2016.8.4(木)
伊織とお蝶が江戸を旅立ってから八日が過ぎようようとしていた。
ようやく険しさを緩めた甲府道の右手には、初夏の日差しに諏訪湖の水面が輝いている。
やがて湖にこじんまりと突き出した松林を見つけると、二人は木陰を求めて脇道へと入って行く。
「はあ……、いい景色だこと……」
鳥追い傘を脱いだお蝶は、汗の伝う首筋に手拭いを使いながら目を細める。
「お蝶……、少し疲れたか……?」
珍しくその表情を緩めると、伊織はそうお蝶に問いかけた。
「いいええ……、鈍った体の鍛え直しにゃ手頃な道中でさ。伊織様こそお御足は大丈夫?」
「先達ての山道には苦労したが、おかげでもう慣れて参った」
伊織はそうお蝶に答えながら、目の上に片手をかざして湖の向こうに涼やかな視線を巡らせた。
二人はその目的のため、多少険しくても甲州道を経て若狭を目指していた。
美津の話では、根来一味は小浜という港町に身を潜めているらしかった。
しかし裏で地元の貸元と繋がっているところをみると、単なる金目当てのかどわかしと違って、若をさらったのには何か別の訳がありそうな気がする。
若を人質に取られている以上正面からの奪還は難しく、伊織には何か別の手立てが必要に思われた。
「さあ、もうすぐ中山道に出ますよ。今夜は下諏訪で宿をとりましょうか」
お蝶の声に伊織は顔を上げた。
「うん、そうだな」
元気に立ち上がるお蝶に、伊織は優しい微笑みを向けた。
「まあ嬉しい。やっと伊織様がお笑いになったんですもの……」
お蝶から面映ゆく顔を逸らして、伊織は再び歩き始める。
急いで伊織の後ろで歩みを合わせながら、お蝶はその背中に語り掛けた。
「下諏訪で宿を取ったら、その髪をお解きになって久しぶりに女同士でお風呂にでも入りましょうよ」
「ん……? 別に女同士で入らずとも、お前はゆっくりお湯を使えばいいではないか」
そう答えて数歩進んだ時、お蝶の返事がないのに伊織は後ろを振り返った。
もう三、四間も後ろに、背中を向けてじっと諏訪湖を見つめるお蝶の姿があった。
急いで後もどると伊織はその背中に声をかける。
「どうしたのだ? 突然立ち止まって……」
「だ、だってたまには優しくしていただきたいのに、そんな素気無いことおっしゃるんですもの……」
慌てて伊織はそんなお蝶の背中に声をかける。
「そ、そうだな……。わかりました、今夜は一緒にお風呂を使いましょうね」
途中から女の声に変った伊織の様子をうかがうと、途端にお蝶の顔に悪戯っぽい笑みが浮んだ。
肩こそすくめなかったが、色っぽい唇から桃色の舌を覗かせる。
「あはは嬉しい。じゃあ早く参りましょう」
お蝶は振り返るや否や、伊織の手を引っ張る。
「あ……、まったくもう」
眉を吊り上げてそう呟くと、伊織は頬を膨らませた。
手を振り解いて歩いていく伊織の背中を、お蝶は笑い声を上げて追ったのである。
その日の夕刻、伊織とお蝶は下諏訪の宿場に足を踏み入れた。
宿を探して歩く二人の前方に、ある屋敷の小窓を覗き込む数人の人だかりが見えた。
「なんでしょう?」
お蝶のつぶやきに頷くと、伊織はその人だかりへと近づいて行く。
「何かあったのか……?」
遠巻きに中をうかがっている男に伊織はそう声をかけた。
「え? 道場破りでさあ。でもこいつは滅多にお目にかかれない成り行きですぜ」
伊織は野次馬の隙間から中をうかがってみる。
「あ……!」
思わず伊織は小さな驚きの声を上げた。
なんと道場の門下生に立ち向かっているのは、一人のまだうら若い女であった。
すらりと背の高い身体に白い合わせと紺袴を身に着け、艶のある長い黒髪に凛々しく鉢巻を巻いている
たすき掛けで勇ましく立ったその右手には、床に柄をついた大長刀が握られていた。
「伊織様、こっちこっち」
呼びに来たお蝶についていくと、路地裏の小窓に数人の子供が群がっている。
「ねえぼうやたち。あたしたちにこの場所を譲っておくれよ」
一際体も大きくガキ大将と思しき男の子にお蝶はそう声をかけた。
「いやだよ、おばちゃん。これからまだ面白いものが見れるんだから」
「おねえちゃんとお呼び。あ……あはは、じゃこれと交換じゃどうだい? これで、饅頭だってたらふく食べられるよ」
お蝶は懐から数枚の貨幣を取り出して子供らに見せる。
ガキ大将は周りの子供の顔をぐるりと見まわした後、おもむろにその相好を崩した。
「あはは、おばちゃん、じゃあゆっくり見物するといいよ」
ガキ大将はお蝶の手のひらから素早く貨幣を掴むと、周りを引き連れて走り去っていく。
「こら! おねえちゃんだっていうのに、このガキ!!」
お蝶の罵声を聞きながら、伊織は小窓の中の情景に見入っていた。
「道場主はあいにく所用で外出しておる。筆頭門下生までは後れを取ったが、最後に師範代の私がお相手致そう」
筋骨隆々とした中年の師範代は、ゆっくりと立ち上がって壁の木刀を掴んだ。
「では貴方に勝った後、明日また参れば道場主はお相手願えるのですか?」
まだ年は二十歳そこそこであろう、少し吊上がった目に鋭い輝きを宿して、鼻筋の通った下に艶やかな唇を引き結んでいる。
その凛々しさと同時に品の良さを感じさせる風情は、どこか名家の子女とも見て取れた。
「それはお約束出来かねる。ふ……いくら腕が立つとはいえ、道場主が女人と手合わせなさるかどうか……。それに、それは先ず某に勝ってからのこと。今までの門下生の様には参らぬぞ……」
師範代の言葉に少し目を怒らせた娘であったが、大きく息を吐いた後に口を開いた。
「わかりました。先ずはお手合わせを」
娘は長刀の正面に体を滑らすと、右手の下一尺ほど離して左手をその柄に添えた。
長刀の柄がゆっくりと床を離れ、木製の刃が宙に円を描いていく。
木刀を上段に構えた師範代は、その動きを追いながら打ち込む呼吸を図った。
長刀の刃が水平から上に舞い上がった時、鋭い気合と共に師範代の木刀が娘に打ち込まれる。
刃と逆の柄でその切っ先を受け流すと、風を切って刃が舞い戻ってくる。
「えーい!!」
女の甲高い気合が師範代を襲った。
さすがにその刃を受けた師範代は、飛び下がって態勢を立て直す。
娘は左手で柄を止めて、右手で刃をやや右下に鎮めた。
しかし静かなその佇まいに似ず、射貫く様な視線が師範代に向けられている。
鬼気迫る気迫に妙齢の美しさが相まって、娘の周りに赤い空気が舞い上がった。
突然再び長刀が円を描くと、舞い上がった刃先が師範代を襲う。
気合もろとも師範代がその一撃を受けに出た時、突風にでも吹かれたかの様に長刀の刃が逃げた。
相手を失った師範代の体が頼りなく前のめりに泳ぐ。
あっという間に娘の後にその刃が消えた途端、師範代の体が宙に浮いていた。
長刀の柄が跳ね上がって、両足をすくわれた師範代の体がどうとばかりに床に落ちる。
その背中を白い足が踏んだかと思うと、
「やあ!!」
娘の鋭い気合と共に、大きな音を立てて師範代の顔の横の床に長刀の柄が突き立った。
「ま、参った」
窓の外で一斉に歓声が上がる。
「お見事!」
思わず伊織も窓の外からそう声をかけていた。
「また明日、道場主様に御教授願います」
そう言うと、娘は歯噛みして睨みつける門下生の中を玄関へと出ていく。
急いで路地を出た伊織とお蝶は道場の門へと向かった。
やがて門の前に、鉢巻を外しタスキを解いた娘が姿を現す。
すらりとした体形に長い黒髪を後ろで結んで、立てた大長刀を脇に携えている。
伊織とお蝶がじっと見つめる中、その視線を感じたのかふと娘が振り向いた。
その腕前に尊敬の念で見つめる伊織を、娘の透明な眼差しが捕える。
小さく頭を下げると、娘は踵を返して去っていった。
「ふう、きれいな方ですねえ……」
「うむ、しかし腕は確かだ」
「明日は道場主に見参って寸法ですね。もう一度見物したいとこだけど、先を急がなきゃねえ……」
お蝶の言葉を聞いた伊織は、その細い顎に片手を添える。
「うん……。だがその前に、少々気になることがあるが……」
「気になることって……?」
「い、いや何でもない。取り越し苦労かもしれん」
そんな伊織の風情を不思議に思うお蝶だったが、すぐに笑顔になると口を開く。
「そんなことより、早く宿を見つけましょうよ」
「ああ、そうだな」
二人は宿を求めて再び歩き出す。
「ねえ伊織様、宿に着いたらご飯になさる? それともお風呂……?」
「うん……、さあどちらでもよいが……」
伊織の気のない顔つきに、ついお蝶は色っぽい眉を寄せる。
「どっちでもいいって……。ねえ、お風呂? でもご飯を先に食べたほうがゆっくりと入れそうだし……。ねえどっちってば?」
「どちらでもいいと言うのに。お前のいいようにしろ」
あきれた伊織はさっさとその足を速めた。
「まあ、なんて冷たい人。あたしに決めさせるなんて。ちょっと待って!」
「早く歩きなさい」
「久しぶりだからあたしだって心の準備があるのよ。ねえってば! もう、いじわる!」
もう日も傾きかけた下諏訪の街に、そんな問答と共に二人の姿が消えていった。
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2016/08/04 19:57
-
中山道
東海道と平行して、江戸と京都を結ぶ街道です。
長さは、508㎞。
対する東海道は、492㎞。
東海道は道も険しくないし、誰でもこちらを選びそうですが……。
実際には、中山道を選ぶ人も多かったそうです。
というのも、東海道には、大きな川がいくつもあるからです。
橋はありませんから、人夫に担がれて渡らなきゃなりません。
増水すれば、当然、足止めです。
つまり、日程が読めなかったんですね。
中山道は、道も険しく距離も長いけど、予定通りの旅が出来たわけです。
-
––––––
2. ぼくのエロ本HQ- 2016/08/04 23:04
-
中山道
というタイトルのエロ小説を読んだことがあります。
活字ではありません。
ガリ版摺りに、綴じは大型のホッチキス。紙は……わら半紙、だったでしょうか。字はもちろん手書きの縦書き・右書き。
わたしの父親が隠し持っていたものでしたが、由来はもちろんわかりません。
内容は全く記憶にありませんが、時代ものでした。
最後の一行を覚えています。
「**(女性主人公の名前)は性的衝撃を受けたのだった」
衝撃にはシャウゲキとルビを振ってありました。
父親のをパクったわたし、しばらく隠し持っていたのですが、いつの間にかどこかへ行っちゃいました。親父に取り返されたかな。
母さん、僕のあのエロ本、どうしたんでせうね?
-
––––––
3. Mikiko- 2016/08/05 08:04
-
中山道は……
徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮の行列も通りました。
中山道とエロで連想されるのは……。
やっぱり、雲助ですね。
籠に載せた若い女性にムラムラくるわけです。
↓こんな雲助、いそうです。
http://livedoor.blogimg.jp/mikikosroom2008/imgs/f/2/f2943ce7.jpg
本編中の道場破りの女剣士。
『剣客商売』の佐々木三冬みたいですね。
-
––––––
4. 足軽ハーレクイン- 2016/08/05 11:49
-
こんな雲助画像
残念ながら表示されません。
乗せた娘を襲うのは、雲助の仕事の一環でしょうか。
幕末、大もめに揉めた末の和宮降嫁
道中の様子は、↓Wikiによりますと……。
「文久元年(1861年)10月20日、桂御所を出立。
東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へと向かった。
行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された。
和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。
島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれている。
同年11月15日、江戸城内の清水屋敷に入る」
ということで、日数を見ますと、25日をかけたことになります。1日当たり20㎞、5里ということですね。
中山道は67宿。別名、姫街道とも称されたとか。これは、東海道よりも難所が少ないことに由来するそうです。
-
––––––
5. Mikiko- 2016/08/05 21:49
-
雲助
こないだ投稿した、出歯亀の画像です。
また、URLをクリックしておるな。
不毛な男じゃ。
3万人。
宿泊は、どうしたんでしょうね。
とうてい、全員が泊まれたとは思えません。
野宿ですかね。
一行が発ったあとは、野糞が山のように残ったことでしょう。
-
––––––
6. おいら雲助HQ- 2016/08/05 23:03
-
>URLをクリック
しとらんって。
コピペしても「間違っています」と拒否されるんだよ。
3万人の宿泊
大部分は、地元で調達した「その日限りの人足」でしょう。宿泊の心配は不要です。野糞の心配も不要です。
「ご苦労であった、帰って良し」なーんちゃって。
しかし只働きさせるわけにもいかんし、この手の手間賃だけでも膨大な費用が掛かったろうね。
-
––––––
7. Mikiko- 2016/08/06 08:13
-
確かに……
助郷人足という名目で、地元農民などが駆りだされたようです。
↓の「8.太田宿での助郷人足の悲劇」が、興味深いです。
http://book.geocities.jp/gifurekisi/rekisi/no19..htm
-
––––––
8. おいら人足HQ- 2016/08/06 11:01
-
助郷人足の悲劇
細かいいきさつがも一つよくわかりませんが、人死にが出たようです。
しわ寄せはいつも農民に、ということでしょうか。
言ってみれば、お祝い事の一環なのにねえ。
和宮さんはもちろん、あずかり知らぬところ、なんでしょうがねえ。