かと云うと、売り場面積なんですね。
数字×1,000坪が、概ねの面積。
わたしの行く店舗は“5”なので、売り場面積が5,000坪ということです。
16,500㎡になりますから、真四角としても、一辺が128メートルになります。
実際には、長方形です。
googleの航空写真で見てみたら、長辺は250メートルくらいあるようです。

↑小学校(児童数604名)のグランドと比べても、その巨大さがおわかりになるかと思います。
↓店内には、保育士が常駐する託児サービスもあります(無料)。

さてさて。
いい加減、地元自慢は切り上げて、『サミットストア千駄木店』に戻りましょう。
どんな夕食を買ったかは、後ほどご披露いたします。
お店から宿まで、のんびり歩きました。
この日と翌日は、伊勢志摩サミットが行われてました。
東京でも、そこここに警官を見かけました。

↓猫がいたので、パチリ。

↑「み」
思い切り不審者扱いの視線を浴びせられました。
ひょっとしたら、サミット警備の猫だったのかも知れません。
また猫がいたので、パチリ。

↑「み」
写ってるボルボとは、ちょっと似合わない猫の気がします。
よその家の猫でしょうか。
『谷根千』は、猫の街としても有名なんですね。

↑半分キツネ化してる気がします。
さて、宿に着きました。
宿は『ホテルリブマックス日暮里』。
その名のとおり、わたしが降りた『西日暮里』より、隣の『日暮里』が近いです。

わたしは、スーパーに寄るために、『西日暮里』で降りたのです。
入口前に車が横付けされてたので、写真撮影は断念。
そのままチェックインしました。
↓拝借画像でどうぞ。

こじんまりしたホテルです。
↓なぜか、入り口から半地下みたいになったところにフロントがありました。

このホテルは、フロント前を通らずに客室に行くことは出来ません。
フロントの営業時間は、8:00~22:30。
デリヘルを呼ぶ場合、この時間を外さなきゃならないでしょう。

こんなところに車で来る人はいないでしょうが、駐車場は1台分しかないようです。
もちろん、完全予約制。
ここに泊められれば、1泊1,000円です。
予約が取れなければ、有料駐車場を紹介してもらうしかないのかな。
このあたりで、1泊の駐車料金って、いくらくらいなんでしょうね。
1,000円より高いことは確実でしょうが。

↑近隣の根津の駐車場。18時から翌朝8時まで停めると、2,600円になります。新潟では考えられない値段です。
前にも書いたとおり、ホテル内に食事が摂れる設備はありません。
夕食はもちろん、朝食もなしです。
でも、ホテルから徒歩3分の『松屋』で朝食が摂れる宿泊プランがあるようです。

↑地下鉄千代田線『千駄木駅』前です。
男性は、それでもいいのでしょうが……。
女性は、朝からスッピンで『松屋』に行く気にはなれないでしょうね。
もちろん、わざわざ化粧して行く気にはもっとなれません。
チェックアウトしてから、『松屋』で朝食を摂ることも可能のようですが……。
それじゃ、食後のうんこが出来んではないか。

部屋代は、前払い精算となります。
これは、昨年までのスーパーホテルと同じ。
部屋で課金が生じる仕組みは無いので、精算はこれで終わりです。
今回は、45日前割引のプランで予約してあります。
料金は、税込み、サービス料込みで、7,000円ポッキリです。
なお、事前にクレジットで決済してあるので、フロントでお金を払う必要はありませんでした。
フロントでは、暗証番号を書いた紙を渡されます。

↑「み」。実際にわたしがもらった紙です。
部屋の扉にあるテンキーに、この暗証番号を打ちこめば鍵が開きます。
紙には、玄関のオートロックの暗証番号も書いてあります。
この番号は、フロントマンのいない、22:30~8:00の間、玄関を出入りする場合に必要となります。
デリヘルを呼ぶ場合、電話で教えておかないといけませんね。
迎えに出た方がいいかも知れません。
なお、暗証番号の紙の末尾には、「宿泊者以外の方の客室へのご入室を固く禁じます」という一文がありますので、行動は慎重に。

何でこんなことまで説明してるんでしょう。
老婆心にもほどがありますね。
さて、お部屋に入りましょう。
↓じゃじゃーん。

↑「み」
今回、わたしが予約したシングルルームです。
「キッチン付きゆったりセミダブルベッド」という部屋です。
部屋の広さはシングルルームなので、余計なものが入れば、当然のことながら残りのスペースは少なくなります。
正直、見えてる床板の面積は、ラジオ体操も難しい広さでした。
ベッドの真ん中にある袋は、昨年も使った買い物袋です。
ここに、夕食と翌日の朝食が入ってます。
↓これが、キッチンです。

↑「み」
と云っても、煮炊きは出来ません。
コンロを持ちこめば出来ますが、そこまでするアホはいないでしょう。
左上にあるのが、電子レンジだと思われます。
使わなかったので、レポートできません。
右下の冷蔵庫は、空っぽです。
空っぽですが、狭いです。
買ってきた食料を詰めこみ、スイッチを入れます。

↑「み」
さて、まずは疲れた身体を湯船に漬けて癒やしましょう。
しかしながら……。
もちろん、手足は伸ばせません。
3点ユニットの極小バスです。

↑「み」。大柄な外人さんなんかは、大変じゃないでしょうか。
湯船の中で脚をまっすぐ伸ばせる我が家のバスタブとは大違いです。
でも、東京で暮らしてた最後の部屋もこんな感じでした。
ただ、このユニットバス、ひとつ難点がありました。
トイレの便座です。
もちろん、ウォシュレット付きでしたが、その便座は後付されたもののようなのです。
おそらく、ピッタリ合う洗浄便座が無かったのでしょう。
便座がむやみに動くんです。
ま、座ってしまえば別に気になりませんでしたけどね。
これだけでも、このホテルの古さがわかります。
でも、決して汚くはありませんでしたよ。
さて、お風呂も出て、夕食です。
しかし、ここで難点がひとつありました。
テレビの位置です。

↑「み」
ご覧のように、ベッドの足元にあります。
↓これは、昨年泊まったスーパーホテルの写真。

↑「み」
テレビは、デスクの上に載ってます。
食材をデスクに並べて、テレビを見ながら楽しく夕食が摂れました。
しかるに!
↓こんな小さいテーブルでは、食材が並べられません。

↑「み」
宗偏は、「明暦元(1655)年、千宗旦(そうたん)の推挙で三河国吉田藩主・小笠原忠知に、茶道をもって30石5人扶持(100石格)で仕える」とあります。

↑宗旦は、千利休の孫。
↓三河国吉田藩は、現在の愛知県豊橋市。

↑渥美半島の付け根です。
江戸幕府が開かれてから、半世紀。
「茶道をもって仕え」られる、平和な世になったと云うことでしょうね。
江戸時代の給料の計算はややこしくて、これを調べてると投稿に間に合わないので省略。
でも、100石格というのは、そこそこの棒給だったようです。
単純に米の値段で換算すると、年収750万円くらいになるとか。
このとき宗偏は、まだ28歳です。
その後、元禄10(1697)年、吉田藩の職を甥の宗引へ譲って江戸に下り、本所に居を構えます。
42年間勤めあげ、宗偏70歳のときですから、十分努めは果たしたというところでしょう。
この本所で興したのが「宗偏流」です。
ところで、元禄という元号で、真っ先に思い出すのは忠臣蔵ですよね。
討ち入りは、元禄15(1702)年12月14日。

そして、舞台となった吉良上野介の上屋敷は、本所松坂町。

↑両国のすぐ近くです。吉良邸跡の一部は、『本所松坂町公園』になってます。
年代もまさに、宗偏が本所に住まってたころです。
というか、宗偏は、赤穂浪士の討ち入りに、われ知らず重大な役割を担うことになります。
さて、続きです。
吉良上野介も、宗偏と同じく千宗旦の弟子だったんです。

↑ご存知、吉良上野介。どれだけ憎々しく演じるかが、俳優の腕の見せ所。この役をやってる俳優さんは、とても楽しかったと思います。この画像は、進藤英太郎。
その縁で宗偏は、たびたび吉良邸の茶会に招かれてました。
赤穂浪士は、そこを見逃しませんでした。
浪士の一人、大高源五が、脇屋新兵衛という変名で、宗偏に弟子入りします。
もちろん、吉良邸の情報を得るためです。

↑大高源五は、浪士随一の俳人。討ち入り前日、笹竹売りに変装して吉良邸を偵察した帰り、両国橋の上で、親交のあった宝井其角とばったり出会います。源五は「西国に仕官が決まった」と告げ、謎の句を残して去ります。西国とは、あの世のことだったんですね。
そこで源五が宗偏から聞き出したのが、「12月14日、吉良邸で茶会」という情報。
となれば、この日、上野介は必ず屋敷にいる。

↑浪士が入手していた吉良邸絵図面。
討ち入りの日は、こうして決定されました。
実は、宗偏は脇屋新兵衛の正体を知りながら、わざと茶会の日を教えたとも云われてます。
なお、ここからは余談ですが……。
吉良邸情報探索のからみで、ちょっとお時間を拝借。
情報探索で思い出すのは、何と言っても“夜泣き蕎麦屋の十助”です。
赤穂浪士の一人、杉野十平次です。
吉良邸近くで夜泣きそばの屋台を開き、吉良邸の動向を探ってました。

吉良邸の門番に大盛りサービスしたり、酒を振る舞ったりして取り入り……。
代金代わりに水を所望して、邸内に入り込んだりもしたそうです。
この蕎麦屋の常連客が、かねてより浅野贔屓の俵星玄蕃でした。
玄蕃は、尾張藩の武士でしたが……。
訳あって浪人し、吉良邸近くの横網(よこあみ)町で宝蔵院流の槍の道場を開いていました。
玄蕃には、十助がただの蕎麦屋ではないことが、ひと目でわかりました。
なぜなら、丼を差し出す指には、竹刀ダコがあったからです。
しかし、鍛錬を積んだ武士が夜泣き蕎麦屋になろうというのは、そうとうな訳があるはず。
玄蕃はあえてその訳を聞かず、蕎麦屋と客の付き合いを続けます。
蕎麦屋の十助も、玄蕃を「先生」と呼び、親しみを持って接しました。
そして、12月14日の夜。
この日、玄蕃は自宅でひとり呑んでました。
まさにそのとき!
冴えきった冬の大気に乗って届いてくる、太鼓の音を耳にします。
玄蕃の住まいから吉良邸までは、わずか1キロあまり。
陣太鼓の音色は、はっきりと吉良邸方向から聞こえてきます。
そしてその音色こそ、一打ち二打ち三流れ……。
まさしく、山鹿流の陣太鼓にほかなりません。
当時、吉良邸で何かあるとすれば、それは「赤穂浪士の仇討ちだ」というのは、江戸っ子なら百も承知のことでした。
もちろん、玄蕃も知ってました。
すぐさま、先祖伝来、俵弾正(たわらだんじょう)工夫の槍を掴んで飛び出します。
九尺(2.7メートル)もある大槍です。
↓以下、三波春夫先生『元禄名槍譜 俵星玄蕃』の名ゼリフ。
『けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻眼の吊る如く、長押にかかるは先祖伝来俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて一足表に踏み出せば、天は幽暗地は凱々たる白雪を蹴立てて行手は……。松阪町~!』
このセリフの箇所では、毎回鳥肌が立ちます。
さて!
吉良邸に駆けつけると、まさに討ち入りが始まろうとするところでした。
総大将の蔵之助を見つけ駆け寄り、助太刀を申し出ます。
しかし、蔵之介には丁寧に断られます。
敵を討つのは、浅野の家臣に限られた務めだからです。
玄蕃もそれを悟り、槍を引きます。
その折、目の前を駆け抜けていく浪士がひとり。
その浪士が、振り向きざまに玄蕃に声をかけます。
「先生!」
その浪士こそまさしく、“夜泣き蕎麦屋の十助”その人でした。
「おうッ、蕎麦屋かー」
これが蕎麦屋の十助との今生の別れになることを、玄蕃は一瞬にして悟りました。
玄蕃は、吉良邸に背を向けると、槍を構えて仁王立ち。
もちろん、邪魔する者があれば、ひとりとして通さないという気構えです。

〽打てや響けや 山鹿の太鼓
月も夜空に 冴え渡る
夢と聞きつつ 両国の
橋のたもとで 雪ふみしめた
槍に玄蕃の 涙が光る
それではお聞きください。
↓三波春夫先生による『元禄名槍譜 俵星玄蕃』、フルバージョンです。
さて。
何で、討ち入りの話をしてたんですかね?
あー、そうそう。
山田宗偏が、大高源五に吉良邸の茶会の日時を教えたという逸話からでした。
いやー。
実に面白いです。
物事を調べ出すと、さまざまなことが繋がってきます。
「禍福は糾える縄の如し」(ちょっと違う?)。
共に雪の日に起きた2つの大事件。
赤穂浪士の討ち入りと、二・二六事件。
これに関係した2人にゆかりの建物、『会水庵』と『高橋是清邸』が、目と鼻の先に建ってるんです。

不思議な運命を感じずにはおられません。
さてさて。
パンフレット解説の続きに戻りましょう。
この『会水庵(かいすいあん)』を建てたのは、山田宗偏ではないのです。
ここから、忠臣蔵に脱線してしまいました。
『会水庵』の施主は、宗偏が興した「宗偏流」の茶人、山岸宗住(会水)です。
この宗住を調べてみたら、またまた驚くべき事実を発見。
なんと、この『会水庵』が最初に建てられたのは、新潟県長岡市だったんです。
山岸宗住は、長岡市にある真照寺の出身で、本名は普該。
こちらも、お寺の息子です。
茶禅一昧(さぜんいちみ)という言葉があるように、茶の湯と禅は本質が同一だという考えがあります。

宗住は、若いころから、茶の湯、生け花、能などに親しむ育ちだったようです。
長岡では、江戸時代から藩主牧野家の茶道が宗偏流であったそうで……。

↑長岡市には立派な資料館もあるようです。今度、行ってみなくては。
宗住も、自然と宗偏流を習いました。
号の『会水』は、長岡にかつてあった『会水(あいみず)城』からとったそうです。
長岡に建ったのがいつなのか調べましたが、ほとんど情報が得られませんでした。
それ以前に、山岸宗住の生年すらわかりませんでしたが……。
執念で探索。
ようやく、1954(昭和29)年、89歳で亡くなったという記述を見つけました。
ということは、生まれは、1865(元治2・慶応元)年前後。
『会水庵』の竣工は大正期のようです。
しかし山岸家は、1927(昭和2)年、東京吉祥寺に移住します。
何で移住したのかは不明ですが、わたしが邪推するに……。
宗住は、この茶室を異常に気に入ってしまっていた。
いや、偏愛していた。
なぜなら、『会水庵』を吉祥寺に移築してるんです。
長岡を出たのは、『会水庵』が雪で潰れるのを恐れたからじゃないでしょうかね。

↑新潟の雪は湿っていて、ひとりでに落ちてはくれません。重いので、放っておけば確実に家が潰れます。
その後、山岸家が没落したのか、宗住がボケてしまったのかわかりませんが……。
第2次世界大戦中に、山岸邸は住友金属に買い取られ、会社の寮として利用されます。
戦後しばらくすると、更地にするために、家屋や樹木などが個々に売りに出されました。
その中から、劇作家の宇野信夫が、『会水庵』『腰掛待合』『蹲踞』『灯龍』を買い取り、西荻に移築したそうです。
1957(昭和32)年のことです。
宇野信夫という劇作家は、寡聞にして知りませんでした。

基本的には歌舞伎作者のようです。

↑小説も書いてます。
「昭和の黙阿弥」と称され、日本芸術院会員、文化功労者に選ばれてます。
彼もまた、『会水庵』を偏愛したひとりなのでしょう。
そしてその最後の主が亡くなった後……。
『江戸東京たてもの園』に移されるわけです。
長岡→吉祥寺→西荻→小金井。
3回目の移築で、おそらくは終の棲家を得たわけです。
簡素な造りなので、簡単に移築できたんでしょうね。
『江戸東京たてもの園』への移築に際しては……。
水屋の位置など、可能な限り、山岸宗住の吉祥寺時代に戻されたそうです。
『会水庵』は元々、母屋に接続して造られてたそうなので……。
現在は、『西川家別邸』にくっつけられて建ってます。

何かにくっつけなかったら、元々なかった壁を造ることになってしまいますからね。
あと、パンフレットの説明書きでわからなかったのは、『台目畳(だいめだたみ)』。
茶室用の畳で、京間畳の4分の3の大きさだそうです。
わたしはずっと、畳のサイズは、180㎝×90㎝だと思ってました。
↓でも、地域や造りによってサイズが違ったんです。
----------------------------------
●京間畳(縦191.0cm×横95.5cm)
●中京間畳(縦182.0cm×横91.0cm)
●江戸間畳(縦176.0cm×横87.8cm)
●団地間畳(縦170.0cm×横85.0cm)
----------------------------------
団地間ってのは、ほとんどインチキですよね。
何で“台目”と云うのかは、いろいろ書いてありましたが、ややこしいので省略。
↓『三畳台目』の茶室とは、こんな感じ。

↓凹んでる部分は、床の間か水屋のようです。

狭くて、落ち着きそうです。
炉もあって煮炊きできるし……。
水屋をトイレとお風呂に改造すれば、ここだけで住めるんじゃないですかね。

さてさて。
長らくご紹介して参りましたが……。
『江戸東京たてもの園』の屋外展示は以上です。
↓帰りがけ、ビジターセンター(『光華殿』)内の展示を、ちらっと見たようです。

↑「み」。『東京の地形の変遷と気候』というパネル。
しかし、撮った写真はこれだけでした。
見事にお座なりです。
疲れ切ってしまい、見る気力も無くなってたので、早々に撤退したのでしょう。
↓入口の金木犀の幹を、もう1枚。

↑「み」
ほんとに、スゴい幹です。
↓再び、小金井公園の中を通って戻ります。

↑「み」。ほぼ快晴になりました。
とにかく、広々とした公園でした。
小金井市は、災害後、仮設住宅を建てる土地に困りません。
あ、ここは東京都の所有地でしたね。
大規模な仮設団地ができるんじゃないでしょうか。
この『江戸東京たてもの園』には、西武新宿線の『花小金井駅』から歩いて来ました。

でも帰りは、『花小金井駅』には戻りません。
当初の予定では、この後、JR中央線の『武蔵境駅』まで歩くつもりでした。

でも、ほぼ足萎えのような仕儀になってしまっており、とうてい不可能。
『江戸東京たてもの園』の真ん前には、JR中央線の『武蔵小金井駅』行きのバス停があります。

バス停に向かって、ヘロヘロ歩きながらも、バスが来ないか、振り向いて確認。
こういうときに限って、やってきました。
気力を振り絞って、バス停まで走ります。
走りながらバスを振り返り、乗る意志をアピール。
少しくらい待ってくれるはずです。
幸い、バス停に人が、2,3人いたので、バスを待たせることもなく乗りこめました。

↑どこのバスだったかも覚えてません。たぶんこの西武バスだと思います。
座れなかったら辛いと思ってましたが、運良く空いてました。
やっぱり、平日に来て良かった。
余裕ゼロだったので、バスの写真を撮ることは出来ませんでした。

↑埼玉を走る西武バス。こんな室内でした。
↓到着した『武蔵小金井駅』構内を1枚。

↑「み」
↓ホームからも撮ってました。

↑「み」
窓の外から見える街は、普通の都会ですね。
『武蔵小金井駅』から『武蔵境駅』までは、中央線で2駅。

『武蔵境駅』が都心寄りになります。
乗車時間は、わずか4分です。
↓『武蔵境駅』の南口を出ます。

↑「み」。この画像では閑散として見えますが、実際にはかなり人通りがありました。
さて、この駅に降りたわけは、バスに乗るためです。
昨年の『単独旅行記Ⅱ』では、山手線の『大塚駅』から、宿近くの総武線『錦糸町駅』までバスに乗りました。

↑停留所数、35。所要時間、55分。
今年も、宿の近くまで長距離を乗れるバスを探しました。
宿は、山手線の内側に取ってあります。
しかも、山手線の東側の輪っかのすぐ内側です。
さすがに、山手線の西の輪っかを突っ切って、東側まで1本で行ける路線はありませんでした。
いずれも、山手線の西の輪っか止まりです。
一番長かったのが、『武蔵境駅南口』→『新宿駅西口』行きだったのです。
小田急バスです。

↑小田急バスのカラーリング。乗ってしまえば、みんな同じですが。
停留所の数は、始点終点を入れて、42もあります。
さすがに、これを全区間乗る客は、いないでしょう。
本数も、なんと、1日に4本しかありません。

10:20、13:06、16:00、19:34。
田舎のバスみたいですね。
『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で、時刻表を見て愕然とするパターン。

わたしが乗るのは、もちろん、16:00発です。
乗り過ごしたら、3時間半も待つわけにいきませんから、計画はおじゃんです。
なので、早めに到着して待つつもりでした。
いつも乗り物にギリギリになりがちなわたしですが、今回は大丈夫でした。
『武蔵小金井駅』まで、バスを使ったおかげです。

終点の『新宿駅西口』着は、17:05分。
実に、1時間5分の長旅です。
↓すべての停留所(通過時間)です(この便は、08-南浦、13-井の頭文化園、14-公園入口、15-吉祥寺駅中央口には停まりません)。
武蔵境駅南口(16:00)→ 武蔵野赤十字病院(16:02)→ 井口・日赤入口(16:03)→ 塚(16:04)→ 曙住宅(16:05)→ 第七小学校前(16:06)→ 八幡前(三鷹市)(16:08)→ 連雀通り商店街(16:11)→ 下連雀(16:13)→ 明星学園入口(16:14)→ 万助橋(16:15)→ 吉祥寺駅(南口)(16:23)→ 吉祥寺営業所前(16:24)→ 本田南町(16:24)→ 松庵町(16:26)→ 松庵東(16:28)→ 大宮前五丁目(16:29)→ 都立西高前(16:30)→ 大宮前三丁目(16:32)→ 大宮前一丁目(16:33)→ 上高井戸(16:35)→ 北高井戸(16:36)→ 浜田山(16:38)→ 浜田山四丁目(16:40)→ 西永福(16:42)→ 永福町(16:44)→ 水道横丁(16:46)→ 笹塚二丁目(16:48)→ 笹塚駅(16:49)→ 幡ヶ谷原町(16:51)→ 幡ヶ谷駅(16:53)→ 幡代(16:54)→ 新国立劇場初台駅入口(16:55)→ 東京オペラシティ南(16:56)→ 西参道(東京都)(16:57)→ プレッソイン新宿前(16:58)→ 角筈二丁目(16:59)→ 新宿駅西口(17:05)

これだけ長時間乗れば、新潟のバスだったら、500円以上はします。
でも、東京のバスは、距離に関係なく一律料金。
220円です。
わたしはずっと、210円だと思ってたのですが、改めて調べたら、220円でした。
どうやら、2014年4月の消費税率改定のときに、10円あがったようです。
Suicaで乗るので、料金は覚えてなかったのです。
ちなみに、『武蔵境駅』から『新宿駅』まで、JR中央線を使うと、310円です。

時間は、20分。
1時間5分乗れて220円のバスと、たった20分で310円もする電車。
娯楽性対決では、バスの圧勝ですね。
路線バスに関しては、東京が羨ましくてなりません。
ま、住む気にはなれませんが。
バスを待つ間は、ベンチにへたり込んでました。

↑「み」
ご老人が来ないことを祈りつつ。
もちろん、ベンチを譲らなきゃならないからです。
お一人来られましたが、幸い、ベンチは2人がけなので、起たなくても大丈夫でした。
今度から、老婆の変装をして行きましょうかね。

↑カツラ、売ってました。
疲れきったわたしの姿勢は、十分老婆で通用すると思います。
さて。
バスは、ちゃんと発車時間前にやってきました。
始発ですから当たり前のようですが、折り返し便のダイヤだと、始発でも時間どおり来ない場合があります。
この前の『新宿駅西口』発の便は、『武蔵境駅南口』着が、12:50分です。
当然、そのバスは、別の路線に回るでしょうから、折り返しダイヤじゃありません。
わたしが、始発からの乗車にこだわるのは、いい座席を確保したいからです。
ロングシートは論外です。

ボックスシート、できれば2人がけ。

その窓側。
通路側に誰かが座ってくれれば、お年寄りが乗ってきても、席を譲らずにすみます。
窓の外を見たいので、寝たふりは出来ないのです。
さてさて。
この日も、無事、右サイド後方のボックスシートに座ることが出来ました。
↓『武蔵境駅』を定刻に出発です。

↑「み」
↓バスの中も、ちゃんと撮ってありました。

↑「み」
ガラガラでしたね。
席を譲る心配もありません。
窓の外は、どのあたりか忘れましたが、武蔵野らしい風景です。
↓これはたぶん、吉祥寺あたりだと思います。

↑「み」
都市計画のないまま街が出来た感じです。
もちろん、散歩するにはその方が楽しいのですが。
東京は、路地が面白いです。
↓座席を、左側に移りました。

↑「み」
実は、最初に右側に席を取ったのは、新幹線や高速バスで新潟東京間を行き来するときの癖なんです。
行きは午前中なので、東京に南下するわけです。

↑柏崎が強調されてますが、意味はありません。この図が一番見やすかっただけです。
日差しは東ですから、座席の左側が陽あたりになります。

↑四国高速バス『さぬきエクスプレス』の画像を拝借。
自分ひとりなら、眩しくても我慢するんですが……。
前の座席の人がカーテンを引いてしまうと、視界が遮られてしまいます。

↑特におばさんは、紫外線を少しでも浴びたくないのか、曇ってても閉められる場合があります。
それが嫌なので、日の当たらない右側を取るわけです。
逆に、帰りは午後になります。
新潟に北上するので、日差しは西、つまり左側の座席が陽あたりです。
つまり、行きも帰りも、右側に席を取るのが習わしになってるわけです。
それでついつい、路線バスでも、右側に座ってしまいました。
でも、路線バスは、あっちこっち方向を変えますから……。
どっちから陽が射すなど、さほど気にする必要はないわけです。
第一、カーテンがありませんから、眩しくても、視界が遮られる心配もないのです。
路線バスでは、左側の座席の方が面白いです。
右側だと、道路を隔てた向こうに街が見えます。
でも、左側は、すぐ歩道ですから、歩いてる人の顔も、立ち並ぶお店の看板も間近に見えるのです。
座席を左側に移すと、歩道に面した建物がよく見えます。
↓これは、新宿に近いところだと思います。

↑「み」
なんだと思います?
なんと、コインロッカーがびっしり並んでるんです。

↑「み」
新潟では、まったく見ない光景です。
観光客用ですかね?
新宿を見学するのに、カートを引いてじゃ大変ですから。
英語、韓国語、中国語の表示があります。
「COIN-LOCKER」というのは、和製英語かと思ったら、どうやら列記とした英語のようです。
↓終点の『新宿駅西口』に着きました。

↑「み」。写ってるバスは、わたしが乗ってきた車両で、折り返しの『武蔵境駅南口』行き【17:15発】になります。
新宿に近づくにつれて渋滞して、少し遅れたと思います。
17時を回り、夕方っぽくなってきましたね。
この季節の旅行で良いところは、日が長いことです。
冬なら、もう真っ暗になってます。
一番日が長いのは、もちろん夏至ですが、このころは梅雨の真っ最中。

梅雨が明ければ、猛暑です。

やはり、梅雨前のこの時期が、旅行にはベストでしょうね。
新宿駅。
この駅に入るのは、いったい何年ぶりでしょう。
駅なんだからすぐわかると思ってましたが……。
正直、けっこう迷いました。
私鉄がいっぱい乗り入れてるのです。

↑新宿駅の構内図。わかろうという気にすらなりません。
時間を気にしてる状況だったら、軽くパニクってたと思います。
すっかり、田舎者になってました。
↓ようやく、JRの入り口を発見。

↑「み」
山手線に乗りこみます。
↓車中で撮った画像。

↑「み」
わたしが住んでたころとの大きな違いは、こういった情報が表示されることですね。
わたしが降りたのは、『西日暮里駅』。

西口を出ます。
山手線の内側です。
荒川区になります。
山手線の内側が荒川区というのは、ちょっと意外ですが……。
『西日暮里駅』の西側だけ、荒川区が山手線の内側に食いこんでるんです。

↓駅を出てすぐのところにあったのが、こちら。

↑「み」
言わずと知れた開成高校です。
東大合格者数、日本一の高校ですね。

平日の夕方でしたので、門を出て来る高校生もいました。
新潟では、ちょっと見かけないタイプの学生でした。
見るからに賢こそうで、「勉強できんぞー」オーラが出まくってました。

↑制服は違います。
↓名前を知ってる通りを発見。

↑「み」
『よみせ通り』。

↑「み」
このあたりは、もう荒川区を突き抜け、台東区に入ってます。
地名は、谷中。
いわゆる“谷根千(やねせん)”として有名なエリアですね。

↑猫の真上の駅が、わたしが降りた『西日暮里』。“谷根千”は、谷中・根津・千駄木の略称です。
と云ってわたしは、『谷根千』探索に来たのではありません。
正直、下町の風情には、さほど興味がないのです。
ていうか、調味料の貸し借りをしたりする近所付き合いは、積極的にお断りです。

↑必ず植木鉢が並んでます。
わたしの目指す先は、スーパーマーケットなのです。
事前に、宿近くのスーパーを調べておきました。
そこで、本日のいちばん重要な用事を足さねばなりません。
すなわち、夕食と明日の朝食の仕入れです。
今回、わたしの泊まる宿には、朝食がないのです。

↑昨年まで、2年続けて泊まったスーパーホテルには、朝食が付いてました。「無料」というより、宿泊費に込みということですね。
食堂自体がありません。
つまり、厨房関係の設備がまったくないホテル。
当然、その分、値段が安くなるわけです。
と云っても、カプセルホテルじゃありませんよ。
普通のシングルルームです。
一昨年は、大宮。
昨年は、亀戸。
都心からは外れたエリアでしたので、朝食付きのコースを取れました。
今年は、上野にほど近い山手線の内側ですから、高くつくのは仕方ありません。
ということで、大好きなバイキング朝食は諦め、スーパーで調達することにしたのです。
さてさて。
わたしが行ったスーパーは、『サミットストア千駄木店』。

不忍通りに面してます。
さっきの『よみせ通り』が区境で、住所は文京区千駄木になります。
わたしが新潟でいつも行くスーパーとは、比べ物にならないほど小さいスーパーです。
コンビニに毛が生えたくらいの規模。
でも、土地代は、たぶんこっちの方が高いんでしょうね。
お店の前には、ママチャリがずらっと並んでました。

↑これは、夕暮れ時の写真ではないと思います。わたしが行ったときは、もっとたくさん停まってました。人もたくさんいて、とてもカメラを出して撮影するような雰囲気ではなかったです。
わたしが行く新潟のスーパーに、チャリで来る人はまずいないでしょうね。
ほぼ100%、車です。
滑走路のような駐車場が広がってます。

別に、威張ってるわけではありません。
まったく文化が違うなと、しみじみ感じるだけです。
ご主人の転勤で新潟に来る奥さんは、車の運転が出来ないと大変ですよ。
暮らしていけないと思います。
冬なんか、チャリ乗れないんですよ。
雪が積もるんですから。

↑新潟市街です。歩道は除雪された雪でてんこ盛り。車道は踏み固められてツルツル。チャリ走行は不可能です。
さてさて。
その、こじんまりとしたスーパーでお買い物です。
小さいスーパーのいいところは、買い忘れをしても、すぐその売り場に戻れることです。
わたしが行くスーパーは違います。
食品売り場まで来たとき、電池を買い忘れてたことに気づいた場合、ほとんど絶望的な気分になります。
電気製品売り場まで、100メートルくらい戻らなければなりませんから。
大げさと思われるかもしれませんので……。
スーパーの名前を明かします。
『PLANT(プラント)-5』です。

↑「み」。日用品コーナーから、食品売り場方向を撮影。はるか先の突き当りの向こうが、食品売り場です。
福井県に本社があります。
スーパーとホームセンターが合体したお店です。
店名の、後ろに付く“5”という数字ですが……。
PLANTの店舗には、“1”から“6”まであります。
これは、何を表す数字かと云うと、売り場面積なんですね。
数字×1,000坪が、概ねの面積。
わたしの行く店舗は“5”なので、売り場面積が5,000坪ということです。
16,500㎡になりますから、真四角としても、一辺が128メートルになります。
実際には、長方形です。
googleの航空写真で見てみたら、長辺は250メートルくらいあるようです。

↑小学校(児童数604名)のグランドと比べても、その巨大さがおわかりになるかと思います。
↓店内には、保育士が常駐する託児サービスもあります(無料)。

さてさて。
いい加減、地元自慢は切り上げて、『サミットストア千駄木店』に戻りましょう。
どんな夕食を買ったかは、後ほどご披露いたします。
お店から宿まで、のんびり歩きました。
この日と翌日は、伊勢志摩サミットが行われてました。
東京でも、そこここに警官を見かけました。

↓猫がいたので、パチリ。

↑「み」
思い切り不審者扱いの視線を浴びせられました。
ひょっとしたら、サミット警備の猫だったのかも知れません。
また猫がいたので、パチリ。

↑「み」
写ってるボルボとは、ちょっと似合わない猫の気がします。
よその家の猫でしょうか。
『谷根千』は、猫の街としても有名なんですね。

↑半分キツネ化してる気がします。
さて、宿に着きました。
宿は『ホテルリブマックス日暮里』。
その名のとおり、わたしが降りた『西日暮里』より、隣の『日暮里』が近いです。

わたしは、スーパーに寄るために、『西日暮里』で降りたのです。
入口前に車が横付けされてたので、写真撮影は断念。
そのままチェックインしました。
↓拝借画像でどうぞ。

こじんまりしたホテルです。
↓なぜか、入り口から半地下みたいになったところにフロントがありました。

このホテルは、フロント前を通らずに客室に行くことは出来ません。
フロントの営業時間は、8:00~22:30。
デリヘルを呼ぶ場合、この時間を外さなきゃならないでしょう。

こんなところに車で来る人はいないでしょうが、駐車場は1台分しかないようです。
もちろん、完全予約制。
ここに泊められれば、1泊1,000円です。
予約が取れなければ、有料駐車場を紹介してもらうしかないのかな。
このあたりで、1泊の駐車料金って、いくらくらいなんでしょうね。
1,000円より高いことは確実でしょうが。

↑近隣の根津の駐車場。18時から翌朝8時まで停めると、2,600円になります。新潟では考えられない値段です。
前にも書いたとおり、ホテル内に食事が摂れる設備はありません。
夕食はもちろん、朝食もなしです。
でも、ホテルから徒歩3分の『松屋』で朝食が摂れる宿泊プランがあるようです。

↑地下鉄千代田線『千駄木駅』前です。
男性は、それでもいいのでしょうが……。
女性は、朝からスッピンで『松屋』に行く気にはなれないでしょうね。
もちろん、わざわざ化粧して行く気にはもっとなれません。
チェックアウトしてから、『松屋』で朝食を摂ることも可能のようですが……。
それじゃ、食後のうんこが出来んではないか。

部屋代は、前払い精算となります。
これは、昨年までのスーパーホテルと同じ。
部屋で課金が生じる仕組みは無いので、精算はこれで終わりです。
今回は、45日前割引のプランで予約してあります。
料金は、税込み、サービス料込みで、7,000円ポッキリです。
なお、事前にクレジットで決済してあるので、フロントでお金を払う必要はありませんでした。
フロントでは、暗証番号を書いた紙を渡されます。

↑「み」。実際にわたしがもらった紙です。
部屋の扉にあるテンキーに、この暗証番号を打ちこめば鍵が開きます。
紙には、玄関のオートロックの暗証番号も書いてあります。
この番号は、フロントマンのいない、22:30~8:00の間、玄関を出入りする場合に必要となります。
デリヘルを呼ぶ場合、電話で教えておかないといけませんね。
迎えに出た方がいいかも知れません。
なお、暗証番号の紙の末尾には、「宿泊者以外の方の客室へのご入室を固く禁じます」という一文がありますので、行動は慎重に。

何でこんなことまで説明してるんでしょう。
老婆心にもほどがありますね。
さて、お部屋に入りましょう。
↓じゃじゃーん。

↑「み」
今回、わたしが予約したシングルルームです。
「キッチン付きゆったりセミダブルベッド」という部屋です。
部屋の広さはシングルルームなので、余計なものが入れば、当然のことながら残りのスペースは少なくなります。
正直、見えてる床板の面積は、ラジオ体操も難しい広さでした。
ベッドの真ん中にある袋は、昨年も使った買い物袋です。
ここに、夕食と翌日の朝食が入ってます。
↓これが、キッチンです。

↑「み」
と云っても、煮炊きは出来ません。
コンロを持ちこめば出来ますが、そこまでするアホはいないでしょう。
左上にあるのが、電子レンジだと思われます。
使わなかったので、レポートできません。
右下の冷蔵庫は、空っぽです。
空っぽですが、狭いです。
買ってきた食料を詰めこみ、スイッチを入れます。

↑「み」
さて、まずは疲れた身体を湯船に漬けて癒やしましょう。
しかしながら……。
もちろん、手足は伸ばせません。
3点ユニットの極小バスです。

↑「み」。大柄な外人さんなんかは、大変じゃないでしょうか。
湯船の中で脚をまっすぐ伸ばせる我が家のバスタブとは大違いです。
でも、東京で暮らしてた最後の部屋もこんな感じでした。
ただ、このユニットバス、ひとつ難点がありました。
トイレの便座です。
もちろん、ウォシュレット付きでしたが、その便座は後付されたもののようなのです。
おそらく、ピッタリ合う洗浄便座が無かったのでしょう。
便座がむやみに動くんです。
ま、座ってしまえば別に気になりませんでしたけどね。
これだけでも、このホテルの古さがわかります。
でも、決して汚くはありませんでしたよ。
さて、お風呂も出て、夕食です。
しかし、ここで難点がひとつありました。
テレビの位置です。

↑「み」
ご覧のように、ベッドの足元にあります。
↓これは、昨年泊まったスーパーホテルの写真。

↑「み」
テレビは、デスクの上に載ってます。
食材をデスクに並べて、テレビを見ながら楽しく夕食が摂れました。
しかるに!
↓こんな小さいテーブルでは、食材が並べられません。

↑「み」