その夜、僕は床に着いてもなかなか寝つけなかった。
彼女が草むらでもがく姿が脳裏をかすめた。
眠ったあとも彼女が夢に現れた。
夢の中の彼女は呆然と立ち尽くし悲しそうな顔をして僕を見つめていた。
(どうして私を助けてくれなかったの?)
(すまない。僕は非力だし飛び出す勇気がなかったんだ。君は僕が潜んでいたことを知っていたの?)
(知っていたわ)
(たとえ助けられなくても、大声を出せたはずだわ)
(・・・・・・)
(でもあ、あなたは何もしてくれなかった。そればかりか自分の欲望を満たすことしかしなかった・・・)
(・・・・・・)
夢の中の彼女は恨めしそうな表情をして僕を咎めた。
(あなたが助けてくれていたら・・・私は・・・・・・)
それだけつぶやいたあと、彼女は暗闇の中へと消えていった。
その時、僕は夢から覚めた。
彼女が夢の中で最後につぶやいた一言が、起きたあとも、胸に烙印を押されたかのように余韻として残っていた。
その朝、僕はいつものように登校した。
登校途中、夢の最後の一言が頭によみがえった。
彼女はあのあと僕に何を告げたかったのだろうか。
(あなたが助けてくれていたら・・・私は・・・・・・)
急に妙な胸騒ぎが起こった。
教室には授業が始まるまでの間、何組かのグループかに分かれて駄弁っていた。
気に止めることはない。いつものことだ。
僕は輪に入ることもなく自身の座席に腰をかけた。
その時、一番近くでひそひそ話していた女子グループから、気になる名前が聴こえてきた。
霧島明日香・・・
僕はつい会話に耳を傾けた。
「可哀相にねえ」
「よほど辛かったのねえ」
端々しか聞こえず、話の要旨がつかめなかったことから、僕は思わず女子グループの会話の輪の中へ飛び込んでしまった。
「あのぅ・・・霧島さんがどうしたの?」
「あぁ、能島君、おはよう。能島君ってC組の霧島さんのこと知ってるの?」
「うん、少しばかり」
「実はね、霧島さん、昨夜遅く自殺したのよ」
「ええっ!! 霧島さんが自殺したって!?」
僕は脳天をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
「何でも強姦されたことから悲しみにくれて、学校に戻ってきて屋上から飛び降りたんだって」
「な、な、なんだって!?」
「野島君どうしたの? もしかして霧島さんと付き合ってたの?」
僕は言葉を失ってしまっていた。
(僕のせいだ・・・僕があの時助けてあげなかったからこんなことになってしまったんだ・・・くぅっ・・・・・・)
あの時僕が飛び出していたら・・・
あの時僕が大声をあげていたら・・・
もう一度僕をあの時間あの場所に戻してくれ・・・
現場には数束の花束が手向けられていた。
僕は手を合わせ黙祷を捧げた。
(霧島明日香さん・・・許してください・・・僕に勇気がなかったばかりに・・・)
泣いても泣いても涙は尽きることがなかった。
日が沈む頃、僕は学校を出た。
例の公園に差し掛かった頃、ふと前方を見るとセーラー服の女の子が歩いていた。
彼女は振り返ることもなく、まっすぐ歩いて行く。
僕は彼女の後ろ姿を見つめながら着いて行く。
遠くから見るうしろ姿、歩くたびに揺れるお下げ髪、霧島明日香にとてもよく似ている。
(まさか・・・)
僕が階段を登りきった頃、突然、バサッと言う大きな音がして、女の子が視界から消えてしまった。その直後、引き攣ったような女性の声が漏れ聞こえてきた。
僕は道端に落ちていた石ころを握りしめ、声が聞こえてくる方へ一目散に駆けていた。
僕は確かに彼女のことが好きだった。だが心の奥底では憎んでもいた。決して僕の存在に気付かず、もしかしたら蔑んでいるかも知れない彼女を、夢の中では、何度も何度も支配した。それは誰にも言えないような夢だった。その夢と同じことが、現実に目の前で起こっていることへの好奇心。自分には絶対に出来ないことを誰かが実現していることへの興味。そして彼女の肉体への憧憬。
僕は息を殺して茂みに身を隠した。幸い彼女が抵抗する物音で、僕が茂みに身を沈めた音はかき消された。
僕はただひたすらその行為を凝視し続けた。もっと月が明るくなってくれないかとさえ思った。
ほの白い彼女の長い足は、うっすらとした月明かりの中でひときわ白く浮かび上がって見えた。彼女は口を何かで押さえられているらしく、叫ぼうとしても隠ったうめき声しか出ない。その声は見事なまでに官能的なものだった。
僕の位置からは、彼女の足しか見えなかった。誰かの黒い陰によって大きく開かされた形のよい足が、もがいて暴れる。清楚な白いソックスと、片方だけ脱げてしまった靴が艶めかしい。
僕の下半身は、既にどうしようもなく昂っていた。今どれほど大変なことが起きているか、ということをすっかり忘れてしまっていた。僕はそこが屋外であるということも忘れて、慌しくズボンのファスナーを下ろしていた。
僕のそれは、ほんの少し触れた途端に欲望を放出した。その時微かに漏れた僕の声に気付く者は誰もいなかった。
暗闇の中にあるのは規則的に動く人陰と、彼女の隠った叫び、そして暴れる白い足だけだった。
異世界のような空間で、僕は何度も何度も絶頂に達した。
男が事を終えて走り去った後、彼女はしばらく動かなかった。
もしかしたら死んでしまったのかと思い、僕は急に不安になった。
その頃には少し冷静さを取り戻し、助けに行かないまでも大声を出すか人を呼びに行くかするべきだったと悔やまれた。何故僕は何もせずに、ただ覗いていたのだろう。いやただ覗いていただけではない。自分の欲望を満たすため、妄想の中とはいえ淫らな行為に耽っていたのだ。
自分のしたことが信じられなかった。
月明かりが彼女の真っ白い胸を露にしていた。制服は破けていて泥だらけだろうと思われたが、暗がりの中ではよく分からなかった。
彼女は壊れた人形のように、不自然な格好で横たわっていた。足を閉じようともしなかったし、胸を隠そうともしなかった。
僕はしんと静まり返った公園の中で、繁みから出て行く事もできずに、ただじっと息を潜めていた。彼女が動くまで、彼女がここを立ち去るまで、僕は茂みから動けなかった。
でももしも彼女が既に死んでいたらどうする!? 死体はいつか見つかる。その時僕は、殺人容疑で捕まるのではないだろうか。そう思うと足が震えた。
しかし彼女はしばらく放心した後で、やっとよろよろと起き上がった。口に貼られたガムテープを剥がす音が、静寂を突き破って響き渡った。服装を直すでもなく、髪を撫で付けるでもなく、彼女は立ち上がったままの姿で、フラフラと歩き出した。そして、落ちた鞄をそのままにし、通路に出ると、家とは反対の方向、学校の方向、つまり僕のいる方に向かって、ゆっくりと歩き出した。またもや心臓が高鳴った。
彼女は僕の存在に気付いているのではないか、助けなかった僕を罵倒するために近付いて来たのではないか、そう思いながらも息を殺して身体を縮こまらせていた。
彼女が近付いて来るまでの時間が、どんなに長かった事か。
時の経過がこれほど遅いとは・・・
彼女が僕の横を通り過ぎる瞬間、僕は本当に一呼吸もしなかった。
心臓が止まってしまったとさえ思われた。
彼女がちらりとでもこちらを見るのではないかと怯えながら、僕は息を止めていた。
でも彼女は、一度もこちらを見なかった。
うつろな瞳でまっすぐ前を見ていた。
僕は安堵を隠せなかった。
彼女の姿が完全に消えるのを待って、僕は繁みから静かに這い出ると、一目散に駆け出した。もちろん家の方向へ。
何も見なかった。
何も訊かなかった。
何も起こらなかった。
そうつぶやきながら、全速力で家へ向かって走っていた。