2016.11.19(土)
しかし、それも続かなかったのでしょう、どういうわけか唐津(佐賀県)に行き……。

↑唐津城。見事な景色ですね。
唐津の英語学校の教員となります。
ま、英語が堪能であれば、すぐに教員になれたんでしょうね。
校長かなにかを待ち伏せて、英語でまくしたてれば、相手も仰天して雇ったのかも知れません。
これが、17歳。
ところが翌年、もうこの教官を辞めて上京します。
ここで再び森を頼ったようで……。
森の引きで文部省に入省することができ、十等出仕(しゅっし)となります。

↑なんで、手前に大八車があるんですかね?
ちなみに、当時の出仕(国家公務員の位)は十五等まであったようですから……。
入省時に十等なら、上等なんじゃないでしょうか。
19歳のときでした。
この後の是清ですが……。
とにかく、いろんな役所を出たり入ったりします。
入ると、有能なので重用されるのですが……。
いわゆる官吏肌ではなかったのでしょう。
『駅逓寮(郵政省の前身)』では、前島密(ひそか)と喧嘩して飛び出したりしてます。

↑越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市)出身。今でも、1円切手の肖像となってます。
でも、33歳のときには、特許局長にまでなってます。

↑『東京特許許可局』は、早口言葉のために作られた架空の役所です(NHKアナウンサー採用音声試験の出題だったそうです)。
さらに、東京農林学校(東大農学部の前身)校長も兼任。
三味線持ちからは、異例の出世です。
このまま落ち着いてしまえば、穏やかな人生が送れてたのでしょうが……。
残念ながら是清は、落ち着いていられない人でした。
すべての官職を投げ打って、ペルーに行ってしまうのです。

銀山開発のためです。
35歳のときでした。
しかし!
大金を叩いて買った銀山は、すでに銀を掘り尽くされ、ズリ石(廃石)しか残ってなかったのです。

↑金ヶ沢金山跡(宮城県本吉郡南三陸町)に堆積するズリ石。
また、騙されたんですね。

やむなく帰国を余儀なくされた是清でしたが……。
まだ懲りませんでした。
今度は、群馬県の天沼金山(群馬県利根郡みなかみ町)に投資します。

↑天沼金山跡。
しかし、残り金を注ぎこんだこの金山も失敗。
敷地1,500坪に洋館付きの家屋敷を手放す羽目となりました。
是清に残ったのは、“山師”という称号だけでした。
普通の人なら、人生これにてお終いです。
しかし、是清は普通の人ではありませんでした。
彼の年譜を見ていと……。
まさに、「捨てる神あれば拾う神あり」という格言を思い起こさずにはおれません。

三菱の三傑と呼ばれた一人、川田小一郎に拾われ……。

日本銀行に入行します。

↑今も残る日本銀行本店。明治29(1896)年(是清入行の4年後)竣工。
“三味線持ち”上がりで、山師の悪評プンプンの男が、日銀に入るんですよ。
たまげますよね。
最初の肩書は、事務主任でした。
是清、38歳のときです。
それからは、トントン拍子の出世です(以下、カッコ内は満年齢)。
翌年には、日銀西部支店長(39歳)。
横浜正金銀行本店支配人(41歳)。
横浜正金銀行副頭取(43歳)。
日本銀行副総裁(45歳)。
貴族院勅選議員勅任(51歳)。
男爵授爵(53歳)。
日本銀行総裁(57歳)。
そして、その2年後、59歳のとき、第一次山本内閣で大蔵大臣に就任。
政友会(初代総裁は伊藤博文)にも入党し、政治の世界に入っていきます。

↑政友会本部【東京市芝区芝公園五号地(現・東京都港区芝公園一丁目】。
ここまで来るともう、自分の身であって、自分の身ではなくなってしまってたでしょう。
政治のしがらみに絡み取られ……。
もはや、勝手にペルーに行ったりは出来なくなります。
大蔵大臣を、2回勤めた後、子爵授爵(66歳)。
そして、翌年……。
総理大臣の原敬が暗殺されます。

↑『東京駅』丸の内南口です。
急遽、是清は、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任、同時に政友会総裁となります(67歳)。

ついに、政治の世界のトップの座に付きました。
でも、彼は決して、ここを目指して突っ走ってきた人じゃないと思います。
がんじがらめにされたまま、担ぎ上げられたような心境だったんじゃないでしょうか。
しかし、総理の座にいたのは、わずか半年でした。
原敬を失い混乱する政友会をまとめられず、閣内不一致で総辞職となったのです。
是清は内心、「ラッキー♪」と思ったんじゃないでしょうか。
これで、やっと政治の世界から抜けられると。
2年後には、貴族院議員を辞職し、爵位も長男に譲り、隠居します(70歳)。
当時の70歳なら平均寿命を超えてたでしょうから、「お疲れさま」ですよね。

↑なんと! 是清70歳(大正13年)のころの平均寿命は、45歳以下でした。戦国時代と変わらないんじゃないすか?
しかし、政治の世界は、是清を休ませてはくれませんでした。
同年、加藤高明に請われ、農商務大臣に就任。
是清もさすがに抵抗し、翌年には辞めてます。
やれやれと思ったでしょうが……。
不吉な黒い雲が、日本を覆っていきます。
金融恐慌です。

↑4年前に起きた関東大震災の影響が大きかったそうです。高い塔は、浅草十二階(凌雲閣)。
嵐に襲われた日本経済の舵取り役として、またしても政界に引きずり出されます。
田中義一内閣で、3度目の大蔵大臣に就任(73歳)。
3週間の支払猶予を認める緊急勅令を煥発、大量の紙幣を増発し(片面印刷だったそうです)……。

↑市中で使おうとしても、偽札と思われて受取を拒否されることが多かったとか。
恐慌を沈静化させます。
金融恐慌が収束したのを見届けると、大蔵大臣を辞職。
今度こそと思ったでしょう。
しばらくは、平穏な日々が続いたようですが……。
でも、まだ許してはもらえませんでした。
犬養内閣で、4度目の大蔵大臣に就任(77歳)。
翌年、この犬養毅が、五・一五事件で暗殺されると……。

↑犬養は「話せばわかる」と言いましたが、「問答無用」と射殺されました。話せばわかる相手ではありません。
10日間だけですが、内閣総理大臣も兼任。
斎藤実(是清と同じく二・二六事件で暗殺)内閣で、5度目の大蔵大臣に就任(78歳)。
翌々年、斎藤内閣が総辞職し、岡田内閣が発足すると……。
次官の藤井真信を大蔵大臣に推し、自らは退きます。
やれやれ。
しかし!
その藤井がなんと、肺気腫で倒れて辞任。
是清は、6度目の大蔵大臣に就任します(80歳)。
そして、その翌々年の2月26日。
胸に6発の銃弾を浴び、是清はようやく……。
大蔵大臣を、永遠に退くことが出来たのです(81歳)。

↑多磨霊園に眠ります。
なんという人生なんでしょうね。
人の何倍も生きたと云っていいでしょう。
わたしとしては……。
箱屋(三味線持ち)の路線を行った是清を見てみたかった気がします。
最後は、待合の下足番かなんかで……。
「ダルマさん」と呼ばれて愛されながら一生を終えたんじゃないでしょうか。

↑東京根岸で300年続く料亭『笹乃雪』では、現在も下足番が常勤してるそうです。
ま、是清の性格じゃ、そんなところには落ち着けなかったかも知れませんがね。
さて。
是清の話が長くなりました。
調べてみると、あまりにも魅力的な人物で、筆が止まらなくなった感じです。
機会があれば、もう一度じっくりと向き合ってみたいと思いました。
それでは、『江戸東京たてもの園』に戻りましょう。
↓まずは、是清邸の間取り図です。

思いの外、簡素ですが……。
移築されたのは、主屋部分だけなんです。
赤坂にあったころは、3階建ての土蔵や、離れ座敷もある大邸宅でした。
敷地、2,000坪(正方形とすると、一辺が81メートル)ですからね。
以前にも書いたとおり、江戸時代には……。
丹波篠山藩青山家の中屋敷でした。

丹波篠山の語感から、田舎大名を連想しがちですが……。
れっきとした譜代大名で、幕府の要職にも度々就いてます。
なお、赤坂の隣、青山の地名は、青山家の屋敷があったことに由来するそうです。
さて、是清邸です。
赤坂にこの建物が建ったのは、明治35(1902)年。
是清は、本所押上から、この地に移り住みました。
建物が完成するまでは、敷地内の古屋敷で過ごしたそうです。
その古屋敷が、青山家の中屋敷かどうかは、わかりませんでした。
おそらくは、明治以降に建てられた、さほど立派でない建物だと思います。
というのも、是清の自伝に、↓のような記述があるからです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「この日、かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下を除いて、ほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越した。そうして家内一同新食堂にて屠蘇や雑煮を祝い、久し振りで、人間の住居らしい我が家に新年を迎えた」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
つまり、「邸内の旧家」というのは、「人間の住居」らしくなかったわけです。
しかし……。
不思議な記述です。
「玄関と廊下を除いて」って、これらを除いたら、中に入れないじゃないですかね。
ま、いいとして……。
以後、是清は、昭和11(1936)年2月26日に暗殺されるまでの34年間を、この家で暮らしました。
是清は、家族との団欒や夕食をなによりの楽しみにしていたそうです。

↑これは、葉山の別邸だそうです。この半年後に暗殺されてしまいます。
夕食後に風呂を浴び、2階の寝室と書斎で、ラジオを聞いたり読書をしたりして過ごしたそうです。
孫と一緒に、庭を散歩する姿も見かけられたとか。
しかし、そんな幸せな日々は、軍靴と凶弾により踏みにじられました。

何よりも愛した、2階の部屋で、波乱万丈の生涯は終わりを告げたのです。
二・二六事件の2年後、この家と屋敷地は東京市に寄贈されました。
この主屋部分は、3年後、是清の眠る多摩霊園に移築され、休憩所として使用されたそうです。
屋敷地は公園となり、元あった土蔵が改修され、高橋是清翁記念館となりました。
しかしながら、この記念館は、太平洋戦争で罹災し、消失したそうです。
敷地の一部はカナダ大使館になり、残った部分が『高橋是清翁記念公園』となっています。

↑庭園部分が、そのまま残されてます。是清も、ここを散策したんですね。しかし、歩きずらそうな庭ですね。
さて、もう一度、間取り図を見てみましょう。

『江戸東京たてもの園』の是清邸を、「Google Earth」で見ると、↓のようになります。

当然、上が北です。
どうやら、間取り図は、南北逆さまみたいです。
↓間取り図を回転させてみましょう。

やはり、この向きですね。
『江戸東京たてもの園』では、おそらく、赤坂にあったときの方角どおりに移築されたものと思います。
是清邸は開園当初(1993年)に移築されており、おそらくは開園時の目玉だったと思います。
全体の建物の配置は、センターゾーンにまず是清邸を据えるところから設計されたんじゃないでしょうか。
建てられる方角が違えば、室内に射しこむ陽の角度も違ってしまいます。
方角を合わせなければ、本当の移築とは云えないでしょう。
特に是清邸では、こだわったはずです。
今後の説明に方角が出てきた場合は、玄関を真北と考えてください。
さてそれでは、わたしの撮った写真に沿って歩いてみましょう。
↓まずは、こちら。

↑「み」
ここは、玄関を入って右に折れた、北側の廊下です。
赤い絨毯は、見学用に敷かれたものです。
絨毯に当たる光は、畳の部屋から差してるのではなく……。
右手の北側の窓の明かりのようです。
↓続いて、いきなり階段です。

↑「み」
玄関からまっすぐ抜けた廊下の途中にある階段だと思います。
いきなり、2階を見学したようです。
↓こちらは、2階の一番広い南側の15畳です。

↑「み」
このときは気づきませんでしたが、障子に入ってるのは障子紙ではなく、ガラスです。

“硝子障子”と云うそうで、そうとう高価な建具だったとか。
窓の外の出っ張り、いいですよね。
なんだか、古い旅館にありそうな造りです。
風呂あがりに、ここに腰掛けてビールを飲んだら美味しいでしょうね。
北向きですので、陽も当たりませんし。
↓つづいて、2階南側の廊下。

↑「み」
↓窓枠の縦桟が歪んでるように見えます。

↑「み」
これは、ガラスに歪みがあるため、そういうふうに見えるのです。
建てられた当時に作られたガラスで、ガラス職人が手作りした『手延べ板ガラス』だそうです。
どうやって板ガラスを作るかと云うと……。
まずは、熱したガラスを風船みたいに吹いて長細く膨らませます。

↑この吹き方で長くしたら、絶対に垂れ下がりますよね。台に上がるとかして、パイプを垂直にして吹いたんじゃないでしょうか?
で、細長くなった風船状の両端を切断します。
これで、円筒形のガラスが出来ます。
それを冷まして固まったところで、真ん中に、縦に一筋、切れ目を入れます。
再びガラスを加熱して、切れ目から開いて板状にするわけです。
表面には自然な凹凸が残るため、ガラスの向こうが歪んで見えるのです。

↑徳川慶喜の弟で水戸藩11代藩主だった徳川昭武が千葉県松戸市に建てた家(明治17年竣工)。
しかし凹凸は、決して窓ガラスとしての欠陥ではありません。
むしろ、窓の向こうが別世界に見えるような、独特の風合いが生まれるのです。
この製作には、大変な熟練技が必要だったそうです。
今では製法を受け継ぐ職人が存在せず、『手延べ板ガラス』の再現は不可能だとか。
つまり、高橋邸のガラスは、割れたらもう、替えることが出来ないものなのです。
↓同じ廊下です。

↑「み」
前の写真の廊下をまっすぐ突き当たって、左に折れたところから、振り返って撮ったんだと思います。
ところで、さっきから“廊下”と書いてますが……。
こういう造りは、どういう名称なんでしょうね。
広縁でいいんでしょうか?
サンルームに近い感じです。
旅館では、よく用いられてますね。
テーブルと向かい合わせの椅子が置かれてるスペースです。

旅館でこの椅子に座ると、旅先だなぁという感興がわいてくるものです。
子供のころの家族旅行で……。
窓の外が山の斜面で、木々を隠すように山霧がかかってたのを覚えてます。

大人になってからは、ここで冷蔵庫から出したビールを飲むのが定番になりました。

↑高いんですけどね。「今日くらいいいよね」で飲んでしまいます。
↓ここで、もう一度、2階の間取り図を確認してみましょう。

広縁は、十畳と八畳の間を囲むように巡らされてます。
そして、この2間こそが是清の居室であり、暗殺の現場となった部屋なのです。
↓説明板が置いてありました。

この説明板では、どちらが寝室でどちらが書斎か書かれてません。
はなはだ不確かな文章ですね。
わたしが上司なら、こんな文章には即ダメ出しするんですが……。
そのまま掲示されてあるということは、たぶん偉い人が自分で書いたんでしょう。
チェック機能が働いてません。
それでは、わたしが撮影した部屋の写真をご覧いただきましょう。
と思ったら……。
にゃんと!
わたしは、説明板以降、2階の写真を1枚も撮ってませんでした。

なぜじゃ!
ま、しかたありません。
わたしが是清について調べたのは、まさにこの旅行記を書いてからなのですから。
『江戸東京たてもの園』を見物してるころは……。
名前は聞いたことがあるな、というくらいの知識でした。
まったくもって、予習の大切さを痛感いたします。
もう一度戻って撮り直したいくらいですが……。
それは言っても詮無きこと。
拝借画像で、ご説明するしかありません。
↓ネット画像を探索したところ、上記の説明板は、八畳間に置いてありました。

おそらくは、八畳間が寝室で、十畳間が書斎だったのでしょう。
↓まずは、書斎の十畳間です。

↑正面の窓は、東側。↑の間取り図では、十畳間から左側を見た画像。見えてる屋根は、隣の『西川家別邸』。
だだっ広いだけですね。
生前の是清が、どういう風に書斎に使ってたかの写真は残ってないのでしょう。
文机などを置きたいところですが……。
↓さっきの説明板を読むと、違うことがわかります。

寝室には文机ですが、書斎には洋机とあります。
仕事する分には、文机より洋机の方が、遥かに効率的だと思います。
特に、書棚に資料などを置いている場合。
文机だと、いちいち立ち上がらなくちゃなりませんから。
たぶん、一角に絨毯を引いて、洋机を置いたんじゃないでしょうか。

↑なかなか近いイメージの画像がありません。
南側は明るすぎると思うので、東側ですかね。
北側の床の間との角のところ。

↑左上の角のあたり。
↓上の写真から、真後ろ方向の画像。

襖の奥が、寝室の八畳です。
すなわち、是清が暗殺された部屋。
この八畳に、兵士十数名がなだれこみ……。
白い寝間着で布団に座ってた是清に、銃弾を浴びせたのです。
軍刀でとどめまで刺してます。
むろん、そんなことをしなくても、即死でした。
胸に、6発当たってたそうですから。
まさに、狂人どもの所業です。
ISと何ら変わりがありません。
是清は、この部屋で、どういう向きに寝てたのでしょうか。
普通、床の間を枕ですよね。
床の間は、西側です。
そうか。
東側は、襖で閉め切られてるわけです。
朝日が入りません。
寝室にはもってこいですね。
ていうか、当然、そういう目的で設計されたのでしょうけど。
わたしは当日、ここが惨劇のあった部屋だとは知らずに、漫然と見学してたと思われます。
1枚も写真を撮ってなかったのが、その証拠です。
で、改めて疑問に思ったのは、銃痕が残ってないのだろうかということ。
至近距離から軍用拳銃で撃ったのですから、弾は是清の身体を貫通してるはずです。
立った兵士が、布団に座ってる是清を狙ったら、弾の方向は下向き。
体外に抜けた銃弾は、すべて畳に潜ったとも考えられます。
しかし、当たったのが6発としても、発射した全弾が命中したのでしょうか。
外れた弾もあったのでは?
床の間や柱に、まったく傷がつかなかったとは考えにくいです。
しかし……。
ネットを探しても、この部屋に銃痕が残ってるという情報はありませんでした。
是清邸は、『江戸東京たてもの園』に移される前……。
多磨霊園に移築され、『仁翁閣』と云う有料休憩所として使われてました。
おそらく、その折に、内部はリフォームされたのでしょう。
霊園の休憩所に銃痕が残ってたら、生々しすぎますからね。
↓最後に、もう一度、広縁の写真を。

灰皿のような四角柱から、人止めのバーが渡ってます。
これはおそらく、あの『手延べ板ガラス』を守るためのものでしょう。
割れたら、替えが効かないんですから。
隅の丸椅子は、混雑時にボランティアが見張るためのものじゃないでしょうか。
今後も、ガラスが無事なことを祈ります。
2階の見学は、ここまででした。
なんともあっさりしたものでしたが……。
当日は、是清に思い入れがありませんでしたから、仕方ありません。
説明板も、写真を撮っただけで、文章は読んでなかったのでしょう。
センターゾーンを後回しにしてしまったのも、あっさりとした原因です。
たぶん、そうとう疲れてたんだと思います。
↓階段を下ります。

↑「み」。踏みこみすぎて、爪先が写ってしまいましたね。
上ってきたときとは、違う階段です。
1階と2階をつなぐ階段は、2箇所あるのです。
↓もう一度、間取り図をどうぞ。

↓わたしが上ってきたのは、十五畳の左側にある階段。

↑「み」
「上り専用」とありますが、もちろん階段ですから下ることも出来ます。
上りと下りを分けてるのは、見学者用ですね。
すれ違うには狭いんです。
間取り図を見ると、階段幅は畳の短辺と同じです。
90㎝ですね。
デブは、挟まりかねません。

↑京都府のゆるキャラ『まゆまろ』、太り過ぎてエレベーターに挟まる。
もっとゆったりした階段にしても良かったと思うんですけどね。
2,000坪もあるんだから。
是清が住まってた当時、見学者が下る八畳間脇の階段は、是清専用だったそうです。
二・二六事件当日、叛乱軍は、どっちの階段を上ってきたんでしょうね。
おそらくは、玄関からまっすぐ行った、「上り専用」の方でしょう。
是清は、逆の階段から逃げられなかったんでしょうか。
ま、おそらくは、叛乱軍も、2手に分かれてたでしょうしね。
隠れる場所と云ったら、八畳間の押入れか、右上角の物入れしかありません。
あと、床の間に座って、置き物のフリをするとか。

どうして、忍者屋敷みたいな仕掛けを作っておかなかったんですかね。

↑『伊賀流忍者博物館(三重県伊賀市)』。
↓2階の広縁から、1階の屋根に降りられないものでしょうか。

ま、今さら言っても詮無いことです。
是清は、端然と布団に座したままだったようです。
↓さて、再び1階に降りてきました。

↑「み」
↓これは、平面図で云うと、右上角の階段から広い廊下に出て、北(下)方向を撮った画像。

2階に上る前に最初に撮った廊下(↓)の反対側からの写真になります。

↑「み」
実は、一番興味を持ったのが、この廊下なんです。
窓の下が、物入れになってます。
いったいここには、何を入れてたのでしょう?
赤坂では、3階建ての土蔵が別にありました。
食堂とは離れてますから、食器類とは考えにくい。
↓上の廊下を右に折れると、さらに玄関に続く廊下となります。

↑「み」
ここにも、窓の下に物入れのような設備があります。
ま、確かに便利ではあるのでしょうが……。
この廊下に面するのは、表座敷です。
これほどの収納スペースは、必要ないように思えます。

↑手前が十二畳。右が仏間。奥が十畳。
ひょっとしたら、これは……。
ガラスを節約するためと、ガラスを守るための作りじゃないでしょうか。
この出っ張った収納部が無ければ、床までのガラス戸になります。
それじゃ、予算オーバーだった。
で、ガラスは、上半分だけにすることになった。
もちろん最初は、上半分がガラスで、下半分が板張りの戸を考えたわけです。

↑こんなイメージ。
ここで是清、はたと考えました。
自らの過去の行状からみて、この屋敷を訪れる客の中には……。
あまり紳士的でない人物も見こまれた。
で、そういう客は、酒を飲ますと、さらに紳士的でなくなる。

↑さすがに、ここまでのはいないでしょうが。
この廊下は、玄関脇のトイレに往復するとき、必ず通ります。
ガラスに指でいたずら書きする程度ならいいですが……。
ぐでんぐでん状態でここを通るとき、ガラス戸にぶつからないとも限らない。
ガラスが割れたら大損害です。

もちろん、割った本人も怪我をしかねない。
さらにそういう輩は、自分が悪いことを棚に上げて、高額な治療費を請求しかねない。

あ、そうか。
「棚に上げ」ればいいんだ。
ということで、上半分のガラスを引っこめ、棚を作ることにした。

下半分は、どうせだから物入れにしよう。

こんな塩梅じゃないでしょうか。
おそらく、この物入れ、大した活用はなされてなかったんじゃないですかね。
貰い物の皿なんかが突っこまれてただけのような気がします。
と、勝手なことばかり想像してしまいますが……。
実に、想像力を掻き立てる屋敷ではあります。
今どきのステレオタイプな住宅では、こんな想像の翼は広がりません。
↓わたしが最後に撮った写真は、これ。

↑「み」
仏間を、その前室から撮った写真です。
現代住宅で、仏壇専用の部屋がある家は、滅多にないでしょう。
でも、田舎の古い家では珍しくないと思います。
かくいうわたしの父の実家もそうです。
1,500坪の敷地に建つ古い家ですが……。
やはり、仏間と前室があります。
仏間には、仏壇の前に、経台と座布団、巨大な木魚などがあります。

↑こんな感じ。
座布団は、1枚です。
基本、仏間に入る定員は、1名なのでしょう。
実際、お坊さんがお経を上げてるときは、この座布団に座り……。

家族は、前室に控えてます。
弔問客がお線香を上げるときも、基本的には仏間に入るのは1人で……。
続く人は、前室に控えてるのでしょう。
あ、そうそう。
↓ネットで画像を探してて、気になる一角がありました。

ずいぶんと斬新な意匠だと感心しましたが……。
実はこれ、東日本大震災後に耐震補強されたものだそうです。
それなら、説明書きが必要でないの?
普通の見学者は、座敷牢かと思いかねません。
さて、『江戸東京たてもの園』で撮った写真は、以上ですべてでした。
なんと、センターゾーンでは、『西川家別邸』と『高橋是清邸』しか撮ってませんでした。
どうやら限界で、あとは省略したようです。
センターゾーンの残りの建物は……。
例によって、パンフレットと拝借画像でご紹介することにします。
↓まず最初は、こちら。

人家ではないのは、ひと目でわかります。
『旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)』です。
↓パンフレットの説明書き。
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尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋です。
この建物は東京都の文化財指定を受けています。
【新宿区富久町/1652(慶安5)年】※東京都指定有形文化財
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↓新宿区富久町は、このあたり。

↓地図を拡大してみましょう。

なんと、自証院がまだありました。
自証院は、お振の方の法名だそうです。
お振の方が亡くなったのは、1640(寛永17)年。
当初は、新宿区榎町の法常寺に葬られたそうですが……。
1652(慶安5)年、自証院に建てられた霊屋に改葬されたとか。
なぜその霊屋が『江戸東京たてもの園』に移築されたのか……。
その際、お振の方の御霊がどちらに移られたのか、ざっと調べただけではわかりませんでした。
ま、おそらく、お寺自らが管理していくのは、難しくなったんでしょうね。
なにしろ、この霊屋は江戸城や日光東照宮を手掛けた大工の作だそうです。
その補修を、近所の工務店に頼むわけにはいきませんから。
話は変わりますが、現在、お寺の修繕費用がなかなか集まらず、大変なようです。
そういった費用は、檀家に寄付を募ることになります。
寄付と云っても、1,000円とかのレベルの話ではありません。
数万単位、ヘタすれば、10万とかになります。
問題は、檀家が代替わりしてること。
昔の檀家であれば、そういったお金が必要になることを見越して……。
別に積み立てて置いたりしたものです。
でも、代替わりした若手は、そんなことしてません。
「何で、寺に10万も取られにゃならんのだ」となります。
何とかと頼みこめば、「そんな無理強いするなら檀家なんかやめる」で終わりです。
新潟でも、大雪で寺の屋根が傾いたりして、大変なようです。
お坊さんの方も代替わりしてて、法話も満足に出来ないような倅が後を継いでたりします。
そういうお坊さんには、頭を下げて檀家を回るなんてことも出来ないでしょうしね。
昔は、お寺がコミュニティの中心でした。
お寺の修繕があるとなれば、たとえ自分の家が傾いてても、お寺を優先したでしょう。
今は、そんなことは望むべくもありません。
さて続いては、こちら。

『伊達家の門』です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。
<起(むく)り屋根>の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫の家紋が施されています。
【港区白金二丁目/大正期】
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓「<起(むく)り屋根>の片番所」というのは、向かって右側の建物。

番所というのは、門番の詰め所です。
「片番所」は、それが門の片側にだけある造り。
両側にある場合は、「両番所」と云いました。
別に、予算の関係で片側だけにしたわけではありません。
「両番所」が設けられる大名は、格式により厳しく取り決められてました。
外様の小藩(10万石)である宇和島藩伊達家には、「両番所」は許されなかったわけです。
ところで、伊達と云えば、仙台藩をまず連想します。
まさしく、この宇和島藩伊達家の祖は、伊達政宗の長男、伊達秀宗でした。
仙台藩を継いだのは、次男の忠宗。
なぜそうなったかと云うと、秀宗が側室の子であるのに対し、忠宗が正室の子だったからです。
と云って、決して正宗から疎んじられたわけではなく……。
秀宗が宇和島に入るに際し、政宗は、伊達家中から自らが選んだ騎馬団(57騎)のほか、計1,200人の家臣団を付けて送ったそうです。
秀宗が、伊予国宇和郡に入ったのは、元和元(1615)年。
以来、転封されることもなく、幕末まで続きます。
しかし、不思議なのは、この『伊達家の門』が作られた時期。
大正期です。
なんで、こんなのをわざわざ建てたんですかね。
↓港区白金二丁目は、このあたり。

ここは、伊達家の下屋敷だったようです。
でも、大正期にこんな門を建てるわけですから、没落はしてなかったということでしょう。
実際、宇和島藩伊達家は、新政府で活躍したため、侯爵に列せられたそうです。
奥羽越列藩同盟に連座した仙台藩伊達家は伯爵止まりでしたから、家格が逆転したわけです。
ひょっとしたら、大正期にこんな門を建てたのは、そういった意識があったのかも知れません。
↓説明書きの文章にある「起(むく)り屋根」とは、こういうことです。

同じく、説明書きの文章にある「冠木(かぶき)」と云うのは……。
↓門や鳥居などで左右の柱の上部を貫く横木

「宇和島藩伊達家の木彫の家紋」というのは、↓これ。

↓さて、続いてはこちら。

『会水庵(かいすいあん)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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宗偏流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた茶室です。
1957(昭和32)年、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。
本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室です。
【杉並区西荻北五丁目/大正期頃】
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専門用語を並べ立ててあるだけで、茶道の素人にはさっぱりわかりませんね。
ま、字数が限られてるわけですから、仕方ありません。
知りたければ自分で調べろということでしょう。
それでは、調べてみせようホトトギス。
↑ホトトギスの鳴き声。ホトトギスは、ウグイスの巣に卵を産みつけて雛を育ててもらう(托卵)という悪の鳥。
まずは、「宗偏流(そうへんりゅう)」から。
その前に、↑の“偏”の字ですが……。
↓実際には“にんべん”ではなく、“ぎょうにんべん”です。

でも、わたしのエディタでは字が表示されないので、このままにさせていただきます。
「宗偏流」は、山田宗偏という人が興した茶道の一派です。
聞いたことのない人でした。

↑思いの外、偉い人のようです。
寛永4(1627)年の生まれ。
江戸初期の茶人ですね。
生まれたのは京都。
↓現在の住所で、京都市上京区菊屋町255。

↑御所の真ん前ですね。
東本願寺末寺の長徳寺の住職の子でした。

↑なんと、現存してました。さすが京都ですね。
いったんは、父の跡を継いで住職となりますが……。
茶道を志して還俗。
小堀遠州に入門とのこと。
なお、山田の姓は母方のものだそうです。
小堀遠州は、茶道家としてよりむしろ、作庭家として有名ですが……。
そちらに逸れると際限が無くなるので止めます。

↑小堀遠州の代表作のひとつ『二条城二の丸庭園』。

↑唐津城。見事な景色ですね。
唐津の英語学校の教員となります。
ま、英語が堪能であれば、すぐに教員になれたんでしょうね。
校長かなにかを待ち伏せて、英語でまくしたてれば、相手も仰天して雇ったのかも知れません。
これが、17歳。
ところが翌年、もうこの教官を辞めて上京します。
ここで再び森を頼ったようで……。
森の引きで文部省に入省することができ、十等出仕(しゅっし)となります。

↑なんで、手前に大八車があるんですかね?
ちなみに、当時の出仕(国家公務員の位)は十五等まであったようですから……。
入省時に十等なら、上等なんじゃないでしょうか。
19歳のときでした。
この後の是清ですが……。
とにかく、いろんな役所を出たり入ったりします。
入ると、有能なので重用されるのですが……。
いわゆる官吏肌ではなかったのでしょう。
『駅逓寮(郵政省の前身)』では、前島密(ひそか)と喧嘩して飛び出したりしてます。

↑越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市)出身。今でも、1円切手の肖像となってます。
でも、33歳のときには、特許局長にまでなってます。

↑『東京特許許可局』は、早口言葉のために作られた架空の役所です(NHKアナウンサー採用音声試験の出題だったそうです)。
さらに、東京農林学校(東大農学部の前身)校長も兼任。
三味線持ちからは、異例の出世です。
このまま落ち着いてしまえば、穏やかな人生が送れてたのでしょうが……。
残念ながら是清は、落ち着いていられない人でした。
すべての官職を投げ打って、ペルーに行ってしまうのです。

銀山開発のためです。
35歳のときでした。
しかし!
大金を叩いて買った銀山は、すでに銀を掘り尽くされ、ズリ石(廃石)しか残ってなかったのです。

↑金ヶ沢金山跡(宮城県本吉郡南三陸町)に堆積するズリ石。
また、騙されたんですね。

やむなく帰国を余儀なくされた是清でしたが……。
まだ懲りませんでした。
今度は、群馬県の天沼金山(群馬県利根郡みなかみ町)に投資します。

↑天沼金山跡。
しかし、残り金を注ぎこんだこの金山も失敗。
敷地1,500坪に洋館付きの家屋敷を手放す羽目となりました。
是清に残ったのは、“山師”という称号だけでした。
普通の人なら、人生これにてお終いです。
しかし、是清は普通の人ではありませんでした。
彼の年譜を見ていと……。
まさに、「捨てる神あれば拾う神あり」という格言を思い起こさずにはおれません。

三菱の三傑と呼ばれた一人、川田小一郎に拾われ……。

日本銀行に入行します。

↑今も残る日本銀行本店。明治29(1896)年(是清入行の4年後)竣工。
“三味線持ち”上がりで、山師の悪評プンプンの男が、日銀に入るんですよ。
たまげますよね。
最初の肩書は、事務主任でした。
是清、38歳のときです。
それからは、トントン拍子の出世です(以下、カッコ内は満年齢)。
翌年には、日銀西部支店長(39歳)。
横浜正金銀行本店支配人(41歳)。
横浜正金銀行副頭取(43歳)。
日本銀行副総裁(45歳)。
貴族院勅選議員勅任(51歳)。
男爵授爵(53歳)。
日本銀行総裁(57歳)。
そして、その2年後、59歳のとき、第一次山本内閣で大蔵大臣に就任。
政友会(初代総裁は伊藤博文)にも入党し、政治の世界に入っていきます。

↑政友会本部【東京市芝区芝公園五号地(現・東京都港区芝公園一丁目】。
ここまで来るともう、自分の身であって、自分の身ではなくなってしまってたでしょう。
政治のしがらみに絡み取られ……。
もはや、勝手にペルーに行ったりは出来なくなります。
大蔵大臣を、2回勤めた後、子爵授爵(66歳)。
そして、翌年……。
総理大臣の原敬が暗殺されます。

↑『東京駅』丸の内南口です。
急遽、是清は、内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任、同時に政友会総裁となります(67歳)。

ついに、政治の世界のトップの座に付きました。
でも、彼は決して、ここを目指して突っ走ってきた人じゃないと思います。
がんじがらめにされたまま、担ぎ上げられたような心境だったんじゃないでしょうか。
しかし、総理の座にいたのは、わずか半年でした。
原敬を失い混乱する政友会をまとめられず、閣内不一致で総辞職となったのです。
是清は内心、「ラッキー♪」と思ったんじゃないでしょうか。
これで、やっと政治の世界から抜けられると。
2年後には、貴族院議員を辞職し、爵位も長男に譲り、隠居します(70歳)。
当時の70歳なら平均寿命を超えてたでしょうから、「お疲れさま」ですよね。

↑なんと! 是清70歳(大正13年)のころの平均寿命は、45歳以下でした。戦国時代と変わらないんじゃないすか?
しかし、政治の世界は、是清を休ませてはくれませんでした。
同年、加藤高明に請われ、農商務大臣に就任。
是清もさすがに抵抗し、翌年には辞めてます。
やれやれと思ったでしょうが……。
不吉な黒い雲が、日本を覆っていきます。
金融恐慌です。

↑4年前に起きた関東大震災の影響が大きかったそうです。高い塔は、浅草十二階(凌雲閣)。
嵐に襲われた日本経済の舵取り役として、またしても政界に引きずり出されます。
田中義一内閣で、3度目の大蔵大臣に就任(73歳)。
3週間の支払猶予を認める緊急勅令を煥発、大量の紙幣を増発し(片面印刷だったそうです)……。

↑市中で使おうとしても、偽札と思われて受取を拒否されることが多かったとか。
恐慌を沈静化させます。
金融恐慌が収束したのを見届けると、大蔵大臣を辞職。
今度こそと思ったでしょう。
しばらくは、平穏な日々が続いたようですが……。
でも、まだ許してはもらえませんでした。
犬養内閣で、4度目の大蔵大臣に就任(77歳)。
翌年、この犬養毅が、五・一五事件で暗殺されると……。

↑犬養は「話せばわかる」と言いましたが、「問答無用」と射殺されました。話せばわかる相手ではありません。
10日間だけですが、内閣総理大臣も兼任。
斎藤実(是清と同じく二・二六事件で暗殺)内閣で、5度目の大蔵大臣に就任(78歳)。
翌々年、斎藤内閣が総辞職し、岡田内閣が発足すると……。
次官の藤井真信を大蔵大臣に推し、自らは退きます。
やれやれ。
しかし!
その藤井がなんと、肺気腫で倒れて辞任。
是清は、6度目の大蔵大臣に就任します(80歳)。
そして、その翌々年の2月26日。
胸に6発の銃弾を浴び、是清はようやく……。
大蔵大臣を、永遠に退くことが出来たのです(81歳)。

↑多磨霊園に眠ります。
なんという人生なんでしょうね。
人の何倍も生きたと云っていいでしょう。
わたしとしては……。
箱屋(三味線持ち)の路線を行った是清を見てみたかった気がします。
最後は、待合の下足番かなんかで……。
「ダルマさん」と呼ばれて愛されながら一生を終えたんじゃないでしょうか。

↑東京根岸で300年続く料亭『笹乃雪』では、現在も下足番が常勤してるそうです。
ま、是清の性格じゃ、そんなところには落ち着けなかったかも知れませんがね。
さて。
是清の話が長くなりました。
調べてみると、あまりにも魅力的な人物で、筆が止まらなくなった感じです。
機会があれば、もう一度じっくりと向き合ってみたいと思いました。
それでは、『江戸東京たてもの園』に戻りましょう。
↓まずは、是清邸の間取り図です。

思いの外、簡素ですが……。
移築されたのは、主屋部分だけなんです。
赤坂にあったころは、3階建ての土蔵や、離れ座敷もある大邸宅でした。
敷地、2,000坪(正方形とすると、一辺が81メートル)ですからね。
以前にも書いたとおり、江戸時代には……。
丹波篠山藩青山家の中屋敷でした。

丹波篠山の語感から、田舎大名を連想しがちですが……。
れっきとした譜代大名で、幕府の要職にも度々就いてます。
なお、赤坂の隣、青山の地名は、青山家の屋敷があったことに由来するそうです。
さて、是清邸です。
赤坂にこの建物が建ったのは、明治35(1902)年。
是清は、本所押上から、この地に移り住みました。
建物が完成するまでは、敷地内の古屋敷で過ごしたそうです。
その古屋敷が、青山家の中屋敷かどうかは、わかりませんでした。
おそらくは、明治以降に建てられた、さほど立派でない建物だと思います。
というのも、是清の自伝に、↓のような記述があるからです。
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「この日、かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下を除いて、ほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越した。そうして家内一同新食堂にて屠蘇や雑煮を祝い、久し振りで、人間の住居らしい我が家に新年を迎えた」
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つまり、「邸内の旧家」というのは、「人間の住居」らしくなかったわけです。
しかし……。
不思議な記述です。
「玄関と廊下を除いて」って、これらを除いたら、中に入れないじゃないですかね。
ま、いいとして……。
以後、是清は、昭和11(1936)年2月26日に暗殺されるまでの34年間を、この家で暮らしました。
是清は、家族との団欒や夕食をなによりの楽しみにしていたそうです。

↑これは、葉山の別邸だそうです。この半年後に暗殺されてしまいます。
夕食後に風呂を浴び、2階の寝室と書斎で、ラジオを聞いたり読書をしたりして過ごしたそうです。
孫と一緒に、庭を散歩する姿も見かけられたとか。
しかし、そんな幸せな日々は、軍靴と凶弾により踏みにじられました。

何よりも愛した、2階の部屋で、波乱万丈の生涯は終わりを告げたのです。
二・二六事件の2年後、この家と屋敷地は東京市に寄贈されました。
この主屋部分は、3年後、是清の眠る多摩霊園に移築され、休憩所として使用されたそうです。
屋敷地は公園となり、元あった土蔵が改修され、高橋是清翁記念館となりました。
しかしながら、この記念館は、太平洋戦争で罹災し、消失したそうです。
敷地の一部はカナダ大使館になり、残った部分が『高橋是清翁記念公園』となっています。

↑庭園部分が、そのまま残されてます。是清も、ここを散策したんですね。しかし、歩きずらそうな庭ですね。
さて、もう一度、間取り図を見てみましょう。

『江戸東京たてもの園』の是清邸を、「Google Earth」で見ると、↓のようになります。

当然、上が北です。
どうやら、間取り図は、南北逆さまみたいです。
↓間取り図を回転させてみましょう。

やはり、この向きですね。
『江戸東京たてもの園』では、おそらく、赤坂にあったときの方角どおりに移築されたものと思います。
是清邸は開園当初(1993年)に移築されており、おそらくは開園時の目玉だったと思います。
全体の建物の配置は、センターゾーンにまず是清邸を据えるところから設計されたんじゃないでしょうか。
建てられる方角が違えば、室内に射しこむ陽の角度も違ってしまいます。
方角を合わせなければ、本当の移築とは云えないでしょう。
特に是清邸では、こだわったはずです。
今後の説明に方角が出てきた場合は、玄関を真北と考えてください。
さてそれでは、わたしの撮った写真に沿って歩いてみましょう。
↓まずは、こちら。

↑「み」
ここは、玄関を入って右に折れた、北側の廊下です。
赤い絨毯は、見学用に敷かれたものです。
絨毯に当たる光は、畳の部屋から差してるのではなく……。
右手の北側の窓の明かりのようです。
↓続いて、いきなり階段です。

↑「み」
玄関からまっすぐ抜けた廊下の途中にある階段だと思います。
いきなり、2階を見学したようです。
↓こちらは、2階の一番広い南側の15畳です。

↑「み」
このときは気づきませんでしたが、障子に入ってるのは障子紙ではなく、ガラスです。

“硝子障子”と云うそうで、そうとう高価な建具だったとか。
窓の外の出っ張り、いいですよね。
なんだか、古い旅館にありそうな造りです。
風呂あがりに、ここに腰掛けてビールを飲んだら美味しいでしょうね。
北向きですので、陽も当たりませんし。
↓つづいて、2階南側の廊下。

↑「み」
↓窓枠の縦桟が歪んでるように見えます。

↑「み」
これは、ガラスに歪みがあるため、そういうふうに見えるのです。
建てられた当時に作られたガラスで、ガラス職人が手作りした『手延べ板ガラス』だそうです。
どうやって板ガラスを作るかと云うと……。
まずは、熱したガラスを風船みたいに吹いて長細く膨らませます。

↑この吹き方で長くしたら、絶対に垂れ下がりますよね。台に上がるとかして、パイプを垂直にして吹いたんじゃないでしょうか?
で、細長くなった風船状の両端を切断します。
これで、円筒形のガラスが出来ます。
それを冷まして固まったところで、真ん中に、縦に一筋、切れ目を入れます。
再びガラスを加熱して、切れ目から開いて板状にするわけです。
表面には自然な凹凸が残るため、ガラスの向こうが歪んで見えるのです。

↑徳川慶喜の弟で水戸藩11代藩主だった徳川昭武が千葉県松戸市に建てた家(明治17年竣工)。
しかし凹凸は、決して窓ガラスとしての欠陥ではありません。
むしろ、窓の向こうが別世界に見えるような、独特の風合いが生まれるのです。
この製作には、大変な熟練技が必要だったそうです。
今では製法を受け継ぐ職人が存在せず、『手延べ板ガラス』の再現は不可能だとか。
つまり、高橋邸のガラスは、割れたらもう、替えることが出来ないものなのです。
↓同じ廊下です。

↑「み」
前の写真の廊下をまっすぐ突き当たって、左に折れたところから、振り返って撮ったんだと思います。
ところで、さっきから“廊下”と書いてますが……。
こういう造りは、どういう名称なんでしょうね。
広縁でいいんでしょうか?
サンルームに近い感じです。
旅館では、よく用いられてますね。
テーブルと向かい合わせの椅子が置かれてるスペースです。

旅館でこの椅子に座ると、旅先だなぁという感興がわいてくるものです。
子供のころの家族旅行で……。
窓の外が山の斜面で、木々を隠すように山霧がかかってたのを覚えてます。

大人になってからは、ここで冷蔵庫から出したビールを飲むのが定番になりました。

↑高いんですけどね。「今日くらいいいよね」で飲んでしまいます。
↓ここで、もう一度、2階の間取り図を確認してみましょう。

広縁は、十畳と八畳の間を囲むように巡らされてます。
そして、この2間こそが是清の居室であり、暗殺の現場となった部屋なのです。
↓説明板が置いてありました。

この説明板では、どちらが寝室でどちらが書斎か書かれてません。
はなはだ不確かな文章ですね。
わたしが上司なら、こんな文章には即ダメ出しするんですが……。
そのまま掲示されてあるということは、たぶん偉い人が自分で書いたんでしょう。
チェック機能が働いてません。
それでは、わたしが撮影した部屋の写真をご覧いただきましょう。
と思ったら……。
にゃんと!
わたしは、説明板以降、2階の写真を1枚も撮ってませんでした。

なぜじゃ!
ま、しかたありません。
わたしが是清について調べたのは、まさにこの旅行記を書いてからなのですから。
『江戸東京たてもの園』を見物してるころは……。
名前は聞いたことがあるな、というくらいの知識でした。
まったくもって、予習の大切さを痛感いたします。
もう一度戻って撮り直したいくらいですが……。
それは言っても詮無きこと。
拝借画像で、ご説明するしかありません。
↓ネット画像を探索したところ、上記の説明板は、八畳間に置いてありました。

おそらくは、八畳間が寝室で、十畳間が書斎だったのでしょう。
↓まずは、書斎の十畳間です。

↑正面の窓は、東側。↑の間取り図では、十畳間から左側を見た画像。見えてる屋根は、隣の『西川家別邸』。
だだっ広いだけですね。
生前の是清が、どういう風に書斎に使ってたかの写真は残ってないのでしょう。
文机などを置きたいところですが……。
↓さっきの説明板を読むと、違うことがわかります。

寝室には文机ですが、書斎には洋机とあります。
仕事する分には、文机より洋机の方が、遥かに効率的だと思います。
特に、書棚に資料などを置いている場合。
文机だと、いちいち立ち上がらなくちゃなりませんから。
たぶん、一角に絨毯を引いて、洋机を置いたんじゃないでしょうか。

↑なかなか近いイメージの画像がありません。
南側は明るすぎると思うので、東側ですかね。
北側の床の間との角のところ。

↑左上の角のあたり。
↓上の写真から、真後ろ方向の画像。

襖の奥が、寝室の八畳です。
すなわち、是清が暗殺された部屋。
この八畳に、兵士十数名がなだれこみ……。
白い寝間着で布団に座ってた是清に、銃弾を浴びせたのです。
軍刀でとどめまで刺してます。
むろん、そんなことをしなくても、即死でした。
胸に、6発当たってたそうですから。
まさに、狂人どもの所業です。
ISと何ら変わりがありません。
是清は、この部屋で、どういう向きに寝てたのでしょうか。
普通、床の間を枕ですよね。
床の間は、西側です。
そうか。
東側は、襖で閉め切られてるわけです。
朝日が入りません。
寝室にはもってこいですね。
ていうか、当然、そういう目的で設計されたのでしょうけど。
わたしは当日、ここが惨劇のあった部屋だとは知らずに、漫然と見学してたと思われます。
1枚も写真を撮ってなかったのが、その証拠です。
で、改めて疑問に思ったのは、銃痕が残ってないのだろうかということ。
至近距離から軍用拳銃で撃ったのですから、弾は是清の身体を貫通してるはずです。
立った兵士が、布団に座ってる是清を狙ったら、弾の方向は下向き。
体外に抜けた銃弾は、すべて畳に潜ったとも考えられます。
しかし、当たったのが6発としても、発射した全弾が命中したのでしょうか。
外れた弾もあったのでは?
床の間や柱に、まったく傷がつかなかったとは考えにくいです。
しかし……。
ネットを探しても、この部屋に銃痕が残ってるという情報はありませんでした。
是清邸は、『江戸東京たてもの園』に移される前……。
多磨霊園に移築され、『仁翁閣』と云う有料休憩所として使われてました。
おそらく、その折に、内部はリフォームされたのでしょう。
霊園の休憩所に銃痕が残ってたら、生々しすぎますからね。
↓最後に、もう一度、広縁の写真を。

灰皿のような四角柱から、人止めのバーが渡ってます。
これはおそらく、あの『手延べ板ガラス』を守るためのものでしょう。
割れたら、替えが効かないんですから。
隅の丸椅子は、混雑時にボランティアが見張るためのものじゃないでしょうか。
今後も、ガラスが無事なことを祈ります。
2階の見学は、ここまででした。
なんともあっさりしたものでしたが……。
当日は、是清に思い入れがありませんでしたから、仕方ありません。
説明板も、写真を撮っただけで、文章は読んでなかったのでしょう。
センターゾーンを後回しにしてしまったのも、あっさりとした原因です。
たぶん、そうとう疲れてたんだと思います。
↓階段を下ります。

↑「み」。踏みこみすぎて、爪先が写ってしまいましたね。
上ってきたときとは、違う階段です。
1階と2階をつなぐ階段は、2箇所あるのです。
↓もう一度、間取り図をどうぞ。

↓わたしが上ってきたのは、十五畳の左側にある階段。

↑「み」
「上り専用」とありますが、もちろん階段ですから下ることも出来ます。
上りと下りを分けてるのは、見学者用ですね。
すれ違うには狭いんです。
間取り図を見ると、階段幅は畳の短辺と同じです。
90㎝ですね。
デブは、挟まりかねません。

↑京都府のゆるキャラ『まゆまろ』、太り過ぎてエレベーターに挟まる。
もっとゆったりした階段にしても良かったと思うんですけどね。
2,000坪もあるんだから。
是清が住まってた当時、見学者が下る八畳間脇の階段は、是清専用だったそうです。
二・二六事件当日、叛乱軍は、どっちの階段を上ってきたんでしょうね。
おそらくは、玄関からまっすぐ行った、「上り専用」の方でしょう。
是清は、逆の階段から逃げられなかったんでしょうか。
ま、おそらくは、叛乱軍も、2手に分かれてたでしょうしね。
隠れる場所と云ったら、八畳間の押入れか、右上角の物入れしかありません。
あと、床の間に座って、置き物のフリをするとか。

どうして、忍者屋敷みたいな仕掛けを作っておかなかったんですかね。

↑『伊賀流忍者博物館(三重県伊賀市)』。
↓2階の広縁から、1階の屋根に降りられないものでしょうか。

ま、今さら言っても詮無いことです。
是清は、端然と布団に座したままだったようです。
↓さて、再び1階に降りてきました。

↑「み」
↓これは、平面図で云うと、右上角の階段から広い廊下に出て、北(下)方向を撮った画像。

2階に上る前に最初に撮った廊下(↓)の反対側からの写真になります。

↑「み」
実は、一番興味を持ったのが、この廊下なんです。
窓の下が、物入れになってます。
いったいここには、何を入れてたのでしょう?
赤坂では、3階建ての土蔵が別にありました。
食堂とは離れてますから、食器類とは考えにくい。
↓上の廊下を右に折れると、さらに玄関に続く廊下となります。

↑「み」
ここにも、窓の下に物入れのような設備があります。
ま、確かに便利ではあるのでしょうが……。
この廊下に面するのは、表座敷です。
これほどの収納スペースは、必要ないように思えます。

↑手前が十二畳。右が仏間。奥が十畳。
ひょっとしたら、これは……。
ガラスを節約するためと、ガラスを守るための作りじゃないでしょうか。
この出っ張った収納部が無ければ、床までのガラス戸になります。
それじゃ、予算オーバーだった。
で、ガラスは、上半分だけにすることになった。
もちろん最初は、上半分がガラスで、下半分が板張りの戸を考えたわけです。

↑こんなイメージ。
ここで是清、はたと考えました。
自らの過去の行状からみて、この屋敷を訪れる客の中には……。
あまり紳士的でない人物も見こまれた。
で、そういう客は、酒を飲ますと、さらに紳士的でなくなる。

↑さすがに、ここまでのはいないでしょうが。
この廊下は、玄関脇のトイレに往復するとき、必ず通ります。
ガラスに指でいたずら書きする程度ならいいですが……。
ぐでんぐでん状態でここを通るとき、ガラス戸にぶつからないとも限らない。
ガラスが割れたら大損害です。

もちろん、割った本人も怪我をしかねない。
さらにそういう輩は、自分が悪いことを棚に上げて、高額な治療費を請求しかねない。

あ、そうか。
「棚に上げ」ればいいんだ。
ということで、上半分のガラスを引っこめ、棚を作ることにした。

下半分は、どうせだから物入れにしよう。

こんな塩梅じゃないでしょうか。
おそらく、この物入れ、大した活用はなされてなかったんじゃないですかね。
貰い物の皿なんかが突っこまれてただけのような気がします。
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と、勝手なことばかり想像してしまいますが……。
実に、想像力を掻き立てる屋敷ではあります。
今どきのステレオタイプな住宅では、こんな想像の翼は広がりません。
↓わたしが最後に撮った写真は、これ。

↑「み」
仏間を、その前室から撮った写真です。
現代住宅で、仏壇専用の部屋がある家は、滅多にないでしょう。
でも、田舎の古い家では珍しくないと思います。
かくいうわたしの父の実家もそうです。
1,500坪の敷地に建つ古い家ですが……。
やはり、仏間と前室があります。
仏間には、仏壇の前に、経台と座布団、巨大な木魚などがあります。

↑こんな感じ。
座布団は、1枚です。
基本、仏間に入る定員は、1名なのでしょう。
実際、お坊さんがお経を上げてるときは、この座布団に座り……。

家族は、前室に控えてます。
弔問客がお線香を上げるときも、基本的には仏間に入るのは1人で……。
続く人は、前室に控えてるのでしょう。
あ、そうそう。
↓ネットで画像を探してて、気になる一角がありました。

ずいぶんと斬新な意匠だと感心しましたが……。
実はこれ、東日本大震災後に耐震補強されたものだそうです。
それなら、説明書きが必要でないの?
普通の見学者は、座敷牢かと思いかねません。
さて、『江戸東京たてもの園』で撮った写真は、以上ですべてでした。
なんと、センターゾーンでは、『西川家別邸』と『高橋是清邸』しか撮ってませんでした。
どうやら限界で、あとは省略したようです。
センターゾーンの残りの建物は……。
例によって、パンフレットと拝借画像でご紹介することにします。
↓まず最初は、こちら。

人家ではないのは、ひと目でわかります。
『旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)』です。
↓パンフレットの説明書き。
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尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋です。
この建物は東京都の文化財指定を受けています。
【新宿区富久町/1652(慶安5)年】※東京都指定有形文化財
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓新宿区富久町は、このあたり。

↓地図を拡大してみましょう。

なんと、自証院がまだありました。
自証院は、お振の方の法名だそうです。
お振の方が亡くなったのは、1640(寛永17)年。
当初は、新宿区榎町の法常寺に葬られたそうですが……。
1652(慶安5)年、自証院に建てられた霊屋に改葬されたとか。
なぜその霊屋が『江戸東京たてもの園』に移築されたのか……。
その際、お振の方の御霊がどちらに移られたのか、ざっと調べただけではわかりませんでした。
ま、おそらく、お寺自らが管理していくのは、難しくなったんでしょうね。
なにしろ、この霊屋は江戸城や日光東照宮を手掛けた大工の作だそうです。
その補修を、近所の工務店に頼むわけにはいきませんから。
話は変わりますが、現在、お寺の修繕費用がなかなか集まらず、大変なようです。
そういった費用は、檀家に寄付を募ることになります。
寄付と云っても、1,000円とかのレベルの話ではありません。
数万単位、ヘタすれば、10万とかになります。
問題は、檀家が代替わりしてること。
昔の檀家であれば、そういったお金が必要になることを見越して……。
別に積み立てて置いたりしたものです。
でも、代替わりした若手は、そんなことしてません。
「何で、寺に10万も取られにゃならんのだ」となります。
何とかと頼みこめば、「そんな無理強いするなら檀家なんかやめる」で終わりです。
新潟でも、大雪で寺の屋根が傾いたりして、大変なようです。
お坊さんの方も代替わりしてて、法話も満足に出来ないような倅が後を継いでたりします。
そういうお坊さんには、頭を下げて檀家を回るなんてことも出来ないでしょうしね。
昔は、お寺がコミュニティの中心でした。
お寺の修繕があるとなれば、たとえ自分の家が傾いてても、お寺を優先したでしょう。
今は、そんなことは望むべくもありません。
さて続いては、こちら。

『伊達家の門』です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。
<起(むく)り屋根>の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫の家紋が施されています。
【港区白金二丁目/大正期】
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↓「<起(むく)り屋根>の片番所」というのは、向かって右側の建物。

番所というのは、門番の詰め所です。
「片番所」は、それが門の片側にだけある造り。
両側にある場合は、「両番所」と云いました。
別に、予算の関係で片側だけにしたわけではありません。
「両番所」が設けられる大名は、格式により厳しく取り決められてました。
外様の小藩(10万石)である宇和島藩伊達家には、「両番所」は許されなかったわけです。
ところで、伊達と云えば、仙台藩をまず連想します。
まさしく、この宇和島藩伊達家の祖は、伊達政宗の長男、伊達秀宗でした。
仙台藩を継いだのは、次男の忠宗。
なぜそうなったかと云うと、秀宗が側室の子であるのに対し、忠宗が正室の子だったからです。
と云って、決して正宗から疎んじられたわけではなく……。
秀宗が宇和島に入るに際し、政宗は、伊達家中から自らが選んだ騎馬団(57騎)のほか、計1,200人の家臣団を付けて送ったそうです。
秀宗が、伊予国宇和郡に入ったのは、元和元(1615)年。
以来、転封されることもなく、幕末まで続きます。
しかし、不思議なのは、この『伊達家の門』が作られた時期。
大正期です。
なんで、こんなのをわざわざ建てたんですかね。
↓港区白金二丁目は、このあたり。

ここは、伊達家の下屋敷だったようです。
でも、大正期にこんな門を建てるわけですから、没落はしてなかったということでしょう。
実際、宇和島藩伊達家は、新政府で活躍したため、侯爵に列せられたそうです。
奥羽越列藩同盟に連座した仙台藩伊達家は伯爵止まりでしたから、家格が逆転したわけです。
ひょっとしたら、大正期にこんな門を建てたのは、そういった意識があったのかも知れません。
↓説明書きの文章にある「起(むく)り屋根」とは、こういうことです。

同じく、説明書きの文章にある「冠木(かぶき)」と云うのは……。
↓門や鳥居などで左右の柱の上部を貫く横木

「宇和島藩伊達家の木彫の家紋」というのは、↓これ。

↓さて、続いてはこちら。

『会水庵(かいすいあん)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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宗偏流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた茶室です。
1957(昭和32)年、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。
本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室です。
【杉並区西荻北五丁目/大正期頃】
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専門用語を並べ立ててあるだけで、茶道の素人にはさっぱりわかりませんね。
ま、字数が限られてるわけですから、仕方ありません。
知りたければ自分で調べろということでしょう。
それでは、調べてみせようホトトギス。
↑ホトトギスの鳴き声。ホトトギスは、ウグイスの巣に卵を産みつけて雛を育ててもらう(托卵)という悪の鳥。
まずは、「宗偏流(そうへんりゅう)」から。
その前に、↑の“偏”の字ですが……。
↓実際には“にんべん”ではなく、“ぎょうにんべん”です。

でも、わたしのエディタでは字が表示されないので、このままにさせていただきます。
「宗偏流」は、山田宗偏という人が興した茶道の一派です。
聞いたことのない人でした。

↑思いの外、偉い人のようです。
寛永4(1627)年の生まれ。
江戸初期の茶人ですね。
生まれたのは京都。
↓現在の住所で、京都市上京区菊屋町255。

↑御所の真ん前ですね。
東本願寺末寺の長徳寺の住職の子でした。

↑なんと、現存してました。さすが京都ですね。
いったんは、父の跡を継いで住職となりますが……。
茶道を志して還俗。
小堀遠州に入門とのこと。
なお、山田の姓は母方のものだそうです。
小堀遠州は、茶道家としてよりむしろ、作庭家として有名ですが……。
そちらに逸れると際限が無くなるので止めます。

↑小堀遠州の代表作のひとつ『二条城二の丸庭園』。