2016.8.18(木)
二階の窓から裏山の檜越しに小さなお社の屋根が見えた。
「う……ん………、ずいぶん外れまで来たな……」
大きく伸びをした伊織はそうつぶやいた。
畳に荷を降ろしながらお蝶が顔を上げる。
「ええ、いいお風呂を探して歩いたら、ついつい山あいまで来てしまいましたね。でもいいじゃありませんか静かな宿で」
「うん、まだまだ若狭まで道も半ば……。久しぶりにゆっくり風呂に入って、今夜は旅の疲れを取るとしよう……」
そう言って伊織が山里の景色を見回したとき、
「ん………?」
檜林を走り抜けてゆく数人の人影が見えた。
目を凝らして林の隙間から先を窺うと、神社の境内に相当数の人が集まっているようである。
「あ! いかん!」
慌てて大小を掴むと、伊織は部屋を走り出ていく。
「伊織様、どうしたの!? ねえ!」
そんな伊織の様子に、お蝶も慌ててその後を追った。
「黙って宿場を出ればよし、また町中に戻るつもりならこのままでは済まさぬぞ」
師範代の低く殺気を帯びた声が、夕闇の迫る裏山に染み渡る。
「私を脅されるおつもりか……。もう手合わせにはこだわっておりませんでしたが、そのような無礼な申されようには、返って素直に承服する気持ちにはなりませぬ」
まだうら若い女は、眉も動かさずそう言い放った。
「なに!」
師範代が大きな声を出すと、女を取り巻いた十名余りの門弟たちも色めき立って身構える。
「愚かな。意地を張ったばかりに、どうなっても知らぬぞ!」
女は静かに長刀を手繰ると、鞘の紐を解いた。
「何やら私も気分が悪うなりました。竹光とはいえ、そちらも怪我されぬようご注意召されよ」
周囲に油断ない視線を巡らせながら、くるりと回った長刀が両手で腰の高さに止まった。
「女ごときで生意気な。構わぬ、思い知らせてやれ!」
殺気だった叫びが終わらぬうちに、門弟の一人が上段から切りかかっていく。
その刀を柄で振り払って、そのまま長刀の刃が門弟の額を叩く。
「があ!」
門弟の額が血を吹いて、その身体が前のめりに境内の小砂利に倒れ込んだ。
さらに切り込もうとする二人を風を切った長刀が押し返すと、横から突きかかってくる一撃から素早く身をかわす。
とうやく踏みとどまった相手の横腹に長刀の柄がめり込み、門弟の一人はその場にうずくまった。
「ええい何をしておる。後ろからでも構わぬ、同時に打ち込め!」
師範代の怒声が夕闇に響き渡る。
女が長い髪を振り乱して身構えた時、
「まて、まて!!」
そう叫びながら門弟の間をすり抜けて、陣内伊織が輪の中に走り込んだ。
伊織を追ってきたお蝶は少し手前の木の陰に身をひそめる。
「おそらく先ほどの他流試合の因縁であろう。しかし女一人に大の男が大勢で、師範代、恥ずかしくは思わんのか!」
そうなじられて、師範代は突然現れた伊織に目をむいた。
「うるさい! 恥をかかされたまま捨ておくわけにはいかん。余計な横やりを入れると、おぬしもこの女と同じ目にあうぞ!」
「こう理屈が分からねばいたしかたない。本意ではないが……」
そう言って伊織が刀に手をかけた時、女の口が開いた。
「助太刀は無用。どうぞお引き取りください」
驚いて伊織は女の顔を見る。
「しかしこれでは、いかにも多勢に無勢。礼儀をわきまえた立ち合いではない以上、あなたが不利なことは目に見えている」
額に垂れた長い髪を首を振って払うと、女は二重瞼の澄んだ瞳を伊織に向ける。
「殿方とはいえ、あなたの様な優男に怪我されても心苦しい。どうかお立ち去り下さい」
思わずお蝶は木の後ろから半身を乗り出した。
“まあ、何て言い草だよ、あの女”
しかし呆気に取られて二、三度瞬きした後、伊織の表情に苦笑いが浮かぶ。
「なるほど……。しかし足手まといになるかどうか、暫時その目でお確かめください」
一転してその顔を険しくすると、師範代の前に足を進める。
「うぬ! 構わぬ、一斉にかかれ!!」
そう叫んで師範代が刀の柄に手をかけた時、目にも止まらぬ速さで抜き放たれた伊織の大刀が、三寸ほど引き抜かれようとしていた師範代の刀を揺るがした。
そのまま握りなおした刀の背が、師範代の手首で鈍い音を立てる。
「あ……!」
長刀を構えたまま声を上げた女の目の前に、片手を抱き込んだ師範代が倒れ込んだ。
周りの門弟が血相を変えて伊織に切りかかろうとした時、
「うが!!」
突然目や頭を押さえた門弟たちが、砂利の上に尻餅をついた。
「お蝶、無駄な殺生をしてはならんぞ!」
「わかってますよ。こいつらにゃあ、これで十分」
もう林の前に姿を現したお蝶が、片袖を掴んで白い腕を見せた先には、境内に敷かれた小砂利が握られていた。
「どうだい? 境内で刀を抜いて当たった罰は痛かったろう?」
お蝶の声にうなづいた伊織が、門弟たちに向かって口を開く。
「これ以上けが人を増やしても無駄なことだと思わぬか。この人ももう町には戻らぬよ。我々も明日の朝一番に西へと旅立つ。早くけが人を連れ帰り、手当てをなされた方が賢明だと思うが」
門弟たちは互いに顔を見合わせた後、師範代をはじめ倒れたけが人を担いでそそくさと林の外に消えていった。
門弟たちの姿が見えなくなったのを見届けると、女は伊織の方に向き直った。
「助太刀いただき、有難うございました。私、会津の国を出て武術の修行をしております、帯刀紫乃(たてわきしの)と申します」
両頬に垂れた長い黒髪の間で、少し優しさをたたえた瞳が輝く。
「いやいや、私こそご心配いただきかたじけない。浪人、陣内伊織と申す」
それを聞いたお蝶が横目で伊織を睨む。
“まったく、ちょっときれいな方だと上手が言えるんだから”
「それからこれは……」
「あ、あはは、連れ合いのお蝶です。よろしく……」
お蝶は慌てて襟元を直すと、寄り添って片手で伊織の袖を掴んだ。
「ははは、いえ、その、私の身の回りの世話を………」
顔を紅潮させてこめかみに血道を浮かべたお蝶をよそに、伊織はお蝶の手から袖を引きながら続ける。
「しかし、若い女人が何故このようなさみしい場所に……?」
初めて恥じらいに近い表情を浮かべた紫乃は、その長い眉毛を伏せる。
「この宿場にて、その……、手元不如意となり、今宵はこの神社の軒先をお借りしようと……」
伊織はお蝶と顔を見合わせる。
「な、なに、そのようなことでしたか。それなら私たちと同宿なさらぬか」
「いえ、そのような……」
「なに遠慮は無用です。このような寂しい場所で若い女人が……。なあ、おちょ……」
唇を噛んで目を怒らせたお蝶から慌てて伊織は目を逸らす。
「そう堅苦しくお考えにならずとも、夕餉でもいただきながら、修行のお話をお聞かせ願えぬか」
「ええ、いや、しかし……あ!」
そう呟いたと同時に腹の虫が鳴って、紫乃の顔がみるみる赤く染まり上がった。
「ははは、まあ紫乃殿、先ずはこちらへ。さあお蝶、参ろうか」
呼ばれたお蝶は下唇を白い歯で噛むと、肩を並べて宿に向かう伊織と紫乃の背中に小砂利つぶてを投げる真似をしたのだった。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2016/08/18 07:58
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よかですねー
こういう時代劇、見てみたいです。
リタイヤしたら、時代劇チャンネルを契約して、毎日見ようかな。
これは前に話したかも知れませんが……。
海外では、若山富三郎の『子連れ狼』が、昔から高評価だったそうです。
若山さんの殺陣と血しぶきに、外人は度肝を抜かれたんですね。
『キル・ビル』を撮ったタランティーノもファンだそうで……。
なんとついに、『子連れ狼』が、ハリウッドでリメイクされるとか。
これをきっかけに、日本でも時代劇ブームが起きると面白いですね。
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2. 剣客商売ハーレクイン- 2016/08/18 17:48
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時代劇
わたしは座頭市ですね。主演はもちろん勝新太郎。
あの、何のバックも持たない、味方もいない、で、アウトロー。
しかも型破りの剣(仕込み杖、か)捌き、無類の強さ。
たまりませんね。
これは作品内で聞いた話ですが「座頭」というのは一般に盲目の法師。で、按摩・鍼灸を生業にする者も一般に座頭。その座頭には「市」と名乗るものも多いとか。
で、数人の座頭の一人曰く「ここにおる者、みいんな座頭市でございます。へっへっへ」
♪およし~なさいよ~無駄あ~なーこと~
少し前に「女座頭市」という映画を見ました。主演は綾瀬はるか。
子連れ狼もやっときましょう
♪帰らぬちゃんを待っている ちゃんの仕事は刺客ぞな
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3. Mikiko- 2016/08/18 19:49
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座頭市
どーもわたしは、気持ち悪くて好きになれません。
剣士はやっぱり、美形でないとね。
↓田村正和の法月弦之丞(のりづきげんのじょう)とか。
http://ameblo.jp/yojiro/entry-11963373072.html
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4. 受けてみるかHQ- 2016/08/18 23:52
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↑もちろん、円月殺法
時代劇はやはり柴錬、柴田錬三郎でしょう
美形ねえ
まあ、それは「好きにしなはれ」。
で、美形剣士ときますとやはり↓このお方。
ご存じ、円月殺法・眠狂四郎。
あ、田村正和じゃなくって、市川雷蔵の方。
なんつったって「市川」でっせ。
「時代劇専門チャンネル」でどうぞ。
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5. Mikiko- 2016/08/19 07:45
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眠狂四郎
原作者の柴田錬三郎は……。
雷蔵より田村正和(テレビドラマ)の方が、狂四郎のイメージに近いと言ってたそうです。
狂四郎はハーフという設定ですから、当然でしょう。
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6. 助監督ハーレクイン- 2016/08/19 12:18
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雷蔵と正和
往々にして(ていうか、ほとんどの場合)、原作と映像は異なるものです。極端な話、全く別物になっています。
わたしが原作者だったら、絶対に映像化は許可しないね(そんな心配、未来永劫不要だ)。
それはともかく。
これはかなり以前に書きましたが、『由美美弥』を映像化するとして、ぜひ採用していただきたい場面が三つあります。
まず、第41章:美弥ちゃんの『黒いローファーの少女』 セミの声が聞こえてくるようです。
第73章:由美ちゃん・美弥ちゃんの『木漏れ日の小径』 美しいおしっこシーンが鮮烈。
第104章:由美ちゃん『雨に唄えば』 オレンジ爆弾が秀逸。
誰か撮ってくれんかのう。
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7. Mikiko- 2016/08/19 19:51
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オレンジ爆弾は……
梶井基次郎の『檸檬』からの連想じゃなかったでしょうか?
人ごとのようですが、ほんとに覚えてないのです。
その前の2章に至っては、「誰が書いたの?」という領域。
しかし、梶井基次郎の顔と文章のギャップは強烈ですよね。
あんな北京原人みたいな顔で、どうしてあそこまで透明な文章が書けたんでしょうか。
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8. ここはどこ?HQ- 2016/08/19 21:44
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↑わたしはだれ?(Mikiko)
梶井基次郎
正月の余興じゃあるまいし、顔で書くわけではなかろうがよ。
>……連想じゃなかったでしょうか?
知らんよ、そんなこと(北珠恵)
>誰が書いたの?
情けないのう。
わたしは、自分の書いたものは隅から隅まで、当該ページまで覚えておるぞ(大ウソ)。
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9. クーラー- 2016/08/20 09:18
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復活してる!嬉しすぎます!!
ふたなりが醜い女達に嬲られて露を根こそぎ奪われて欲しいです!(笑)
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10. Mikiko- 2016/08/20 12:12
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涼し気なハンドル……
ありがとうございます。
嗜好が、かなり特殊でいらっしゃるようです。
そういう方にとって、ツボにハマる小説は貴重なんでしょうね。
ご安心ください。
すでに、10月いっぱい分までの原稿をいただいております。