下げた野田太郎の後頭部と背中を一瞥したのち、志摩子は隣に座す相馬禮次郎を見遣った。
志摩子、相馬、それに東中 昂(ひがしなかこう)の三人はこの順に並んで座し、共に床の間に背を向けていた。中央が相馬。相馬の右隣りが志摩子、左隣が東中。
野田太郎は、この三人に向かい合い、畳に両手を突いて深々と頭を下げたままである。
志摩子は、そのまま相馬に声を掛けた。
「あの、旦さん……」
「なんや」
「今のお話ですけんど……」
聞いた相馬禮次郎は、とりあえず目の前の野田太郎に声を掛けた。
「おい太郎、もうええぞ、あっちゃで控えとれ」
「へい」
ようやく顔を上げた野田太郎は立ち上がり、も一度頭を下げ、先ほど居た入り口の板戸のあたりに向かって歩き始めた。その背に、再度相馬の声が掛かる。
「そっちやない」
一瞬振り向いた野田は、直ぐに顔を戻し相馬の見遣る先に目を遣った。座敷奥の金屏風の、野田から見て左の端、道代の控えるあたりを相馬禮次郎は見ていた。
野田は直ちに左斜めに向きを変え、今、確認した相馬の視線を辿るように部屋の奥に向かった。
その背に、相馬の声が掛かる。
「せや、そのおなごし(女子衆)の横に控えとれ」
野田太郎は、金屏風の隅に座す道代の脇に歩み寄り、道代に寄り添うように、その脇に座り込んだ。正座である。
道代は、その太郎に目を遣るでなく、声を掛けるでも無く、そして志摩子を見遣ることも無く、宙に目を泳がせていた。
野田の動きを目で追っていた志摩子の目には、当然道代の姿も入る。先ほど気付いた道代の、普段に比べどことなく異なる様子が、相変わらず気に掛かる志摩子だった。
(みち……)
いったいどないしたん、と考える志摩子に、相馬の声が掛かった。
「分ったな、小まめ」
一瞬言葉に詰まる志摩子だったが、直ぐに、体勢を立て直そうというような口調で相馬に答えた。
「せやかて旦さん、うち、もうちょと(もう少し)……芸妓に……せめて襟替えさしてもろて、芸妓にならしてもろて、もうちょと、芸に励みとおす」
「ほないなもん、なんぼやたかて切り無いやないか」
「…………」
「まさかおまん、死ぬまで芸妓やろてなこと、思とるわけやないやろ」
「そらあ旦さん……」
相馬禮次郎は、志摩子から東中 昂(こう)に顔を振り向けた。
「東中はん」
「む」
「例のもん、ちょと出してくれはるか」
東中 昂は自らの背後、床の間に上体を捻じ曲げた。地袋(じぶくろ)の戸を引き開け、中から数冊の書類を掴み出した。無造作に相馬に突き出す。
「ほれ」
「ほい」
受け取った相馬禮次郎は、その書類をそのまま志摩子に差し出した。
両手で、捧げ持つようにした志摩子は、まず表紙の文字を眺めた。何やら書いてあるが、ほとんどが漢字。
おずおずと一枚目をめくる。一気に文字が小さくなるが、やはりほとんどが漢字。意味を掴むどころか、そもそも志摩子には読むことすら出来そうになかった。書類から顔を上げた志摩子は、呆然と相馬を見遣った。
「旦さん……」
「どないや」
「どないもこないも旦さん、何書いたあるんやら、うちらにはさっぱり……」
相馬は杯を手にした。
志摩子は書類を脇に置くと、徳利を取りあげ相馬の杯を満たした。
相馬禮次郎は軽く、舐めるように酒を口にした後、杯を手にしたまま志摩子を見遣った。
「ほれはなあ、今話した先斗町(ぽんとちょう)の店、ほれの土地たてもん(建物)の権利書や」
「けんり、しょ」
「ちょと、貸してみい」
手の杯を膳に置き、志摩子が差し出した書類を受け取って、しばらく弄っていた相馬は、目的の部分を見つけたか、開いたままの書類を左手で支え志摩子に突き出した。右手の人差し指の先で、開いた頁の中程を指し示す。
「ほれ、ここや」
上体を軽く折り、さらに顔を書類に近づける志摩子。
相馬の指先には、竹田志摩子、の文字があった。
我が氏名を書類の中に認めた志摩子は、ぼんやりと顔を上げた。上げた志摩子の視線の先には、相馬禮次郎の笑顔があった。
いや……笑顔、というには違和感のある、志摩子にとっては何とも……いっそ薄気味悪い、と言いたくなるような相馬の表情だった。
志摩子は相馬から視線を外し、正面の金屏風を、見るともなく見た。その脇に座しているはずの道代と野田太郎の姿は、志摩子の意識には上らない。
呟くように相馬に声を返した。
「旦さん……」
「わかったか」
「え、いえ、へえ……あの……」
「竹田志摩子……小まめ、おまはんの本名やろが」
「へえ、そう……どす」
「つまりやな、この書類にある土地たてもん(建物)の所有者、つまり持ち主は、既におまはんや、ゆうことやがな」
志摩子の目が泳いだ。
正面の金屏風と、頭上の金色の格天井。
輝く金色(こんじき)に包まれた志摩子の意識は、ふい、と現実感を無くした。
自らの左に座す、相馬禮次郎。
相馬のその、さらに左に座す東中(ひがしなか)……昂(こう)。
座敷の向こうに控える……はずの……道代。
その横に居並ぶ……。
(はて、あのお方)
(名は……なんちゅうたかいなあ)
この座敷にいるはずの、自ら以外の人間の気配が、志摩子の意識の内で……希薄になってゆく。
(うちが……女将)
(先斗町の……)
(先斗町ゆうたら)
(祇園の……川向う)
(祇園に並ぶ花街)
(そこの、料理屋の)
(うちが……)
(うちが、女将)
(一店の……女将)
夢見心地、とまではいかないが……舞妓、舞い、お座敷……襟代え、芸妓、芸……。
これまでの来し方と、先行きの生き方。そんなものが、流れるように志摩子の脳裡を行き過ぎた。
その、これまで思い描いてきた先行き、それとは全く異なる生き方をいきなり示され、戸惑うしかない志摩子だった。
嬉しいのか、哀しいのか、夢を見せられているのか、夢から覚めさせられたのか。自らの気持ちがわからず、非現実感の中を彷徨う思いの志摩子だった。
(なんやろ)
志摩子は、右の膝先の下に何やら違和感を覚えた。座している畳と、自らの膝先の間に、挟まっているものがある。
志摩子は、首を下に向けた。舞扇(まいおうぎ)だった。
(あ…………)
志摩子は両手を伸べ、膝の下から舞扇を引き出した。扇を持った両手を、正座の腿の上に置く
(うちは、舞妓……)
(襟代え済まして、芸妓に……)
(うちは……)
志摩子に現実感が戻った。
顎を引く。
身と意識を包んでいた金色の光が薄れる。
座敷内をしっかり見つめ直す。
左横に座す相馬禮次郎。
相馬を挟んで座す東中 昂(ひがしなかこう)。
正面に金屏風。
屏風の左隅に並んで控える道代と、野田、太郎。
志摩子は軽く上体を左に捻り、相馬禮次郎を見遣りながら声を掛けた。
「ほんでも旦さん、うち……うち、今日のこのお座敷、うちの襟替えの相談やあて、おかあ(母)はんに聞かされてきましたえ」
志摩子は舞い続けた。
東中 昂(ひがしなかこう)の朗々とした唄声も続いた。
舞が唄を引き出すのか。
唄が舞を励ますのか。
志摩子は、さほど広くもない座敷の内を、自在に舞い続けた。
東中の唄声は、志摩子の舞いに、これも自在に絡み、部屋いっぱいに響き渡った。
♪夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字
祇園恋しや だらりの帯よ
♪鴨の河原の水やせて
咽ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
東中 昂の唄声は、ここで途切れた。
ここで唄が終わる。
何の合図も無かったが、志摩子にはそのことが分かった。
(3番までか……)
祇園小唄は4番まであり、それぞれ春夏秋冬の祇園の情景を詠んでいる。
(秋までか……)
(冬は……4番は……)
唄いはらへんのやなあ、と心中で思いながら、志摩子は何の無理もなく、流れるように身を捌いて舞を終えた。
相馬禮次郎と東中 昂(ひがしなかこう)に向き合い、正に座す。畳んだ舞扇を膝前の畳に置く。志摩子は畳に両手の指を突き、深々と頭を下げた。
「お粗末さまでございました」
下げる志摩子の頭越し、相馬禮次郎が叩く両手の音と、称賛の言葉が行き過ぎた。
「いやあ、見事見事。相変わらず、大した腕やのう、小まめ」
「おおきに、ありがとさんで御座います」
「祇園の舞妓小まめ、ここにあり、ゆうとこやな」
「と、とんでもおへん(ありません)」
「よっしゃ、こっち、おいなはれ(いらっしゃい)」
「へえ」
志摩子は、変わらず屏風の脇にひっそりと控える道代にちら、と目を遣った。
道代はこちらも正に座し、両手は膝の上。顔は俯け、志摩子を見ることも無く、無言で控えている。いつものと云えばいつもの道代なのだが、志摩子はふと違和感を覚えた。
(何やいな、道)
(いっつもやったら、もうちょっと……)
無言の内にも、うち(私)の舞いを称える素振りを示すのだが、と訝しく思いながら、志摩子は相馬と東中の前に戻り、ゆったりと座した。
改めて頭を下げる。
「おおきにー」
相馬禮次郎が、手の杯を志摩子に突き出した。
「ほれ、一杯やんなはれ」
「へえ、おおきに」
東中 昂(こう)が、こちらは無言で徳利を突き付けてきた。
志摩子は両手で支えた杯で、東中の酌を受けた。飲み乾す。少し迷ったが、杯を相馬禮次郎に戻そうとした。
「儂やない、東中はんや」
「え、しやけんど……」
東中 昂は酒をやらない。
先ほど相馬に聞かされたのを思い出し、志摩子は迷いながら手を止めた。
その志摩子に、相馬が言葉を継いだ。
「東中はんは確かに酒はやらんのやが……まあ、固めの杯、ゆうとこやな」
「……へえ……」
不得要領に言葉を返しながら、志摩子は東中 昂(ひがしなかこう)を見遣った。空の手を、志摩子に突き出している東中がいた。
志摩子は、手にした杯を東中に差し出した。
無言で受け取った東中に、志摩子はすかさず酌をした。
東中 昂は、変わらず無言のまま、受けた酒を見遣りもせず、杯を膳に戻した。
入口の板戸が開いた。
思わず振り返った志摩子の目に、白い上下の料理人服の男がのっそりと入室する姿が入った。
(まだお人、おいやした〔御出でになった〕んか……)
どう見ても料理人のその男は、これまで厨房にいたのだろう。。
(ここの……)
(調理場て……どこにあるんやろ)
道代に聞けばわかるのだが、と志摩子は道代に目を遣った。
道代は変わらず目を伏せ、ひっそりと屏風の脇に控えている。
新たに入室してきた男は、入口の板戸を閉じ、そのままその場に控えた。身の丈はさほど無い。志摩子や道代とさほど変わらないだろう。だが、その体躯は太かった。
(何や、縦より横の方が大きそうな……)
(うちの倍からあらはる〔倍ほどもおありになる〕ような……)
そんなことを考えた志摩子の気分は、少し柔らかくなった。巧まずして人の気持ちを和らげる、そんな気分にさせるその男の見掛け、居住まいであった。
「あの……旦さん……」
取り付く島もない、という風情の東中にではなく、志摩子は相馬禮次郎に声を掛けた。
「なんや」
「あのお人は……」
志摩子は、入り口を入ったところに無言で座す、料理人風の男を見遣りながら、それだけを口にした。
それだけで志摩子の意図は通じたのだろう、相馬禮次郎は軽く返した。
「ああ、あれは祇園の料理屋の料理人や。下っ端やけんど腕はええ。今回、東中はんだけで十分に手は足りたんやけんど……今後のこともあるし、いっぺん顔合わしといたほうがええやろ、思(おも)てな。てったい(手伝い)も兼ねて呼んどいたわけや」
相馬禮次郎の口は滑らかに動いた。
(今日はなんや……)
(よう喋らはるなあ)
もっと寡黙な男ではなかったか。さほどその人となりは知らぬながら、これまでとは異なる印象を相馬に持った志摩子だった。
「紹介しとこか。おい、太郎」
相馬禮次郎はまず志摩子に、少し声を高めて料理人姿の男に声を掛けた。
男は顔を上げ、即答した。
「へい」
「ちょと、こっちゃこう(こちらに来い)」
「へい」
男はまず短く返答し、遅滞なく立ち上がり、こちらに向かって来た。
志摩子は相馬禮次郎の横に身を移すと、近づいてくる男を目で迎えた。
(まるで、立った熊があるかはる〔お歩きになる〕ような……)
熊が立って歩くところなど実際には見たことは無いのだが、そんな印象を男から受けた志摩子だった。
相馬、志摩子、東中に向き合い、数歩の間を空けて男は座した。とりあえず深々と礼をする。下げた頭を上げながら、男は一言。
「へい、旦さん」
その体躯と同様、男の顔も太かった。その座す風情は……、
(だるまさんのおにんぎょ(お人形)みたいやなあ)
さらに気分が和らぐ志摩子だった。
「おい、小まめ」
男を見遣りながら、横の志摩子に声を掛ける相馬禮次郎だった。
「へえ、旦さん」
「こいつはな、祇園の料理屋で働いとる太郎、野田太郎や」
男、野田太郎は無言、改めて深々と礼をした。
「店は……小まめ、おまはんとこのすぐねき(傍)やで」
野田太郎の勤める料理屋は、小まめの志摩子が所属する置屋の程近くにある、と教える相馬禮次郎だった。
「へえ、野田はん、どうぞよろしゅうに」
聞いて野田太郎は更に頭を低くした。額を畳に擦り付けんばかりである。
相馬禮次郎が声を掛けた。
「まあ、顔、上げ〔上げなさい〕」
「へ、へい」
返答はしたものの、満足に顔の上がらない野田太郎だった。
「のう、小まめ」
「へえ、旦さん」
「この機会にのう、おまんに店一軒、持たそ思とんねん」
暫し志摩子は絶句した。
隣に座す相馬を見遣る。
「お店て、旦さん……」
「おまんも、いつまいでも芸妓・舞妓稼業も無いやろ。店の一軒も持ってやな、女将稼業ゆうのんはどないや」
「どないて、旦さん……」
「実はのう、もう場所と店舗は見つけとるんや。料理屋や。場所は先斗町、祇園から見たら川向う、ゆうとこやな。
経営なんぞはおまんが心配することなんも無い。儂がみいんなやったる。おまんはほこ(そこ)の奥座敷に納まっとりゃええんや。厨房はこいつ、野田がちゃんとやりよる」
志摩子には初耳だったが、野田は聞かされていたのだろう。再び深く頭を下げる野田太郎だった。