2016.10.29(土)
さて、『武居三省堂』のあった、神田須田町一丁目ですが……。
『万世橋交番』と同じあたりですね。
↓店内の様子。
↓もう一枚。
この写真を見たとき、どこかで見たイメージだなと思いました。
思い出しました。
↓これです。
ご存知、『千と千尋の神隠し』に出てくる、釜爺の仕事部屋。
まさしく、この『武居三省堂』の店内からインスピレーションを得たものだそうです。
しかし、わたしは何でここを見て来なかったんでしょうね。
やっぱり、勝手に歩きまわってるから、こういう取りこぼしをするんです。
教訓その1。
下調べをしてから行きましょう!
↑『ブラタモリ』の近江アナを見れば、下調べの大切さがよくわかります。しかし、この赤いのって、コートですよね? コート着たまま座敷に上がるってのは、どういう教育を受けて来たんだ?
建物の数は膨大です。
1棟1棟見てたら、1日がかりになります。
絶対見たい建物をピックアップしておけば、そこを優先的に見ることが出来ます。
余裕があれば、ほかの建物も見ればいいんです。
↑下調べから、余裕が生まれます。
ここで、「教訓1」が出たついでに……。
『江戸東京たてもの園』を見学する上で、注意すべき点をあげておきます。
①真夏の見学はやめましょう!
建物は、当然のことながら、野外に点在してます。
しかも、建物内部には、冷房がありません。
さらに!
囲炉裏のある建物では、火を焚いている可能性さえあります。
↑ボランティアガイドが網を張ってます。
いくら水分補給してても、ヘタすればぶっ倒れます。
それ以前に、気力が続かないでしょう。
それでなくても、夏休みは観光客で混雑します。
真夏は、ぜったいに避けるべきです。
②ブーツはやめましょう!
↑犬です。犬には逆に、夏に履かせた方がいいそうです。裸足では、アスファルトで火傷することもあるのだとか。
季節で云うと、冬は逆におすすめです。
東京の冬は、晴れる確率がとても高いです。
戸外の施設ですから、雨の日の見学は難渋します。
冬なら、そのリスクが限りなく少なくて済みます。
↑落葉期なので、見通しも良くなります。
しかし!
女性は、要注意。
ブーツは、ぜったいにやめてください。
建物内には、すべて履物を脱いで上がります。
↑『子宝湯』の入り口。ブーツは、横倒しで入れるしかありません。
ブーツで行ったとしたら……。
建物内部の見学は、途中で挫折してしまうと思います。
女性を、デートでここに連れて来ようという男性諸君!
彼女は、こういう事情を理解してない可能性があります。
事前に必ず、ブーツは履いて来ないよう伝えましょう。
ブーツの彼女を連れ回したら、ぜったいにキレられます。
↑突然に見えるかも知れませんが、我慢を重ねた末の爆発です。兆候に気づかない方が悪い。
さて、次の建物に移りましょう。
↓『花市生花店』。
↓パンフレットの説明書きです。
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昭和初期に建てられた<看板建築>の花屋です。
建物の前面は花屋らしくデザインされています。
店内は昭和30年代の花屋を再現しています。
【千代田区神田淡路町一丁目/1927(昭和2)年】
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『竹居三省堂』と並んで建ってます。
側面が一体化してるようにも見えます。
建てられた年も、『竹居三省堂』と同年。
なんだか、もとあった場所でも並んでたのではないかと思えるほどでです。
もちろん、2つの建物は、近いことは近いのですが、離れた場所に建ってました。
『竹居三省堂』が、千代田区神田須田町一丁目……。
『花市生花店』が、千代田区神田淡路町一丁目です。
昭和30年台の花屋を再現したという店内は、↓こちら。
意外とモダンに見えますが……。
↓このアングルは、さすがに昭和30年代。
実際、平成3年まで、この建物で営業されてたそうです(残念ながら、営業中の写真は見つかりませんでした)。
話が変わりますが、この建物を見て、思い出した小説があります。
日本のSFです。
梶尾真治の『クロノス・ジョウンターの伝説』。
↑演劇になってたようです(演劇集団キャラメルボックス)。
梶尾真治では、映画になった『黄泉がえり』が有名ですね。
『クロノス・ジョウンターの伝説』は、切ない物語です。
タイムマシンの開発者と花屋の店員との悲しい恋のお話。
物語の発端は、平成7(1995)年ですから、『花市生花店』の営業期間とは時代が合いません。
でも、この花屋の店先を見たとき、まっさきにこの小説が頭に浮かんだんですよね。
『徳間文庫』で買えますので、ぜひ読んでみてください。
わたしは、今の会社に入って間もないころ、通勤電車の中で読みました。
まだ、『Mikiko's Room』を始める前のことです。
そんなこともあり、想い出深い小説なのです。
↓『植村亭』。
↓パンフレットの説明書きです。
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建物の前面を銅板で覆ったその姿は、<看板建築>の特徴をよくあらわしています。
外観は、全体的に洋風にまとまっていますが、2階部分は和風のつくりとなっています。
【中央区新富二丁目/1927(昭和2)年】
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<看板建築>とありながら、『植村邸』というのはどういうわけかと思いましたが……。
当初は、貴金属を扱う商店として建築されたようです。
右隣に映ってるのは、『大和屋本店(乾物屋)』ですが、こちらが移築されたのは、2011(平成23)年。
それまで、『植村邸』の隣は空き地でした。
↓そのころの『植村邸』を、裏側から撮った画像がありました。
裏側に装飾はありませんが、やはり銅板で覆われてます。
これは、関東大震災(1923年)の火災被害を教訓とした防火対策だそうです。
貴金属は、熱に弱いですからね。
↑金の融点は、1,064度。
気になるのは、↓このマーク。
六芒星です。
すなわち、ダビデの星。
ユダヤの象徴です。
↑イスラエルの国旗。
六芒星の中に組み合わせて描かれてるのは、アルファベットの「S」と「U」。
これは、建築主の植村三郎氏のイニシャルだそうです。
植村氏とユダヤが繋がってるという記述は、少なくともネット上では不明でした。
単に、デザインとして取り入れたんですかね?
あ、ダビデの星ではなく、籠目か?
どうやら、こっちですかね。
籠目には、魔除け意味があるそうですからね。
↑カゴメ㈱の商標。
しかしながら……。
童謡『かごめかごめ』のルーツは、ヘブライ語だという説もあるとか(参照)。
↓ちなみに、六芒星が、一筆書きで描けるのはご存知ですか?
次の建物です。
↓『川野商店(和傘問屋)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋の建物です。
内部は1930(昭和5)年ころの和傘問屋の店先の様子を再現しています。
【江戸川区南小岩八丁目/1926(大正15)年】
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江戸川区南小岩八丁目は、↓このあたり。
↑東の江戸川を越えると、千葉県市川市です。
こちらも、<出桁造り>の建物です。
『小寺醤油店』で見ましたよね。
この造りは、商店の格の高さを表していたそうです。
新潟県には、庇が更に突き出した建築様式があります。
↓『雁木造り』と云います。
↑新潟県上越市。
これは、商店の庇を通りまで張り出し、その下を歩行者の通路としたものです。
“雁木”の意味は、雁の翼のように斜めに長く張り出すということでしょう。
もちろん、冬期の雪対策ですね。
秋田県や青森県には、『小店(こみせ)』と呼ばれる同様の様式があるようです。
↑青森県黒石市。
昔は、それぞれの店で『雁木』をこしらえていたのでしょうが……。
その後、通りの商店が共同でアーケードを作るようになりました。
↑新津駅前の商店街(新潟県秋葉区)。かつての画像です。新津は、鉄道の街として殷賑を極めた地域です。アーケードが設置されたのは、昭和44年。
冬期の買い物には、とても便利な仕組みです。
↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。左にある白い壁が、道路に積もる雪です。
しかし……。
商店街がシャッター通りとなった今、このアーケードの維持ははなはだ困難となっているようです。
商売をやめてしまった店は、アーケードの補修費など、出せません。
商売を続けている店も、やめた店の分まで費用を負担する余裕などありません。
といって、そのまま放っておけば、老朽化で部材などが落下し、歩行者に怪我を負わせかねません。
↓しかたなく、アーケードだけ撤去してしまう例も少なくないようです。
↑上の新津駅前商店街の現在。アーケードの再建は、もう不可能でしょう。
さて、『川野商店』です。
戦前までは傘の卸問屋をやってましたが、戦後間もなく廃業し、住まいとして使われてたそうです。
かつての小岩は、和傘の町でした。
通りには、天日干しされる傘が並んで、花が咲いたみたいだったとか。
↑かつて『川野商店』があったあたりは、サンロードという商店街になってるようです。楽しそうな街ですね。
小岩の和傘は、江戸時代が起源です。
和傘づくりは元々、武士の内職でした。
時代劇でも、ときどき「傘張り浪人」が出てきます。
↑なんと、北海道の登別にある『伊達時代村』。
でも、本格的にやってたのは、江戸幕府の御家人だったようです。
港区青山あたりで盛んだったとか。
この和傘づくりを、農家が副業として取り入れました。
農閑期や、雨天などに作ったのでしょうね。
これが、小岩でも広がったそうです。
和傘づくりが最も盛んだったのは、明治中頃から昭和初期にかけて。
『東京の地張傘』と云われ、特に蛇の目傘は高級品だったとか。
↑蛇の目傘。白い輪状の模様が“蛇の目”の由来。
小岩における和傘づくりの中心地は、下小岩村(現・東小岩二、四丁目)あたりで……。
明治10(1877)年には、全戸数237戸のうち、42戸で和傘づくりが行われてたそうです。
当初は農家の副業でしたが、盛んになるにつれ専業となる家も多く……。
20人の職人を抱えて、月200本生産する家もあったとか。
でも、職人1人が、月に10本しか作れなかったわけですね。
と思って調べたら、こういう家では、分業制だったそうです。
骨づくり、ロクロ(骨の集まる部分)づくり、組み立て、紙張り、仕上げなどの工程ごとに別れて作業してたとか。
↑ロクロは、2箇所にあります。
特に、紙張りを行う「張り師」はたくさん必要だったため……。
茨木、千葉、秋田などからも働き手を連れて来たそうです。
おそらくは、「傘張り浪人」も、この工程だけを外注されてたんじゃないでしょうか。
昭和が進むと、洋傘の普及により、和傘づくりは次第に衰退していきました。
でも、戦後数年間は、物資不足から洋傘が作れなくなり……。
竹と紙だけで作れる和傘が復活し、古い傘の張替え需要なども起き、好況となったそうです。
しかし、戦後の物資不足期が過ぎ、昭和30年代に入ると……。
洋傘に押され、和傘の需要は減っていきました。
和傘製造は、転廃業の運命を辿りました。
この『川野商店』も、解体を待つばかりとなってましたが……。
都の学芸員に、建物の保存を願い出たところ受け入れられ、残ったそうです。
そういう発想に至らず、あえなく解体され、廃材となってしまった建物は、いったいどれくらいあったんでしょうね。
和傘の並ぶ小岩の町、歩いてみたかったです。
↓1930(昭和5)年ころの店先を再現したという展示。
和傘職人も、家で仕事をする居職の業種ですね。
何時間くらい働いたんでしょうね。
1日中、畳に座ってたら、腰を痛める人も多かったんじゃないでしょうか。
現在、和傘がいくらくらいで買えるのかと『楽天市場』を探してみました。
まさしく、ピンキリですね。
↓安いのでは、こんなの。
材質を見ると、「紙・竹・木」とだけあります。
しかしながら……。
生産地は、中国です。
↓標準的なのは、こんなのでしょうか。
生産地は、書いてませんでした。
↓高いにとなると、このくらい。
こちらは、自分で差す傘ではありません。
「差し掛け」という傘で、文字どおり、お供の者が主人に差し掛けるためのものです。
直径は1.4メートルもあります。
結婚行列で、白無垢の花嫁に差し掛けたら映えそうですね。
晴れてても、日傘として使ったらどうでしょう。
↑ドンピシャがありました。
気になるのは重さですが……。
残念ながら、記載はありませんでした。
東ゾーンの建物は、これですべてです。
残るは、センターゾーン。
わたしは、気力を振り絞り、そちらの見学に向かったようです。
↓センターゾーン、最初の写真は、こちら。
↑「み」
また、例によって外観を撮ってません。
『西川家別邸』です。
↓拝借画像で、どうぞ。
↓パンフレットの説明書きです。
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北多摩屈指の製紙会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、よく吟味された部材が使われています。
『昭島市中神町二丁目/1922(大正11)年』
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↓昭島市中神町二丁目は、このあたり。
八王子が織物の町だということは知ってました。
『TOKYOディープ!』で取り上げられてましたから。
その好景気により、八王子に花街が発展したそうです。
↑八王子市中町『黒塀通り』。最盛期は戦後の復興期。そのころの八王子芸者は、200人を超えてたとか。
八王子や青梅など、そうした近隣の製糸業に支えられ……。
昭島市では養蚕が盛んで、市内には青々とした桑畑が広がってたそうです。
↑栃木県にある桑畑です。昭島市もこんな景色だったんでしょうね。
西川伊左衛門が、明治26(1893)年に起こした西川製紙は、この別邸と同じ地域にあったようです。
↑繭の集荷風景(大正期)。
西川製紙は、大正から昭和にかけて……。
輸出生糸の生産では、多摩はもちろん日本でも指折りの製糸工場に成長しました。
品質も抜群で、フィラデルフィアの博覧会で、グランプリを受賞するほどでした。
↑皇室にも献上されてます。
最盛期には、本社の中神工場だけで従業員500人。
ほかに八王子、山梨、松田(神奈川県)などにも分工場を持ったそうです。
↑すべての工場を合わせると、従業員は2,000人いたとか。
この別邸は、“製糸王”とまで呼ばれた西川伊左衛門が、接客用に建てたもので……。
まさしく、贅を尽くした建築です。
↑昭島市にあったころの様子。
別邸という名のとおり、本邸は別にあります。
当時は、「お別荘」と呼ばれてたそうです。
なんとこの建物、釘が1本も使われてないとか。
寸分の狂いもなく組み上げられた建物は、関東大震災でもびくともしなかったそうです。
しかし!
こんな素晴らしい建築物であることを、露知らず見学してたわたしは……。
そういうところをさっぱり見てきませんでした。
↓撮ったのは、またトイレです。
なんで、こんなのだけ撮るんでしょうね。
↓平面図がありました。
左半分が接客空間、右半分が居住空間ですね。
さすがに、トイレのほかにも撮ってありましたのでご紹介します。
↓最初の1枚。
↑「み」
これは、平面図の一番左、『客間(一の間)』だと思います。
赤いカーペットが無粋ですが、これはもちろん、見学用に貼られたもののようです。
おそらく、板張りのままだと、冬、冷たいからじゃないでしょうか。
スリッパは用意されてませんので(あったらあったで、畳の間を横断するときなどに面倒です)。
↓続いてこちら。
↑「み」
これは逆に、平面図の右上、『女中部屋』ですね。
↓ここには興味を持ったらしく、別の角度からも撮ってました。
↑「み」
平面図で、『風呂』に続く廊下からの写真です。
↓その『風呂』が、こちら。
↑「み」
五右衛門風呂のようです。
半割りになってる蓋は、単に上に被せる蓋です。
踏んで入る板は、釜の中にあると思われます。
↓さらにもう1枚、女中部屋入り口。
↑「み」
なぜ、女中部屋だけ、これほど丹念に撮ったのか、今となっては謎です。
たぶん、2畳というスペースに、惹かれたんだと思います。
こういうところで寝たら、いつまでも寝てられそうです。
もちろん、ホントの女中では、そんなことは出来ませんが。
↓最後の1枚。
↑「み」
女中部屋の天井だと思います。
故郷を思って、眠れない夜もあったでしょうね。
室内を撮った写真が1枚しかありませんでしたね。
↓拝借画像でもう1枚どうぞ。
↑『客間(一の間)』と『客間(二の間)』。客の多いときは、襖を外して使ったのでしょう。
さて、次の建物です。
↓またもや、外観を撮ってなかったので、拝借画像でどうぞ。
立派な建物ですが……。
それ以上に、この建物には歴史的な重みがあります。
その点では、『江戸東京たてもの園』の中で随一と云っていいでしょう。
『高橋是清邸』。
↓パンフレットの説明書きです。
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明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分です。
総栂普請(そうつがぶしん)で、洋間の床は寄木張りになっています。
2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936(昭和11)年の二・二六事件の現場になりました。
【港区赤坂七丁目/1902(明治35)年】
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高橋是清は、まさしく、1936(昭和11)年の2月26日に亡くなっています。
この建物の2階で、叛乱軍部隊により、胸に6発の銃弾を撃ちこまれたうえ……。
軍刀でトドメを刺されました。
もちろん、即死です。
享年、満81歳。
↑2月28日付けの大阪朝日新聞。記事にある「岡田首相ら即死す」は誤報でした。これについては、後で書きます。
高齢ですが、現役の大蔵大臣でした。
容貌から、「ダルマさん」と呼ばれ親しまれてました。
1921(大正10)年から翌年にかけては、内閣総理大臣も勤めています。
財政に詳しく、総理大臣としてより、大蔵大臣としての評価の方が高いそうです。
最近では、宮沢喜一も、総理大臣をやった後、大蔵大臣を勤めてます。
↑宮澤エマの祖父です。
あ、麻生太郎もそうか。
↑大蔵大臣ではなく、財務大臣ですが。この人のファッション、嫌いじゃないです。
事件当時の高橋は、実に、6度目の大蔵大臣だったそうです。
総理を辞めて、一旦は政界を引退してました。
しかし、1927年、当時の田中義一総理に請われ、3度目の大蔵大臣に就任(73歳)。
その後、犬養毅内閣で、4度目(77歳)。
斎藤実内閣で、5度目(78歳)。
そして、岡田啓介内閣で、6度目(80歳)。
当時は、1929(昭和4)年のウォール街大暴落から始まった、世界恐慌の真っ只中。
その舵取りを任されたわけです。
しかし、世界レベルの恐慌の嵐を、小国の一蔵相がどうにか出来るわけがありません。
軍事予算の縮小を図ったことが、軍部の恨みを買ったということです。
さて、二・二六事件です。
Wikiによれば、「日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが、1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件」とあります。
↑なぜか、日本の政治的大事件は、雪の日に起こります。
殺害された大臣は、高橋是清のほかでは、斎藤実(まこと・内大臣)のみ。
↑斎藤実(1858~1936)。海軍出身。最高位は海軍次官(海軍大臣の次の位です)。
総理大臣の岡田啓介も、首相官邸で襲わました。
↑岡田啓介(1868~1952)。こちらも海軍出身。連合艦隊司令長官から、海軍大臣(連合艦隊司令長官は、海軍大臣より序列が下ですが、海軍軍人のなりたい位ランキングでは、ダントツのトップだったそうです。響きが格好いいですからね)。
しかし、警察官が応戦しているすきに、女中部屋の押入れに隠れることができました。
警護の警察官4名は、抵抗むなしく射殺されています。
叛乱軍将兵は、岡田総理を求め、官邸内を探し回りました。
そのときです。
寝室と思われる和室から、寝間着姿の老人が走り出て、庭に飛び降りました。
将兵は、岡田に違いないと、一斉に銃撃を浴びせます。
老人は、ひとたまりもなくその場に倒れました。
即死でした。
でも、その老人は、岡田総理ではなかったのです。
岡田の義弟で、総理秘書官兼身辺警護役を務めていた松尾伝蔵退役陸軍大佐でした。
彼は、岡田を女中部屋に隠した後、寝間着に着替えると……。
わざと、将兵の前に躍り出たのです。
もちろん、岡田の身代わりとなるためです。
将兵らは、松尾を総理と誤認し、目的を果たしたと思いこみました。
Wikiの記述などでは、松尾が岡田と容貌が似ていたとあります。
しかし松尾は、岡田の妹の夫ですから、血縁関係はありません。
↓2人が並んだ写真を見ても、似ているとは云えません。
↑岡田(左)と松尾(右)。似てますか?
松尾の決死の演技に、まんまと叛乱軍が騙されたということでしょう。
この岡田邸の場面、わたしは確か、テレビで見てます。
『歴史秘話ヒストリア』だったかも知れません。
さて、岡田邸には、叛乱軍が居座ったままです。
この最中、岡田総理の救出作戦が企てられました。
このときの作戦を、お話として作ったとしたら……。
必ずや、「ご都合主義」のレッテルを貼られることでしょう。
↑こんなシナリオ、この人でも書けません。
それほどまでに奇跡的な作戦でした。
救出劇では、一滴の血も流れてないんです。
総理秘書官は、殺された松尾のほか、官邸に隣接する官舎にも詰めてました。
そのひとり、迫水(さこみず)秘書官は……。
官邸内の叛乱軍将校に電話し、遺骸の検分を認めてくれるよう交渉します。
叛乱軍の方には、実物の岡田総理を見た者がいませんでした。
当時は、テレビもありません。
岡田総理の顔は、新聞の粗い白黒写真でしか知らなかったわけです。
↑例の岡田総理即死の誤報記事。左上が岡田の写真。
しかも、身代わりとなった松尾は、顔面にも銃弾を浴びていました。
叛乱軍としても、遺骸が本当に岡田総理か確証がほしかったのでしょう。
検分は、許可されました。
迫水秘書官は、もうひとりの秘書官と連れ立って官邸に入りました。
そして、岡田総理の遺骸と引き合わされます。
布団が捲られると……。
そこに仰向いていたのは、岡田首相ではなく、義弟の松尾秘書官でした。
2人の秘書官は、懸命に自らの表情を殺します。
将校の「間違いありませんね」との問いに、2人は無言でうなずきました。
↑こちらは、陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎の遺骸。杉並の自宅で殺害されました。軽機関銃で蜂の巣にされたそうです。
迫水秘書官らが帰り際、女中部屋の前を通りかかると……。
女中が2人、押入れを背にして座りこんでいました。
どこか傷めて動けないのかと思い、「怪我はなかったかね?」と聞くと……。
女中は、「お怪我はございませんでした」と答えたのです。
この言葉で、迫水らはハッと気づきました。
岡田総理は、押し入れの中にいる。
2人の女中は、岡田を守って、押入れの前を動こうとしないのだと。
もし、叛乱軍が踏みこんできたときには……。
おそらく女中は、身をもって楯となる覚悟だったのでしょう。
官舎に引き上げた秘書官らは、岡田総理の救出計画を練りました。
一か八かの勝負ですが、妙案が浮かびました。
迫水らは、官邸内の叛乱軍将校に、せめて弔問させてくれと申し入れます。
聞き遂げられると……。
岡田(当時68歳)と同年代の老人を10名ばかり集め、弔問客に仕立てて官邸に入ります。
弔問はもちろん、叛乱軍将兵の監視の下です。
押入れに逃げこんでいる岡田は、当然、寝間着のままです。
迫水は隙を見て、押入れ前の女中に喪服を渡します。
岡田が押入れ内で着替えた頃合いを見計らい、巡回の切れ間をついて岡田総理を連れ出します。
そして、多数の弔問客の中に紛れこませたのです。
迫水は、顔を伏せた岡田を抱えるようにして玄関に向かいます。
見張りの将兵には、「遺骸を見ちゃいかんと言ったのに仰天したんだ。困った老人だ」と言いながら……。
そのまま邸外に連れ出し、車に乗せました。
まさに、奇跡としか言いようのない脱出劇でした。
↑岡田生存を伝える、2月29日の新聞。
こうして命を拾った岡田でしたが……。
激しい自責の念に苛まれます。
高橋是清は、80歳を過ぎた老人でした。
本来であれば、功成り名を遂げて、悠々自適の余生を送っていたことでしょう。
↑孫の楊子を抱く是清。
そんな老人に、世界恐慌の荒波の舵取り役として、無理を言って蔵相に就任してもらったのです。
その高橋が、無残な最後を遂げてしまいました。
自分が蔵相を頼んでなければ、こんなことにはならなかったのです。
岡田の傷心ぶりは、傍目にも痛ましくなるほどで……。
事件後、岡田の拝謁を受けた天皇は、「考え違いをしないように」と自決を諌めたほどでした。
さて、岡田総理の話が長くなってしまいました。
『高橋是清邸』に、戻りましょう。
まずは、高橋邸のあった港区赤坂七丁目は、↓ここ。
屋敷の跡地は『高橋是清翁記念公園』となってます。
当時は、隣のカナダ大使館も高橋邸の一部で、高橋邸の敷地は、2,000坪あったそうです。
今でこそ赤坂は都心の一等地で、住宅があるようなところでは無くなってしまいましたが……。
高橋邸が建った明治35(1902)年ころは、まだ江戸の趣を残してたそうです。
大名の屋敷地が多数残っていたため、郊外のような佇まいだったとか。
↑明治初期の赤坂。右手に見えるのは弁慶堀。ホテルニューオータニのあたりですね。
↓高橋邸の敷地も、丹波篠山藩青山家の中屋敷でした。
↑上に見える“紀伊”の巨大な敷地は、紀州徳川家の上屋敷。現在の赤坂御用地です。
さて、ここまで書いて……。
やはり、是清の生涯を振り返っておいた方がいいと思い直しました。
なにしろ、波乱万丈を絵に書いたような一生だったんです。
是清が生まれたのは、幕末の1854(嘉永7)年。
武士階級の出ではありません。
父親は、幕府御用絵師・川村庄右衛門。
芝白金(現在の港区芝大門)に生まれました。
このとき、庄右衛門、47歳。
母親は、きん。
なんとこのとき、16歳。
魚屋の娘ですが、川村家に行儀見習のため奉公してました。
この前提から、容易に想像できるとおり……。
47歳の庄右衛門が、行儀見習の小娘に手を付けたのです。
しかし、庄右衛門の妻が出来た人でした。
身籠ったきんに同情し、きんを中門前町の叔母の家に帰して静養させ、頻繁に見舞っては世話をしたそうです。
きんは、そこで是清を生みました。
むろん、是清を川村家に迎えることは出来ません。
是清は、江戸勤番の仙台藩足軽、高橋覚治に里子に出されます。
しかし、幼少のころの事情はよくわからないのですが……。
仙台藩から、『ヘボン塾』での英語修学を命じられます。
『ヘボン塾』とは、ローマ字の“ヘボン式”で馴染み深い医学者のヘボンの私塾です。
後の、明治学院大学だそうです。
↑白金キャンパスにある『ヘボン館』。綴りを見ておわかりのとおり、本当は“ヘップバーン”です。これを日本人が、“ヘボン”と読んでしまったという恥ずかしいお話。
足軽の養子がこんな命を受けるわけですから、さぞ聡明だったのでしょうね。
次いで、1867(慶応3)年。
是清13歳のおり、アメリカ留学の藩命が下ります。
一緒に渡米したのが、勝海舟の息子・勝小鹿らだそうです。
↑渡米時代(1867年)の写真だそうです。右が是清(13歳)。左が小鹿かどうかは不明(小鹿だとすれば、15歳)。
しかし、ここまででも十分波乱万丈ですが……。
この後、とんでもない運命が待ちうけてました。
留学の世話をしたアメリカ人のリードと云う貿易商が、大変な悪人だったのです。
学費や渡航費は、すべてこの男に着服されたそうです。
さらに、渡米してホームステイしたのは、なんとこのリードの両親の家。
この両親が、リードに輪をかけた極悪人でした。
↑想像図。
何もわからない是清を騙し、書類にサインさせます。
なんとこの書類が、是清自身を奴隷として売り飛ばす売買契約書だったのです。
是清は、はるばる極東から海を渡って来た、13歳の少年ですよ。
そんな子を騙そうとしますかね、普通。
とにかくまぁ、絵に描いたような極悪人で、逆に感心してしまうほどです。
が、騙された是清は悲惨です。
オークランドの牧場に、奴隷として売られてしまったのです。
↑こういう奴隷なら良いのですが……。
しかし、彼はへこたれませんでした。
牧場や葡萄園を転売されながら、時にはストライキを試みたりもしたようです。
そうした生きるか死ぬかのやり取りを、雇い主のアメリカ人と重ねるなかで……。
英会話と読み書きの能力が、まさに血肉となって身についていきます。
そしてようやく、1868(明治元年)、日本に帰り着くことが出来ました。
しかしもう、自分に留学を命じた仙台藩は、無くなってしまっていたのです。
↑仙台城跡に建つ、伊達政宗騎馬像。
でも、アメリカで過ごした月日は、決して無駄ではありませんでした。
サンフランシスコで、後の初代文部大臣で一橋大学の創設者となる、森有礼(もりありのり)の知遇を得ていたのです。
↑森有礼もまた、暗殺されています。これも運命でしょうか。しかし、この名前を見ると、どうしても有森也実を連想してしまいます。
是清は、森家の書生となり……。
↑書生とは、他人の家に住み込み、家賃を払わない代わりに家事や雑用を担う学生のことです。家に書生を置くことは、一種のステータスだったそうです。
大学南校(東大の前身)に入学します。
↑関係ありません。
ところが、同級生とは比べ物にならないほど英語が堪能だったため……。
なんと、入学して2ヶ月後には、教官になってます。
是清、わずか15歳のときです。
この道で真面目に勤めていけば……。
ひょっとしたら教育者になっていたかも知れません。
しかし!
この15歳は、大したタマでした。
なんと、給料が入るようになると、たちまち茶屋遊びを覚えます。
ついに、その放蕩ぶりが大学の知るところとなり……。
退職を余儀なくされてしまいます。
たぶん、森家にもいずらくなったのでしょう。
なんと!
日本橋の芸者置屋に居候して、箱屋(芸者のお供の三味線持ち)になったそうです。
↑この絵ではおバアさんのようですが、芸者の警護も兼ねてるので、身を持ち崩した訳ありの男がやるケースが多かったようです。
落語みたいな話ですよね。
是清、16歳のときです。
『万世橋交番』と同じあたりですね。
↓店内の様子。
↓もう一枚。
この写真を見たとき、どこかで見たイメージだなと思いました。
思い出しました。
↓これです。
ご存知、『千と千尋の神隠し』に出てくる、釜爺の仕事部屋。
まさしく、この『武居三省堂』の店内からインスピレーションを得たものだそうです。
しかし、わたしは何でここを見て来なかったんでしょうね。
やっぱり、勝手に歩きまわってるから、こういう取りこぼしをするんです。
教訓その1。
下調べをしてから行きましょう!
↑『ブラタモリ』の近江アナを見れば、下調べの大切さがよくわかります。しかし、この赤いのって、コートですよね? コート着たまま座敷に上がるってのは、どういう教育を受けて来たんだ?
建物の数は膨大です。
1棟1棟見てたら、1日がかりになります。
絶対見たい建物をピックアップしておけば、そこを優先的に見ることが出来ます。
余裕があれば、ほかの建物も見ればいいんです。
↑下調べから、余裕が生まれます。
ここで、「教訓1」が出たついでに……。
『江戸東京たてもの園』を見学する上で、注意すべき点をあげておきます。
①真夏の見学はやめましょう!
建物は、当然のことながら、野外に点在してます。
しかも、建物内部には、冷房がありません。
さらに!
囲炉裏のある建物では、火を焚いている可能性さえあります。
↑ボランティアガイドが網を張ってます。
いくら水分補給してても、ヘタすればぶっ倒れます。
それ以前に、気力が続かないでしょう。
それでなくても、夏休みは観光客で混雑します。
真夏は、ぜったいに避けるべきです。
②ブーツはやめましょう!
↑犬です。犬には逆に、夏に履かせた方がいいそうです。裸足では、アスファルトで火傷することもあるのだとか。
季節で云うと、冬は逆におすすめです。
東京の冬は、晴れる確率がとても高いです。
戸外の施設ですから、雨の日の見学は難渋します。
冬なら、そのリスクが限りなく少なくて済みます。
↑落葉期なので、見通しも良くなります。
しかし!
女性は、要注意。
ブーツは、ぜったいにやめてください。
建物内には、すべて履物を脱いで上がります。
↑『子宝湯』の入り口。ブーツは、横倒しで入れるしかありません。
ブーツで行ったとしたら……。
建物内部の見学は、途中で挫折してしまうと思います。
女性を、デートでここに連れて来ようという男性諸君!
彼女は、こういう事情を理解してない可能性があります。
事前に必ず、ブーツは履いて来ないよう伝えましょう。
ブーツの彼女を連れ回したら、ぜったいにキレられます。
↑突然に見えるかも知れませんが、我慢を重ねた末の爆発です。兆候に気づかない方が悪い。
さて、次の建物に移りましょう。
↓『花市生花店』。
↓パンフレットの説明書きです。
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昭和初期に建てられた<看板建築>の花屋です。
建物の前面は花屋らしくデザインされています。
店内は昭和30年代の花屋を再現しています。
【千代田区神田淡路町一丁目/1927(昭和2)年】
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『竹居三省堂』と並んで建ってます。
側面が一体化してるようにも見えます。
建てられた年も、『竹居三省堂』と同年。
なんだか、もとあった場所でも並んでたのではないかと思えるほどでです。
もちろん、2つの建物は、近いことは近いのですが、離れた場所に建ってました。
『竹居三省堂』が、千代田区神田須田町一丁目……。
『花市生花店』が、千代田区神田淡路町一丁目です。
昭和30年台の花屋を再現したという店内は、↓こちら。
意外とモダンに見えますが……。
↓このアングルは、さすがに昭和30年代。
実際、平成3年まで、この建物で営業されてたそうです(残念ながら、営業中の写真は見つかりませんでした)。
話が変わりますが、この建物を見て、思い出した小説があります。
日本のSFです。
梶尾真治の『クロノス・ジョウンターの伝説』。
↑演劇になってたようです(演劇集団キャラメルボックス)。
梶尾真治では、映画になった『黄泉がえり』が有名ですね。
『クロノス・ジョウンターの伝説』は、切ない物語です。
タイムマシンの開発者と花屋の店員との悲しい恋のお話。
物語の発端は、平成7(1995)年ですから、『花市生花店』の営業期間とは時代が合いません。
でも、この花屋の店先を見たとき、まっさきにこの小説が頭に浮かんだんですよね。
『徳間文庫』で買えますので、ぜひ読んでみてください。
わたしは、今の会社に入って間もないころ、通勤電車の中で読みました。
まだ、『Mikiko's Room』を始める前のことです。
そんなこともあり、想い出深い小説なのです。
↓『植村亭』。
↓パンフレットの説明書きです。
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建物の前面を銅板で覆ったその姿は、<看板建築>の特徴をよくあらわしています。
外観は、全体的に洋風にまとまっていますが、2階部分は和風のつくりとなっています。
【中央区新富二丁目/1927(昭和2)年】
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<看板建築>とありながら、『植村邸』というのはどういうわけかと思いましたが……。
当初は、貴金属を扱う商店として建築されたようです。
右隣に映ってるのは、『大和屋本店(乾物屋)』ですが、こちらが移築されたのは、2011(平成23)年。
それまで、『植村邸』の隣は空き地でした。
↓そのころの『植村邸』を、裏側から撮った画像がありました。
裏側に装飾はありませんが、やはり銅板で覆われてます。
これは、関東大震災(1923年)の火災被害を教訓とした防火対策だそうです。
貴金属は、熱に弱いですからね。
↑金の融点は、1,064度。
気になるのは、↓このマーク。
六芒星です。
すなわち、ダビデの星。
ユダヤの象徴です。
↑イスラエルの国旗。
六芒星の中に組み合わせて描かれてるのは、アルファベットの「S」と「U」。
これは、建築主の植村三郎氏のイニシャルだそうです。
植村氏とユダヤが繋がってるという記述は、少なくともネット上では不明でした。
単に、デザインとして取り入れたんですかね?
あ、ダビデの星ではなく、籠目か?
どうやら、こっちですかね。
籠目には、魔除け意味があるそうですからね。
↑カゴメ㈱の商標。
しかしながら……。
童謡『かごめかごめ』のルーツは、ヘブライ語だという説もあるとか(参照)。
↓ちなみに、六芒星が、一筆書きで描けるのはご存知ですか?
次の建物です。
↓『川野商店(和傘問屋)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋の建物です。
内部は1930(昭和5)年ころの和傘問屋の店先の様子を再現しています。
【江戸川区南小岩八丁目/1926(大正15)年】
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江戸川区南小岩八丁目は、↓このあたり。
↑東の江戸川を越えると、千葉県市川市です。
こちらも、<出桁造り>の建物です。
『小寺醤油店』で見ましたよね。
この造りは、商店の格の高さを表していたそうです。
新潟県には、庇が更に突き出した建築様式があります。
↓『雁木造り』と云います。
↑新潟県上越市。
これは、商店の庇を通りまで張り出し、その下を歩行者の通路としたものです。
“雁木”の意味は、雁の翼のように斜めに長く張り出すということでしょう。
もちろん、冬期の雪対策ですね。
秋田県や青森県には、『小店(こみせ)』と呼ばれる同様の様式があるようです。
↑青森県黒石市。
昔は、それぞれの店で『雁木』をこしらえていたのでしょうが……。
その後、通りの商店が共同でアーケードを作るようになりました。
↑新津駅前の商店街(新潟県秋葉区)。かつての画像です。新津は、鉄道の街として殷賑を極めた地域です。アーケードが設置されたのは、昭和44年。
冬期の買い物には、とても便利な仕組みです。
↑『新潟県立歴史博物館(長岡市)』の展示。左にある白い壁が、道路に積もる雪です。
しかし……。
商店街がシャッター通りとなった今、このアーケードの維持ははなはだ困難となっているようです。
商売をやめてしまった店は、アーケードの補修費など、出せません。
商売を続けている店も、やめた店の分まで費用を負担する余裕などありません。
といって、そのまま放っておけば、老朽化で部材などが落下し、歩行者に怪我を負わせかねません。
↓しかたなく、アーケードだけ撤去してしまう例も少なくないようです。
↑上の新津駅前商店街の現在。アーケードの再建は、もう不可能でしょう。
さて、『川野商店』です。
戦前までは傘の卸問屋をやってましたが、戦後間もなく廃業し、住まいとして使われてたそうです。
かつての小岩は、和傘の町でした。
通りには、天日干しされる傘が並んで、花が咲いたみたいだったとか。
↑かつて『川野商店』があったあたりは、サンロードという商店街になってるようです。楽しそうな街ですね。
小岩の和傘は、江戸時代が起源です。
和傘づくりは元々、武士の内職でした。
時代劇でも、ときどき「傘張り浪人」が出てきます。
↑なんと、北海道の登別にある『伊達時代村』。
でも、本格的にやってたのは、江戸幕府の御家人だったようです。
港区青山あたりで盛んだったとか。
この和傘づくりを、農家が副業として取り入れました。
農閑期や、雨天などに作ったのでしょうね。
これが、小岩でも広がったそうです。
和傘づくりが最も盛んだったのは、明治中頃から昭和初期にかけて。
『東京の地張傘』と云われ、特に蛇の目傘は高級品だったとか。
↑蛇の目傘。白い輪状の模様が“蛇の目”の由来。
小岩における和傘づくりの中心地は、下小岩村(現・東小岩二、四丁目)あたりで……。
明治10(1877)年には、全戸数237戸のうち、42戸で和傘づくりが行われてたそうです。
当初は農家の副業でしたが、盛んになるにつれ専業となる家も多く……。
20人の職人を抱えて、月200本生産する家もあったとか。
でも、職人1人が、月に10本しか作れなかったわけですね。
と思って調べたら、こういう家では、分業制だったそうです。
骨づくり、ロクロ(骨の集まる部分)づくり、組み立て、紙張り、仕上げなどの工程ごとに別れて作業してたとか。
↑ロクロは、2箇所にあります。
特に、紙張りを行う「張り師」はたくさん必要だったため……。
茨木、千葉、秋田などからも働き手を連れて来たそうです。
おそらくは、「傘張り浪人」も、この工程だけを外注されてたんじゃないでしょうか。
昭和が進むと、洋傘の普及により、和傘づくりは次第に衰退していきました。
でも、戦後数年間は、物資不足から洋傘が作れなくなり……。
竹と紙だけで作れる和傘が復活し、古い傘の張替え需要なども起き、好況となったそうです。
しかし、戦後の物資不足期が過ぎ、昭和30年代に入ると……。
洋傘に押され、和傘の需要は減っていきました。
和傘製造は、転廃業の運命を辿りました。
この『川野商店』も、解体を待つばかりとなってましたが……。
都の学芸員に、建物の保存を願い出たところ受け入れられ、残ったそうです。
そういう発想に至らず、あえなく解体され、廃材となってしまった建物は、いったいどれくらいあったんでしょうね。
和傘の並ぶ小岩の町、歩いてみたかったです。
↓1930(昭和5)年ころの店先を再現したという展示。
和傘職人も、家で仕事をする居職の業種ですね。
何時間くらい働いたんでしょうね。
1日中、畳に座ってたら、腰を痛める人も多かったんじゃないでしょうか。
現在、和傘がいくらくらいで買えるのかと『楽天市場』を探してみました。
まさしく、ピンキリですね。
↓安いのでは、こんなの。
通年新作)和傘・長傘-和傘 蛇の目麻柄 (アンブレラ、長傘、雨傘) |
材質を見ると、「紙・竹・木」とだけあります。
しかしながら……。
生産地は、中国です。
↓標準的なのは、こんなのでしょうか。
■本物和傘■蛇の目傘(絹)/赤■今だけ価格■絹張りモデル■送迎や披露宴、写真館の演出にも■【楽ギフ_包装】 5002008 |
生産地は、書いてませんでした。
↓高いにとなると、このくらい。
【送料込み!改定価格】日吉屋特製 差し掛け傘 |
こちらは、自分で差す傘ではありません。
「差し掛け」という傘で、文字どおり、お供の者が主人に差し掛けるためのものです。
直径は1.4メートルもあります。
結婚行列で、白無垢の花嫁に差し掛けたら映えそうですね。
晴れてても、日傘として使ったらどうでしょう。
↑ドンピシャがありました。
気になるのは重さですが……。
残念ながら、記載はありませんでした。
東ゾーンの建物は、これですべてです。
残るは、センターゾーン。
わたしは、気力を振り絞り、そちらの見学に向かったようです。
↓センターゾーン、最初の写真は、こちら。
↑「み」
また、例によって外観を撮ってません。
『西川家別邸』です。
↓拝借画像で、どうぞ。
↓パンフレットの説明書きです。
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北多摩屈指の製紙会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てたものです。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、よく吟味された部材が使われています。
『昭島市中神町二丁目/1922(大正11)年』
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↓昭島市中神町二丁目は、このあたり。
八王子が織物の町だということは知ってました。
『TOKYOディープ!』で取り上げられてましたから。
その好景気により、八王子に花街が発展したそうです。
↑八王子市中町『黒塀通り』。最盛期は戦後の復興期。そのころの八王子芸者は、200人を超えてたとか。
八王子や青梅など、そうした近隣の製糸業に支えられ……。
昭島市では養蚕が盛んで、市内には青々とした桑畑が広がってたそうです。
↑栃木県にある桑畑です。昭島市もこんな景色だったんでしょうね。
西川伊左衛門が、明治26(1893)年に起こした西川製紙は、この別邸と同じ地域にあったようです。
↑繭の集荷風景(大正期)。
西川製紙は、大正から昭和にかけて……。
輸出生糸の生産では、多摩はもちろん日本でも指折りの製糸工場に成長しました。
品質も抜群で、フィラデルフィアの博覧会で、グランプリを受賞するほどでした。
↑皇室にも献上されてます。
最盛期には、本社の中神工場だけで従業員500人。
ほかに八王子、山梨、松田(神奈川県)などにも分工場を持ったそうです。
↑すべての工場を合わせると、従業員は2,000人いたとか。
この別邸は、“製糸王”とまで呼ばれた西川伊左衛門が、接客用に建てたもので……。
まさしく、贅を尽くした建築です。
↑昭島市にあったころの様子。
別邸という名のとおり、本邸は別にあります。
当時は、「お別荘」と呼ばれてたそうです。
なんとこの建物、釘が1本も使われてないとか。
寸分の狂いもなく組み上げられた建物は、関東大震災でもびくともしなかったそうです。
しかし!
こんな素晴らしい建築物であることを、露知らず見学してたわたしは……。
そういうところをさっぱり見てきませんでした。
↓撮ったのは、またトイレです。
なんで、こんなのだけ撮るんでしょうね。
↓平面図がありました。
左半分が接客空間、右半分が居住空間ですね。
さすがに、トイレのほかにも撮ってありましたのでご紹介します。
↓最初の1枚。
↑「み」
これは、平面図の一番左、『客間(一の間)』だと思います。
赤いカーペットが無粋ですが、これはもちろん、見学用に貼られたもののようです。
おそらく、板張りのままだと、冬、冷たいからじゃないでしょうか。
スリッパは用意されてませんので(あったらあったで、畳の間を横断するときなどに面倒です)。
↓続いてこちら。
↑「み」
これは逆に、平面図の右上、『女中部屋』ですね。
↓ここには興味を持ったらしく、別の角度からも撮ってました。
↑「み」
平面図で、『風呂』に続く廊下からの写真です。
↓その『風呂』が、こちら。
↑「み」
五右衛門風呂のようです。
半割りになってる蓋は、単に上に被せる蓋です。
踏んで入る板は、釜の中にあると思われます。
↓さらにもう1枚、女中部屋入り口。
↑「み」
なぜ、女中部屋だけ、これほど丹念に撮ったのか、今となっては謎です。
たぶん、2畳というスペースに、惹かれたんだと思います。
こういうところで寝たら、いつまでも寝てられそうです。
もちろん、ホントの女中では、そんなことは出来ませんが。
↓最後の1枚。
↑「み」
女中部屋の天井だと思います。
故郷を思って、眠れない夜もあったでしょうね。
室内を撮った写真が1枚しかありませんでしたね。
↓拝借画像でもう1枚どうぞ。
↑『客間(一の間)』と『客間(二の間)』。客の多いときは、襖を外して使ったのでしょう。
さて、次の建物です。
↓またもや、外観を撮ってなかったので、拝借画像でどうぞ。
立派な建物ですが……。
それ以上に、この建物には歴史的な重みがあります。
その点では、『江戸東京たてもの園』の中で随一と云っていいでしょう。
『高橋是清邸』。
↓パンフレットの説明書きです。
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明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分です。
総栂普請(そうつがぶしん)で、洋間の床は寄木張りになっています。
2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936(昭和11)年の二・二六事件の現場になりました。
【港区赤坂七丁目/1902(明治35)年】
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高橋是清は、まさしく、1936(昭和11)年の2月26日に亡くなっています。
この建物の2階で、叛乱軍部隊により、胸に6発の銃弾を撃ちこまれたうえ……。
軍刀でトドメを刺されました。
もちろん、即死です。
享年、満81歳。
↑2月28日付けの大阪朝日新聞。記事にある「岡田首相ら即死す」は誤報でした。これについては、後で書きます。
高齢ですが、現役の大蔵大臣でした。
容貌から、「ダルマさん」と呼ばれ親しまれてました。
1921(大正10)年から翌年にかけては、内閣総理大臣も勤めています。
財政に詳しく、総理大臣としてより、大蔵大臣としての評価の方が高いそうです。
最近では、宮沢喜一も、総理大臣をやった後、大蔵大臣を勤めてます。
↑宮澤エマの祖父です。
あ、麻生太郎もそうか。
↑大蔵大臣ではなく、財務大臣ですが。この人のファッション、嫌いじゃないです。
事件当時の高橋は、実に、6度目の大蔵大臣だったそうです。
総理を辞めて、一旦は政界を引退してました。
しかし、1927年、当時の田中義一総理に請われ、3度目の大蔵大臣に就任(73歳)。
その後、犬養毅内閣で、4度目(77歳)。
斎藤実内閣で、5度目(78歳)。
そして、岡田啓介内閣で、6度目(80歳)。
当時は、1929(昭和4)年のウォール街大暴落から始まった、世界恐慌の真っ只中。
その舵取りを任されたわけです。
しかし、世界レベルの恐慌の嵐を、小国の一蔵相がどうにか出来るわけがありません。
軍事予算の縮小を図ったことが、軍部の恨みを買ったということです。
さて、二・二六事件です。
Wikiによれば、「日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが、1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件」とあります。
↑なぜか、日本の政治的大事件は、雪の日に起こります。
殺害された大臣は、高橋是清のほかでは、斎藤実(まこと・内大臣)のみ。
↑斎藤実(1858~1936)。海軍出身。最高位は海軍次官(海軍大臣の次の位です)。
総理大臣の岡田啓介も、首相官邸で襲わました。
↑岡田啓介(1868~1952)。こちらも海軍出身。連合艦隊司令長官から、海軍大臣(連合艦隊司令長官は、海軍大臣より序列が下ですが、海軍軍人のなりたい位ランキングでは、ダントツのトップだったそうです。響きが格好いいですからね)。
しかし、警察官が応戦しているすきに、女中部屋の押入れに隠れることができました。
警護の警察官4名は、抵抗むなしく射殺されています。
叛乱軍将兵は、岡田総理を求め、官邸内を探し回りました。
そのときです。
寝室と思われる和室から、寝間着姿の老人が走り出て、庭に飛び降りました。
将兵は、岡田に違いないと、一斉に銃撃を浴びせます。
老人は、ひとたまりもなくその場に倒れました。
即死でした。
でも、その老人は、岡田総理ではなかったのです。
岡田の義弟で、総理秘書官兼身辺警護役を務めていた松尾伝蔵退役陸軍大佐でした。
彼は、岡田を女中部屋に隠した後、寝間着に着替えると……。
わざと、将兵の前に躍り出たのです。
もちろん、岡田の身代わりとなるためです。
将兵らは、松尾を総理と誤認し、目的を果たしたと思いこみました。
Wikiの記述などでは、松尾が岡田と容貌が似ていたとあります。
しかし松尾は、岡田の妹の夫ですから、血縁関係はありません。
↓2人が並んだ写真を見ても、似ているとは云えません。
↑岡田(左)と松尾(右)。似てますか?
松尾の決死の演技に、まんまと叛乱軍が騙されたということでしょう。
この岡田邸の場面、わたしは確か、テレビで見てます。
『歴史秘話ヒストリア』だったかも知れません。
さて、岡田邸には、叛乱軍が居座ったままです。
この最中、岡田総理の救出作戦が企てられました。
このときの作戦を、お話として作ったとしたら……。
必ずや、「ご都合主義」のレッテルを貼られることでしょう。
↑こんなシナリオ、この人でも書けません。
それほどまでに奇跡的な作戦でした。
救出劇では、一滴の血も流れてないんです。
総理秘書官は、殺された松尾のほか、官邸に隣接する官舎にも詰めてました。
そのひとり、迫水(さこみず)秘書官は……。
官邸内の叛乱軍将校に電話し、遺骸の検分を認めてくれるよう交渉します。
叛乱軍の方には、実物の岡田総理を見た者がいませんでした。
当時は、テレビもありません。
岡田総理の顔は、新聞の粗い白黒写真でしか知らなかったわけです。
↑例の岡田総理即死の誤報記事。左上が岡田の写真。
しかも、身代わりとなった松尾は、顔面にも銃弾を浴びていました。
叛乱軍としても、遺骸が本当に岡田総理か確証がほしかったのでしょう。
検分は、許可されました。
迫水秘書官は、もうひとりの秘書官と連れ立って官邸に入りました。
そして、岡田総理の遺骸と引き合わされます。
布団が捲られると……。
そこに仰向いていたのは、岡田首相ではなく、義弟の松尾秘書官でした。
2人の秘書官は、懸命に自らの表情を殺します。
将校の「間違いありませんね」との問いに、2人は無言でうなずきました。
↑こちらは、陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎の遺骸。杉並の自宅で殺害されました。軽機関銃で蜂の巣にされたそうです。
迫水秘書官らが帰り際、女中部屋の前を通りかかると……。
女中が2人、押入れを背にして座りこんでいました。
どこか傷めて動けないのかと思い、「怪我はなかったかね?」と聞くと……。
女中は、「お怪我はございませんでした」と答えたのです。
この言葉で、迫水らはハッと気づきました。
岡田総理は、押し入れの中にいる。
2人の女中は、岡田を守って、押入れの前を動こうとしないのだと。
もし、叛乱軍が踏みこんできたときには……。
おそらく女中は、身をもって楯となる覚悟だったのでしょう。
官舎に引き上げた秘書官らは、岡田総理の救出計画を練りました。
一か八かの勝負ですが、妙案が浮かびました。
迫水らは、官邸内の叛乱軍将校に、せめて弔問させてくれと申し入れます。
聞き遂げられると……。
岡田(当時68歳)と同年代の老人を10名ばかり集め、弔問客に仕立てて官邸に入ります。
弔問はもちろん、叛乱軍将兵の監視の下です。
押入れに逃げこんでいる岡田は、当然、寝間着のままです。
迫水は隙を見て、押入れ前の女中に喪服を渡します。
岡田が押入れ内で着替えた頃合いを見計らい、巡回の切れ間をついて岡田総理を連れ出します。
そして、多数の弔問客の中に紛れこませたのです。
迫水は、顔を伏せた岡田を抱えるようにして玄関に向かいます。
見張りの将兵には、「遺骸を見ちゃいかんと言ったのに仰天したんだ。困った老人だ」と言いながら……。
そのまま邸外に連れ出し、車に乗せました。
まさに、奇跡としか言いようのない脱出劇でした。
↑岡田生存を伝える、2月29日の新聞。
こうして命を拾った岡田でしたが……。
激しい自責の念に苛まれます。
高橋是清は、80歳を過ぎた老人でした。
本来であれば、功成り名を遂げて、悠々自適の余生を送っていたことでしょう。
↑孫の楊子を抱く是清。
そんな老人に、世界恐慌の荒波の舵取り役として、無理を言って蔵相に就任してもらったのです。
その高橋が、無残な最後を遂げてしまいました。
自分が蔵相を頼んでなければ、こんなことにはならなかったのです。
岡田の傷心ぶりは、傍目にも痛ましくなるほどで……。
事件後、岡田の拝謁を受けた天皇は、「考え違いをしないように」と自決を諌めたほどでした。
さて、岡田総理の話が長くなってしまいました。
『高橋是清邸』に、戻りましょう。
まずは、高橋邸のあった港区赤坂七丁目は、↓ここ。
屋敷の跡地は『高橋是清翁記念公園』となってます。
当時は、隣のカナダ大使館も高橋邸の一部で、高橋邸の敷地は、2,000坪あったそうです。
今でこそ赤坂は都心の一等地で、住宅があるようなところでは無くなってしまいましたが……。
高橋邸が建った明治35(1902)年ころは、まだ江戸の趣を残してたそうです。
大名の屋敷地が多数残っていたため、郊外のような佇まいだったとか。
↑明治初期の赤坂。右手に見えるのは弁慶堀。ホテルニューオータニのあたりですね。
↓高橋邸の敷地も、丹波篠山藩青山家の中屋敷でした。
↑上に見える“紀伊”の巨大な敷地は、紀州徳川家の上屋敷。現在の赤坂御用地です。
さて、ここまで書いて……。
やはり、是清の生涯を振り返っておいた方がいいと思い直しました。
なにしろ、波乱万丈を絵に書いたような一生だったんです。
是清が生まれたのは、幕末の1854(嘉永7)年。
武士階級の出ではありません。
父親は、幕府御用絵師・川村庄右衛門。
芝白金(現在の港区芝大門)に生まれました。
このとき、庄右衛門、47歳。
母親は、きん。
なんとこのとき、16歳。
魚屋の娘ですが、川村家に行儀見習のため奉公してました。
この前提から、容易に想像できるとおり……。
47歳の庄右衛門が、行儀見習の小娘に手を付けたのです。
しかし、庄右衛門の妻が出来た人でした。
身籠ったきんに同情し、きんを中門前町の叔母の家に帰して静養させ、頻繁に見舞っては世話をしたそうです。
きんは、そこで是清を生みました。
むろん、是清を川村家に迎えることは出来ません。
是清は、江戸勤番の仙台藩足軽、高橋覚治に里子に出されます。
しかし、幼少のころの事情はよくわからないのですが……。
仙台藩から、『ヘボン塾』での英語修学を命じられます。
『ヘボン塾』とは、ローマ字の“ヘボン式”で馴染み深い医学者のヘボンの私塾です。
後の、明治学院大学だそうです。
↑白金キャンパスにある『ヘボン館』。綴りを見ておわかりのとおり、本当は“ヘップバーン”です。これを日本人が、“ヘボン”と読んでしまったという恥ずかしいお話。
足軽の養子がこんな命を受けるわけですから、さぞ聡明だったのでしょうね。
次いで、1867(慶応3)年。
是清13歳のおり、アメリカ留学の藩命が下ります。
一緒に渡米したのが、勝海舟の息子・勝小鹿らだそうです。
↑渡米時代(1867年)の写真だそうです。右が是清(13歳)。左が小鹿かどうかは不明(小鹿だとすれば、15歳)。
しかし、ここまででも十分波乱万丈ですが……。
この後、とんでもない運命が待ちうけてました。
留学の世話をしたアメリカ人のリードと云う貿易商が、大変な悪人だったのです。
学費や渡航費は、すべてこの男に着服されたそうです。
さらに、渡米してホームステイしたのは、なんとこのリードの両親の家。
この両親が、リードに輪をかけた極悪人でした。
↑想像図。
何もわからない是清を騙し、書類にサインさせます。
なんとこの書類が、是清自身を奴隷として売り飛ばす売買契約書だったのです。
是清は、はるばる極東から海を渡って来た、13歳の少年ですよ。
そんな子を騙そうとしますかね、普通。
とにかくまぁ、絵に描いたような極悪人で、逆に感心してしまうほどです。
が、騙された是清は悲惨です。
オークランドの牧場に、奴隷として売られてしまったのです。
↑こういう奴隷なら良いのですが……。
しかし、彼はへこたれませんでした。
牧場や葡萄園を転売されながら、時にはストライキを試みたりもしたようです。
そうした生きるか死ぬかのやり取りを、雇い主のアメリカ人と重ねるなかで……。
英会話と読み書きの能力が、まさに血肉となって身についていきます。
そしてようやく、1868(明治元年)、日本に帰り着くことが出来ました。
しかしもう、自分に留学を命じた仙台藩は、無くなってしまっていたのです。
↑仙台城跡に建つ、伊達政宗騎馬像。
でも、アメリカで過ごした月日は、決して無駄ではありませんでした。
サンフランシスコで、後の初代文部大臣で一橋大学の創設者となる、森有礼(もりありのり)の知遇を得ていたのです。
↑森有礼もまた、暗殺されています。これも運命でしょうか。しかし、この名前を見ると、どうしても有森也実を連想してしまいます。
是清は、森家の書生となり……。
↑書生とは、他人の家に住み込み、家賃を払わない代わりに家事や雑用を担う学生のことです。家に書生を置くことは、一種のステータスだったそうです。
大学南校(東大の前身)に入学します。
↑関係ありません。
ところが、同級生とは比べ物にならないほど英語が堪能だったため……。
なんと、入学して2ヶ月後には、教官になってます。
是清、わずか15歳のときです。
この道で真面目に勤めていけば……。
ひょっとしたら教育者になっていたかも知れません。
しかし!
この15歳は、大したタマでした。
なんと、給料が入るようになると、たちまち茶屋遊びを覚えます。
ついに、その放蕩ぶりが大学の知るところとなり……。
退職を余儀なくされてしまいます。
たぶん、森家にもいずらくなったのでしょう。
なんと!
日本橋の芸者置屋に居候して、箱屋(芸者のお供の三味線持ち)になったそうです。
↑この絵ではおバアさんのようですが、芸者の警護も兼ねてるので、身を持ち崩した訳ありの男がやるケースが多かったようです。
落語みたいな話ですよね。
是清、16歳のときです。