2019.2.20(水)
↓土偶です。
↑「み」
見ればわかりますが。
遮光器土偶のフォルムに似てますが……。
↓青森県つがる市『木造亀ヶ岡遺跡』から出土した土偶は、片脚が無いはずです。
なぜだか説明書きを撮ってませんでした。
他の方の写真を探してみました。
↓これですね。
このように、写真撮影可能な施設の場合……。
そのレポートでは、ほかの方の写真を参考にさせてもらうことが出来ます。
大いにありがたいです(無断借用陳謝)。
こういう写真を見て興味を持ち、行ってみようと考える方も多いと思います。
博物館、写真撮影可能にすべきですよ。
お客さん、必ず増えますって。
↓こちらは埴輪。
↑「み」
遮光器土偶は縄文時代ですが、埴輪は古墳時代です。
これは、埼玉県熊谷市から出土したそうです。
「踊る男女」と名付けられてます。
縄文時代は、紀元前14,000年~紀元前300年ころ。
↑温暖で争いも無かった時代。
遮光器土偶の出た『亀ヶ岡遺跡』は、縄文時代晩期。
紀元前1,000年~紀元前300年ころです。
古墳時代は、紀元後250年~700年くらい。
↑仁徳天皇陵。
縄文時代より、500年以上後になります。
しかしながら、遮光器土偶と、この「踊る男女」を比べると……。
なんだか、造形技術が退歩してるような気がします。
でもわたしは、土偶より埴輪が好きかも知れません。
愛嬌がありますよね。
これ、鉛筆のキャップとかにもなる形ですよね。
↑こんな感じ
売ってないかな?
↑「み」
見ればわかりますが。
遮光器土偶のフォルムに似てますが……。
↓青森県つがる市『木造亀ヶ岡遺跡』から出土した土偶は、片脚が無いはずです。
なぜだか説明書きを撮ってませんでした。
他の方の写真を探してみました。
↓これですね。
このように、写真撮影可能な施設の場合……。
そのレポートでは、ほかの方の写真を参考にさせてもらうことが出来ます。
大いにありがたいです(無断借用陳謝)。
こういう写真を見て興味を持ち、行ってみようと考える方も多いと思います。
博物館、写真撮影可能にすべきですよ。
お客さん、必ず増えますって。
↓こちらは埴輪。
↑「み」
遮光器土偶は縄文時代ですが、埴輪は古墳時代です。
これは、埼玉県熊谷市から出土したそうです。
「踊る男女」と名付けられてます。
縄文時代は、紀元前14,000年~紀元前300年ころ。
↑温暖で争いも無かった時代。
遮光器土偶の出た『亀ヶ岡遺跡』は、縄文時代晩期。
紀元前1,000年~紀元前300年ころです。
古墳時代は、紀元後250年~700年くらい。
↑仁徳天皇陵。
縄文時代より、500年以上後になります。
しかしながら、遮光器土偶と、この「踊る男女」を比べると……。
なんだか、造形技術が退歩してるような気がします。
でもわたしは、土偶より埴輪が好きかも知れません。
愛嬌がありますよね。
これ、鉛筆のキャップとかにもなる形ですよね。
↑こんな感じ
売ってないかな?
コメント一覧
-
––––––
1. Mikiko- 2019/02/20 06:41
-
古墳時代
教科書にも載ってたかと思いますが、一番印象深いのが……。
「仁徳天皇陵」ですね。
形は、いわゆる前方後円墳。
ではなぜ、あんな形になったのでしょう。
確定された説はないそうです。
有力なのは、↓の説。
『前方後円墳があらわれる前の時代、すなわち弥生時代に、土を盛り上げて、周囲に堀をめぐらせた墓があります。これらの中で、堀の一部がとぎれて、陸の橋となったものがあらわれます。この陸の橋の部分を発掘すると、“おまつり”に使った土器が発見されることがあり、ここで死者を送る“まつり”が行われたと考えられます。弥生時代の土を盛り上げた墓には、丸い形のもの、四角い形のものなどがありますが、丸い形の墓で、“まつり”を行う陸の橋の部分が大きく発達したものが、前方後円墳になったと考えられます。』
『栃木県埋蔵文化財センター』さんのページ(http://www.maibun.or.jp/qa/a38.html)から転載させていただきました。
なるほど。
これはあり得ますね。
有力な人物であるほど、“まつり”も盛大になる。
当然、参加する人や祭器も多くなる。
そうなれば、“まつり”を行う場所を大きくしなければならないというわけです。
これは、よくわかりました。
でも、「前方後円墳」という名称が納得できません。
丸い部分がお墓なんですよね。
丸の方がメインでしょ。
なんで、墓が「後円」で、“まつり"を行った場所は「前方」なんですか。
逆じゃないの?
続きは次のコメントで。
-
––––––
2. Mikiko- 2019/02/20 06:41
-
古墳時代(つづき)
「前方後円墳」と名付けたのは、江戸時代の学者、蒲生君平(がもうくんぺい)だそうです。
しかし、彼も「円」が本体であると思ってたのです。
「円」を牛車、「方」は牛車から突き出た棒に例えました。
すなわち、牛車の進む方向から考えれば……。
「方」の方が前になります。
なので、「前方後円墳」。
よくよく考えれば、この考えは、今でも当てはまるわけです。
「円」は祭壇です。
祭壇は、一番奥に置かれます。
で、その前で“まつり”を行う。
つまり、手前が「方」で、後方にあるのが「円」なんです。
ということで、「前方後円墳」でいいということ。
今のわたしたちが違和感を感じるのは……。
「前方後円墳」を真上から見てるからじゃないでしょうか。
江戸時代の人は、上からなんて見てませんよね。
で、わたしたちが「前方後円墳」という名称に違和感を覚えるのは……。
鍵穴の形の記憶だと思います。
鍵穴は、丸い部分が上ですから。
でも、最近ではもう、あの形の鍵穴は、ほとんど見られなくなっています。
案外、今の若い人たちは……。
「前方後円墳」という名称に、違和感を覚えないのかも知れません。