2016.7.12(火)
「舐めておくれかいな、道」
「へえ、姐さん」
「お乳、舐めてくれるてかいな」
「へえ、姐さん」
「ほうか。ほら、嬉しなあ」
「姐さん……」
「あんたさっき、うちのおめこやらおいどやら、舐めてきれえにしてくれたけんど……」
「へえ、姐さん」
「お乳は、舐めてくれへんかったもんなあ」
「姐さん、お乳、お好きどすか」
「ほらあ、道」
「へえ」
「おめこいろ(弄)たりするときなあ」
「へえ」
「やっぱし、最初にいら(弄)うん、お乳やろ」
先ほど道代に、おめこを触るか、つまりオナニーをすることはあるか、と問いかけられた志摩子は「そないなこと、聞くもんやない」と回答を拒否した。しかし今は、問わず語りに肯定していた。乳も触るし陰部も弄る。つまり、オナニーをしている、と告白している志摩子だった。
志摩子は、車の後部座席のほぼ中央に腰を下ろしていた。道代は車の床に正座して、志摩子の脇に控えていた。主と従の、それぞれの姿勢であった。
二人の乗る車は、雪の降りしきる京都貴船の山中、路の脇の雪だまりに車首を突っ込んで動きが取れなくなっていた。運転手は助けを求めて車を離れており、車内には志摩子、道代の主従二人のみが取り残され、いつ来るともしれぬ助けを待っていた。
車のエンジンは止まっていた。エンジンの故障なのか、ガソリンが尽きたのか、車に疎い志摩子と道代には判断はつかなかったが、どちらにしても二人にはどうしようもない事態であった。
車内灯は灯っていなかった。車の前照灯は消えていた。それまで、雪に埋もれながらも微かに雪を照り返していた前照灯が消えてしまえば、車内の灯りは何もなかった。雪明りと云えるほどのものも無く、車の外も車内と同様、闇の中であった。互いの表情も判然としない薄闇の中、志摩子と道代は、互いの体にすがるように戯れを続けるしかなかった。
「嬉しなあ」という志摩子の言葉に、道代は浮き立つような気持になった。この切迫した状況の中、思いもかけず始まった志摩子との戯れ。道代にとっては至福の時であった。
死んでもいい。うちはもうこれで、死んでもいい。
ただ、志摩子だけは。この身を捨てても志摩子だけは……道代の心からの思いであった。
道代は、遠慮がちに、しかし明確な意思を持って、志摩子の着物の両衿に左右の手を掛けた。帯や腰紐を解いただけで、志摩子はまだ舞妓衣装を肩から羽織っていた。両袖に腕も通したままだった。道代は、本当は志摩子の衣装をすべて脱がせたかった。志摩子の、剥き出しの全身の肌を見たかった。触れたかった。舐めたかった。志摩子の全身を余すところなく暴きたかった。全裸の志摩子を心ゆくまで味わいたかった。
絵画や彫刻の女性像。美の大きなテーマの行き着くところは裸婦像。西洋の絵画には、全く同じポーズで着衣と全裸の女性像を描き分けたものもある。さらに、全裸ではなく敢えて薄物を纏わせた裸婦像……。
もちろん道代には、そのような裸婦像に触れた経験など全くなかった。だが、道代の志摩子への思いは、美への憧れとも云えるのかもしれなかった。もちろん誰でもよい、というのではない。志摩子だ。道代にとって美とは志摩子の事なのだ。
冬の貴船の山中、雪に降り込められ身動きの取れない異常な状況下。命の危険すら考えられる状況は、しかし道代には至福の時だった。初めて志摩子の体に触れ、ほぼ雪明りのみという状態ではあるが、そして、半裸ではあるが志摩子の体を心ゆくまで見ることができた。これ以上、何を望むことがあろう。そこまで思える道代だった。
しかし、なお望むのであれば志摩子の全裸を。一糸纏わぬ志摩子を見たい、確かめたい、味わいたい。だが、今は志摩子の全裸に触れること、心ゆくまで志摩子の体の隅々まで味わうことは、道代には躊躇われた。もちろん、車内の温度が低下しているからだ。
その道代に、志摩子が声を掛けた。
「道、あんたも脱ぎよし(脱ぎなさい)。なんや……あんただけ服着とったら、あんまし気持ちよ(良く)、ないわ。接吻は気持ちええんやけどな」
「へえ。へえ、姐さん」
道代は即座に反応した。志摩子から少し身を離した道代は、自らの帯に手を掛けた。道代の帯や着物は、志摩子の舞妓衣装に比べ簡素なものである。道代は手早く、身につけているものすべてを脱ぎ捨てた。その仕草には、何の躊躇いも無かった。自室で着替えるような、入浴するときのような……。
道代は全裸になった。それを見た志摩子は、上体をくねらせ、肩に掛かっていた舞妓衣装を脱ぎ落した。志摩子も全裸になった。二人の体に鳥肌が立った。暖房の止まった車内は時とともに冷え込んでいく。志摩子と道代の主従は、自然に上体を寄せ、互いに相手の体に両腕を廻した。
道代は、天にも昇る心地であった。見たかった、触れたかった志摩子の全裸。一糸まとわぬ志摩子の体が今、両手の内にある。寒さに気を遣う。その思いは道代から失せていた。
道代は気付いた。自分も志摩子も、まだ真正の全裸ではない。二人の両足は、足袋(たび)に包まれていた。道代は黒、志摩子の両脚を包むのは純白の足袋。道代は、手早く自分の足袋を脱ぎ捨てた。志摩子の片足をそっと抱え込む。道代は志摩子の踵(かかと)に手指を這わせた。これまで、幾度となく行った手慣れた作業である。
道代の指は、志摩子の足袋を踵で留めている鞐(こはぜ)を容易く探り当てた。薄い、爪型の鞐(こはぜ)は真鍮製。明るい場所なら、美しく光を照り返すはずであるが、今はその形を指先で探るだけであった。鞐(こはぜ)は片足ごとに四枚。それぞれ掛け糸に通して足袋を固定してある。道代の指は器用に動き、すべての鞐(こはぜ)を掛け糸から外した。志摩子の白足袋は踵の位置が緩んだ。道代は、貴重な壊れ物を包む薄紙を剥がすように、そっと志摩子の白足袋を足から抜き取った。
志摩子の足は小振りであった。そのサイズは八文(20センチ弱)足らず。小学生ほどのサイズであったが、志摩子はまだ小学校を出て一年ほどの歳なのだ。しかし、志摩子の足は逞しかった。ひ弱なところは少しも無かった。もちろん、舞踊での鍛錬の賜物であった。
少女のようにも、成熟した大人の女性のそれにも見える志摩子の足。道代は、その志摩子の足を両手で捧げ持つようにした。志摩子は逆らわなかった。後部座席に置いた尻を少し前にずらし、道代の振る舞いに協力するようにさえ見えた。
志摩子は、道代に声を掛けた。
「道……」
「へえ」
「あんた、うちのお乳、舐めてくれるんやなかったん?」
道代は、平然と答えを返した。
「もちろん舐めさしてもらいますけんど、お乳の前に、おみ足、舐めさしとくんなはれ」
「うちの足、舐めるてかいな」
「へえ、姐さん」
「そんなあんた、きちゃない(汚い)とこ……」
「何言わはりますのん、姐さん。姐さんのお体に、きちゃないとこなんていっこも(どこも、少しも)おへん(ありません)」
「ほうか。ほういやあんた、さっきうちのおいど(尻、肛門)まで舐めてくれたなあ」
「へえ。小まめ姐さん」
「こら、お返しせんとなあ。あとで、うち、あんたの体、舐めたげるわなあ」
「何おいやすのん(仰る)、姐さん。ほんな、うちの体みたいなもん、姐さんに舐めさせられますかいな」
「ええやん、道」
「あきまへん」
「かめへんやん、道」
「あきまへんて、とんでもない」
「うちがええゆうてんねんから、かめへんやないの、道」
「あきまへん、て」
二人の会話は、幼い子供のような押し問答になった。
埒が明かないと考えたか、道代は捧げ持った志摩子の足先にむしゃぶりついた。
コメント一覧
-
––––––
1. 裸婦像ハーレクイン- 2016/07/12 10:54
-
全裸の志摩子
>西洋の絵画には、全く同じポーズで着衣と全裸の女性像を描き分けたものもある
これはご存じ、スペインの宮廷画家ゴヤ。フランシスコ・デ・ゴヤの『着衣のマハ』と『裸のマハ』ですね。マハは人名ではなく「小粋な女(小粋なマドリード娘)」という意味のスペイン語だそうです。
両作、共に寝椅子に長々と仰向けに、大胆に横たわる女性像で、ポーズはほとんど変わりません。
『裸』を描いたことでゴヤは異端審問に掛けられ、作品は100年近くの間、死蔵されていました。『着衣』は、カモフラージュのために作成されたものだそうですが、この経緯を考えるとあまり意味はなかったですね。
ただ、『着衣』の存在により『裸』も大きく注目され、ゴヤは歴史に名を(作品も)残すことになりました。
しかし、話は貴船山中の場。なんでゴヤの話になったんだろう。
あ、志摩子が脱ぐからか。
今回、足袋と鞐(こはぜ)が出てきます。
足袋はともかく、こはぜ? 何それ、という向きも多いのでは。祇園の芸・舞妓衆や、役者衆ならともかく、日本人の普段の生活から足袋はほとんど姿を消しました。まあ、時のなさしむるところ、としか言いようがありません。
↓こんなコマソンありましたが、ご存じの方はそうとうなご年配かと。
『どなたになにを』
♪ゆうべみみずの 泣く声きいた
あれはけらだよ おけらだよ
おけらなぜ泣くあんよがさむい
足袋がないから 泣くんだよ
おけらにあげよか 福助足袋を
こはぜが光るよ ちょいとごらん
(サトウハチロー作詞 三木鶏郎作曲 福助足袋テーマソング)
ともあれ、道代と志摩子の戯れは続きます。
雪の貴船山中。何を呑気な、とも云えますが、これは切迫した状況下、やむにやまれぬ人間ドラマ(そんなたいそうな)。次回以降、もう少し続きます。
-
––––––
2. Mikiko- 2016/07/12 19:47
-
ゴヤゴヤゴーヤ
↓最も衝撃的かつ印象的な絵は、『我が子を食らうサトゥルヌス』です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E5%AD%90%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%82%89%E3%81%86%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%82%B9
おけらはオケラで、お金が無いから、売るんじゃなくてあげるんですね。
お金が無い人には、タダで足袋を配りますという歌なんでしょうか。
ムカデが来たら、どうするんですかね。
-
––––––
3. 同情するなら……HQ- 2016/07/13 00:01
-
↑金をくれ
ゴヤ
もう一点、印象的なのが『巨人』
これを見ると思い出すのは、小松左京(筒井だったかな)の、何とかという短編(タイトル、思い出せん)。
裸体の巨人が、無言で歩いていくという、ただそれだけの内容です。この巨人、歩き過ぎて一年後(だったと思うけど)再びどこからともなく現れ、再び歩き去って行く。で、また一年後……という、それだけの内容。巨人の正体も、その目的も最後まで不明です。
シュールやのう。
ゴヤの『巨人』は色々説明付けされているようです。
で、なんとこの作品、ゴヤ作ではなかろう、ということになっているようです(なんのこっちゃ)。
>お金が無いから、売るんじゃなくてあげる
そんなやつ、おれへんやろー。
ここはやはり貰いたいところです。
ムカデは……好きにしなはれ。
-
––––––
4. Mikiko- 2016/07/13 07:35
-
おけらはお金が無いから……
おけらにあげるんでしょ。
福助足袋を。
でも、おけらは、こはぜが嵌められないと思います。
↓こはぜの無い足袋をあげましょう。
http://item.rakuten.co.jp/kyoetsu-orosiya/tabi02-1/
-
––––––
5. ♪おけらなぜ泣くHQ- 2016/07/13 12:06
-
こはぜのない足袋
ほとんど靴下、と云いますか室内履き、てな感じですね。
履き口、つまり足首周りにゴムかなんかが入っているんでしょうか。で、ここがてれっとなるとみっともないので、かなり締めてあるようです
「数回着用されると履き口が慣れてきます」とありました。
こはぜできちんと留めるようにすれば、そんな気遣いも不要だと思われますがねえ。そんなに面倒かねえ、こはぜ。
-
––––––
6. Mikiko- 2016/07/13 19:43
-
おおはぜこはぜ
今の人は、爪やネイルに傷が付きそうで、イヤなのかも知れません。
-
––––––
7. だぼはぜハーレクイン- 2016/07/13 21:42
-
↑猿でも釣れます
ネイルに傷
ははあ、なるほど。
しかし、ネイルしてるような方は足袋なぞ履かないと思いますが……。
いや、そうでもないか。成人式に和服、という方々がいるしなあ。
舞妓はんは、さすがにしないだろ、ネイル。
-
––––––
8. Mikiko- 2016/07/14 07:18
-
ネイルはしなくても……
透明マニュキア(トップコート)はしてるんでないの?
あ、そうか。
トップコートは爪の保護にもなるから、むしろ、こはぜなどをいらうのにいいのか。
-
––––––
9. トップコートHQ- 2016/07/14 08:37
-
↑テニスの最上のコートかと思った
東名マニキュア
わたしは、そっち方面は全く不案内です。
党名リップみたいなものかね。
どちらにしても、一度お座敷で舞妓さんに聞いてみたいものですが、さて……。