2016.11.12(土)
さて続いては、こちら。
『伊達家の門』です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。
<起(むく)り屋根>の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫の家紋が施されています。
【港区白金二丁目/大正期】
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓「<起(むく)り屋根>の片番所」というのは、向かって右側の建物。
番所というのは、門番の詰め所です。
「片番所」は、それが門の片側にだけある造り。
両側にある場合は、「両番所」と云いました。
別に、予算の関係で片側だけにしたわけではありません。
「両番所」が設けられる大名は、格式により厳しく取り決められてました。
外様の小藩(10万石)である宇和島藩伊達家には、「両番所」は許されなかったわけです。
ところで、伊達と云えば、仙台藩をまず連想します。
まさしく、この宇和島藩伊達家の祖は、伊達政宗の長男、伊達秀宗でした。
仙台藩を継いだのは、次男の忠宗。
なぜそうなったかと云うと、秀宗が側室の子であるのに対し、忠宗が正室の子だったからです。
と云って、決して正宗から疎んじられたわけではなく……。
秀宗が宇和島に入るに際し、政宗は、伊達家中から自らが選んだ騎馬団(57騎)のほか、計1,200人の家臣団を付けて送ったそうです。
秀宗が、伊予国宇和郡に入ったのは、元和元(1615)年。
以来、転封されることもなく、幕末まで続きます。
しかし、不思議なのは、この『伊達家の門』が作られた時期。
大正期です。
なんで、こんなのをわざわざ建てたんですかね。
↓港区白金二丁目は、このあたり。
ここは、伊達家の下屋敷だったようです。
でも、大正期にこんな門を建てるわけですから、没落はしてなかったということでしょう。
実際、宇和島藩伊達家は、新政府で活躍したため、侯爵に列せられたそうです。
奥羽越列藩同盟に連座した仙台藩伊達家は伯爵止まりでしたから、家格が逆転したわけです。
ひょっとしたら、大正期にこんな門を建てたのは、そういった意識があったのかも知れません。
↓説明書きの文章にある「起(むく)り屋根」とは、こういうことです。
同じく、説明書きの文章にある「冠木(かぶき)」と云うのは……。
↓門や鳥居などで左右の柱の上部を貫く横木
「宇和島藩伊達家の木彫の家紋」というのは、↓これ。
『伊達家の門』です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門です。
<起(むく)り屋根>の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。
総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の木彫の家紋が施されています。
【港区白金二丁目/大正期】
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓「<起(むく)り屋根>の片番所」というのは、向かって右側の建物。
番所というのは、門番の詰め所です。
「片番所」は、それが門の片側にだけある造り。
両側にある場合は、「両番所」と云いました。
別に、予算の関係で片側だけにしたわけではありません。
「両番所」が設けられる大名は、格式により厳しく取り決められてました。
外様の小藩(10万石)である宇和島藩伊達家には、「両番所」は許されなかったわけです。
ところで、伊達と云えば、仙台藩をまず連想します。
まさしく、この宇和島藩伊達家の祖は、伊達政宗の長男、伊達秀宗でした。
仙台藩を継いだのは、次男の忠宗。
なぜそうなったかと云うと、秀宗が側室の子であるのに対し、忠宗が正室の子だったからです。
と云って、決して正宗から疎んじられたわけではなく……。
秀宗が宇和島に入るに際し、政宗は、伊達家中から自らが選んだ騎馬団(57騎)のほか、計1,200人の家臣団を付けて送ったそうです。
秀宗が、伊予国宇和郡に入ったのは、元和元(1615)年。
以来、転封されることもなく、幕末まで続きます。
しかし、不思議なのは、この『伊達家の門』が作られた時期。
大正期です。
なんで、こんなのをわざわざ建てたんですかね。
↓港区白金二丁目は、このあたり。
ここは、伊達家の下屋敷だったようです。
でも、大正期にこんな門を建てるわけですから、没落はしてなかったということでしょう。
実際、宇和島藩伊達家は、新政府で活躍したため、侯爵に列せられたそうです。
奥羽越列藩同盟に連座した仙台藩伊達家は伯爵止まりでしたから、家格が逆転したわけです。
ひょっとしたら、大正期にこんな門を建てたのは、そういった意識があったのかも知れません。
↓説明書きの文章にある「起(むく)り屋根」とは、こういうことです。
同じく、説明書きの文章にある「冠木(かぶき)」と云うのは……。
↓門や鳥居などで左右の柱の上部を貫く横木
「宇和島藩伊達家の木彫の家紋」というのは、↓これ。
コメント一覧
-
––––––
1. なんたって伊達HQ- 2016/11/12 13:53
-
宇和島伊達藩
ここは知っています。
やはり幕末の宗城(むねなり)ですかね。
で、江戸藩邸は片番所。はともかく、なぜに大正期の造営。
ふむ。
奥羽越列藩同盟
で、没落(それは言い過ぎ)先代伊達本家。
むくり屋根
なるほど。そういうことですか。
冠木
“冠ぶる木”なんですかね。
宇和島伊達家の家紋というのは……
おっと、フライングの可能性があるなあ。
-
––––––
2. Mikiko- 2016/11/12 18:17
-
宇和島伊達家
なんでそんなとこ、知ってるんですか?
でも、正直、仙台より暮らしやすかったと思います。
温暖な四国の小藩。
わたしなら、率先して行きますね。
-
––––––
3. 漢字の素養無しHQ- 2016/11/12 21:01
-
宇和島の伊達
いっとき、高野長英に凝ったことがありましてね。
なご(長)なりますから省きますが、この長英おやじが脱獄して、一時宇和島の知り合いを頼って潜伏したことがあるんですね。これは藩主伊達公も承知の上、という藩を上げての大胆な企みでした。
まあ結局は長英。宇和島を放り出されて江戸に舞い戻り、捕縛・獄死となるわけですが。
前コメ本文6行目
“先代”は、「仙台」の間違いです。書きながら「やらかしそうだなあ」と思いながら、きっちりやらかしちゃいました。
まあ、人とはそういうものです(お前だけや)。
-
––––––
4. Mikiko- 2016/11/13 07:48
-
高野長英
教科書で見た名前だくらいの知識しかありません。
宇和島市。
当然のごとく、城下町です。
城下町にはあこがれがあります。
いつか住んでみたいです。
宇和島は温暖だし、候補のひとつですかね。
宇和島駅から予讃線に乗れば、岡山まで出られますし……。
宇和島発の神戸・大阪行きの高速バスも走ってます。
でも、やっぱり津波がね。
南海トラフが起きれば、宇和島市役所で7メートルだとか。
-
––––––
5. 呼吸が合わないHQ- 2016/11/13 11:27
-
で、もういいか
宇和島伊達藩の家紋は『竹輪笹に阿吽(あうん)の向かい雀』というもの。
図柄中央に、翼を広げた二羽の雀が顔を向かい合わせています。
この雀たち、向かって左側の雀はくちばしを開き、右側は引き結んでいます。つまり、いわゆる仁王像の阿形(口を開く)と吽形(閉じる)に倣っているわけです。
はなしはそれだけ。どんとはらい。
-
––––––
6. Mikiko- 2016/11/13 12:21
-
竹輪笹
それで、仙台は笹かまぼこなんですかね?
-
––––––
7. 竹輪蒲鉾はんぺんHQ- 2016/11/13 16:20
-
仙台の笹かま
伊達ときますと本家は仙台。
あくまで一説ですが、笹かまは、仙台伊達家の家紋『竹に雀』にちなむ、とするものが多いようです。
でも、竹や笹はともかく、雀は強そうに見えないよね。