2016.9.3(土)
↓次の建物は、突然、時代が遡ります。

↑「み」。このころになると、陽も差して来たようです。
これは、『八王子千人同心組頭の家』。
その名のとおり、八王子市追分町からの移築。
築年は、江戸後期だそうです。
↓パンフレットの説明書きです。
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八王子千人同心は、江戸時代、八王子に配備された徳川家の家臣団です。
拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。
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八王子千人同心は、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置され……。
甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備にあたったそうです。

↑だいたい、埼玉県と東京都が武蔵国です。
トップは、八王子千人頭。
旗本です。

↑この人ではありません。
その下に、10人の組頭。
彼らは、御家人。

↑これは、後家。
組頭の下に、100人ずつの同心が付きます。
彼らもいちおう、徳川家直参の武士ですから、御家人ということになるのでしょうが……。
実際には、農民だったようです。

↑『千人同心』像(八王子市元本郷町『鶴巻橋』)。
ある程度の手当は付いたのでしょうけど、農民として年貢も収めてます。

↑トヨタ博物館新館(名古屋市)。なぜ、トヨタが大八車を展示してるかは不明。
自衛隊の予備役みたいなもんですかね。

苗字は許されてなかったそうです。
帯刀も、千人同心としての公務の時だけに限られました。
実際には、戦闘なんか1度も無かったでしょう。
一種の抑止力として置かれてたんじゃないでしょうか。

↑農家ですから、家はバラバラに散らばってたようです。
↓組頭は本物の武士ですですから、やはり農家とは違います。

↑「み」
もちろん、天井から下る電灯は後付けです。
↓外を回ると、明らかにトイレとわかる設備を発見。

↑「み」
↓屋敷の平面図です。

↑左上に突き出たところが、トイレですね。
下肥は、配下の同心が貰い受けたんでしょうかね。
本業は農家ですから。

↑懐かしや、本家『江戸東京博物館』。
↓中に回って、トイレの内部を確認。

↑「み」
臭そうですね。
ここで、最近仕入れた知識をご披露します(『ブラタモリ』?)。
↓右側の大便所。

↑「み」
どっちを向いてしゃがむと思いますか?
今の和式便器の感覚だと……。
当然、右側にある縦板は金隠しだと思いますよね。

↑ヤフオクに出てました。
で、右を向いてしゃがむと考えがちですが……。
逆です!
板を後ろにしてしゃがむんです。
あの板は、『衣かけ』と云います。
昔は着物です。
わたしはずっと、からげた裾をお腹の前でまとめて用を足すのだと思ってました。

↑まさしく、これです。
でも、違うんです。
着物の裾は、『衣かけ』にかけてたんですね。

↑平安時代の姫さまは、特に大変だったようです。
優雅ですねー。
さて、隣の建物に移りましょう。
↓これは、『吉野家(農家)』。

↑「み」。お天気、完全に晴れましたね。
“よしのや”の先祖の家じゃありませんよ。

↑最後に入ったのはいつか、思い出せないほどです。
“よしのけ”です。
↓例によって、パンフレットの説明書き。
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江戸時代後期に建てられた民家です。
吉野家は江戸時代に野崎村(現在の三鷹市野崎)の名主役を務めた家といわれ、式台付きの玄関や付書院のある奥座敷に格式を見ることができます。
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建物があった三鷹市野崎二丁目は、↓このあたり。

↑『江戸東京たてもの園』からも遠くない場所です。
この家からは、明治になって、吉野泰三が出てます。
牛丼屋ではありません。
自由民権運動の士です。

↑『自由民権運動』。明治前期、藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動。刺客に襲われた板垣退助が、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのは有名。なお、このとき、板垣は死にませんでした。
なお、吉野という苗字は、明治になってから名乗ったのではありません。
江戸時代でも、名主は、苗字を許されてたのです。

↑『日光江戸村』。牢名主には、苗字は許されません。
現在でも、三鷹市には吉野という苗字が多く……。
大きな敷地に屋敷を構えている家も多いようです。
↓『吉野家』、座敷の様子。

↑「み」
外から撮ってますね。
中にも入れましたが、確か、中では囲炉裏に火が入ってたと思います。
火の番はもちろん、住み着いてるボランティアガイドです。
傍らにはお茶道具が備えられ、客待ち顔で火の調節をしていました。

↑獲物が4匹かかってます。
中が煙そうだったこともあり、入らずに逃走。
囲炉裏の火は、藁葺屋根の乾燥や防虫のためもありますから……。

↑藁葺きの屋根裏です(『吉野家』ではありません)。雨が染みるでしょうから、火を焚き続けなければ、あっという間に虫の住処になってしまいます。
たぶん、夏も焚いてたんでしょうね。
わたしが行ったのは5月の末ですから、まだマシでしょうが……。
真夏でも焚くんですかね?
もちろん、冷房なんかありません。
ここのガイドは、そうとう屈強な人が勤めなきゃなりませんね。
ヘタすれば、干からびてしまいます。

↑タイの即身仏。なぜサングラスをかけているのかは不明。
↓外を回ってるとき、謎の土盛りを発見。

↑「み」
これはいったい、何でしょう?
囲炉裏の燃え殻にしては、土っぽいです。
↓次の写真は、これでした。

↑「み」
ボンネットバスです。
ネットで調べたら、TSD43型というバスで、なんと、運行もしてるようです。
この日は、人だかりも無かったし、普通に展示してるだけだと思いました。
ま、乗ってしまえば、普通のバスと変わらないんでしょうけど。
たぶん、乗り心地は、トラックだと思います。

↑運行時の様子。毎日運行してるわけではないようです。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
住宅ではなく、写真館です。
『常盤台写真場』。
↓パンフレットの説明書きです。
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健康住宅地として開発された郊外住宅地常盤台に建てられた写真館です。
照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、2階写場の大きな窓には北側から光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれています。
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建てられたのは、1937(昭和12)年。
常盤台というのは、板橋区常盤台。
↓このあたりです。

↓なんと今も、『ときわ台写真場』という名称で、同じ場所で存続してました。

『江戸東京たてもの園』に戻ります。
↓2階にある写場が、こちら。

↑「み」
今でも、十分使えそうです。
優しい自然光で、柔らかな肖像が撮れるんじゃないですか。
いったい、何人の家族が、この写場に立ったんでしょう。
↓わたしが心惹かれた一室。

↑「み」
写場に隣接してます。
↓図面がありました。

『仕度室(したくしつ)』というのがここです。
文字どおり、ここで衣装を整えたんですね。
お見合、結婚、還暦、さまざまな人生の節目に立つ自分を、写真に残す日。

人々は、ここの鏡に映る自分の姿を、眩しい思いで眺めたでしょう。
浮き立つ気持ちが詰まってるような部屋です。
↓これは、階段を2階から撮ったもの。

↑「み」
窓からの明かりが、ほんとに優しいです。
わたしが最初に歩いたのは、『西ゾーン』という区画です。

これまで紹介したほかにも、建物はたくさんあります。
それらの建物に入らなかったのか……。
入ったけど写真を撮らなかったのか、今となっては定かでありません。
ひととおり、拝借写真とパンフレットの説明書きでご紹介します。
『三井八郎右衛門邸』。

↑画面左の木は梅のようです。建物の全貌を見たい方は、落葉時に来られるといいですね。
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港区西麻布に1952(昭和27)年に建てられた邸宅です。
客間と食堂部分は、1897(明治30)年頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものです。
また、蔵は1874(明治7)年の建築当初の土蔵に復元しました。
【港区西麻布三丁目/主屋:1952(昭和27)年 土蔵:1874(明治7)年】
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移築というのは、解体して運んだんでしょうね。
まさか、京都から東京まで曳家はできんわな。
『奄美の高倉』。

↑こんなの、あったかのぅ? 夏場は、茂る緑に隠れてしまうのかも?
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奄美大島にあった高床式の倉庫です。
湿気や鼠の害から穀物を守るために、建物本体を地面から高くあげています。
このような高床式の建物は、東京都の八丈島などにも見られます。
【鹿児島県大島郡宇検村/江戸時代末期頃(※小金井市指定有形文化財)】
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ということは、屋根に見える部分の内部が倉庫ということですね。
柱の建つ土間では、鼠番の猫が昼寝をしてたんでしょう。
涼しそうですよね。
『田園調布の家(大川邸)』。

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1925(大正14)年、郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。
居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されています。
また、当時としては珍しく全室洋間となっています。
【大田区田園調布四丁目/1925(大正14)年】
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田園調布のお宅ですが、なんだか別荘みたいですね。
四丁目というのは、駅前の放射状の区画からは外れた、多摩川に近いエリアです。
しかし、全室洋間というのが、なんともはやです。
「宅には和室なんか無いんざます」ってことですかね。
この建物も、見た記憶がありません。
『綱島家(農家)』。

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多摩川をのぞむ崖線上にあった、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。
広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、押し板という古い形式の棚などから、建物の歴史が感じられます。
【世田谷区岡本三丁目/江戸時代中期】
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崖線(がいせん)というのは、文字どおり、崖が線状に連なってる地形のことです。

早い話、段丘崖ですね。
ブラタモリの『沼田編』が印象的でした。

首都圏では、国分寺崖線が有名です。

説明書きの「多摩川をのぞむ崖線上」というのが、まさにそこです。
世田谷区岡本三丁目は、このあたり。

駅からは離れており、電車の便は、あまり良くありません。
でも、車しか使わない人にとっては、首都高速の用賀インターがすぐ近くなので便利です。

というわけで、芸能人が多く住んでます。
ユーミンも確か、岡本三丁目ですね。
『デ・ラランデ邸』。

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この住宅は、元は平屋建ての洋館でしたが、1910(明治43)年ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより3階建てとして大規模に増築されました。
その後、何回か所有者が変わりましたが、1956(昭和31)年から、三島海雲氏がこの住宅に住んでいました。
1999(平成11)年まで新宿区信濃町に建っていました。
【新宿区信濃町/1910(明治43)年ころ】
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おとぎの国の建物みたいです。
なんで入らなかったんだろうと思い、『江戸東京たてもの園』のホームページをもう一度確認して見ました。
ここは、『武蔵野茶房』というカフェになってたんです。
カレーライスなどの軽食も摂れるようです。
↓中はこんな感じ。

高級っぽくてビビりますが……。
カレーライスは、1,026円(税込)です(わたしにとっては高いですが)。

どうしてこんなに、『西ゾーン』の建物を見逃したのか考えてみたら……。
思い出しました。
トラブルが発生したんです。
と言っても、ボランティアガイドと揉めたわけじゃありません。

足の裏が痛くなってしまったんです。

↑ここにゃ。
実は、この日、たくさん歩くつもりで、脚に新しいアイテムを装着していました。
去年、『江戸東京博物館』を回ってるとき、何度もベンチで休憩を取らなければならなかったからです。

↑このようなベンチが、そこら中にありました。やっぱり、疲れる人が多いんでしょうね。
今年は野外ですので、歩く距離は更に増します。
疲れてしまっては、楽しさが半減です。

ということで、なんとかならないものかとネットを探し……。
↓下記のアイテムを購入しました。
↓足裏部分は、野球のソックスみたいになってます。

わたしは、この上に靴下を重ね履きしてました。
ところが、歩いてるうちに、足裏に回ったサポーターの前側の方が、痛くなったのです。
ベンチに座り、靴下を取ってみました。
幸い、皮膚が擦れたりはしてませんでした。
サポーターの説明書きを持ってきてたので、再確認。
どうやら、履き方を間違ってたようです。
家を出るとき、時間がなくて、慌てて履きましたから。

↑実は身軽。
サポーターの前側は、土踏まずより前に持っていくべきだったんです。
ふくらはぎの締め付け具合はいい感じだったので、サポーターは履き続けることにしました。

ということで、気分を立て直し、見学再開です。
でも、『西ゾーン』をすべて見てると、ほかのゾーンでカラータイマーが点滅しそうだったので……。

『西ゾーン』の残りは端折ったんでした。
↓ゾーンを移る途中の木立だと思います。

↑「み」
↓とても幹肌の綺麗なアカマツがありました。

↑「み」
アカマツって、山の木ですよね。
新潟は平地なので、マツといえば、まずクロマツです。
新潟砂丘を覆う松林も、クロマツ。

↑砂丘上にある新潟市の『西海岸公園』。傾いでるのは、冬の強風のためです。
アカマツは、お屋敷の庭にしかありません。

↑新潟県内のお宅でのアカマツの移植風景。よそから持って来たのではなく、庭内での移植です。こんな木が植えられる場所が、庭に何ヶ所もあるんですね。
でも最近、そうしたお屋敷の松が枯れてるのを良く見かけます。

↑新潟市内。これは、クロマツです。
どうも、マツノザイセンチュウという害虫にやられるようです。

↑マツノマダラカミキリが媒介することにより、マツからマツに広がっていきます。
さて、次の写真を見ると、わたしは『センターゾーン』を突っ切り、『東ゾーン』まで移動したようです。
↓『東ゾーン』、最初の写真はここ。

↑「み」
これは、『村上精華堂(むらかみせいかどう)』。
↓例によって、パンフレットの説明書きです。
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台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品店)です。
昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。
正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンなつくりとなっています。
【台東区池之端二丁目/1928(昭和3)年】
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ここで、“人造石洗い出し”という用語が出てきました。
以前、公団住宅などの流しなどで使われた“人造大理石研ぎ出し(人研ぎ)”のお話をしました。
言葉は似てますが、この両者では仕上げ方が異なります。
“研ぎ出し”は、グラインダーなどにより表面を研磨します。

↑研磨作業中。粉塵で大変でしょうね。
仕上がりはツルツルになり、大理石っぽく見えるわけです。

↑光を返します。
“人造石洗い出し”というのは、研磨するのではなく、表面のモルタルを洗い流すことにより……。
種石を浮きあがらせ、自然風な質感を表現するものです。

↑表面はザラザラです。
こういった洋風の商店建築では、日本独特の様式があります。
いわゆる、看板建築というヤツです。
正面から見るとビルに見えるけど……。

↑茨城県石岡市。ここには、たくさんの看板建築が残ってるそうです。
四角いのは、通りに面した薄っぺらな部分だけで、その後ろは普通の和風建築という代物です。

↑栃木県栃木市。
看板建築は、主に関東周辺で、関東大震災後に用いられた様式です。
商店を建て直すに際し、ビルにはしたいけど金は無しということで流行ったのでしょう。
でも、この『村上精華堂』は、看板建築ではありません。
儲かったんでしょうね。
場所が、池之端というのが、実に有効ですね。

↑池之端にあったころの様子。
池之端は、上野駅のそばです。

昔は、東北や上信越方面に向かう列車の始発は、上野駅です。
つまり、田舎に帰る人は、必ずこの駅から乗った。
そういうとき、化粧クリームや椿油、香水などは、とてもハイカラな東京土産となったことでしょう。

↑椿油は、大島産でしょうか。
この建物を撮った写真は、上記の1枚だけで、内部の写真などは撮ってませんでした。
この建物には、ボランティアはいなさそうなので、たぶん、専門学校の生徒が蝟集していたのかも知れません。
↓拝借画像を載せておきます。

↓次の写真は、こちら。

↑「み」
これは、『大和屋本店(乾物屋)』の裏側ですね。
↓パンフレットの説明書きです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
港区白金台に1928(昭和3)年に建てられた木造3階建ての商店です。
3階の軒下を伝統的な<出桁造り>にする一方、間口に対して背が非常に高く、看板建築のようなプロポーションを持ったユニークな建物です。
戦前の乾物屋の様子を再現しています。
【港区白金台四丁目/1928(昭和3)年】
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
なぜか、建物の表側を撮ってませんでした。
↓拝借画像でご覧ください。

↓表と裏で、建物の高さが違います(拝借画像)。

これも一種の看板建築でしょうか?
↓裏側の住宅部分では、なぜか、お風呂場だけ撮ってました。

↑「み」
↓この壁も、“人研ぎ”っぽいですね。

“人研ぎ”にしろ“洗い出し”にしろ、左官が現場で造りあげる仕上げです。
出来合いのパネルを貼り付けるのとは違い、まさに職人の手わざですね。
↓再現された店内です。

↑「み」
↓奥のひな壇に並んでるのは、鰹節のようです。

↑「み」
↓タバコも売ってます(拝借画像)。

↓お酒も売っています。

↑「み」
でも、乾物屋でお酒を売ってるのは妙だと思い、調べてみたら……。
『小寺醤油店』という、別の建物でした。
↓拝借画像です。

なぜ、外観の写真を撮ってなかったのかは謎です。
↓パンフレットの説明書き。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。
味噌や醤油、酒類を売っていました。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の<出桁造り(だしげたづくり)>の建物です。
【港区白金五丁目/1933(昭和8)年】
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
↓腕木(うでぎ)と桁(けた)の関係です。

↑『小寺醤油店』ではありません。
『小寺醤油店』の<出桁造り>というのは、↓この部分ですね。

↑波状のものは、布のサンシェードのようです。なんで、こんなのを付けておくんですかね。<出桁造り>が良く見えんではないか。
この醤油店、立ち飲みは、出来なかったんですかね?
↓アテは、『大和屋本店(乾物屋)』で買って行けばいいんじゃないですか。

↑「み」
あ、そうか。
この2店、元々は別の場所に建ってたんでした。
すっかり、忘れてました。
いちおう、建ってた住所を確認してみましょう。
にゃに?
『小寺醤油店』は、港区白金五丁目。
『大和屋本店』は、港区白金台四丁目。
これって、微妙に近いんでないの?
↓どのくらい離れてるのか、調べてみました。

残念ながら、徒歩では20分近くかかるようです。
『小寺醤油店』の店内では、壜をずらーっと並べてありますが……。
ほんとに昔も、こんな売り方だったんでしょうか?
樽で仕入れて、量り売りをしてたのでは?

↓画像に見えるサントリーのオールドって……。

↑「み」
樽で卸したりはしなかったんですかね?

なお、サントリーオールドは、大阪府の『山崎蒸溜所』で、1940(昭和15)年に誕生しました。

↑現在の『山崎蒸溜所』(上の樽の画像もそうです)。
しかしながら、すでに日本は戦時下となっており、販売は許されませんでした。
『山崎蒸溜所』は、幸いなことに戦災に遭うことなく終戦を迎えます。
サントリーオールドが世に出たのは、誕生から10年後の1950(昭和25)年です。

↑初代のラベル(復刻版)。
戦後、5年間発売されなかったのは、日本人が、高級ウィスキーを買えるような状態になかったからでしょう。
なお、ラベルは時代とともに変わってますが、瓶の形だけは、最初からこのダルマ型で変わらないそうです。

↑現在のラベル。
オールドは、オヤジのウィスキーというイメージがあるせいか……。
買ったことは、一度もありません。
さて続いては、『江戸東京たてもの園』で、おそらく一番人気であろう建物。
↓こちらです。

↑「み」
『子宝湯』。
お風呂屋さんですね。
↓パンフレットの説明書き。
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東京の銭湯を代表する建物です。
神社仏閣を思わせる大型の唐破風(からはふ)や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の格天井(ごうてんじょう)など贅をつくした造りとなっています。
【足立区千住元町/1929(昭和4)年】
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昭和4年というと、新潟市の『萬代橋』と同じ年の建築です。

↑完成直後の『萬代橋』。橋の中央部が砂利敷になっているのは、路面電車を通す計画があったからです。結局、実現しませんでしたが、この計画のおかげで十分な橋幅が確保され、交通量の激増した時代も、掛け替えられずに乗り切れたのです。
それでは、どうしてこの『子宝湯』が、一番人気なのでしょう?
ジブリファンの方には、すでにお分かりだと思います。
この建物は、『千と千尋の神隠し』の『油屋』のモデルのひとつなんです。

↑『油屋』。
“モデルのひとつ”と云ったのは……。
『油屋』は、いろんな建物のエッセンスが合成されて出来てるからです。
ただ、“参考になった場所”と公式に発言があったのは、この『子宝湯』と、もうひとつだけ。
↓ご存知、『道後温泉本館』です。

↑1894(明治27)年~1924(大正13)年に建てられた棟が、国の重要文化財に指定されてます。
公式発言はありませんが、渋温泉『金具屋』もモデルのひとつと言われてます。

↑木造4階建の棟『斉月楼』。1936(昭和11)年竣工。国の登録有形文化財。
ちなみに、重要文化財と登録有形文化財では、どちらが偉いかと云うと……。
字面通り、“重要”の方が偉くて、補修工事なども、国の補助事業として行われます。
でも、重要文化財より、さらに偉い指定があります。
言わずと知れた、国宝です。

↑国宝『東大寺・金堂(大仏殿)』。高さ48.742メートル。世界最大の木造建築物。
さてさて、『子宝湯』に戻りましょう。
『子宝湯』が営業していた足立区千住元町は、↓このあたり。

荒川と隅田川に挟まれてます。
洪水は大丈夫なんでしょうか。
心配になったので、足立区のハザードマップを調べてみました。
↓荒川が氾濫した場合の想定図。

緑色になってるので、一瞬、安全なのかと思いましたが……。
逆でした。
緑色は最も浸水が深く、5メートル以上となる地域でした。
水色は、1メートルから2メートル。
色の使い方が、間違ってるんでないの?
千住元町にこの『子宝湯』を建てたのは、石川県出身の小林氏。
三助から成り上がった人ではなく、実業家だったそうです。

↑この三助さん、もっこりしてませんか?(大正時代の風景のようです)。三助という職業は実に、2013年まで実在したそうです。
つまり、銭湯経営は、儲かったということですね。
一般的な銭湯は、当時のお金で、2万円ほどで建ったそうですが……。
この『子宝湯』には、4~5万円かけたとか。
おそらく、遠くから、この銭湯に入りに来る人もいたんじゃないでしょうか。
外見がお寺に似てるのには、理由があります。
当時は、関東大震災後で、建物に耐震性が求められていました。

↑関東大震災。1923(大正12)年9月1日。死者10万5千人。
ところが、銭湯には、柱のない広大な空間が必要なのです。

↑『子宝湯』。拝借画像です。
これで参考にされたのが、お寺なんです。
お寺の本堂も、柱の少ない大空間ですよね。

そのため、寺社建築を真似た“破風造り”と呼ばれる様式の銭湯が、東京のそこここに建つようになったのです。

↑まさに『子宝湯』がこの形です。
さて、この『子宝湯』。
もちろん、現存してるわけですから、戦災を逃れました。
しかし、小林氏は没落したのか、経営は平岡氏に移ります。
その平岡氏も、1988(昭和63)年、廃業を決意します。
お風呂を備えたアパートなどが建つようになり……。

銭湯経営にウマ味が無くなったころでしょう。
しかも、バブルです。

↑この上がり方は、狂気としか思えません。今、思えばですが。バブルに乗っかってる人には、バブルとは感じないんでしょうね。
これだけの建物が建つ土地です。
売ってしまえば、一生遊んで暮らせます。

↑毎日、路線バスに乗って暮らしたい。
このへんの事情は、確かめたわけではありませんが……。
わたしが経営者なら、間違いなく売り飛ばします。
で、当然、建物は取り壊されることになったのですが……。
東京都がそれを救い、『江戸東京たてもの園』に移築されることとなったのです。
銭湯が移築され、保存されるというのは、ごくごく稀なことでしょうね。
さすが、東京都です。
金持ってます。

↑当時の知事は、鈴木俊一さん。2010年に99歳で逝去。鈴木さんの後の青島さんの時代だったら……。今の『子宝湯』は存在しなかったかも知れませんね。
さて、それではさっそく入ってみましょう。
人気物件という噂どおり、専門学校らしい学生が、たくさんいました。
↓まずは、番台。

↑「み」
男性なら、一度は憧れた場所でしょう。

↑『下町風俗資料館(台東区上野公園)』では、実際に使われてた番台に座れます。何も見えませんが。
もちろんここでは、男湯女湯、出入り自由です。
↓まずは、女湯から探訪。

↑「み」
広々してますね。
かつてはここが、近所のオバサンたちで満員になってたことでしょうね。

↑ジオラマです(浅草六区ゆめまち劇場『三十坪の秘密基地』)。
シャワーがありませんね。
昔は、これが普通だったんですね。
↓自分が撮った上の写真を改めて見ていて、ちょっと驚く注意書きを発見。

てことは、水道管まで繋げてあるってこと?
いや。
いくらなんでも、そこまではしないよね。
ほんとに繋がってるなら、「出ることがある」ではなく、「カランをひねると水が出ます」と書くはずです。
でも、そんなことを書いたら、いたずらでひねるヤツが続出することでしょう。
たぶん、管内に結露が溜まったりしたのが、落ちることがあるということでしょうか。
水の幽霊だったりして。

↑“水の精”のようです。

↑「み」。このころになると、陽も差して来たようです。
これは、『八王子千人同心組頭の家』。
その名のとおり、八王子市追分町からの移築。
築年は、江戸後期だそうです。
↓パンフレットの説明書きです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
八王子千人同心は、江戸時代、八王子に配備された徳川家の家臣団です。
拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
八王子千人同心は、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置され……。
甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備にあたったそうです。

↑だいたい、埼玉県と東京都が武蔵国です。
トップは、八王子千人頭。
旗本です。

↑この人ではありません。
その下に、10人の組頭。
彼らは、御家人。

↑これは、後家。
組頭の下に、100人ずつの同心が付きます。
彼らもいちおう、徳川家直参の武士ですから、御家人ということになるのでしょうが……。
実際には、農民だったようです。

↑『千人同心』像(八王子市元本郷町『鶴巻橋』)。
ある程度の手当は付いたのでしょうけど、農民として年貢も収めてます。

↑トヨタ博物館新館(名古屋市)。なぜ、トヨタが大八車を展示してるかは不明。
自衛隊の予備役みたいなもんですかね。

苗字は許されてなかったそうです。
帯刀も、千人同心としての公務の時だけに限られました。
実際には、戦闘なんか1度も無かったでしょう。
一種の抑止力として置かれてたんじゃないでしょうか。

↑農家ですから、家はバラバラに散らばってたようです。
↓組頭は本物の武士ですですから、やはり農家とは違います。

↑「み」
もちろん、天井から下る電灯は後付けです。
↓外を回ると、明らかにトイレとわかる設備を発見。

↑「み」
↓屋敷の平面図です。

↑左上に突き出たところが、トイレですね。
下肥は、配下の同心が貰い受けたんでしょうかね。
本業は農家ですから。

↑懐かしや、本家『江戸東京博物館』。
↓中に回って、トイレの内部を確認。

↑「み」
臭そうですね。
ここで、最近仕入れた知識をご披露します(『ブラタモリ』?)。
↓右側の大便所。

↑「み」
どっちを向いてしゃがむと思いますか?
今の和式便器の感覚だと……。
当然、右側にある縦板は金隠しだと思いますよね。

↑ヤフオクに出てました。
で、右を向いてしゃがむと考えがちですが……。
逆です!
板を後ろにしてしゃがむんです。
あの板は、『衣かけ』と云います。
昔は着物です。
わたしはずっと、からげた裾をお腹の前でまとめて用を足すのだと思ってました。

↑まさしく、これです。
でも、違うんです。
着物の裾は、『衣かけ』にかけてたんですね。

↑平安時代の姫さまは、特に大変だったようです。
優雅ですねー。
さて、隣の建物に移りましょう。
↓これは、『吉野家(農家)』。

↑「み」。お天気、完全に晴れましたね。
“よしのや”の先祖の家じゃありませんよ。

↑最後に入ったのはいつか、思い出せないほどです。
“よしのけ”です。
↓例によって、パンフレットの説明書き。
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江戸時代後期に建てられた民家です。
吉野家は江戸時代に野崎村(現在の三鷹市野崎)の名主役を務めた家といわれ、式台付きの玄関や付書院のある奥座敷に格式を見ることができます。
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建物があった三鷹市野崎二丁目は、↓このあたり。

↑『江戸東京たてもの園』からも遠くない場所です。
この家からは、明治になって、吉野泰三が出てます。
牛丼屋ではありません。
自由民権運動の士です。

↑『自由民権運動』。明治前期、藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動。刺客に襲われた板垣退助が、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったのは有名。なお、このとき、板垣は死にませんでした。
なお、吉野という苗字は、明治になってから名乗ったのではありません。
江戸時代でも、名主は、苗字を許されてたのです。

↑『日光江戸村』。牢名主には、苗字は許されません。
現在でも、三鷹市には吉野という苗字が多く……。
大きな敷地に屋敷を構えている家も多いようです。
↓『吉野家』、座敷の様子。

↑「み」
外から撮ってますね。
中にも入れましたが、確か、中では囲炉裏に火が入ってたと思います。
火の番はもちろん、住み着いてるボランティアガイドです。
傍らにはお茶道具が備えられ、客待ち顔で火の調節をしていました。

↑獲物が4匹かかってます。
中が煙そうだったこともあり、入らずに逃走。
囲炉裏の火は、藁葺屋根の乾燥や防虫のためもありますから……。

↑藁葺きの屋根裏です(『吉野家』ではありません)。雨が染みるでしょうから、火を焚き続けなければ、あっという間に虫の住処になってしまいます。
たぶん、夏も焚いてたんでしょうね。
わたしが行ったのは5月の末ですから、まだマシでしょうが……。
真夏でも焚くんですかね?
もちろん、冷房なんかありません。
ここのガイドは、そうとう屈強な人が勤めなきゃなりませんね。
ヘタすれば、干からびてしまいます。

↑タイの即身仏。なぜサングラスをかけているのかは不明。
↓外を回ってるとき、謎の土盛りを発見。

↑「み」
これはいったい、何でしょう?
囲炉裏の燃え殻にしては、土っぽいです。
↓次の写真は、これでした。

↑「み」
ボンネットバスです。
ネットで調べたら、TSD43型というバスで、なんと、運行もしてるようです。
この日は、人だかりも無かったし、普通に展示してるだけだと思いました。
ま、乗ってしまえば、普通のバスと変わらないんでしょうけど。
たぶん、乗り心地は、トラックだと思います。

↑運行時の様子。毎日運行してるわけではないようです。
↓さて、続いてはこちら。

↑「み」
住宅ではなく、写真館です。
『常盤台写真場』。
↓パンフレットの説明書きです。
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健康住宅地として開発された郊外住宅地常盤台に建てられた写真館です。
照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、2階写場の大きな窓には北側から光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれています。
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建てられたのは、1937(昭和12)年。
常盤台というのは、板橋区常盤台。
↓このあたりです。

↓なんと今も、『ときわ台写真場』という名称で、同じ場所で存続してました。

『江戸東京たてもの園』に戻ります。
↓2階にある写場が、こちら。

↑「み」
今でも、十分使えそうです。
優しい自然光で、柔らかな肖像が撮れるんじゃないですか。
いったい、何人の家族が、この写場に立ったんでしょう。
↓わたしが心惹かれた一室。

↑「み」
写場に隣接してます。
↓図面がありました。

『仕度室(したくしつ)』というのがここです。
文字どおり、ここで衣装を整えたんですね。
お見合、結婚、還暦、さまざまな人生の節目に立つ自分を、写真に残す日。

人々は、ここの鏡に映る自分の姿を、眩しい思いで眺めたでしょう。
浮き立つ気持ちが詰まってるような部屋です。
↓これは、階段を2階から撮ったもの。

↑「み」
窓からの明かりが、ほんとに優しいです。
わたしが最初に歩いたのは、『西ゾーン』という区画です。

これまで紹介したほかにも、建物はたくさんあります。
それらの建物に入らなかったのか……。
入ったけど写真を撮らなかったのか、今となっては定かでありません。
ひととおり、拝借写真とパンフレットの説明書きでご紹介します。
『三井八郎右衛門邸』。

↑画面左の木は梅のようです。建物の全貌を見たい方は、落葉時に来られるといいですね。
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港区西麻布に1952(昭和27)年に建てられた邸宅です。
客間と食堂部分は、1897(明治30)年頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものです。
また、蔵は1874(明治7)年の建築当初の土蔵に復元しました。
【港区西麻布三丁目/主屋:1952(昭和27)年 土蔵:1874(明治7)年】
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移築というのは、解体して運んだんでしょうね。
まさか、京都から東京まで曳家はできんわな。
『奄美の高倉』。

↑こんなの、あったかのぅ? 夏場は、茂る緑に隠れてしまうのかも?
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奄美大島にあった高床式の倉庫です。
湿気や鼠の害から穀物を守るために、建物本体を地面から高くあげています。
このような高床式の建物は、東京都の八丈島などにも見られます。
【鹿児島県大島郡宇検村/江戸時代末期頃(※小金井市指定有形文化財)】
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ということは、屋根に見える部分の内部が倉庫ということですね。
柱の建つ土間では、鼠番の猫が昼寝をしてたんでしょう。
涼しそうですよね。
『田園調布の家(大川邸)』。

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1925(大正14)年、郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。
居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されています。
また、当時としては珍しく全室洋間となっています。
【大田区田園調布四丁目/1925(大正14)年】
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田園調布のお宅ですが、なんだか別荘みたいですね。
四丁目というのは、駅前の放射状の区画からは外れた、多摩川に近いエリアです。
しかし、全室洋間というのが、なんともはやです。
「宅には和室なんか無いんざます」ってことですかね。
この建物も、見た記憶がありません。
『綱島家(農家)』。

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多摩川をのぞむ崖線上にあった、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。
広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、押し板という古い形式の棚などから、建物の歴史が感じられます。
【世田谷区岡本三丁目/江戸時代中期】
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崖線(がいせん)というのは、文字どおり、崖が線状に連なってる地形のことです。

早い話、段丘崖ですね。
ブラタモリの『沼田編』が印象的でした。

首都圏では、国分寺崖線が有名です。

説明書きの「多摩川をのぞむ崖線上」というのが、まさにそこです。
世田谷区岡本三丁目は、このあたり。

駅からは離れており、電車の便は、あまり良くありません。
でも、車しか使わない人にとっては、首都高速の用賀インターがすぐ近くなので便利です。

というわけで、芸能人が多く住んでます。
ユーミンも確か、岡本三丁目ですね。
『デ・ラランデ邸』。

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この住宅は、元は平屋建ての洋館でしたが、1910(明治43)年ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより3階建てとして大規模に増築されました。
その後、何回か所有者が変わりましたが、1956(昭和31)年から、三島海雲氏がこの住宅に住んでいました。
1999(平成11)年まで新宿区信濃町に建っていました。
【新宿区信濃町/1910(明治43)年ころ】
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おとぎの国の建物みたいです。
なんで入らなかったんだろうと思い、『江戸東京たてもの園』のホームページをもう一度確認して見ました。
ここは、『武蔵野茶房』というカフェになってたんです。
カレーライスなどの軽食も摂れるようです。
↓中はこんな感じ。

高級っぽくてビビりますが……。
カレーライスは、1,026円(税込)です(わたしにとっては高いですが)。

どうしてこんなに、『西ゾーン』の建物を見逃したのか考えてみたら……。
思い出しました。
トラブルが発生したんです。
と言っても、ボランティアガイドと揉めたわけじゃありません。

足の裏が痛くなってしまったんです。

↑ここにゃ。
実は、この日、たくさん歩くつもりで、脚に新しいアイテムを装着していました。
去年、『江戸東京博物館』を回ってるとき、何度もベンチで休憩を取らなければならなかったからです。

↑このようなベンチが、そこら中にありました。やっぱり、疲れる人が多いんでしょうね。
今年は野外ですので、歩く距離は更に増します。
疲れてしまっては、楽しさが半減です。

ということで、なんとかならないものかとネットを探し……。
↓下記のアイテムを購入しました。
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↓足裏部分は、野球のソックスみたいになってます。

わたしは、この上に靴下を重ね履きしてました。
ところが、歩いてるうちに、足裏に回ったサポーターの前側の方が、痛くなったのです。
ベンチに座り、靴下を取ってみました。
幸い、皮膚が擦れたりはしてませんでした。
サポーターの説明書きを持ってきてたので、再確認。
どうやら、履き方を間違ってたようです。
家を出るとき、時間がなくて、慌てて履きましたから。

↑実は身軽。
サポーターの前側は、土踏まずより前に持っていくべきだったんです。
ふくらはぎの締め付け具合はいい感じだったので、サポーターは履き続けることにしました。

ということで、気分を立て直し、見学再開です。
でも、『西ゾーン』をすべて見てると、ほかのゾーンでカラータイマーが点滅しそうだったので……。

『西ゾーン』の残りは端折ったんでした。
↓ゾーンを移る途中の木立だと思います。

↑「み」
↓とても幹肌の綺麗なアカマツがありました。

↑「み」
アカマツって、山の木ですよね。
新潟は平地なので、マツといえば、まずクロマツです。
新潟砂丘を覆う松林も、クロマツ。

↑砂丘上にある新潟市の『西海岸公園』。傾いでるのは、冬の強風のためです。
アカマツは、お屋敷の庭にしかありません。

↑新潟県内のお宅でのアカマツの移植風景。よそから持って来たのではなく、庭内での移植です。こんな木が植えられる場所が、庭に何ヶ所もあるんですね。
でも最近、そうしたお屋敷の松が枯れてるのを良く見かけます。

↑新潟市内。これは、クロマツです。
どうも、マツノザイセンチュウという害虫にやられるようです。

↑マツノマダラカミキリが媒介することにより、マツからマツに広がっていきます。
さて、次の写真を見ると、わたしは『センターゾーン』を突っ切り、『東ゾーン』まで移動したようです。
↓『東ゾーン』、最初の写真はここ。

↑「み」
これは、『村上精華堂(むらかみせいかどう)』。
↓例によって、パンフレットの説明書きです。
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台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品店)です。
昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。
正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンなつくりとなっています。
【台東区池之端二丁目/1928(昭和3)年】
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ここで、“人造石洗い出し”という用語が出てきました。
以前、公団住宅などの流しなどで使われた“人造大理石研ぎ出し(人研ぎ)”のお話をしました。
言葉は似てますが、この両者では仕上げ方が異なります。
“研ぎ出し”は、グラインダーなどにより表面を研磨します。

↑研磨作業中。粉塵で大変でしょうね。
仕上がりはツルツルになり、大理石っぽく見えるわけです。

↑光を返します。
“人造石洗い出し”というのは、研磨するのではなく、表面のモルタルを洗い流すことにより……。
種石を浮きあがらせ、自然風な質感を表現するものです。

↑表面はザラザラです。
こういった洋風の商店建築では、日本独特の様式があります。
いわゆる、看板建築というヤツです。
正面から見るとビルに見えるけど……。

↑茨城県石岡市。ここには、たくさんの看板建築が残ってるそうです。
四角いのは、通りに面した薄っぺらな部分だけで、その後ろは普通の和風建築という代物です。

↑栃木県栃木市。
看板建築は、主に関東周辺で、関東大震災後に用いられた様式です。
商店を建て直すに際し、ビルにはしたいけど金は無しということで流行ったのでしょう。
でも、この『村上精華堂』は、看板建築ではありません。
儲かったんでしょうね。
場所が、池之端というのが、実に有効ですね。

↑池之端にあったころの様子。
池之端は、上野駅のそばです。

昔は、東北や上信越方面に向かう列車の始発は、上野駅です。
つまり、田舎に帰る人は、必ずこの駅から乗った。
そういうとき、化粧クリームや椿油、香水などは、とてもハイカラな東京土産となったことでしょう。

↑椿油は、大島産でしょうか。
この建物を撮った写真は、上記の1枚だけで、内部の写真などは撮ってませんでした。
この建物には、ボランティアはいなさそうなので、たぶん、専門学校の生徒が蝟集していたのかも知れません。
↓拝借画像を載せておきます。

↓次の写真は、こちら。

↑「み」
これは、『大和屋本店(乾物屋)』の裏側ですね。
↓パンフレットの説明書きです。
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港区白金台に1928(昭和3)年に建てられた木造3階建ての商店です。
3階の軒下を伝統的な<出桁造り>にする一方、間口に対して背が非常に高く、看板建築のようなプロポーションを持ったユニークな建物です。
戦前の乾物屋の様子を再現しています。
【港区白金台四丁目/1928(昭和3)年】
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なぜか、建物の表側を撮ってませんでした。
↓拝借画像でご覧ください。

↓表と裏で、建物の高さが違います(拝借画像)。

これも一種の看板建築でしょうか?
↓裏側の住宅部分では、なぜか、お風呂場だけ撮ってました。

↑「み」
↓この壁も、“人研ぎ”っぽいですね。

“人研ぎ”にしろ“洗い出し”にしろ、左官が現場で造りあげる仕上げです。
出来合いのパネルを貼り付けるのとは違い、まさに職人の手わざですね。
↓再現された店内です。

↑「み」
↓奥のひな壇に並んでるのは、鰹節のようです。

↑「み」
↓タバコも売ってます(拝借画像)。

↓お酒も売っています。

↑「み」
でも、乾物屋でお酒を売ってるのは妙だと思い、調べてみたら……。
『小寺醤油店』という、別の建物でした。
↓拝借画像です。

なぜ、外観の写真を撮ってなかったのかは謎です。
↓パンフレットの説明書き。
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大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。
味噌や醤油、酒類を売っていました。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の<出桁造り(だしげたづくり)>の建物です。
【港区白金五丁目/1933(昭和8)年】
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↓腕木(うでぎ)と桁(けた)の関係です。

↑『小寺醤油店』ではありません。
『小寺醤油店』の<出桁造り>というのは、↓この部分ですね。

↑波状のものは、布のサンシェードのようです。なんで、こんなのを付けておくんですかね。<出桁造り>が良く見えんではないか。
この醤油店、立ち飲みは、出来なかったんですかね?
↓アテは、『大和屋本店(乾物屋)』で買って行けばいいんじゃないですか。

↑「み」
あ、そうか。
この2店、元々は別の場所に建ってたんでした。
すっかり、忘れてました。
いちおう、建ってた住所を確認してみましょう。
にゃに?
『小寺醤油店』は、港区白金五丁目。
『大和屋本店』は、港区白金台四丁目。
これって、微妙に近いんでないの?
↓どのくらい離れてるのか、調べてみました。

残念ながら、徒歩では20分近くかかるようです。
『小寺醤油店』の店内では、壜をずらーっと並べてありますが……。
ほんとに昔も、こんな売り方だったんでしょうか?
樽で仕入れて、量り売りをしてたのでは?

↓画像に見えるサントリーのオールドって……。

↑「み」
樽で卸したりはしなかったんですかね?

なお、サントリーオールドは、大阪府の『山崎蒸溜所』で、1940(昭和15)年に誕生しました。

↑現在の『山崎蒸溜所』(上の樽の画像もそうです)。
しかしながら、すでに日本は戦時下となっており、販売は許されませんでした。
『山崎蒸溜所』は、幸いなことに戦災に遭うことなく終戦を迎えます。
サントリーオールドが世に出たのは、誕生から10年後の1950(昭和25)年です。

↑初代のラベル(復刻版)。
戦後、5年間発売されなかったのは、日本人が、高級ウィスキーを買えるような状態になかったからでしょう。
なお、ラベルは時代とともに変わってますが、瓶の形だけは、最初からこのダルマ型で変わらないそうです。

↑現在のラベル。
オールドは、オヤジのウィスキーというイメージがあるせいか……。
買ったことは、一度もありません。
さて続いては、『江戸東京たてもの園』で、おそらく一番人気であろう建物。
↓こちらです。

↑「み」
『子宝湯』。
お風呂屋さんですね。
↓パンフレットの説明書き。
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東京の銭湯を代表する建物です。
神社仏閣を思わせる大型の唐破風(からはふ)や、玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の格天井(ごうてんじょう)など贅をつくした造りとなっています。
【足立区千住元町/1929(昭和4)年】
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昭和4年というと、新潟市の『萬代橋』と同じ年の建築です。

↑完成直後の『萬代橋』。橋の中央部が砂利敷になっているのは、路面電車を通す計画があったからです。結局、実現しませんでしたが、この計画のおかげで十分な橋幅が確保され、交通量の激増した時代も、掛け替えられずに乗り切れたのです。
それでは、どうしてこの『子宝湯』が、一番人気なのでしょう?
ジブリファンの方には、すでにお分かりだと思います。
この建物は、『千と千尋の神隠し』の『油屋』のモデルのひとつなんです。

↑『油屋』。
“モデルのひとつ”と云ったのは……。
『油屋』は、いろんな建物のエッセンスが合成されて出来てるからです。
ただ、“参考になった場所”と公式に発言があったのは、この『子宝湯』と、もうひとつだけ。
↓ご存知、『道後温泉本館』です。

↑1894(明治27)年~1924(大正13)年に建てられた棟が、国の重要文化財に指定されてます。
公式発言はありませんが、渋温泉『金具屋』もモデルのひとつと言われてます。

↑木造4階建の棟『斉月楼』。1936(昭和11)年竣工。国の登録有形文化財。
ちなみに、重要文化財と登録有形文化財では、どちらが偉いかと云うと……。
字面通り、“重要”の方が偉くて、補修工事なども、国の補助事業として行われます。
でも、重要文化財より、さらに偉い指定があります。
言わずと知れた、国宝です。

↑国宝『東大寺・金堂(大仏殿)』。高さ48.742メートル。世界最大の木造建築物。
さてさて、『子宝湯』に戻りましょう。
『子宝湯』が営業していた足立区千住元町は、↓このあたり。

荒川と隅田川に挟まれてます。
洪水は大丈夫なんでしょうか。
心配になったので、足立区のハザードマップを調べてみました。
↓荒川が氾濫した場合の想定図。

緑色になってるので、一瞬、安全なのかと思いましたが……。
逆でした。
緑色は最も浸水が深く、5メートル以上となる地域でした。
水色は、1メートルから2メートル。
色の使い方が、間違ってるんでないの?
千住元町にこの『子宝湯』を建てたのは、石川県出身の小林氏。
三助から成り上がった人ではなく、実業家だったそうです。

↑この三助さん、もっこりしてませんか?(大正時代の風景のようです)。三助という職業は実に、2013年まで実在したそうです。
つまり、銭湯経営は、儲かったということですね。
一般的な銭湯は、当時のお金で、2万円ほどで建ったそうですが……。
この『子宝湯』には、4~5万円かけたとか。
おそらく、遠くから、この銭湯に入りに来る人もいたんじゃないでしょうか。
外見がお寺に似てるのには、理由があります。
当時は、関東大震災後で、建物に耐震性が求められていました。

↑関東大震災。1923(大正12)年9月1日。死者10万5千人。
ところが、銭湯には、柱のない広大な空間が必要なのです。

↑『子宝湯』。拝借画像です。
これで参考にされたのが、お寺なんです。
お寺の本堂も、柱の少ない大空間ですよね。

そのため、寺社建築を真似た“破風造り”と呼ばれる様式の銭湯が、東京のそこここに建つようになったのです。

↑まさに『子宝湯』がこの形です。
さて、この『子宝湯』。
もちろん、現存してるわけですから、戦災を逃れました。
しかし、小林氏は没落したのか、経営は平岡氏に移ります。
その平岡氏も、1988(昭和63)年、廃業を決意します。
お風呂を備えたアパートなどが建つようになり……。

銭湯経営にウマ味が無くなったころでしょう。
しかも、バブルです。

↑この上がり方は、狂気としか思えません。今、思えばですが。バブルに乗っかってる人には、バブルとは感じないんでしょうね。
これだけの建物が建つ土地です。
売ってしまえば、一生遊んで暮らせます。

↑毎日、路線バスに乗って暮らしたい。
このへんの事情は、確かめたわけではありませんが……。
わたしが経営者なら、間違いなく売り飛ばします。
で、当然、建物は取り壊されることになったのですが……。
東京都がそれを救い、『江戸東京たてもの園』に移築されることとなったのです。
銭湯が移築され、保存されるというのは、ごくごく稀なことでしょうね。
さすが、東京都です。
金持ってます。

↑当時の知事は、鈴木俊一さん。2010年に99歳で逝去。鈴木さんの後の青島さんの時代だったら……。今の『子宝湯』は存在しなかったかも知れませんね。
さて、それではさっそく入ってみましょう。
人気物件という噂どおり、専門学校らしい学生が、たくさんいました。
↓まずは、番台。

↑「み」
男性なら、一度は憧れた場所でしょう。

↑『下町風俗資料館(台東区上野公園)』では、実際に使われてた番台に座れます。何も見えませんが。
もちろんここでは、男湯女湯、出入り自由です。
↓まずは、女湯から探訪。

↑「み」
広々してますね。
かつてはここが、近所のオバサンたちで満員になってたことでしょうね。

↑ジオラマです(浅草六区ゆめまち劇場『三十坪の秘密基地』)。
シャワーがありませんね。
昔は、これが普通だったんですね。
↓自分が撮った上の写真を改めて見ていて、ちょっと驚く注意書きを発見。

てことは、水道管まで繋げてあるってこと?
いや。
いくらなんでも、そこまではしないよね。
ほんとに繋がってるなら、「出ることがある」ではなく、「カランをひねると水が出ます」と書くはずです。
でも、そんなことを書いたら、いたずらでひねるヤツが続出することでしょう。
たぶん、管内に結露が溜まったりしたのが、落ちることがあるということでしょうか。
水の幽霊だったりして。

↑“水の精”のようです。