2016.10.15(土)
わたしの子供のころ、こんな土管があった記憶はありませんが……。
原っぱはありましたね。
もちろん、草ぼうぼうです。
↑こんな感じでした。まだあるんですね。
秋になると、やかましいほど虫が鳴いてました。
↑カマキリがいるのは、マズいんでないの?
草を分けて歩いて行くと、足元から、バッタが次々と飛び出します。
わたしは虫には興味が無かったので、拾った棒きれで、草の穂を跳ねながら歩きました。
↑棒きれは、まさしく『草薙の剣』でした。
原っぱを出ると、靴下などに、草の実がたくさん付いてました。
↑センダングサ(キク科)の実。先が三叉というのが凶悪です。
そうそう。
夕暮れになると、頭上をコウモリが飛び交ってました。
↑こんなにはいませんでしたが。
あいつらは、どこから来たんですかね?
↑疑惑の画像を発見。オオコウモリだそうですが、ほんまか? 咥えてるのはバナナだそうです。植物食のコウモリもいるそうですが。
わたしの住んでる新潟市は、『ブラタモリ』で紹介されたように、砂の町です。
洞窟なんか、あるわけありません。
↑キモ! こんなの見たら、腰が抜けますね。
でも昔は、コウモリの棲家があったわけですよね。
そして今、なぜいなくなってしまったのか。
謎です。
↑『緯度0大作戦/1969(昭和44)年』のお粗末すぎる“こうもり男”。まんま、着ぐるみです。
ひょっとしたら、隙間だらけの日本家屋そのものが棲家だったとか?
ところで、どうして昔は、あんなに原っぱがあったんでしょう?
土地だけ買っておいて、そのうち家を建てようという人が多かったのでしょうか。
今みたいに、建築条件付きで売られる土地なんて無かったからですかね。
ここで、『砂の町』で、もう一つ思い出しました。
わが家は、田んぼを埋め立てた造成地に建ってます。
埋め立てに使われたのは、当然のごとく、砂です。
つまり、わが家では、埋め立て前の田面(でんめん)から、今のGL(グランドレベル)まで、びっしり砂が詰まってるわけです。
砂地は、水はけは良いのですが、乾きやすいのが難点です。
でも、砂地を水もちが良くなるように改良するのは、比較的容易です。
バーク堆肥などを混ぜてやればいいのです。
↑樹皮から作られた堆肥です。
それに対し、粘性土の水はけを良くするのは、とても大変。
表面だけ改良しても、その下が粘性土のままでは、水が抜けないからです。
↑田んぼの水が抜けないのは、粘土質の土が使われてるからです。
ま、それは置いといて。
何が書きたかったかと云うと……。
最近の造成地を見ると、埋戻しに使われてるのは、砂じゃありません。
もう、砂が取れるような場所は無くなってきてるんでしょうね。
よく使われてるのは、マサ土です。
ピンク色の、荒目の土です。
でもこれ、ほんとは土じゃないんです。
花崗岩が風化してボロボロになったもの。
ピンク色に見えるのは、カリ長石が多く含まれるからだそうです。
↑ピンク色の部分が、カリ長石の結晶。
砂よりも安価なので、使われてるんだと思います。
大量に使う場合、単価の違いは、総額に大きく響きますから。
で、このマサ土が一般家庭の庭のベースになってるわけですが……。
こいつは、やっかいです。
そのまんま木を植えても、まず満足には育ちません。
まず、岩が風化して細かくなったものですから、栄養分はほぼゼロです。
↑一見、岩盤に見えますが、触っただけでグズグズに崩れるそうです。
じゃ、肥料を混ぜればいいかというと、そう簡単ではないのです。
マサ土が水を含むと、ぐちゃぐちゃ状態になり、なかなか水が抜けません。
こういう土壌に肥料を入れたら、根腐れを起こす可能性が大きいです。
さらにマサ土の悪いところは、乾燥するとガチガチに固まるんです。
↑固まる性質を利用して、舗装材の素材としても使われてます。
ほんとに、岩に戻ったみたいな感じで、スコップも刺さらないほどです。
こうなると、水やりしても、水が染みていきません。
亀裂が入った部分に流れ込むだけになってしまいます。
なので、まずは土壌改良をして……。
これらの性質を緩和した後、肥料を加えなければならないというわけです。
はっきり言って、マサ土の造成地で、庭や畑を作ろうと思ったら……。
植栽エリアごと、土を入れ替えるのが一番手っ取り早く、結局は安価だと思います。
これを、「客土」と云います。
文字どおり、別の土をお客さまとして迎えるわけですね。
そう言えば、客土でまた思い出しました。
乾田化される前の亀田郷。
『ブラタモリ』でも、ちらっと紹介されましたが……。
排水機が稼働する前の亀田郷は、地図にない湖と呼ばれる地域でした。
↑田植えです。
そんな田んぼで、胸まで水に漬かって、懸命の作業をしました。
しかし、出来る米は不味く、「鳥またぎ米」と呼ばれてました。
米がこぼれてるのを鳥が見つけても、啄まずに、またいで歩き去るという意味です。
鳥が食べないような米を、人が食べてたわけです。
農民たちは、自分の田んぼの土を、少しでも高くしようとしました。
どうするかと云うと、これが「客土」です。
昔は、亀田郷一帯を、水路が網の目のように広がってました。
↑一種の『ウォーター・ワールド』でした。
農民は、自家用の舟を持っており、これに乗りさえすれば、地べたを歩かずとも、どこにでも行けたんです。
↑田舟(たぶね)と云います。
沼垂にある蒲原神社は、鳥居がバイパス道路に面して建ってます。
↑ちょっと、わかりにくいですが。植木が並んでるのが、バイパス道路の中央分離帯です。
一見、バイパス建設のために、参道が潰されたみたいですが……。
違うんです。
このバイパス道路、昔は、栗ノ木川という川だったんです。
↑昭和初期の様子。川幅は、70メートルもありました。
つまり、鳥居は川に面して立っていた。
なぜかというと、参詣者は、みんな舟に乗ってやってくるからです。
↑昭和25年の栗ノ木川。
この蒲原神社では、米の作柄を占う『御託宣(おたくせん)』が、昔から行われてました。
鎌倉時代に始まったそうですが……。
なんと、今でも続いてます。
ま、今は、その『御託宣』の結果は、報道もされませんが……。
昔は、ものすごい影響力を持ってました。
『御託宣』が行われるのは、蒲原祭りの夜。
↑現在も大盛況。6月30日~7月2日の開催なので、まず、雨に祟られます。
近隣の農民は、こぞって神社に集まり、祈るような気持ちで『御託宣』を待ってました。
なにしろ江戸時代では、この『御託宣』の結果によって、堂島の米相場が動いたそうです。
米相場は、先物取引ですからね。
その年の米の出来の予想は、大きく相場を動かす要因となります。
また、話がこんがらがってきました。
「客土」の話をしてたんでした。
そんなわけで、自家用の舟に乗れば、どこにでも行けたわけです。
信濃川から、海に出ることだって出来たんですから。
↑大正13(1924)年に、『小甚旅館(新潟市の旅館では最も古い歴史を持ち、多くの政財界人に利用されました。2005年に廃業)』が宣伝用に作成した鳥瞰図。海沿いの緑の連なりが、新潟砂丘です。
で、「客土」を迎えるために農民たちが向かったのは、鳥屋野潟です。
↑青く塗られてる部分が、日本海の海面より低い範囲。
これまた、『ブラタモリ』で出てきましたね。
タモリさんが消防署の屋上にから、こわごわ見下ろした湖が鳥屋野潟です。
それではまず、“潟”とはいったい何でしょう。
辞書を引くと、2とおりの意味が出てきます。
①遠浅の海で、潮の干満により、陸地が現れたり、水面下に隠れたりする所。干潟(ひがた)。
②海の一部が、砂州などによって海と切り離されてできた湖沼。
鳥屋野潟は、もちろん②です。
現在の鳥屋野潟は、海岸線から、4キロも離れてます。
でも、縄文海進のころは、このあたりまでが海だったんです。
で、信濃川と阿賀野川に運ばれて海に出た砂が、冬の季節風によって、再び陸地に吹き上げられ……。
砂丘が出来ました。
↑青が一番古い砂丘。次が緑、最後が赤。砂丘があるということは、そこが海岸線だったということです。
そういう砂丘の間の低地が、やがて海と切り離されて、潟になりました。
鳥屋野潟の水深は、1メートルから1.5メートルしかありません。
面積は、137ヘクタールもありますが……。
湖沼学的には、湖ではなく、沼ですね。
↑背後に見えるのは、ビッグスワンスタジアム(『アルビレックス新潟』のホーム球場)。
さて、それでは、「客土」の話に戻ります。
農民が、自分の田んぼにお客さんとして土を迎えるために向かったのが……。
鳥屋野潟だったんです。
ここで重要なのが、水深です。
浚渫船などではなく、ただの木舟に乗って行くわけですから……。
潟底が深くては、どうしようもありません。
その点、1メートルから1.5メートルの水深しかない鳥屋野潟は、うってつけだったわけです。
しかも、その潟底の泥は、有機質を多く含み、肥料効果も大きかったのです。
当時は、「客土一寸、一石の増収」と云われてました。
↑稲刈りの様子。水面に見えるところが、田です。
鳥屋野潟の底土は、近隣農民にとって非常に貴重な資源であったので……。
集落ごとに、土を採る場所が決められてたそうです。
実際の作業はどうするかと云うと、ジョレンという道具を使いました。
長い棒の先に、泥を掬うバケットが付いた器具です(貝を採る道具も、ジョレンと呼ばれるようです)。
↑「ジョレン掻き」と称される作業です。
泥は重いですから、大量には掻きあげられません。
少しずつ採っては、舟に上げるという作業の繰り返しです。
しかし、ここで危険なのは、舟に上げる泥の量です。
積む泥の量が少なければ、田んぼとの往復回数が増え、時間の無駄になります。
なので、少しでも多く積みたい。
しかし……。
木舟の喫水は、泥の重みでどんどん下がっていく。
恐怖との戦いじゃなかったでしょうか。
実際、判断を誤って舟が沈み……。
浮かんでこなかった農民も少なくないそうです。
水深は1メートルでも、潟底は柔らかい泥ですから、身を支えることなど出来ないのです。
なんだか、亀田郷の話をすてると、気が滅入ってきます。
亀田郷を描いた、司馬遼太郎の『街道をゆく~潟のみち』は、次の一節で始まります。
「農業というものは、日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」
司馬は、亀田郷土地改良区で、かつての農作業の様子を収めたフィルムを見ています。
このフィルム、わたしも見てます。
確か、鳥屋野潟畔にある、『新潟県立自然科学館』だったと思ったんですが……。
ホームページには、記載が無いようです。
いろんな映像を見られるコーナーがあったんですよ。
長岡の『新潟県立博物館』だったかな?
とにかく、司馬遼太郎が見たフィルムだったことは確かです。
そのフィルムを見て、衝撃を受けた司馬は、↓のように書いてます。
「亀田郷では、昭和三十年ごろまで、淡水の潟にわずかな土をほうりこんで苗を植え(というより浮かせ)、田植えの作業には背まで水に浸かりながら背泳のような姿勢でやり、体が冷えると上へあがって置けの湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入るという作業をやっていたことを知った」
↑背泳のような田植え。たぶん、司馬が見た映像だと思います。水ではなく泥の中ですから、大変な重労働です。
「映画を観了(みお)えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。
映画では、潟の水の中へほうりこむ土も、陸地から採ってくるのではない。田舟を漕ぎ出して、爪のような道具に長い棹(さお)をつけ、潟の水底から掻きとって舟に揚げ、舟にわずかに土が溜まると、田(といっても渺茫(びょうぼう)たる水面だが)へ持って行って、ほうりこむのである」
↑「客土(ジョレン掻き)」の様子。舟の吃水が水面ギリギリになるまで土を積みます。恐ろしい作業です。
「爪のような道具に長い棹(さお)をつけ」という道具が、ジョレンのことです。
亀田郷の農民は、「自分は地獄に生まれてきたのか」と呻きながら、生きるために、泥に浸かり続ける生涯を送ったのです。
↑客土を自分の田に入れてる様子。女性のようですね。ひょっとしたら男は、客土を積んだ舟を女性に渡すと、空舟に乗り換えて、また鳥屋野潟に向かったのかも知れません。
さて、すっかり話が外れてしまいましたね。
亀田郷の話を始めると、どうもブレーキが外れてしまいます。
話を戻しましょう。
どこまで書いたのか、すっかり忘れ返ってしまいました。
『仕立屋』の後に、原っぱの土管でしたよね。
そうそう。
原っぱ→コウモリ→新潟には洞窟がない。
なぜなら、『砂の町』だから。
で、砂質土の土壌改良→客土。
ここから、鳥屋野潟での「客土」作業に話が進んだんですね。
あー、しんど。
↓土管の次に撮ってある写真は、これでした。
↑「み」
これは明らかに、トイレの汲み取り口です。
↑こういう柄杓で汲んだようです。ホームセンターで、まだ売ってるんでしょうか?
どうしてこういうのばかり撮るのか、われながら謎です。
建物の外観も室内も、まったく撮ってません。
画像の撮影時間を見ると、土管から1分しか経ってません。
ひょっとしたら、また仕立屋に戻って、汲み取り口だけ撮ったのかもしれません。
ほんとに、この人の写真の撮り方には困ったものです。
現場に行って、注意したいほどです。
↓次の写真は、これ。
↑「み」
珍しく外観を撮ってましたが、これ1枚で、後は何もありません。
パンフレットを見返したら、ようやく判明しました。
『丸二商店(荒物屋)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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昭和初期に建てられた荒物屋です。
小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です。
店内は昭和10年代の様子を再現しています。
裏手には長屋も移築し、それとともに路地の様子も再現しています。
【千代田区神田神保町三丁目/昭和初期】
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千代田区神田神保町三丁目は、↓あたり。
わたしの撮った写真は、「裏手には長屋も移築し」という部分ですね。
↓『丸二商店』の表側は、拝借画像でどうぞ。
「小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っている」というのが、↓の部分。
荒物屋というのは、今で云うホームセンターのようなお店ですね。
もちろん、品揃えは、ホームセンターには遠く及びませんが。
でも昔は、選択に迷うほど、たくさんの種類の商品が出回ってなかったんじゃないでしょうか。
選ぶ余地がなければ、それはそれでシンプルなライフスタイルが送れたと思います。
今はむしろ、選択の余地があり過ぎて、時間を取られてしまいますよね。
電化製品を買うときなんか、特にそうです。
家電量販店をいくつも回り、いくつかの候補をピックアップします。
でも結局、量販店では買いません。
家に帰ってから、ネットで最安値の店を探します。
無店舗型のネットショップの方が、安いに決まってます。
店舗の家賃も、店員の給料も、原価にのってきませんから。
↑実物を手に取って確かめるために使われ、結局買ってもらえないことを、「ショールーム化」と云うそうです。
荒物屋の店内を、拝借画像でご紹介します。
↓こういう品は、流行遅れで陳腐化することがありませんね。
↓こちらも同じく。
↓またまた同じく。
いずれの品も、埃さえ払っていれば、何年でも吊るしておけそうです。
さて。
でもわたしが魅力を感じたのは、後ろにくっついた長屋部分です。
↑ここにも銀色の消火設備があります。要工夫!
この長屋部分も、実際に『丸二商店』にくっついてたものなんですかね?
ま、ぜんぜん違う建物をくっつけたりしたら……。
移築ではなくなってしまいますよね。
それに、店舗部分は、思った以上に薄っぺらなようです。
これも例の、看板建築なんでしょうね。
通りに面した間口部分だけ、思い切り金をかけ、裏側は長屋として貸し出す。
上手なお金の使い方と云うべきなのかも知れません。
でも、この長屋部分の写真を、なんでもっと撮ってなかったのでしょう。
ネットで画像を探してみたら、とても魅力的な建物でした。
たぶん、かなり疲れて、気力がとぼりそうになってたんだと思います。
以下、拝借画像で、長屋をご紹介します。
↓長屋と云っても、かなり立派な造りです。
これって、ひょっとしたら、メゾネットなんですかね?
↓玄関のアップがありました。
↓玄関脇の階段。
玄関だけ共用で、1階と2階は、別所帯なんでしょうか。
でも、2階の住人が玄関に入ると、1階の部屋が丸見えですよね。
↓神田神保町にあったころの写真を発見。
撮影されたのは、1985(昭和60)年。
このころは、『西田書店』と云う自費出版の本屋さんになってたようです。
車のデザインと右端の電話ボックスに、時代を感じます。
↓「ごみ箱」の隣は、防火用の水槽ですね。
「ごみ箱」と書いてあるのは、たぶん、現代の見学者に対する説明用でしょうね。
当時は、それが「ごみ箱」であることは、誰もがわかってたでしょうから。
↓2階に洗濯物が干された写真がありました。
実際には、浴衣やシャツを、こんなふうには干さないでしょう。
手すりなどに擦れて、汚れてしまいます。
↓さて、次の写真はこちら。
↑「み」
↓これは、『都電7500形』という路面電車です。
↓パンフレットの説明書きをどうぞ。
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渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌です。
交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1972(昭和47)年から順次廃止されました。
【製造年:1962(昭和37)年】
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よく考えたら、わたしは、東京にいた時も、荒川線に乗ったことがありませんでした。
↑今は、こんな車両のようです。ちと、乗る気が失せますね。
すなわち、生涯一度も路面電車に乗ったことが無いのです。
で、この展示ですが、車輌の中に入れました。
すなわち!
わたしは、生まれて初めて、路面電車の車中に足を踏み入れたことになります。
↓これが、その瞬間の写真です。
↑「み」
床は木ですね。
ロングシートというのが残念ですが……。
この方が乗客を多く積めますし、乗降もスムーズになります。
電車と云うより、バスに近い感じです。
残念ながら、室内を撮ったのは、この一枚だけでした。
でも、電車を見た途端、気力が復活したらしく……。
外観は、けっこう撮ってました。
↓乗り口ですね。
↑「み」
↓この行き先表示板では、須田町まで行かず、新橋止まりのようです。
↑「み」
↓系統案内図です。
↑「み」
撮り方が悪いのか、さっぱり読めません。
↓ネットを探しましたが、元々、印刷が薄いようです。
↑クリックすると、大きい画像が見られます。
↓『乗降者優先』。
↑「み」
これは、自動車に対して言ってるんでしょうか。
しかし、拙い字ですね。
↓キャッチコピー。
↑「み」
こういう宣伝文句を掲げるというのは、乗降客数に陰りが出てからでしょうね。
↓でも、反対側のを見ると、まだ混雑してる感じもします。
↑「み」
先のキャッチコピーとは、同じ時期のものではないかも知れません。
でもこれ、本当に小学生が考えたんでしょうか。
もしそうだとしたら、イヤな小学生ですね。
そう言えば、Youtubeに、都心の小学生が、一人で電車通学している動画が載ってました。
別に、なんの変哲もない光景に見えるのですが……。
外国人にとっては、あり得ないことのようです。
外国では、電車だけでなく、徒歩でも、子供だけで通学する習慣が無いところが多いようです。
必ず、親が送り迎えするとか。
子供だけで歩いてたりしたら、誘拐などの犯罪に巻きこまれかねないからだそうです。
わたしの小学校のころは、最初は、集団登校でした。
同じ地域の高学年の児童が、低学年を引き連れて通学するんです。
↑こんな感じ。先頭の女の子、ほんとに小学生ですかね。ランドセルが異様に小さく見えます。
でも、いつの間にか、この習慣は無くなったように思います。
わたしだけ、離脱したのかも知れません。
とにかく、集団行動は苦手でした。
さて、次の建物に移りましょう。
↓いきなり寝床が写ってます。
↑「み」
これは、『万世橋交番』の内部。
↓パンフレットの説明書きです。
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デザインや建築様式から明治時代のものと思われます。
正式名称は須田町派出所。
神田の万世橋のたもとにあり、移築のときにはトレーラーでそっくり運びました。
【千代田区神田須田町一丁目/明治後期(推定)】
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↓神田須田町一丁目は、このあたり。
そう言えば、さっきの都電の終着も須田町でしたね。
↓畳の脇の土間です。
↑「み」
簡単な煮炊きもここでしたんでしょう。
昔は、コンビニとかありませんからね。
流しは、洗面台兼用ですね。
こんなところで宿直ってのも大変ですよ。
夏は暑くて寝苦しかったでしょうし……。
冬は、どうやって暖を取ったんでしょう。
↓執務用の机でしょうか。
↑「み」
とことん、せせこましいです。
実際、この交番を移設するときは……。
分解せず、このままトレーラーで運んだそうですから。
↓ようやく、外観を撮ってました。
↑「み」
小奇麗ですよね。
でも、実際にあった場所では、↓こんな感じでした。
↑1987(昭和62)年2月。
公衆トイレと間違われそうです。
ここでひとつ、補足です。
パンフレットの説明書きには、『万世橋交番』とありますが……。
移設されたころ(1992年)の正式名称は、『須田町派出所』だったようです。
従来は“派出所”が正式名称で、“交番”は俗称だったのですが……。
平成6(1994)年、警察法改正により、“交番”が正式名称となりました。
↑東京都中央区銀座にある『数寄屋橋交番』。“KOBAN”の表示は、外国人向けでしょう。
これで連想するのが、最近終了した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。
連載が始まったのが、1976(昭和51)年ですから、バリバリの“派出所”時代。
“交番”が正式名称となってからも、作品タイトルは変わりませんでした。
↓表の説明板の平面図です。
↑「み」
ちゃんと、トイレまでありますね(右上)。
しかも、大小別。
宿直室奥の扉は、トイレへの入口だったんだ。
でも、明らかに扉の上下が分かれてます。
上半分は、収納になってるんでしょうか。
下の扉を潜るときは、身をかがめなきゃなりません。
きっと、この交番には、小柄な人が選ばれて勤務したんだと思います。
さて、ここでわたしは、東ゾーンの探索を終了したようです。
しかし!
改めてパンフレットを眺めると、見逃した建物がいくつもありました。
好き勝手に歩き回ってると、こういうことになります。
例によって、それらの建物を、パンフレットと拝借画像でご紹介します。
まずは、『天明家(農家)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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江戸時代、鵜ノ木村(現在の大田区内)で年寄役を勤めた旧家です。
正面に千鳥破風をもつ母屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえます。
【大田区鵜の木一丁目/江戸時代後期】
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↓大田区鵜の木一丁目は、このあたり。
多摩川の向こうは、神奈川県川崎市です。
意外に思われるかも知れませんが……。
大田区は、東京23区の中で、都心から最も離れた区なんです。
都心からの距離は、埼玉県川口市や千葉県市川市と同じだそうです。
ここで余談ですが……。
大田区の“大”は、“太”ではありません。
大田区は、大森区と蒲田区が合併して出来た区なんです。
すなわち、“大田区”の“大”は、“大森”の“大”なんですね。
↑荏原区は品川区と合併。赤坂区、麻布区、芝区は、合併して港区になりました。
さて、『天明(てんみょう)家』に戻りましょう。
『年寄役』を勤めたとありますが……。
『年寄役』とは、一体、どういう役なのでしょうか。
↑老け役のことではありません。
江戸時代の村には、『村方三役』という村役人がいました。
名主(庄屋)、組頭(年寄)、百姓代の総称です。
一般的には、名主が村政全体を代表し、組頭がその補佐役、百姓代が監査役とされてます。
名主が村長、組頭が副村長という感じですね。
実際の職務や権限は、村ごとに違ってたようですが……。
組頭(年寄)が、村のNo.2であったことは間違いないでしょう。
三役の内、名主と組頭は世襲制。
百姓代は、まさしく百姓の代表で、任命制だったようです。
で、『天明家』は、この組頭(年寄)を代々勤めてきた家ということです。
説明書きにある『千鳥破風』というのは、↓の部分のことです。
↓もう一度、破風の種類について復習してみましょう。
『唐破風』は、↓『子宝湯』で出てきました。
曲線を用いた破風のことです。
それでは、上のお城の図にある『入母屋破風』と『千鳥破風』が、どう違うかと云うと……。
屋根の両端まで破風の裾が伸びてるのが、『入母屋破風』です。
『千鳥破風』は、屋根の両端まで裾が伸びてません。
上の図で、2連になった『比翼入母屋破風』は、左右の裾が、屋根の端まで伸びてます。
同じ2連でも、裾が屋根の端まで届いてなければ、『比翼千鳥破風』となります。
同じく説明書きの『長屋門』というのが、↓これ。
『長屋門』というのは、本来、武家屋敷で用いられた形式です。
武家屋敷には、家臣が住まう長屋が隣接していましたが……。
その長屋の一部を、屋敷への門にしたものが『長屋門』です。
門に隣接する長屋には、門番や仲間(ちゅうげん)が住んでたわけです。
↑長屋門内の住居(松江市『武家屋敷』)。
『天明家』のような農家では……。
長屋は、使用人の住居、納屋、作業所などとして利用されたようです。
なお、『天明(てんみょう)』という苗字ですが……。
村方三役のうち、名主と年寄の家系については、苗字を名乗ることが許されていたんだと思います。
『天明』は、下野国安蘇郡天明宿(現・栃木県佐野市)が起源だとか。
鎌倉時代に、大田区鵜の木に移り住んだようです。
↓屋敷の平面図がありました。
図面の一番上の凸形に出てる部屋ですが……。
↓『産部屋』と書いてあります。
これはおそらく、「産室」のことでしょうね。
まさしく、出産のための部屋です。
もっと昔は、「産屋(うぶや)」と云って、出産用に別の建物が建ってました。
↑京都府福知山市に残る「産屋」。なんと! 昭和23年まで実際に使われてたそうです(京都府有形民俗文化財)。
一件、妊婦が大事にされてるようですが……。
そうじゃありません。
出血をともなう出産は、「不浄」と考えられていました。
すなわち「産室」は、穢れた者を隔離するための部屋ということです。
↑「み(2015年5月23日)」。
上の写真は、昨年行った『江戸東京博物館』で撮ったもの。
長屋でのお産の様子です。
一番奥で、身を起こしてるのが妊婦です。
当時は、座った状態で出産したのです。
なお、現在でも「座位分娩」という出産方法があり、選択する妊婦さんも少なくないようです(参照)。
さて、話が逸れました。
『天明家』の枯山水庭園については、再現されていないようですね。
なにしろ、『天明家』の敷地は、3,000坪あったそうですから。
↓枯山水庭園の代表と云えば、『龍安寺』の石庭(拝観料 500円)。
世界遺産です。
こんなの見て、何が面白いんですかね。
特に、この庭を見る縁側のところは、見物客でごった返しており……。
静謐な雰囲気とは程遠いと思われます。
さて、次の建物。
『武居三省堂(文具店)』。
↑中央の茶色い部分です。
↓パンフレットの説明書き。
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明治初期に創業した文具店です。
当初は書道用品の卸をしていましたが、後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた<看板建築>で、全面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴があります。
【千代田区神田須田町一丁目/1927(昭和2)年】
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この名前から、まず連想するのが、出版社の『三省堂』です。
Wikiで、出版社の『三省堂』を調べたところ……。
明治14年、古書店として創業しており、書道用品の卸はやってなかったようです。
『武居三省堂』の「明治初期」がいったい何年なのかわかりませんが……。
ひょっとしたら、『武居三省堂』の方が古いのかも知れません。
ちなみに、“三省”は、『論語(学而篇)』から来てます。
「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしかと」
商売を始めるにあたり、この言葉を店名に入れたのでしょうね。
『三省堂』の創業者は、旧旗本一族だったそうです。
武士階級出身者が、『論語』に素養があったのは当然でしょうね。
『武居三省堂』の創業者も、武士の出かも知れません。
↑士族の商法
ただ、士族の商法は、失敗することも多かったようです。
『三省堂』『武居三省堂』は、稀有な成功例なのかも知れません。
やっぱり、毎日反省してたからですかね。
ちなみに、士族の商法で多かったのは、古道具屋だそうです。
これはすなわち、蔵の所蔵品を、そのまま売ってただけなんですね。
原っぱはありましたね。
もちろん、草ぼうぼうです。
↑こんな感じでした。まだあるんですね。
秋になると、やかましいほど虫が鳴いてました。
↑カマキリがいるのは、マズいんでないの?
草を分けて歩いて行くと、足元から、バッタが次々と飛び出します。
わたしは虫には興味が無かったので、拾った棒きれで、草の穂を跳ねながら歩きました。
↑棒きれは、まさしく『草薙の剣』でした。
原っぱを出ると、靴下などに、草の実がたくさん付いてました。
↑センダングサ(キク科)の実。先が三叉というのが凶悪です。
そうそう。
夕暮れになると、頭上をコウモリが飛び交ってました。
↑こんなにはいませんでしたが。
あいつらは、どこから来たんですかね?
↑疑惑の画像を発見。オオコウモリだそうですが、ほんまか? 咥えてるのはバナナだそうです。植物食のコウモリもいるそうですが。
わたしの住んでる新潟市は、『ブラタモリ』で紹介されたように、砂の町です。
洞窟なんか、あるわけありません。
↑キモ! こんなの見たら、腰が抜けますね。
でも昔は、コウモリの棲家があったわけですよね。
そして今、なぜいなくなってしまったのか。
謎です。
↑『緯度0大作戦/1969(昭和44)年』のお粗末すぎる“こうもり男”。まんま、着ぐるみです。
ひょっとしたら、隙間だらけの日本家屋そのものが棲家だったとか?
ところで、どうして昔は、あんなに原っぱがあったんでしょう?
土地だけ買っておいて、そのうち家を建てようという人が多かったのでしょうか。
今みたいに、建築条件付きで売られる土地なんて無かったからですかね。
ここで、『砂の町』で、もう一つ思い出しました。
わが家は、田んぼを埋め立てた造成地に建ってます。
埋め立てに使われたのは、当然のごとく、砂です。
つまり、わが家では、埋め立て前の田面(でんめん)から、今のGL(グランドレベル)まで、びっしり砂が詰まってるわけです。
砂地は、水はけは良いのですが、乾きやすいのが難点です。
でも、砂地を水もちが良くなるように改良するのは、比較的容易です。
バーク堆肥などを混ぜてやればいいのです。
↑樹皮から作られた堆肥です。
それに対し、粘性土の水はけを良くするのは、とても大変。
表面だけ改良しても、その下が粘性土のままでは、水が抜けないからです。
↑田んぼの水が抜けないのは、粘土質の土が使われてるからです。
ま、それは置いといて。
何が書きたかったかと云うと……。
最近の造成地を見ると、埋戻しに使われてるのは、砂じゃありません。
もう、砂が取れるような場所は無くなってきてるんでしょうね。
よく使われてるのは、マサ土です。
ピンク色の、荒目の土です。
でもこれ、ほんとは土じゃないんです。
花崗岩が風化してボロボロになったもの。
ピンク色に見えるのは、カリ長石が多く含まれるからだそうです。
↑ピンク色の部分が、カリ長石の結晶。
砂よりも安価なので、使われてるんだと思います。
大量に使う場合、単価の違いは、総額に大きく響きますから。
で、このマサ土が一般家庭の庭のベースになってるわけですが……。
こいつは、やっかいです。
そのまんま木を植えても、まず満足には育ちません。
まず、岩が風化して細かくなったものですから、栄養分はほぼゼロです。
↑一見、岩盤に見えますが、触っただけでグズグズに崩れるそうです。
じゃ、肥料を混ぜればいいかというと、そう簡単ではないのです。
マサ土が水を含むと、ぐちゃぐちゃ状態になり、なかなか水が抜けません。
こういう土壌に肥料を入れたら、根腐れを起こす可能性が大きいです。
さらにマサ土の悪いところは、乾燥するとガチガチに固まるんです。
↑固まる性質を利用して、舗装材の素材としても使われてます。
ほんとに、岩に戻ったみたいな感じで、スコップも刺さらないほどです。
こうなると、水やりしても、水が染みていきません。
亀裂が入った部分に流れ込むだけになってしまいます。
なので、まずは土壌改良をして……。
これらの性質を緩和した後、肥料を加えなければならないというわけです。
はっきり言って、マサ土の造成地で、庭や畑を作ろうと思ったら……。
植栽エリアごと、土を入れ替えるのが一番手っ取り早く、結局は安価だと思います。
これを、「客土」と云います。
文字どおり、別の土をお客さまとして迎えるわけですね。
そう言えば、客土でまた思い出しました。
乾田化される前の亀田郷。
『ブラタモリ』でも、ちらっと紹介されましたが……。
排水機が稼働する前の亀田郷は、地図にない湖と呼ばれる地域でした。
↑田植えです。
そんな田んぼで、胸まで水に漬かって、懸命の作業をしました。
しかし、出来る米は不味く、「鳥またぎ米」と呼ばれてました。
米がこぼれてるのを鳥が見つけても、啄まずに、またいで歩き去るという意味です。
鳥が食べないような米を、人が食べてたわけです。
農民たちは、自分の田んぼの土を、少しでも高くしようとしました。
どうするかと云うと、これが「客土」です。
昔は、亀田郷一帯を、水路が網の目のように広がってました。
↑一種の『ウォーター・ワールド』でした。
農民は、自家用の舟を持っており、これに乗りさえすれば、地べたを歩かずとも、どこにでも行けたんです。
↑田舟(たぶね)と云います。
沼垂にある蒲原神社は、鳥居がバイパス道路に面して建ってます。
↑ちょっと、わかりにくいですが。植木が並んでるのが、バイパス道路の中央分離帯です。
一見、バイパス建設のために、参道が潰されたみたいですが……。
違うんです。
このバイパス道路、昔は、栗ノ木川という川だったんです。
↑昭和初期の様子。川幅は、70メートルもありました。
つまり、鳥居は川に面して立っていた。
なぜかというと、参詣者は、みんな舟に乗ってやってくるからです。
↑昭和25年の栗ノ木川。
この蒲原神社では、米の作柄を占う『御託宣(おたくせん)』が、昔から行われてました。
鎌倉時代に始まったそうですが……。
なんと、今でも続いてます。
ま、今は、その『御託宣』の結果は、報道もされませんが……。
昔は、ものすごい影響力を持ってました。
『御託宣』が行われるのは、蒲原祭りの夜。
↑現在も大盛況。6月30日~7月2日の開催なので、まず、雨に祟られます。
近隣の農民は、こぞって神社に集まり、祈るような気持ちで『御託宣』を待ってました。
なにしろ江戸時代では、この『御託宣』の結果によって、堂島の米相場が動いたそうです。
米相場は、先物取引ですからね。
その年の米の出来の予想は、大きく相場を動かす要因となります。
また、話がこんがらがってきました。
「客土」の話をしてたんでした。
そんなわけで、自家用の舟に乗れば、どこにでも行けたわけです。
信濃川から、海に出ることだって出来たんですから。
↑大正13(1924)年に、『小甚旅館(新潟市の旅館では最も古い歴史を持ち、多くの政財界人に利用されました。2005年に廃業)』が宣伝用に作成した鳥瞰図。海沿いの緑の連なりが、新潟砂丘です。
で、「客土」を迎えるために農民たちが向かったのは、鳥屋野潟です。
↑青く塗られてる部分が、日本海の海面より低い範囲。
これまた、『ブラタモリ』で出てきましたね。
タモリさんが消防署の屋上にから、こわごわ見下ろした湖が鳥屋野潟です。
それではまず、“潟”とはいったい何でしょう。
辞書を引くと、2とおりの意味が出てきます。
①遠浅の海で、潮の干満により、陸地が現れたり、水面下に隠れたりする所。干潟(ひがた)。
②海の一部が、砂州などによって海と切り離されてできた湖沼。
鳥屋野潟は、もちろん②です。
現在の鳥屋野潟は、海岸線から、4キロも離れてます。
でも、縄文海進のころは、このあたりまでが海だったんです。
で、信濃川と阿賀野川に運ばれて海に出た砂が、冬の季節風によって、再び陸地に吹き上げられ……。
砂丘が出来ました。
↑青が一番古い砂丘。次が緑、最後が赤。砂丘があるということは、そこが海岸線だったということです。
そういう砂丘の間の低地が、やがて海と切り離されて、潟になりました。
鳥屋野潟の水深は、1メートルから1.5メートルしかありません。
面積は、137ヘクタールもありますが……。
湖沼学的には、湖ではなく、沼ですね。
↑背後に見えるのは、ビッグスワンスタジアム(『アルビレックス新潟』のホーム球場)。
さて、それでは、「客土」の話に戻ります。
農民が、自分の田んぼにお客さんとして土を迎えるために向かったのが……。
鳥屋野潟だったんです。
ここで重要なのが、水深です。
浚渫船などではなく、ただの木舟に乗って行くわけですから……。
潟底が深くては、どうしようもありません。
その点、1メートルから1.5メートルの水深しかない鳥屋野潟は、うってつけだったわけです。
しかも、その潟底の泥は、有機質を多く含み、肥料効果も大きかったのです。
当時は、「客土一寸、一石の増収」と云われてました。
↑稲刈りの様子。水面に見えるところが、田です。
鳥屋野潟の底土は、近隣農民にとって非常に貴重な資源であったので……。
集落ごとに、土を採る場所が決められてたそうです。
実際の作業はどうするかと云うと、ジョレンという道具を使いました。
長い棒の先に、泥を掬うバケットが付いた器具です(貝を採る道具も、ジョレンと呼ばれるようです)。
↑「ジョレン掻き」と称される作業です。
泥は重いですから、大量には掻きあげられません。
少しずつ採っては、舟に上げるという作業の繰り返しです。
しかし、ここで危険なのは、舟に上げる泥の量です。
積む泥の量が少なければ、田んぼとの往復回数が増え、時間の無駄になります。
なので、少しでも多く積みたい。
しかし……。
木舟の喫水は、泥の重みでどんどん下がっていく。
恐怖との戦いじゃなかったでしょうか。
実際、判断を誤って舟が沈み……。
浮かんでこなかった農民も少なくないそうです。
水深は1メートルでも、潟底は柔らかい泥ですから、身を支えることなど出来ないのです。
なんだか、亀田郷の話をすてると、気が滅入ってきます。
亀田郷を描いた、司馬遼太郎の『街道をゆく~潟のみち』は、次の一節で始まります。
「農業というものは、日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」
司馬は、亀田郷土地改良区で、かつての農作業の様子を収めたフィルムを見ています。
このフィルム、わたしも見てます。
確か、鳥屋野潟畔にある、『新潟県立自然科学館』だったと思ったんですが……。
ホームページには、記載が無いようです。
いろんな映像を見られるコーナーがあったんですよ。
長岡の『新潟県立博物館』だったかな?
とにかく、司馬遼太郎が見たフィルムだったことは確かです。
そのフィルムを見て、衝撃を受けた司馬は、↓のように書いてます。
「亀田郷では、昭和三十年ごろまで、淡水の潟にわずかな土をほうりこんで苗を植え(というより浮かせ)、田植えの作業には背まで水に浸かりながら背泳のような姿勢でやり、体が冷えると上へあがって置けの湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入るという作業をやっていたことを知った」
↑背泳のような田植え。たぶん、司馬が見た映像だと思います。水ではなく泥の中ですから、大変な重労働です。
「映画を観了(みお)えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。
映画では、潟の水の中へほうりこむ土も、陸地から採ってくるのではない。田舟を漕ぎ出して、爪のような道具に長い棹(さお)をつけ、潟の水底から掻きとって舟に揚げ、舟にわずかに土が溜まると、田(といっても渺茫(びょうぼう)たる水面だが)へ持って行って、ほうりこむのである」
↑「客土(ジョレン掻き)」の様子。舟の吃水が水面ギリギリになるまで土を積みます。恐ろしい作業です。
「爪のような道具に長い棹(さお)をつけ」という道具が、ジョレンのことです。
亀田郷の農民は、「自分は地獄に生まれてきたのか」と呻きながら、生きるために、泥に浸かり続ける生涯を送ったのです。
↑客土を自分の田に入れてる様子。女性のようですね。ひょっとしたら男は、客土を積んだ舟を女性に渡すと、空舟に乗り換えて、また鳥屋野潟に向かったのかも知れません。
さて、すっかり話が外れてしまいましたね。
亀田郷の話を始めると、どうもブレーキが外れてしまいます。
話を戻しましょう。
どこまで書いたのか、すっかり忘れ返ってしまいました。
『仕立屋』の後に、原っぱの土管でしたよね。
そうそう。
原っぱ→コウモリ→新潟には洞窟がない。
なぜなら、『砂の町』だから。
で、砂質土の土壌改良→客土。
ここから、鳥屋野潟での「客土」作業に話が進んだんですね。
あー、しんど。
↓土管の次に撮ってある写真は、これでした。
↑「み」
これは明らかに、トイレの汲み取り口です。
↑こういう柄杓で汲んだようです。ホームセンターで、まだ売ってるんでしょうか?
どうしてこういうのばかり撮るのか、われながら謎です。
建物の外観も室内も、まったく撮ってません。
画像の撮影時間を見ると、土管から1分しか経ってません。
ひょっとしたら、また仕立屋に戻って、汲み取り口だけ撮ったのかもしれません。
ほんとに、この人の写真の撮り方には困ったものです。
現場に行って、注意したいほどです。
↓次の写真は、これ。
↑「み」
珍しく外観を撮ってましたが、これ1枚で、後は何もありません。
パンフレットを見返したら、ようやく判明しました。
『丸二商店(荒物屋)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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昭和初期に建てられた荒物屋です。
小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です。
店内は昭和10年代の様子を再現しています。
裏手には長屋も移築し、それとともに路地の様子も再現しています。
【千代田区神田神保町三丁目/昭和初期】
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千代田区神田神保町三丁目は、↓あたり。
わたしの撮った写真は、「裏手には長屋も移築し」という部分ですね。
↓『丸二商店』の表側は、拝借画像でどうぞ。
「小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っている」というのが、↓の部分。
荒物屋というのは、今で云うホームセンターのようなお店ですね。
もちろん、品揃えは、ホームセンターには遠く及びませんが。
でも昔は、選択に迷うほど、たくさんの種類の商品が出回ってなかったんじゃないでしょうか。
選ぶ余地がなければ、それはそれでシンプルなライフスタイルが送れたと思います。
今はむしろ、選択の余地があり過ぎて、時間を取られてしまいますよね。
電化製品を買うときなんか、特にそうです。
家電量販店をいくつも回り、いくつかの候補をピックアップします。
でも結局、量販店では買いません。
家に帰ってから、ネットで最安値の店を探します。
無店舗型のネットショップの方が、安いに決まってます。
店舗の家賃も、店員の給料も、原価にのってきませんから。
↑実物を手に取って確かめるために使われ、結局買ってもらえないことを、「ショールーム化」と云うそうです。
荒物屋の店内を、拝借画像でご紹介します。
↓こういう品は、流行遅れで陳腐化することがありませんね。
↓こちらも同じく。
↓またまた同じく。
いずれの品も、埃さえ払っていれば、何年でも吊るしておけそうです。
さて。
でもわたしが魅力を感じたのは、後ろにくっついた長屋部分です。
↑ここにも銀色の消火設備があります。要工夫!
この長屋部分も、実際に『丸二商店』にくっついてたものなんですかね?
ま、ぜんぜん違う建物をくっつけたりしたら……。
移築ではなくなってしまいますよね。
それに、店舗部分は、思った以上に薄っぺらなようです。
これも例の、看板建築なんでしょうね。
通りに面した間口部分だけ、思い切り金をかけ、裏側は長屋として貸し出す。
上手なお金の使い方と云うべきなのかも知れません。
でも、この長屋部分の写真を、なんでもっと撮ってなかったのでしょう。
ネットで画像を探してみたら、とても魅力的な建物でした。
たぶん、かなり疲れて、気力がとぼりそうになってたんだと思います。
以下、拝借画像で、長屋をご紹介します。
↓長屋と云っても、かなり立派な造りです。
これって、ひょっとしたら、メゾネットなんですかね?
↓玄関のアップがありました。
↓玄関脇の階段。
玄関だけ共用で、1階と2階は、別所帯なんでしょうか。
でも、2階の住人が玄関に入ると、1階の部屋が丸見えですよね。
↓神田神保町にあったころの写真を発見。
撮影されたのは、1985(昭和60)年。
このころは、『西田書店』と云う自費出版の本屋さんになってたようです。
車のデザインと右端の電話ボックスに、時代を感じます。
↓「ごみ箱」の隣は、防火用の水槽ですね。
「ごみ箱」と書いてあるのは、たぶん、現代の見学者に対する説明用でしょうね。
当時は、それが「ごみ箱」であることは、誰もがわかってたでしょうから。
↓2階に洗濯物が干された写真がありました。
実際には、浴衣やシャツを、こんなふうには干さないでしょう。
手すりなどに擦れて、汚れてしまいます。
↓さて、次の写真はこちら。
↑「み」
↓これは、『都電7500形』という路面電車です。
↓パンフレットの説明書きをどうぞ。
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渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌です。
交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1972(昭和47)年から順次廃止されました。
【製造年:1962(昭和37)年】
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よく考えたら、わたしは、東京にいた時も、荒川線に乗ったことがありませんでした。
↑今は、こんな車両のようです。ちと、乗る気が失せますね。
すなわち、生涯一度も路面電車に乗ったことが無いのです。
で、この展示ですが、車輌の中に入れました。
すなわち!
わたしは、生まれて初めて、路面電車の車中に足を踏み入れたことになります。
↓これが、その瞬間の写真です。
↑「み」
床は木ですね。
ロングシートというのが残念ですが……。
この方が乗客を多く積めますし、乗降もスムーズになります。
電車と云うより、バスに近い感じです。
残念ながら、室内を撮ったのは、この一枚だけでした。
でも、電車を見た途端、気力が復活したらしく……。
外観は、けっこう撮ってました。
↓乗り口ですね。
↑「み」
↓この行き先表示板では、須田町まで行かず、新橋止まりのようです。
↑「み」
↓系統案内図です。
↑「み」
撮り方が悪いのか、さっぱり読めません。
↓ネットを探しましたが、元々、印刷が薄いようです。
↑クリックすると、大きい画像が見られます。
↓『乗降者優先』。
↑「み」
これは、自動車に対して言ってるんでしょうか。
しかし、拙い字ですね。
↓キャッチコピー。
↑「み」
こういう宣伝文句を掲げるというのは、乗降客数に陰りが出てからでしょうね。
↓でも、反対側のを見ると、まだ混雑してる感じもします。
↑「み」
先のキャッチコピーとは、同じ時期のものではないかも知れません。
でもこれ、本当に小学生が考えたんでしょうか。
もしそうだとしたら、イヤな小学生ですね。
そう言えば、Youtubeに、都心の小学生が、一人で電車通学している動画が載ってました。
別に、なんの変哲もない光景に見えるのですが……。
外国人にとっては、あり得ないことのようです。
外国では、電車だけでなく、徒歩でも、子供だけで通学する習慣が無いところが多いようです。
必ず、親が送り迎えするとか。
子供だけで歩いてたりしたら、誘拐などの犯罪に巻きこまれかねないからだそうです。
わたしの小学校のころは、最初は、集団登校でした。
同じ地域の高学年の児童が、低学年を引き連れて通学するんです。
↑こんな感じ。先頭の女の子、ほんとに小学生ですかね。ランドセルが異様に小さく見えます。
でも、いつの間にか、この習慣は無くなったように思います。
わたしだけ、離脱したのかも知れません。
とにかく、集団行動は苦手でした。
さて、次の建物に移りましょう。
↓いきなり寝床が写ってます。
↑「み」
これは、『万世橋交番』の内部。
↓パンフレットの説明書きです。
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デザインや建築様式から明治時代のものと思われます。
正式名称は須田町派出所。
神田の万世橋のたもとにあり、移築のときにはトレーラーでそっくり運びました。
【千代田区神田須田町一丁目/明治後期(推定)】
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↓神田須田町一丁目は、このあたり。
そう言えば、さっきの都電の終着も須田町でしたね。
↓畳の脇の土間です。
↑「み」
簡単な煮炊きもここでしたんでしょう。
昔は、コンビニとかありませんからね。
流しは、洗面台兼用ですね。
こんなところで宿直ってのも大変ですよ。
夏は暑くて寝苦しかったでしょうし……。
冬は、どうやって暖を取ったんでしょう。
↓執務用の机でしょうか。
↑「み」
とことん、せせこましいです。
実際、この交番を移設するときは……。
分解せず、このままトレーラーで運んだそうですから。
↓ようやく、外観を撮ってました。
↑「み」
小奇麗ですよね。
でも、実際にあった場所では、↓こんな感じでした。
↑1987(昭和62)年2月。
公衆トイレと間違われそうです。
ここでひとつ、補足です。
パンフレットの説明書きには、『万世橋交番』とありますが……。
移設されたころ(1992年)の正式名称は、『須田町派出所』だったようです。
従来は“派出所”が正式名称で、“交番”は俗称だったのですが……。
平成6(1994)年、警察法改正により、“交番”が正式名称となりました。
↑東京都中央区銀座にある『数寄屋橋交番』。“KOBAN”の表示は、外国人向けでしょう。
これで連想するのが、最近終了した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』。
連載が始まったのが、1976(昭和51)年ですから、バリバリの“派出所”時代。
“交番”が正式名称となってからも、作品タイトルは変わりませんでした。
↓表の説明板の平面図です。
↑「み」
ちゃんと、トイレまでありますね(右上)。
しかも、大小別。
宿直室奥の扉は、トイレへの入口だったんだ。
でも、明らかに扉の上下が分かれてます。
上半分は、収納になってるんでしょうか。
下の扉を潜るときは、身をかがめなきゃなりません。
きっと、この交番には、小柄な人が選ばれて勤務したんだと思います。
さて、ここでわたしは、東ゾーンの探索を終了したようです。
しかし!
改めてパンフレットを眺めると、見逃した建物がいくつもありました。
好き勝手に歩き回ってると、こういうことになります。
例によって、それらの建物を、パンフレットと拝借画像でご紹介します。
まずは、『天明家(農家)』。
↓パンフレットの説明書きです。
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江戸時代、鵜ノ木村(現在の大田区内)で年寄役を勤めた旧家です。
正面に千鳥破風をもつ母屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえます。
【大田区鵜の木一丁目/江戸時代後期】
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↓大田区鵜の木一丁目は、このあたり。
多摩川の向こうは、神奈川県川崎市です。
意外に思われるかも知れませんが……。
大田区は、東京23区の中で、都心から最も離れた区なんです。
都心からの距離は、埼玉県川口市や千葉県市川市と同じだそうです。
ここで余談ですが……。
大田区の“大”は、“太”ではありません。
大田区は、大森区と蒲田区が合併して出来た区なんです。
すなわち、“大田区”の“大”は、“大森”の“大”なんですね。
↑荏原区は品川区と合併。赤坂区、麻布区、芝区は、合併して港区になりました。
さて、『天明(てんみょう)家』に戻りましょう。
『年寄役』を勤めたとありますが……。
『年寄役』とは、一体、どういう役なのでしょうか。
↑老け役のことではありません。
江戸時代の村には、『村方三役』という村役人がいました。
名主(庄屋)、組頭(年寄)、百姓代の総称です。
一般的には、名主が村政全体を代表し、組頭がその補佐役、百姓代が監査役とされてます。
名主が村長、組頭が副村長という感じですね。
実際の職務や権限は、村ごとに違ってたようですが……。
組頭(年寄)が、村のNo.2であったことは間違いないでしょう。
三役の内、名主と組頭は世襲制。
百姓代は、まさしく百姓の代表で、任命制だったようです。
で、『天明家』は、この組頭(年寄)を代々勤めてきた家ということです。
説明書きにある『千鳥破風』というのは、↓の部分のことです。
↓もう一度、破風の種類について復習してみましょう。
『唐破風』は、↓『子宝湯』で出てきました。
曲線を用いた破風のことです。
それでは、上のお城の図にある『入母屋破風』と『千鳥破風』が、どう違うかと云うと……。
屋根の両端まで破風の裾が伸びてるのが、『入母屋破風』です。
『千鳥破風』は、屋根の両端まで裾が伸びてません。
上の図で、2連になった『比翼入母屋破風』は、左右の裾が、屋根の端まで伸びてます。
同じ2連でも、裾が屋根の端まで届いてなければ、『比翼千鳥破風』となります。
同じく説明書きの『長屋門』というのが、↓これ。
『長屋門』というのは、本来、武家屋敷で用いられた形式です。
武家屋敷には、家臣が住まう長屋が隣接していましたが……。
その長屋の一部を、屋敷への門にしたものが『長屋門』です。
門に隣接する長屋には、門番や仲間(ちゅうげん)が住んでたわけです。
↑長屋門内の住居(松江市『武家屋敷』)。
『天明家』のような農家では……。
長屋は、使用人の住居、納屋、作業所などとして利用されたようです。
なお、『天明(てんみょう)』という苗字ですが……。
村方三役のうち、名主と年寄の家系については、苗字を名乗ることが許されていたんだと思います。
『天明』は、下野国安蘇郡天明宿(現・栃木県佐野市)が起源だとか。
鎌倉時代に、大田区鵜の木に移り住んだようです。
↓屋敷の平面図がありました。
図面の一番上の凸形に出てる部屋ですが……。
↓『産部屋』と書いてあります。
これはおそらく、「産室」のことでしょうね。
まさしく、出産のための部屋です。
もっと昔は、「産屋(うぶや)」と云って、出産用に別の建物が建ってました。
↑京都府福知山市に残る「産屋」。なんと! 昭和23年まで実際に使われてたそうです(京都府有形民俗文化財)。
一件、妊婦が大事にされてるようですが……。
そうじゃありません。
出血をともなう出産は、「不浄」と考えられていました。
すなわち「産室」は、穢れた者を隔離するための部屋ということです。
↑「み(2015年5月23日)」。
上の写真は、昨年行った『江戸東京博物館』で撮ったもの。
長屋でのお産の様子です。
一番奥で、身を起こしてるのが妊婦です。
当時は、座った状態で出産したのです。
なお、現在でも「座位分娩」という出産方法があり、選択する妊婦さんも少なくないようです(参照)。
さて、話が逸れました。
『天明家』の枯山水庭園については、再現されていないようですね。
なにしろ、『天明家』の敷地は、3,000坪あったそうですから。
↓枯山水庭園の代表と云えば、『龍安寺』の石庭(拝観料 500円)。
世界遺産です。
こんなの見て、何が面白いんですかね。
特に、この庭を見る縁側のところは、見物客でごった返しており……。
静謐な雰囲気とは程遠いと思われます。
さて、次の建物。
『武居三省堂(文具店)』。
↑中央の茶色い部分です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
明治初期に創業した文具店です。
当初は書道用品の卸をしていましたが、後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた<看板建築>で、全面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴があります。
【千代田区神田須田町一丁目/1927(昭和2)年】
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この名前から、まず連想するのが、出版社の『三省堂』です。
Wikiで、出版社の『三省堂』を調べたところ……。
明治14年、古書店として創業しており、書道用品の卸はやってなかったようです。
『武居三省堂』の「明治初期」がいったい何年なのかわかりませんが……。
ひょっとしたら、『武居三省堂』の方が古いのかも知れません。
ちなみに、“三省”は、『論語(学而篇)』から来てます。
「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしかと」
商売を始めるにあたり、この言葉を店名に入れたのでしょうね。
『三省堂』の創業者は、旧旗本一族だったそうです。
武士階級出身者が、『論語』に素養があったのは当然でしょうね。
『武居三省堂』の創業者も、武士の出かも知れません。
↑士族の商法
ただ、士族の商法は、失敗することも多かったようです。
『三省堂』『武居三省堂』は、稀有な成功例なのかも知れません。
やっぱり、毎日反省してたからですかね。
ちなみに、士族の商法で多かったのは、古道具屋だそうです。
これはすなわち、蔵の所蔵品を、そのまま売ってただけなんですね。