京の都、東海道に望む名代の料亭。
大津の山門の戦いから二日後、伊織たちが江戸を発って以来三十九日目の朝を迎えていた。
大座敷に上座を向いて松浦家家臣三十余名が居並び、晴れがましくもその最前列に二つの座が設けられている。
そのひとつには肩を吊った包帯も痛々しい伊織の姿があり、お美代も落ち着かぬ様子でその横に坐している。
やがて御成りの声が響き渡ると、家臣一同衣擦れの音と共に一斉にひれ伏した。
何事かときょろきょろ視線を巡らしたお美代も、慌てて尻が持ち上がるほどに畳に額を押し付ける。
間近に畳の目を見つめる伊織の前に、殿が近づく気配と共に着物の裾が擦れる涼やかな音が近づいて来た。
「皆の者、苦しゅうない、表を上げい。」
重々しい殿の声に、伊織はゆっくりと顔を上げる。
そこには朱色の正装に身を包んで、輝くばかりの気高い美しさを漂わせた羅紗姫が粛然と坐していた。
伊織は操を捧げた羅紗姫の顔を静かに見つめた。そんな伊織に羅紗姫も思いを込めた眼差しを返してくる。
松浦信勝はそんな二人の風情にも気付かぬまま、穏やかな表情で口を開いた。
「さて伊織・・・。昨夜も申した事じゃが、今日はこの場で返事を聞かせてくれぬか。これよりは丹波に留まり、まだ若い姫と綾の息子忠興を末永く支えてやってくれい・・・。」
伊織はその問いかけに、改めて羅紗姫の顔を見つめた。姫は縋り付く様な視線を伊織に向けている。
眉を寄せてしばし思案した伊織であったが、やがて決然として顔を上げた。
透き通る眼差しを殿に向けると口を開く。
「殿・・・、身に余る光栄なお言葉とは存じますが、私はこの場で武士の魂を殿にお返しし、江戸に帰りたく存じます。」
その言葉を聞いた姫の瞳がみるみる悲しみの色に染まっていく。
「やはり・・、そうか・・・。」
信勝は落胆の表情で肩を落としたが、すぐに憐憫の思いで続けた。
「これまでの道程には敵味方いくつもの命が失われたと聞いておる。その中をここまで役目を貫き通したお前には、もうどのような礼の言葉も見つからぬ。せめて何か望みがあれば言うてみよ。」
伊織は殿の言葉に、もう迷う事なく答えた。
「恐れながら殿、私はここで羅紗姫様の懐刀をお借りしたく存じます。そしてその刃で私の武士の髪の元締めを切らしていただきたいのです。」
思いがけぬ伊織の言葉を聞いた信勝は、傍らの羅紗姫の顔を見た。
伊織と姫は再びじっと見つめ合っていた。
羅紗姫は脇から懐刀を取り出し、両手でゆっくりと伊織に差し出す。
膝を擦りながら前に進んだ伊織は、両手でそれを拝み取った。
座に戻ると恭しく姫の懐刀を抜き、己が髪にあてがう。
その刃の光が髪に隠れたかと思うと、伊織の黒髪が艶を放って肩先に揺れ落ちた。
その姿に、羅紗姫は消え入るような声で囁いた。
「江戸を発って以来の思い出、私は決して忘れることはないでしょう。そして伊織様、あなたのことも・・・・。どうか、どうか・・・いつまでもお元気で・・。」
傍らの信勝の視線に姫はあらためて背筋を伸ばすと、今度はよく通るきれいな声で言った。
「陣ノ内伊織、ここまでの忠義の行い、羅紗姫この上もなく嬉しく思います。本当にご苦労でした。心より礼を言います。」
もう立派に気品を備えた姫の顔を、伊織は微かな微笑みと共に眩しく見上げた。
やがて再び顔を伏せた伊織の前から、羅紗姫の衣擦れの音がゆっくりと遠ざかって行った。
顔を上げた伊織とお美代は、立ち上がって目立たぬ様に座敷の出口へと向かう。
襖の前まで来ると、背後に何かざわつくものを感じて二人は振り返った。
そこでは三十余名の家臣達が次々と互いに習うように、伊織たちの方を向いて座り直していたのである。
二人が目を見開いて見つめる中、各々が目の前に大小の刀をそろえて正座すると、一同は二人の女性に向けて深々と頭を下げた。
旅姿に身を包んだ伊織とお美代は、来た道を再び江戸へと歩き始めていた。
来た時とは違って、その道行きは若い女の二人旅へと変わっている。
京の町はずれまで来ると、伊織はふと道端の店先に足を止めた。
若い女のいでたちの伊織が斜に身を傾けた案配は、もう誰もがついその顔を覗き込みたくなる風情である。
お美代が横から覗いて見ると、伊織は銀細工の簪を手に取っていた。
鈍く日に輝くその細工の中程には、小さな蝶の作り物が留められている。
伊織はその簪を買い求めた。
やがて京の町筋を出ると、そこは何のことはない、台風一過うららかな晴天のもと天下泰平の街道が続いている。
しかし危険が去った後も、伊織の心は重く雲が垂れ込めた様に晴れなかった。
“伊織様・・・。”
伊織の心中を察して、お美代はかける言葉も無くとぼとぼと後を歩いている。
街道が川沿いに差し掛かった所でふと伊織の足が止まった。
お蝶たちが消えた辺りを遠くに見ながらじっと立ちすくんでいる。
お美代はそんな伊織が哀れのあまり、思い切って明るく声をかけた。
「でも伊織様、悪者たちを成敗して、姫を無事に送り届けたからよかったじゃありませんか。」
その言葉に、伊織は思いがけず厳しい表情を向けた。
「悪者たち!?」
お美代が驚きの顔をしているのを見ると、伊織はその表情を緩め静かな口調で続けた。
「死んでいった者たちと私たちと、どこが違うと言うのです。戦いに善も悪もない、ただ消えることの無い・・・、悲しみが残るばかりなのです・・・。」
再び視線を落としたままの二人を重苦しい沈黙が包んでいた。
とその時、目の前にひとつの松ぼっくりが飛んで来て道の上で跳ねた。
「おっ、お蝶さんっ!」
伊織は思わずそう叫んで近くの松林を見回した。
“バサバサッ”
その叫び声に驚いて、一羽の山鳥が林から飛び去って行く。
伊織はそれを追う目線を伏せると、力なく肩を落とした。
再び重い足を進めようとした時、二人の後ろで聞き覚えのある声がした。
「何です? そんな元気無さそうに・・・。お団子買って来たんだけど、お食べになります・・・?」
伊織は驚いて顔を上げると、声の方を恐る恐る振り返った。
そこには片手に団子を三本持ったお蝶が、悪戯っぽい笑みを浮かべて二人を見つめていた。
「お蝶っ!」
「お蝶さんっ!」
お美代はみるみるその大きい瞳に涙を浮かべると、跳ねるようにお蝶に飛び付いて行った。
「わああ~っ、お蝶さん無事だったの!? よかった~~、わああ~んっ!」
お蝶の首に両手を廻して抱きつくと、お美代は両の目から次々と大粒の涙をこぼした。
「何だよう、この子は。あたしが伊織様に抱きつこうかと思ったのに、何であんたが先にあたしに抱きつくの? もう・・。」
お蝶は泣きじゃくるお美代の肩を抱きながら、目を細めて伊織に笑いかける。
「お蝶さん・・・、よ、よく無事で・・・。」
それ以上は言葉が詰まって、伊織はお蝶の笑顔を見ながら目を潤ませた。
「なんですよう、伊織様まで。波間に浮いてるとこを運よく地元の漁師に拾われて、やっとこ命拾いしたんですよ。もっとも二三日はあの世に近かったらしゅうござんすけど。ほれこの通り足だってちゃあんと二本ありますよ、あはは・・。」
お蝶はそう言うと、片手で裾をめくって白い足を見せながら笑った。
「それに伊織様ひとり残して、あたしが簡単に死ねるもんですか・・・。」
そう言うと涼やかに笑った目に、今度はきらりと光るものを滲ませた。
「よかった・・・。本当によかった・・・。」
しばし潤んだ目で見つめ合った後、お蝶は照れ隠しに声を張り上げる。
「さあさあ、もう行きましょうよ。次の宿場に着く前に日が暮れちまいますよ。」
お蝶がそう言って歩き出したとたん、
「あいたたた・・・。」
色っぽい眉を寄せてその身体が危なっかしく揺らいだ。
「お蝶さん、まだ無理をせずに。私が背負ってあげましょう。」
「そ、そんな・・・もったいない・・。」
「遠慮せずにそうしなよ、お蝶さん。・・・ねっ?」
伊織の横でお美代も心配そうに声をかける。
「そうですか・・・? それじゃ申し訳ないけど、お言葉に甘えて・・・。でもあたし、伊織様の男言葉が聞けなくてちょっと寂しいわあ・・。ねえ、もうちょっとだけ、聞かせておくんなさいよ。」
「ええ・・!?」
その願いに思わず顔を赤らめた伊織であったが、怪我人のお蝶の目が訴えてきて仕方なく再び口を開く。
「え、えへんっ。お蝶、まだ無理をするな。よし、じゃあ私が背負ってやろう。」
「わあっ嬉しい。それじゃあ遠慮なく。」
伊織は顔を赤らめながらお蝶を背負うと、ゆっくりと足を運び始める。
しばらく歩きながらお美代がお蝶の顔を窺うと、お蝶はその辛そうな表情をみるみる悪戯っぽい笑みに変え、右手の人差し指を目の下にあてた。
「・・・???」
お美代がいぶかしく思う間もなく、お蝶は桃色の舌を出して笑いながらお美代にあっかんべえをした。
「ああっ、この年増っ! 芝居だっ、伊織様っ、芝居だようっ!!」
「アッハハハ!!」
お蝶は吹き出すと慌てて伊織の首にしがみ付く。
「ははは、何だ芝居か・・。」
「もうっ、人がせっかく心配してやったのに。降りろっ! この大年増っ!!」
「あっははは、いやなこった。」
「ははは、芝居でも元気でよかった。だが羅紗姫様よりうんと重くて、この度は大変だぞ、あっははは・・・。」
「まあっ、なんですよ意地悪。どうせ羅紗姫様がよかったでしょうよ。もうっ!!!」
「いたたたっ! こらっ、背負われた者が静かにしないか。」
「降りろっ! 嘘つき大年増っ!!」
「あっははははは・・・・。」
三人の明るい掛け合いが街道筋にこだまする。
はしゃぐ娘たちに行きかう人たちの顔もほころび、抜けるように青い空の下、江戸までの長旅の足さえ軽くするように、初夏のさわやかな風が伊織の黒髪にそよいでいた。
●次回最終章
時ならぬ嵐の到来に、木の葉を舞い上げた風が不気味なうなりを発して吹き抜けていく。
まだ暗い闇に日の出を告げるものは、空に厚く垂れこめた雲の隙間から漏れる微かな明るみだけであった。
その空からぽつぽつと大きな雨粒が落ち始めると、伊織と羅紗姫はふとその足を止め、前方の寺の山門を見つめた。
森の手前にひっそりと山門の影が浮かび上がり、その楼閣の中に灯火の瞬きが見える。
伊織は傍らの姫に声をかける。
「姫・・・。」
「はい、伊織様。」
二人は暫時見つめ合って頷いた。
おもむろに取り出した白布でたすき掛けをして、額には鉢巻を巻く。
身支度を終えた伊織は悲壮な眼差しで山門を見つめた。
姫の命を守るためには、最後の手段は相手と刺し違える覚悟である。だがその手段も通じる相手かどうか。
伊織はそんな迷いを振り払うように、しばしじっと目を閉じた。
羅紗姫も血の気の引いた唇を結んで、震える両手を握りしめた。
「さあ姫、参りましょう。」
「はい。」
二人は吹きすさぶ風に鉢巻を翻しながら山門へと足を踏み出した。
美夜叉は静かに目を閉じたまま、鈍く蝋燭の灯を映した板張りに坐している。
傍らには猿轡を噛んで縛られたお美代が、目を怒らせて板張りの上に転がっていた。
「水月・・・。」
鬱々とした低い声が水月の名を呼んだ。
「はい・・・。」
美夜叉の右手に坐している水月は、うつろな瞳を床に落としたまま答える。
「水月・・・・、もう勝負は案ずることもないと思うが、念の為に言っておく。赤蛇尼の話からして、おそらく相手は居合の使い手。最初の一撃を避けて切り合いになれば、まずお前の相手ではない。いずれ始末は出来るとしても、要らぬ痛手を受けることはないでのう・・・。」
「・・・・。」
水月はその言葉にも、切れ長の目を細めて微かにまつ毛を煙らせただけであった。
それとなく水月の表情を窺った美夜叉は、ふと視線を正面に戻してつぶやいた。
「ん・・、どうやら参ったようじゃ。」
しばらくすると楼閣へ登る階段の軋みが聞こえ始め、部屋へ入る板戸が音もなく開いた。
薄暗い中から、凛々しく果たし合いの姿に身を包んだ若侍の姿が蝋燭の明かりに浮かびあがる。
伊織と羅紗姫は、床に転がったお美代の姿に思わず目を見開いた。
油断なく部屋の中へ足を踏み入れると、決然と正面に坐した美夜叉を睨みつける。
そんな殺気も感じぬように、美夜叉はゆっくりと両手を付いて羅紗姫にお辞儀をする。顔を上げると、その表情にうっすらと笑みさえ浮かべて口を開いた。
「さすが羅紗姫様。自らここまで来られたお覚悟、この美夜叉、感服至極にございます。そのような姫君がお世継ぎなれぬことは私とて残念なこと・・・。しかしこれも私どもの役目とご承知くだされ。恐れながら羅紗姫様、お命・・・頂戴つかまつります。」
それを聞いて前に出ようとした伊織を制して、きつく美夜叉を見据えながら羅紗姫は言った。
「言われる通り、私はここへ出向きました。私の命の如何にかかわらず、お美代の命は助けるとお約束下さい。先にここで、お美代をお解き放ちください。」
語気鋭い姫の言葉に、思いついたように美夜叉は答える。
「ほお・・、ますます立派なお心がけ。ですが私はお美代の命と引き換えにお越しを願っただけ。確かに命は奪いませぬ・・・・。ですが、解き放つとは申しておりませぬぞ。」
「なっ、何と!」
色めき立って叫ぶ姫を背中にかばうと、伊織は口を開いた。
「美夜叉とやら、ではこの刀にかけてお美代を救うまでだ。参るぞ!」
美夜叉は相変わらず薄笑いを浮かべたまま答える。
「ふふ、おとなしく牢の中におればよかったものを・・。見事我らを打ち負かしてみるかっ!!」
美夜叉の言葉尻が殺気立って響いた時、傍らに控えていた水月がゆらりと立ち上がった。
蝋燭の炎に揺らめくように伊織の正面に立ちふさがる。不気味にもその眼差しは目の前の板張りに生気も無く向けられたままであった。
背筋が寒くなる様な殺気を覚えながら、伊織は腰を落として一撃必殺の構えを取った。
改めてその妖気を漂わせる相手を見つめる。
“・・はっ・・・!!!”
伊織の目が驚愕に大きく見開かれた。
「しっ、静さまっ!!」
伊織は思わずその名前を呼んだ。羅紗姫が驚いて伊織の顔を見る。
「す、水月。こやつのことを知っておるのか・・?!」
美夜叉も背中から水月に問いかけた。しかしその問いかけにも水月は表情を変えず、憂いを含んだ瞳を伏せたままだった。
伊織は我を忘れて一心に水月の顔を見つめる。
やがて水月はゆっくりとその眼差しを上げた。
「いいえ、知りませぬ・・。このような者には、会ったことも・・・ありませぬ。」
感情の無い陰鬱な声が響いた。
「しっ、静さまっ・・・・!」
驚きと悲しみに見開かれた伊織の目を見ながら、水月は続けた。
「伊織とやら・・・。何を血迷うておるのか知らぬが、そのままでは戸惑うたまま冥土へ向かうことになる。・・・参るぞ・・・。」
水月の反りの入った刀が音もなく抜き出され、蝋燭の炎にきらめいた。
「静さまっ!待って下さい!!」
その叫びも耳に入らぬが如く、大刀を右手に下げた水月は滑るように伊織に近づいていく。
「待てっ! 水月っ!!」
居合を案じた美夜叉の叫びにも、伊織は大刀を抜くことさえ出来ない。
伊織の肩先に目にも止まらない速さで水月の大刀が輝きを放った。
反射的に身を反らせた伊織の身体は、辛うじてその刃を避けて板張りに転がった。
その勢いで灯っていた蝋燭が倒れ、小さな炎が板張りに広がる。
水月の二度目三度目の太刀を、伊織はただ身を転がして逃げ回るばかりである。
四度目の太刀が袖を切り裂いた時、もう伊織の背中は板戸に詰まって逃げ場を失っていた。
水月の大刀が何故かゆっくりと頭上に振り上げた。その瞬間、
「伊織様っ!!」
両手に懐刀を握りしめた羅紗姫がその間に飛び込んで行く。
身を交わした水月の大刀の柄が姫の脇腹をえぐった。
身を丸めた姫の上に水月大刀が振り下ろされた時、
“ギンッ!!”
ぎらついた音が響いたかと思うと、伊織の抜いた太刀が羅紗姫の頭上で水月の太刀を受け止めていた。
精一杯の力で伊織がその太刀を跳ね返すと、水月も飛び下がって態勢を整える。
水月の後ろでは、先程倒れた蝋燭の炎が大きく燃え上がり始めていた。
伊織は両手で大刀を握りしめ、歯を食いしばって立ち上がった。それを見つめる水月の瞳が微かに輝きを増している。
水月は八双の構えを取ると、何故かゆっくりとその太刀を伊織にかざした。
“はっ・・・、あれは静さまのお父様の・・・。”
その反りの大きい刀を見ながら、伊織の脳裏に在りし日の光景が蘇った。
「静、菊、・・この反りの大きい刀は触れただけでよく切れる。相打ちに近ければ、この刀は先に相手の身体を走るのだ。ははは、太刀捌きの上手な静が使えば天下一品じゃ。では菊、お前も負けずに達者だが、そのような相手の時、お前ならどうする? ・ふふふ、分からぬか? ・・・菊、そのような時は・・・。」
「・・・そのような時は・・・。」
伊織が口の中に小さく呟いた時、水月の顔が微かにほほ笑んだように見えた。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで水月の刃のきらめきが袈裟懸けに伊織を襲った。
伊織は我知らず片膝をついていた。
目の前に突き出した両手の先で、伊織の大刀の輝きが水月の身体を貫いていた。
「き、菊・・・、見事・・・。」
呆然とした伊織の目の前で、大刀を腹に抱えたまま水月の身体がゆっくりと崩れ落ちていった。
我を忘れて身を起こそうとした時、
「あっ!!」
伊織は右肩を襲った激痛に身を転ばせた。
美夜叉の大刀が不意を衝いて伊織の右肩を襲ったのである。
伊織は必死で水月が落とした大刀に手を伸ばしたが、その右手は痺れて、もうそれを掴むことさえ出来なかった。
「これが最後じゃ、覚悟せい!」
無念の思いで見上げた伊織の頭上に、美夜叉の大刀が振り下ろされる。
「ぐっ・・・・!!」
右手で刀を振り上げたまま、詰まった呻きと共に美夜叉の動きが止まった。
「ぐ・・・、な、何故・・・水月・・・・。」
自分の身体から抜き放った水月の刀が、背中から美夜叉の身体を貫いていた。
必死に刀を握りしめ背中に縋り付きながら、水月は喘ぐ様に美夜叉に語りかける。
「はあ・・・、び、美夜叉さまは・・・どこまでも、わ、私と一緒だとおっしゃいました・・。どうか・・・どうか・・このまま・・私と一緒に・・・。」
震えながら絡み合って佇む二人の周りでは、もう天井にも届くように炎が燃え上がっていた。
バチバチと弾ける様な音を立てて、燃えついた天井が落ちかかる。
美夜叉は水月の言葉を聞くと、その右手の大刀を力なく落とした。
ゆっくりと目を閉じ、振り向いてきつく水月の身体を抱きしめる。
そんな様子にお美代は必死で身を転ばした。
投げ出された水月の大刀まで転がると、その刃に後ろ手を押し付けて縄を切ろうとする。
指が切れる痛みを我慢して押し付けた先で、縄の力がふっと緩んだ。
身を弾ませて後ろ手の縄を解くと猿轡を外す。
「伊織様っ! しっかりしてっ!!」
呆然としたままの伊織に駆け寄るとその名を呼んだ。
頭の上からは、もう燃え付いた天井の炎が次々と降りかかってくる。
「ああ・・、お美代ちゃん・・。」
その声にやっと伊織は我に返った。
「ここはもう燃え落ちますっ! 姫はあたしがっ・・・、さあっ早くっ!!」
やっと伊織を起すと、お美代は倒れた姫の身体を担ぎ上げる。
必死で部屋の板戸を出た時、中の天井がみるみる大きな音を立てて崩れ始めた。
思わず伊織が振り返ると、抱き合った美夜叉と水月の姿が炎の中に消えていった。
「伊織様っ、早くっ!早くっ!!」
左官の手伝いで鍛えたお美代は、姫の身体を担いで階段を下りながら叫ぶ。
やっと山門の外に逃げ出した三人の身体を激しい雨が叩いた。
「山門が崩れる。もっと遠くにっ!」
お美代の叫びに導かれるように、伊織はよろめきながら走った。
“ズズ~ン!!!”
地を揺るがす音に二人が振り返ると、土砂降りの中で炎を吹き上げながら山門が崩れ落ちた。
江戸の長屋の娘お美代は、戦いの最後に伊織と羅紗姫の命を救ったのである。
「はあっ・・・はあっ・・・、お、終わった・・・。」
激しい雨に全身を打たれながら、伊織はがっくりと両膝を付いて呟いた。