2016.9.7(水)
なお、『子宝湯』で拝借した画像の多くは、こちらのページに掲示されていたものです。
まさしく、写真はこういう具合に撮らなければなりませんね。
この方、銭湯探訪人だそうです。
謂わば、プロがその目的のために撮った写真ですから……。
わたしとは比べものにならないのも、当たり前なわけです。
さて、次の建物に移りましょう。
↓いきなり、店内を撮ってます。

↑「み」
明らかに、居酒屋ですね。
パンフレットを調べると、『子宝湯』の隣にありました。
『鍵屋(居酒屋)』。
これまた、なぜ外観を撮っていなかったのか、謎です。
↓拝借画像です。

↓例によって、パンフレットの説明書きです。
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台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1956(安政3)年に建てられたと伝えられています。
建物と店内は1970(昭和45)年頃の姿に復元しています。
【台東区下谷二丁目/1856(安政3)年】
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上野近くなのに、幕末の動乱で焼かれなかったんですね。
↓台東区下谷二丁目は、このあたり。

↑緑矢印の下に『入谷』とありますが、これは地下鉄日比谷線の『入谷駅』です。地下鉄の右手が『入谷』、左手が『下谷』になります。
安政3年から居酒屋なのかと思ったら……。
違いました。
もともとは、酒の小売店だったそうです。
居酒屋の営業を始めたのは、1949(昭和24)年だとか。
この建物、もともとは平屋でした。
2階が上げられたのは、大正期。
よく震災で潰れなかったものです。
下谷では、いつまで営業してたんでしょうね?
画像を探しましたが、見つかりませんでした。
この『鍵屋』が移築されたのは、『江戸東京たてもの園』の前身『武蔵野郷土館』のころだそうです。
『武蔵野郷土館』が開館したのは、1954(昭和29)年。

↑開館当時の『武蔵野郷土館』。背後の『光華殿』は、1941(昭和16)年からここにあります。
『江戸東京たてもの園』への移行が、1993(平成5)年。
『鍵屋』パンフレットの説明書きに、「1970(昭和45)年頃の姿に復元しています」とありますから、この年までは確実に営業してたわけです。
となれば、営業終了は、1970(昭和45)年~1993(平成5)年の間。
ぜんぜん絞れませんでした。
まさしく、写真はこういう具合に撮らなければなりませんね。
この方、銭湯探訪人だそうです。
謂わば、プロがその目的のために撮った写真ですから……。
わたしとは比べものにならないのも、当たり前なわけです。
さて、次の建物に移りましょう。
↓いきなり、店内を撮ってます。

↑「み」
明らかに、居酒屋ですね。
パンフレットを調べると、『子宝湯』の隣にありました。
『鍵屋(居酒屋)』。
これまた、なぜ外観を撮っていなかったのか、謎です。
↓拝借画像です。

↓例によって、パンフレットの説明書きです。
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台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1956(安政3)年に建てられたと伝えられています。
建物と店内は1970(昭和45)年頃の姿に復元しています。
【台東区下谷二丁目/1856(安政3)年】
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上野近くなのに、幕末の動乱で焼かれなかったんですね。
↓台東区下谷二丁目は、このあたり。

↑緑矢印の下に『入谷』とありますが、これは地下鉄日比谷線の『入谷駅』です。地下鉄の右手が『入谷』、左手が『下谷』になります。
安政3年から居酒屋なのかと思ったら……。
違いました。
もともとは、酒の小売店だったそうです。
居酒屋の営業を始めたのは、1949(昭和24)年だとか。
この建物、もともとは平屋でした。
2階が上げられたのは、大正期。
よく震災で潰れなかったものです。
下谷では、いつまで営業してたんでしょうね?
画像を探しましたが、見つかりませんでした。
この『鍵屋』が移築されたのは、『江戸東京たてもの園』の前身『武蔵野郷土館』のころだそうです。
『武蔵野郷土館』が開館したのは、1954(昭和29)年。

↑開館当時の『武蔵野郷土館』。背後の『光華殿』は、1941(昭和16)年からここにあります。
『江戸東京たてもの園』への移行が、1993(平成5)年。
『鍵屋』パンフレットの説明書きに、「1970(昭和45)年頃の姿に復元しています」とありますから、この年までは確実に営業してたわけです。
となれば、営業終了は、1970(昭和45)年~1993(平成5)年の間。
ぜんぜん絞れませんでした。
コメント一覧
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1. はとバスツアーHQ- 2016/09/07 13:25
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居酒屋『鍵屋』
椅子は樽、だよね。
なかなかの風情、と言いたいところですが、座面がクッションというのがなあ。
座布団にしてほしいぞ、と。
パンフの説明書きに「1956年(安政3)年に建てられた」とありますが、1956年は昭和31年。安政3年は「1856年」ですね。
あ、最後の行には正しく書いてあるなあ。
台東区下谷二丁目の地図。
てっぺんに『三ノ輪橋』とありますが、都電荒川線の起・終点『三ノ輪橋駅』ですね。
しかし、この地図の範囲内だけでも『上野動物園』『東京都美術館』『横山大観記念館』『浅草花やしき』『朝倉彫塑館』と、これだけの施設があります。東京に住みたい、と思ったことはありませんが、こういうところはうらやましいですね、東京。
>よく震災で潰れなかった(二階建ての『鍵屋』)
同感です。ちょっと高すぎ(値段じゃなく、建物の背丈)。
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2. Mikiko- 2016/09/07 19:45
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座面がクッション
確かに、座布団の方が風情が出ますが……。
開けっ放しで展示してますから、雨が吹きこんだりすると、座布団は濡れてしまいます。
うっかり座った人から、苦情が出かねません。
クッションなら、濡れてることがわかりますからね。
パンフの説明書きの年号。
単に、わたしの打ち間違いですね。
総集編では直させていただきます。
ありがとうございました。
鍵屋。
幕末の動乱を生き延び……。
震災も戦争も免れました。
すごい強運ですよね。
震災は、揺れる方向が良かったとしか思えません。
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3. 世にボヤキの……HQ- 2016/09/07 23:13
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↑種はつきまじ(人生幸朗のギャグ)
責任者、出てこーい
>わたしの打ち間違い
なんだ。パンフ自体の間違いじゃないのか。
それはそれは。
それにしても↑お題のギャグ、誰だったかなあ。
(調べましたら、ぼやき漫才の人生幸朗・生恵幸子の幸朗師匠でしたが、もはや、それ誰?だろうなあ)。
安政3年(1856年)
この年、ハリスが総領事として下田に着任、吉田松陰が松下村塾を開きます。もう、グツグツに煮詰まった幕末ですね。この12年後に江戸幕府は消滅、明治が始まります。
しかし、改築・修理は幾度も行ったでしょうが、同じ建物がこの頃から維持されてきたというのは凄いね。木造建築だよ。
江戸の大工は偉かった。
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4. Mikiko- 2016/09/08 07:27
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木造建築
法隆寺は、1300年前の建築です。
ま、大寺院と酒屋では、使える材も違うでしょうが。
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5. 宮大工ハーレクイン- 2016/09/08 08:28
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法隆寺と比べられたら……
『鍵屋』さんというか、江戸の大工さんがかわいそうだよ。材料もそうだけど、手間賃もぜんぜん違うでしょう。
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6. Mikiko- 2016/09/08 19:48
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江戸時代の大工の収入
↓今の金額にして、月収30万円くらいだったようです。
http://www.edojidai.info/bukka.html
ボーナスはありませんから、年収は360万円。
でもこれで、家族を養っていけたんですからね。
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7. てやんでいHQ- 2016/09/08 23:12
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↑べらぼうめ
おとといきやあがれ
大工の手間賃
日当540文ほどだったそうです。
現在価格に換算。
1文=20円として、10,800円、月30日休みなく働いて月収およそ30万円、年収360万円、ということだそうです。
まあ、換算基準の「1文=20円」には、様々な異なる考え方がもちろんあります。時代も、貨幣価値の体系も全く異なるわけですから、これは無理もありませんね。
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8. Mikiko- 2016/09/09 07:30
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二八そばは……
その名のとおり、16文。
320円なら、ほぼ今の価格と見合ってるんじゃないでしょうか。
昔は、休日なしに働いてたと云っても……。
1日の仕事を終えるのは、夕方の4時~5時くらいだったようです。
日が暮れれば何も出来ませんから、残業はなしです。
今の大工さん、特に内装の人なんか、明かりを点けて夜遅くまで働いてます。
年間の労働時間を計算すれば、今の大工さんの方が長時間労働だと思います。
そもそも江戸時代は、遠くの現場に行くなんてことは無かったでしょうから……。
拘束時間は、もっと違うんじゃないでしょうか。
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9. 加賀の職人HQ- 2016/09/09 13:41
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>明かりを点けて夜遅くまで働いてます
学生の時のバイトを思い出すなあ。
内装業の下請けを個人でやっている、若い職人さんに雇われたんだけど、ほんとに、朝から夜までやってました、というかやりました。
この職人さん。悪い人じゃないんだけど……昼間は機嫌がいいんですよ。ところが、日暮れと共に、何が気に入らないのか不機嫌になり、あまり口も利かなくなります。で、些細なことでこちらに当たり散らすという、まあ、非常にわかりやすいお方ではありました。
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10. Mikiko- 2016/09/09 19:35
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工程が後の業種ほど……
工期遅れのしわ寄せを蒙ります。
内装なんて、まさしくそれですよね。
その人、ほんとは残業なんかしたくなかったんじゃないでしょうか。
ひょっとしたら、江戸時代の大工だったりして。
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11. 下請け職人HQ- 2016/09/09 21:04
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>残業なんかしたくなかった
誰だってしたくないと思いますが、件の職人さんは個人営業。
「残業」になったってある意味、自己責任なんだよね。それをこちらに当たり散らされてもなあ。
以前書きました話
学生時代はホントにいろんなバイトをやりました。いまだに忘れられないのが二つあります。
一つは、電気の配線工事。
建築中のではなく、既存の建物の配線変更工事なので、建物自体には手を付けられない。天井の配線は、天井裏に潜り込んでやるしかないわけです。曰く『屋根裏の散歩者』。
今一つは、シロアリ駆除業。
建物全体に、液状の殺虫剤を散布する作業です。
「全体」ですから、外から内から、天井裏から床下まで、隈なく散布しなければなりません。で、最も大変なのが床下。実際に床下に潜り込んで行うわけですが、これは最も下っ端の、つまりバイトの仕事でした。
天井裏と床下。
忘れようとして思い出せない(わたしの高校時代の同僚野郎の迷言)、トラウマとも云える思い出です。
「いやな渡世だなあ」
(座頭市の、名台詞にして決め台詞)