2019.3.10(日)
たくさん獲ったって、保存も出来ないし……。
魚の獲れない地域まで運ぶ方法もない。
その日に食べ切れる以上、獲る意味がないんです。
あ、干物くらいは出来たですかね?
天日干し。
↑ありました。長岡市の『新潟県立歴史博物館』の展示です。
それでもせいぜい、保って数日でしょう。
縄文時代というと、その日暮らしで……。
獲物が獲れない日は、空き腹を抱えて寝るしかないようなイメージがあります。
でも、わたしはこれを疑ってます。
獲物なんか、いくらでも獲れたんじゃないか。
しかも、労力をかけずに。
すなわち、罠です。
↑『国立科学博物館』の展示。
陸上動物だと、獲り過ぎれば、集落の周りには何もいなくなってしまうかも知れません。
でも、魚は違います。
その日に食べる分くらい獲り続けても、資源が枯渇することなんてないはずです。
食べるだけなら、銛なんて必要なかったかも知れません。
女子供が、仕掛けた罠を回収するだけで十分だった。
↑こういうものなら、縄文時代でも作れたはずです。
それじゃ、銛はなぜあるのか?
そりゃあなた、レジャーですよ。
↑海洋堂の『国立科学博物館 カプセルミュージアム』シリーズのひとつです。
当時は、テレビも何にもないんです。
男はヒマでしょうがない。
縄文土器のあの火焔の意匠は……。
ヒマすぎるが故に発祥したんではないでしょうか。
土器を、いくつも作ってもしょうがないからです。
割れない限り、新しいものは必要ありません。
雨が降って外に出たくない日は……。
粘土を捏ね回して時間を潰したんです。
↑なんで穴を掘って住んだかと云うと……。地温が、外気温の影響を受けにくいからです。穴の中は、夏涼しく、冬暖かいわけです。
あとは、動物の骨を黒曜石ナイフで削って銛造りですね。
↑北海道伊達市『伊達市開拓記念館』の「縄文アートギャラリー」より。見事な細工です。右側の先端が尖ってないのは、折れたんですかね?
魚の獲れない地域まで運ぶ方法もない。
その日に食べ切れる以上、獲る意味がないんです。
あ、干物くらいは出来たですかね?
天日干し。
↑ありました。長岡市の『新潟県立歴史博物館』の展示です。
それでもせいぜい、保って数日でしょう。
縄文時代というと、その日暮らしで……。
獲物が獲れない日は、空き腹を抱えて寝るしかないようなイメージがあります。
でも、わたしはこれを疑ってます。
獲物なんか、いくらでも獲れたんじゃないか。
しかも、労力をかけずに。
すなわち、罠です。
↑『国立科学博物館』の展示。
陸上動物だと、獲り過ぎれば、集落の周りには何もいなくなってしまうかも知れません。
でも、魚は違います。
その日に食べる分くらい獲り続けても、資源が枯渇することなんてないはずです。
食べるだけなら、銛なんて必要なかったかも知れません。
女子供が、仕掛けた罠を回収するだけで十分だった。
↑こういうものなら、縄文時代でも作れたはずです。
それじゃ、銛はなぜあるのか?
そりゃあなた、レジャーですよ。
↑海洋堂の『国立科学博物館 カプセルミュージアム』シリーズのひとつです。
当時は、テレビも何にもないんです。
男はヒマでしょうがない。
縄文土器のあの火焔の意匠は……。
ヒマすぎるが故に発祥したんではないでしょうか。
土器を、いくつも作ってもしょうがないからです。
割れない限り、新しいものは必要ありません。
雨が降って外に出たくない日は……。
粘土を捏ね回して時間を潰したんです。
↑なんで穴を掘って住んだかと云うと……。地温が、外気温の影響を受けにくいからです。穴の中は、夏涼しく、冬暖かいわけです。
あとは、動物の骨を黒曜石ナイフで削って銛造りですね。
↑北海道伊達市『伊達市開拓記念館』の「縄文アートギャラリー」より。見事な細工です。右側の先端が尖ってないのは、折れたんですかね?
コメント一覧
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1. Mikiko- 2019/03/10 07:59
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縄文人、幸せ説
縄文時代は、1万年続きました。
進歩できなかったわけではないと思います。
進歩する必要がなかった。
つまり、日々の暮らしが、何の苦労もなく送れてたんです。
温暖で、資源が豊富だったからです。
それではなぜ、稲作を始めて、弥生時代に移っていったのか。
それは、気候が寒くなったからです。
すなわち、地面が雪に覆われ、冬に食料が採れなくなった。
冬眠しない人間は……。
食料を備蓄しなくてはならない。
冬の間、命を繋げるだけの量をです。
稲作は、より早く寒くなってきた、大陸から始まります。
さらに寒くなると、その人たちは南に向かいます。
そして、日本列島にやってくるのです。
その人たちが、元々住んでた縄文人を駆逐してしまったわけではないと思います。
最初は、縄文人の集落を離れて住み始めた。
しかし、縄文人たちにとっても、稲作の技術は必要でした。
渡来人を集落に受け入れつつ、技術も得ていったのでしょう。
そして、混血していった。
つまり、弥生人と云うのは、縄文人と渡来人の混血だったわけです。
その混血が進まず、縄文人がそのまま残ったのが、北海道と沖縄。
なぜ混血が進まなかったかと云うと、それらの土地には渡れなかったからです。
津軽海峡は、氷河期でさえ、海峡のままでした。
本州と陸続きになったことはないのです。
なので、縄文人がそのまま残った。
これが、アイヌの人たちです。
沖縄も、歩いては渡れないところでした。
縄文人である琉球人がそのまま残りました。
なので、アイヌ人と琉球人は、とても似てるのです。
日本列島の北の端と南の端の民族なのに……。
顔がそっくり。
小倉久寛系というか。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2019/03/10 08:00
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縄文人、幸せ説(つづき)
アイヌと云えば、大相撲の明武谷(みょうぶだに)がそうでした。
昭和40年前後に、関脇にまでなった力士です。
大鵬に、6回勝ってます(20敗)。
身長、189㎝。
今でも長身力士の部類ですから……。
当時なら、頭ひとつ抜けてたはずです。
得意技は、吊り。
異名は、「起重機」でした。
体重は、110kgくらいしかありませんが、どんな相手でも根こそぎ吊り上げたそうです。
189㎝で110kgなら、背広を着せたら、普通の人とさほど変わらないはずです。
この力士の特徴は、もうひとつ。
ものすごい、いい男だったんです。
超イケメン。
アイヌですから、彫りが深い。
日本人には見えません。
アメリカの映画俳優みたいな顔です。
で、この力士、米軍将校の奥さん方に絶大な人気があったそうです。
米軍基地内でパーティーがあるときは……。
宮城野部屋に車を回し、明武谷を拉致していったそうです。
↓画像、ご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%AD%A6%E8%B0%B7%E5%8A%9B%E4%BC%B8#/media/File:Myobudani_1959_Scan10016.JPG
昭和40年ころの日本人の顔じゃありません。
縄文の話から、なぜか相撲の話になってしまいました。
こういうソップ型のかっこいい力士、出てこないものですかね。